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宗教思想と形而上学の現代的再生による諸個人の全人格的転換

  ――ハイデガー、道元、親鸞、マイスター・エックハルト――

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 序 近代科学技術文明からその根底の真の実在界への還帰と本来的自己の実現

  感覚界とそこに於ける日常的自己から全実在界とそこに於ける本来的自己への転換

 全人類は、その一人ひとりが、現在、真の実在界とそこに於ける本来的自己の忘却から覚醒し、全人格的転換を成し遂げるという、もっとも根源的で困難な課題を突きつけられている。しかし、この課題の所在そのものを、ほとんどの人間は自覚していない。人類は、真の実在界と本来的自己を忘却したまま、近代科学技術文明の無限の進歩に楽観的に身を委ねてきた結果、現在、地球生態環境の破壊をはじめとするさまざまな問題を生み出してしまった。

 このことは、近代科学技術文明が、その根底の真の実在界から遊離し、自己閉鎖的になったことの結果である。人間についていうならば、日常的自己が、その根底の真の自己から遊離して、自己閉鎖的になったため、そのさまざまな生活行為が自己の生活の全領域にさまざまな矛盾を生じさせた、ということである。しかし、人間は、真の実在界を忘却した日常的自己の枠内にとどまったままで、自分が生み出した諸問題の解決に悩み苦しんでいる。

 これらの諸問題を根源的に解決するためには、近代科学技術文明からその根底の真の実在界に還帰し、科学技術文明をそこに統合しなければならない。そのためには、一人ひとりの個人が、日常的自己から本来的自己へと還帰し、それに日常的自己を統合することが求められる。現在、一人ひとりの個人は、日常的自己の枠内にとどまるのか、それとも、それを本来的自己へと転換させるのか、自己の存在そのものを賭けた選択・決断を迫られている。覚醒とは、そのような事柄なのである。

 このことは、一人ひとりの個人が、目で見、手で触れることのできる事物、すなわち人間の感覚によって捉えることのできる事物、感覚界のみを唯一の現実と認める立場にとどまるのか、それとも、目で見、手で腕触れることのできない事物、感覚界を絶対的に超越する領域を真の現実性を有するものとみなす立場へと転換するのか、という選択・決断を迫られているということを意味している。

 科学技術文明、日常的自己の根底の真の実在界、本来的自己とは、超感覚的な性格を持ったものなのである。現代人にとって、そのような超越的実在領域は、ほとんど現実性を持ち得ないものとなっている。この超越的実在界は従来、宗教・形而上学がその固有の対象としてきた領域であった。近代以前においては、時間・空間的で有限相対的な感覚界は、その根底の超時間・空間的で無限絶対的実在を根拠として成立するものとみなされていた。神とか仏とかいうものが、それである。

 近代科学技術文明が惹き起こした自然生態環境・人間・社会文化環境のあいだの対立・相剋

 それに対して近代科学は、そのような超感覚的実在を認識対象とせず、感覚によって捉えることのできる対象を唯一の現実とみなす立場をとった。すなわち、近代科学は、感覚界をその固有の対象としたのである。近代科学は、感覚によって捉えることのできる対象に貫徹する法則を、理性によって解明した。ここに、宗教・形而上学を排除した近代合理主義が成立したのである。それは、感覚界を、その根底に存在する無限絶対の実在に根拠づけられたものとしてではなく、それ自体に内在する法則に従って運動をするものとして捉える立場である。

 こうして、自然と社会のそれぞれに内在する運動法則が解明され、それが技術に応用されることになった。すなわち、人間が、科学的知性と技術的意志にもとづく行為によって、自然生態環境・社会文化環境と自己との相互作用を媒介し、三者のあいだの物質・エネルギー循環を制御することが可能となったのである。これか゛近代科学技術文明の基本的な存立構造である。

 人間は、それ自身、自然生態環境に内属するものでありながら、意識を有する存在としてそこから超出し、それに働きかけることによって、社会文化環境を形成した。科学的知性と技術的意志を有する近代以降の人間は、有限相対的な感覚界の中心として、環境とそこに於けるもろもろの事物を支配しようとする。近代科学技術文明は、そのような人間の行為によって発展させられてきたのである。このようにして人間が、近代科学技術文明の進歩を楽観的に信じて、それを発展させてゆくにつれて、感覚界が、その根底の真の実財界から遊離し自己閉鎖的になってゆく、という事態が進行していった。それは同時に、科学的知性と技術的意志を有する日常的自己が、その根底の本来的自己から遊離し自己閉鎖的になってゆく、という事態が進行していったことでもある。

 しかも、科学的知性と技術的意志によって自己の生活を規制する現代人にとって、感覚界の根底の超越的実在界はほとんど現実性を持っていない。そのため、近代科学技術文明と日常的自己が、その根底から遊離し、自己閉鎖的になるという事態は、人間が自覚しないままに進行していったのである。その結果が、生物の一つの種としての人類の死滅の危機を招いた全地球的規模での自然生態環境の破壊であった。

 このことは人間が、科学的知性と技術的意志にもとづく自由な行為によって自然生態環境と自己と社会文化環境のあいだの物質・エネルギー循環を制御してきた結果、その物質・エネルギー循環を攪乱させ、三者のあいだに深刻な対立・相剋を惹き起こした、ということを意味している。そのため人間が、自己と二つの環境の相互作用を自由な行為によって媒介する生活の全領域に、さまざまな問題が生じることになったのである。

 これが、近代科学技術文明とそこに於ける日常的自己が、その根底の真の実在界とそこに於ける本来的自己から遊離し自己閉鎖的になったことが惹き起こした結果である。それは、近代科学技術文明そのものがもつ本質的な限界が露呈したことであった。近代科学技術文明が、この本質的限界を克服するためには、固有の枠組みである感覚界を、その根底の真の実在界に向かって越え出ることが必要となる。

 無限の創造的エネルギー・生命を制御しえない科学的知性と技術的意志

 では、感覚界を絶対的に超越する真の実在界の基本的存立構造とはどのようなものであるのか。それは、時間・空間的な有限相対的次元と超時間・空間的な無限絶対的次元の統合態である。この全実在界に於いては、超感覚的な無限絶対の実在すなわち無限の創造的エネルギー・生命が、一瞬一瞬、無限絶対的次元から有限相対的次元へ顕現してゆくとともに、そこから一瞬一瞬、無限絶対的次元へ還帰してゆく。こうして、全実在界を、超感覚的な無限の創造的エネルギー・生命が不断に貫流してゆくことになる。

 この全実在界に於けるすべての個物には、無限の創造的エネルギー・生命が充ち満ちている。

すなわち、すべての個物は、無限絶対的次元と有限相対的次元のあいだで一瞬一瞬、顕現と還帰の運動を繰り返す無限の創造的エネルギー・生命の循環運動を、自己の内部に体現する全実在界大の個物として存立している。

 人間もまた、それらの個物のひとつであるが、自覚的存在である人間は、全実在界を貫流する無限の創造的エネルギー・生命を超感覚的な直観によって捉え、全実在界の真実相を超理性的な智性によって明らかにすることができる。人間諸個人は、そのような存在として、全実在界を循環する無限の創造的エネルギー・生命の運動と自己を自覚的行為によって一体化させることで、全実在界大の超感覚的な生を実現することができる。それが、本来的自己にほかならない。

 人間諸個人が、本来的自己の生を実現することは、同時に、他のすべての個物・個人との一体的な生を実現することである。それは、人間が、超感覚的直観と超理性的な智性にもとづく自覚的行為によって、全実在界に於ける超感覚的エネルギー・生命循環を制御する、ということを意味している。

 無限絶対的次元から有限相対的次元には無限の創造的エネルギー・生命が垂直的に発現してゆき、その次元を水平的に循環してゆく。より具体的には、有限相対的次元に於ける自然生態環境・人間・社会文化環境のあいだを超感覚的な無限の創造的エネルギー・生命が循環してゆくということである。そこに於ける自然的個物・人間的個人・文化的個物には、超感覚的な無限の創造的エネルギー・生命が内在している。したがって、無機物・無生物、土・水・大気も、超感覚的生命を有しているいるのである。

 だが、人間の感覚によって捉えることのできる事物のみを認識対象とする科学は、有限相対的次元の外面の感覚界にとどまり、その内面にまで届くことができない。このため近代的人間は、感覚界に於ける自然生態環境・人間・社会文化環境のあいだの物質・エネルギー循環を科学的知性と技術的意志にもとづく行為によって制御する能力を獲得したにとどまり、その内面の超感覚的な無限の創造的エネルギー・生命循環を制御する能力を獲得するには至らなかったのである。

 それは、近代的人間が、全実在界を垂直的に循環する無限の創造的エネルギー・生命を制御する能力を獲得できなかったことの、有限相対的次元に於ける現われにほかならない。すなわち、人間諸個人が、有限相対的次元と無限絶対的元の統合された全実在界大の本来的自己として、無限の創造的エネルギー・生命循環を制御することができないため、有限相対的な感覚界に於ける自然生態環境・人間・社会文化環境のあいだに深刻な対立・相剋が生じたのである。

 人間が、自覚的に制御することのできない無限の創造的エネルギー・生命は、無限絶対的次元から有限相対的次元に無限衝動となって噴出してゆき、人間を駆り立ててゆく。このため人間は、科学的知性と技術的意志にもとづく行為によって自然生態環境・人間・社会文化環境のあいだの物質・エネルギー循環を極めて合理的に制御し文明を発展させながら、その知性と意志を自己が制御できない無限衝動によって非合理的に駆り立てられるという背理が生じることになる。

 人間諸個人は、自然生態環境のさまざまな自然的個物を支配し、それを加工・形成したさまざまな文化的個物で社会文化環境を豊富化し、それらの個物を享受することで多様な欲求を充足させてきた。しかし、その欲求は、無限衝動に駆り立てられたものとして際限のないものとなった。この際限のない欲求充足のため、物量的生産力の無限増大の運動が自己目的的なものとなって進行してゆき、諸個人の生はそれに従属させられることになった。

 人間中心主義・エゴイズムの克服という課題

 このことの原因は、有限相対的な感覚界とそこに於ける自己が、無限絶対の実在に存らしめられて存るということに無自覚な根本的無知(仏教でいう無明)にある。無限絶対的次元からは、無限の創造的エネルギー・生命が一瞬一瞬、有限相対的次元へ自己を顕現させてゆく。それによって、一瞬一瞬、無限の創造的エネルギー・生命を内在させた有限相対的な諸事物が創造されてゆく。すなわち、有限相対的な諸事物は、一瞬一瞬、無限絶対の実在から存在を賦与されてゆくことによって存立を保っているのである。これは、無限絶対の実在による不断の創造ということができる。

 有限相対的な諸事物は、無限絶対の実在の被造物として存在しているのであり、無限絶対の実在の絶え間ない存在賦与・創造の働きがなければその存在を一瞬も保つことができず、無に帰するほかはないのである。したがって、有限相対的な諸事物それ自体に本来的に帰属するものは何もないのである。

 しかし、感覚によって捉えることのできる事物のみを唯一の現実とみなす近代科学は、無限絶対の実在の絶え間ない自己顕現・創造の働きを見ることができず、感覚界をそれ自体で存立しているものとみなすことになる。そして、なによりも感覚界における日常的自己は、自己が無限絶対の実在によって在らしめられ、支えるられることによって存立していることを自覚することができない。そのため、日常的自己は、無限絶対の実在から賦与された存在を、自分自身に帰属するものとみなし、自己を独立的な存在とみなすことになる。

 日常的自己は、一瞬でも無限絶対の実在の存在賦与の働きが止まれば自己が無に帰することに無自覚なまま自己を常住不変なものとみなし、それに執着することになる。すなわち、無限絶対の実在の存在賦与の働きを抜きにして、自己はそれ自身の働きによって常住的な自己同一性を保つものとして存立しているとみなすのである。

 そして、日常的自己は、その生の常住不変性を存立させ続けるための手段として、他の諸事物を欲求の対象とし、それらを獲得、所有することを追い求めることになる。ここに、我への執着である「我執」(エゴイズム)、わがものへの執着である「我所執」が成立する。これが、仏教でいう「煩悩」である。科学的知識とその応用としての技術を獲得した人間は、自己を感覚界の中心に据え(人間中心主義)、自然生態環境・社会文化環境におけるあらゆる事物を支配しようとする。近代の科学技術は、このようなかたちで人間の「我執」、「我所執」を肥大化させ続けてきたのである。人間は、中心としての自己が自然生態環境・社会文化環境を従属させた感覚界の常住不変性(二つの環境を従属させた自己の生の常住不変性)に執着する。

 このようにして、人間は、無限の進歩を自己目的とする近代科学技術文明の運動を推進してきたのである。その結果、現在、人間の生の全領域にさまざまな問題が生じてきている。それらの諸問題を解決するために、人間中心主義・エゴイズムを克服し、生態系と調和した生活を実現すべきであることが指摘されている。

 自己の生の生滅無常性から目をそらした近代人とニヒリズム

 そのこと自体は正しい。しかし、人間中心主義・エゴイズムの克服は、感覚的世界の枠内のみにおいては、決して実現することはできない。感覚界は、決して常住不変の世界ではなく、生滅無常の世界である。そして、あらゆる存在者は、不断に生滅する常なき存在である。

 感覚界に於ける存在者は、瞬間ごとに生じ、また瞬間ごとに滅している。すなわち、一瞬前の存在者が滅することが、同時に次の瞬間の存在者が生じることである。一瞬前の存在者が滅しなければ、次の瞬間の存在者は生じない。感覚界に於けるあらゆる存在者は、常識的に考えられているように、ある時点で生じ、それが滅するある時点までの一定期間、恒常的連続性を有するものとして存在し続けるものなのではない

 したがって、感覚界に於けるあらゆる存在者の根底には無が潜んでおり、その有は不断に無に差しかけられている。人間もまた、そのような存在者の一つとして、不断に生滅している。これは、人間の生が、一瞬一瞬、死に面しており、その有は、その根底の無に差しかけられている、ということを意味している。

 人間は、自己をはじめとするすべての存在者が、一瞬一瞬、無に差しかけられている、ということを自覚することができる。それは、人間が、自己の有限性・相対性を自覚することができるということにほかならない。

 ところが、日常的自己は、自己が無に差しかけられていることから目をそらし、一瞬一瞬、生滅する自己の生に常住的な自己同一性を求め、それに執着する。自己は、そのような生の実現のために他の存在者にかかわることのうちに、自己の根源的な有限性を忘却する。ここに、我執、我所執が成立するのである。

 近代科学は、宗教・形而上学を排除し、超越的実在界を否定することによって、その根底に無を生じさせた。にもかかわらず、科学およびその応用としての技術は、そのことに無自覚なまま人間の我執、我所執を肥大化させてきたのである。

 科学は、その固有の対象である感覚界を、物質を基底とする世界として捉える。したがって、人間が、科学的知性と技術的意志にもとづく自己の生の常住性を追い求め、それにどのように執着しようとも、ひとたび死が訪れれば、それは物質に還元される存在でしかない。なぜなら、科学的見方によれば、生命は、物質の高次の組織形態とみなされるからである。人間は、意識を有する存在であるが、科学的見方によれば、意識もまた、物質の最高の組織形態である脳の働きとみなされる(そのこと自体は、科学的知見としては正しく絶対に否定することはできない)。したがって、それもまた、人間の身心の消滅である死とともに物質に還元されるものとされる。

 科学的見方によれば、人間は、物質から出て物質に帰る空しいの存在でしかない、ということになる。これが、現代人の一般的な死生観であろう。この死生観を突きつめていけば、ニヒリズムに陥るらざるをえない。すなわち、そのような生に一体どのような意味と価値があるのか、という問題に直面させられるのである。だから、多くの人間は、この問題を突きつめることを回避している。

 もちろん、それで仕方がないではないかという諦念もありうる。あるいは、人間の生がそのように空しいものであるからこそ、生きているあいだは明確な目的を設定し、その実現のために最大限努力して充実した生涯を送ろう、という考え方も成り立つ。

 しかし、その目的がどのように高尚なものであり、その生き方がどのように誠実なものであろうとも、前述したような死生観に立っている限り、その生が、不断に生滅するものに常住性を求めそれに執着をするものであることに変わりはない。そのような人間もまた、我執を脱却することはできないのである。だから、そのような生き方も、享楽主義的な生き方と同じようにニヒリズムの回避形態にすぎない。

 確かに人間は、目的意識的にその生を実現してゆくことができる。しかし、そのような生も、結局、無目的的な物質から出て物質に帰るものでしかないとすれば、すなわち、物質の無目的的な運動に呑込まれてしまうのものでしかないとすれば、そのような生にどのような意味と価値があるのかという問いは依然として残る。

 実は、これは古代以来、人間に突きつけられた根源的な問いなのである。その問いが、宗教・形而上学的な超越的実在界を排除した近代科学とその応用としての技術によって制御された近代科学技術文明の発展の結果、現代の人間に改めて尖鋭的なかたちで突きつけられているのである。

 近代以降の人間は、自己が差しかけられている根底の無から目をそらし、ひたすら文明の発展を楽観視してきた。そして、彼らは、多様な欲求の充足を追い求めるという生に執着してきた。しかし、それは、彼らが直視することを避けた虚無の深淵から噴出してくる無限衝動に身を委ねることであった。その結果、生物の種の一つとしての人類が内属する地球生態環境が破壊され、自己自身の死滅の危機に直面させられる、という事態が生じたのである。

 こうして、前述した根源的な問いが、全人類一人ひとりに突きつけられることになったのである。したがって、現代の人間が、この問いから目をそらすことなく、それに正面から取り組もうとすれば、個人の死を超える種としての人類の生命の永続性というようなことに根本的な解決の途を求めることはできない。あるいは、また、この世の生に直接連続する死後の魂の不滅というような安易な解決策に逃げることも許されない。

 自力で感覚界から超越的実在界へ転換できない日常的自己

 この問いを根本的に解決するためには、人間が不断に生滅する生に執着する我執から脱却しなければならない。そのためには、誕生から死に至るまでのあいだ、一瞬一瞬、生滅して常なき生命、身心を離れることなく、その内に超感覚的な無限の創造的エネルギー・生命を体現することが必要となる。そのことを実現するには、人間はまず、外の感覚界に向かう志向を自己の根底に向かう志向へと転換しなければならない。

 それによって人間は、はじめて、自己の脚下に虚無の深淵が開かれていることを直視し、自己の根源的な有限性・相対性を自覚することになる。それは、人間が、自己の存在が一瞬一瞬、虚無の深淵に呑み込まれようとする危機に直面した危うい存在でしかないことを自覚することにほかならない。

 生滅無常の自己とは、一瞬前の自己が死ぬことによって次の瞬間の自己が生まれるということである。この死ぬ瞬間と生まれる瞬間とのあいだにわずかの間隙があれば、仏教で「ひと息つかざれば千載にながく往く」(存覚『歎徳文』)というように、自己は、永遠の死・永遠の虚無に呑み込まれるのである。自己の生の根拠となるものは何もない。これが、人間が、真に自己の無常性を自覚する、ということである。そこに、自己の生に対する空しさ、死に対する不安、恐怖が生じる。

 そのときはじめて、人間に、虚無の深淵の彼方に無限絶対で常住不変の実在・永遠の生命を求め、それに帰入することで自己の有限・相対的な生に絶対的な根拠を与えようとする強い願望が生じる。それによって、日常的自己が、感覚界から超感覚的実在界へと転換し、そこを貫流する無限の創造的エネルギー・生命と一体化した本来的自己を実現する途を辿ることが可能となる。

 人間は、自己の脚下の虚無の深淵に直面することを経ることによって、生滅無常なものを追い求める方向を転じて、永遠・常住不変の実在に向かうことができるのである。人間が、自己の生の常住を追い求め、それに執着している限り、その生は結局、物質に帰るものでしかない。しかし、人間が、自己の生は一瞬一瞬、死に面していることを自覚するとき、その生を無限絶対の実在に根拠づけることが可能となる。

 では、人間が、感覚界と超感覚的実在界のあいだの限界を踏み越えて、日常的自己から本来的自己へと全人格的に転換することは、具体的にどのようなかたちで為されるのか。日常的自己は、この転換を自力で成し遂げることはできない。自己が、一瞬一瞬、無に差しかけられていることを自覚し、その根源的な有限性・相対性を自覚した人間には、無限絶対の実在に自己を根拠づけようとする願望が生じる。しかし、日常的自己は、自己が無に差しかけられていることを忘却している。すなわち、感覚界のみを唯一の現実と認める日常的自己は、自己の存在が超感覚的な無限絶対の実在によって在らしめられ在るものである、ということ見ることができないのである。したがって、日常的自己は、自らの力で自らによって立っていると思い込んでいる。

 そして、日常的自己は、ひたすら生滅無常な自己の生の常住を追い求め、生滅無常なものをわがものとして所有すべく追い求めることに全力を振り向ける。彼の生の志向は、ひたすら外の感覚界に向かっている。ここに、日常的自己の無限絶対の実在からの背反・自己内閉鎖が生じる。日常的自己は、超感覚的な無限絶対の実在に背を向けて、感覚界の枠内で、自己内閉鎖的な生を展開することに全力を尽くす。したがって、日常的自己それ自身には、この枠を踏み越えて、感覚界から超感覚的実在界に転換してゆく力はない。すなわち、日常的自己には、感覚界に向かう外向的志向を、自己の根底そしてそれを介して無限絶対の実在に向かう内向的志向へと転換してゆく力はないのである。

 そのことは、感覚界のみを唯一の現実として認め、その根底の超感覚的実在界などというものには一片の堅実性も認めない――という現代人の一般体的態度を見れば明らかである。日常的意識を方法的に精錬化した科学的知性と、それを応用した技術的意志によって、自己の日常的生活を律する多くの現代人は、自己の存在を無限絶対の実在から賦与されたものとしてではなく、物質の高次の組織形態として、すなわち物質から出たものとして理解している。自己の存在が在らしめられて在るものであることの忘却による我執は、現代において極まったこということができる。

 無限衝動に知性と意志を駆り立てられる日常的自己

 無限絶対の実在による存在賦与・創造の働きから切り離された日常的自己(被造物)それ自体に本来的に帰属するものは何もない。すなわち、それは、まったくの無であり、まったくの無力なのである。ここに、感覚界に自己閉鎖的となる日常的自己が、外に向かう志向を自力で超越的実在界に転換させることができない理由がある。

 だが、我執的な自己といえども、無限絶対の実在の自己顕現の一様式以外の何ものでもない。それが、無限絶対の実在から完全に分離して自己の存立を保つことは不可能である。我執的自己が無限絶対の実在に背反し、自己閉鎖的になろうとするのに対して、それをその根源的な成立根拠にまで還帰させようとする無限絶対の実在の力が働くことになる。それは、無限絶対の実在からの呼びかけであり、促しである。我執的自己はそれに応じて、無限絶対の実在の働きと一つになる。それによってはじめて、感覚界に向かう志向を超越的実在界に向かう志向へと転換することが可能となる。

 では、無限絶対の実在の促しと人間のそれへの応答の関係は、具体的にどのようなものであるのか。そのことを明らかにするためには、まず、全実在界の存在構造がどのようなものであるのかを解明し、次に、それと自己閉的になろうとする感覚界の連関構造がどのようなものであるのかを解明しなければならない。そのことは、我執を根源的に克服し、人間が単に物質から出てくる物質に帰る存在ではなく、無限絶対の実在から出て無限絶対の実在に帰る存在として自己実現する途を明らかにすることを目的とするものである。

 全実在界に於いては、無限絶対の実在が、無限絶対的次元から有限相対的次元へ一瞬一瞬、顕現してゆくとともに、有限相対的次元がら無限絶対的次元へ一瞬一瞬、還帰してゆく。それによって、全実在界を循環してゆく無限の創造的エネルギー・生命の流れが形成される。人間は、その無限の創造的エネルギー・生命の流れと自己を一体化させることによって、それを自己の内に体現する全実在界大の本来的自己を実現する可能性を有している。

 それは、人間が、全実在界を貫流する無限の創造的エネルギー・生命と自己の内を貫流する無限の創造的エネルギー・生命を一体的なものとして自覚的に制御する、ということを意味している。それが、全実在界に於ける人間の本然の在り方である。しかし、日常的自己は、そのことにまったく無自覚である。

 したがって、自己は、前述したようなかたちで無限の創造的エネルギー・生命を制御することができない。そのため、超越的実在界における自己は、その本然の在り方から逸脱することになる。すなわち、無限の創造的エネルギー・生命から遊離し、自己閉鎖的になろうとするのである。そこに、超越的実在界に於ける自己への執着すなわち我執が成立する。感覚界に於ける日常的自己の我執は、それに深く根差しており、その現われなのである。むろん、日常的自己は、そのことを自覚することはできない。

 こうして全実在界を貫流する無限の創造的エネルギー・生命は、人間がそれを自覚的に制御することができないため、無限衝動となって、感覚界に噴出してゆき、日常的自己の知性と意志を駆り立ててゆく。日常的自己は、その欲求を充足させるためあらゆるものを利用し、自己の生を際限もなく貪り続ける「貪欲」的自己となる。人間は、利己的な欲求に振り回されて生きてゆくことになる。

 全実在界大の本来的自己の実現への全過程

 このような人間中心主義が、諸個人の全生活領域でさまざまな問題を惹き起こしたが、それらの諸問題を感覚界の枠内のみで解決することができないことは、これま見てきたところで明らかである。それら諸問題を根本的に解決するためには、感覚界から超越的実在界に転換した自己が、そこに於ける我執を、その根源から全実在界大の規模で克服することが必要となる。

 感覚界に自己閉鎖的になろうとする自己に働きかけて、超越的実在界に転ぜしめた無限絶対の実在は、自己をその全実在界に於ける運動により沿わせるかたちで、全実在大の規模での我執の克服という究極目的にまで導いてゆく。

 すでに言及したように、無限絶対の実在は、一瞬一瞬、無限絶対的次元から有限相対的次元へ自己顕現してゆくとともに、一瞬一瞬、有限相対的次元から無限絶対的次元へ自己還帰してゆく、という運動を展開してゆく。全実在界大の規模での我執の克服の運動は、まず無限絶対の実在の自己還帰の運動に沿うかたちで進行してゆく。

 それは、無限絶対の実在が、自己をその根源的な成立基盤にまで導いてゆく過程である。自己に於いては、それは、無限絶対の実在へと上向してゆく運動として展開されてゆく。無限絶対の実在に到達した自己は、そこにとどまることなく、今度は、そこから再び有限相対的次元に帰らなければならない。これは、上向の運動と反対方向の下向運動として展開されてゆく。これは、無限絶対の実在が、その自己顕現の運動に沿うかたちで自己を導いてゆく過程である。

 この下向・上向の全体が、無限絶対の実在の呼びかけに自己が応答してゆく過程である。この全過程の各段階において、自己は、自覚的行為によって実在と一体化し、両者の一体性をを体験(実在・実存体験)してゆく。それによって自己は、全実在界大での我執を克服して、その可能性、本然の在り方を全面的に実現する。それが、全実在界大規模の本来的自己の実現である。この全過程は、次のようなかたちで進行してゆく。

 虚無の深淵・混沌に面した我執的自己の「死」と甦り

 @ 無限絶対の実在からの働きかけにより、自己は、その却下に面せしめられる。それによって自己は、その根源的な有限性・相対性を自覚することができる。すなわち、自己は、一瞬一瞬、死んでは生まれる生滅無常な存在であることが自覚されるのである。自己は、一瞬一瞬、永遠の死に面することによって、自分が絶対に孤独な存在であることを自覚する。自己の死は、自分自身で引き受けるしかなく、いかなる他人に代わってもらうこともできない。

 『無量寿経』に「人世間愛欲之の中に在りて独り生じ、独り死し、独り去り、独り来る。まさに行いて苦楽の地に至りおもむくべし。自ら之にあたるに代る者あることをなし。」とあるのが、それである。死に面する時、自己は、独り来り、独り往く孤独な存在であり、一瞬一瞬、虚無の深淵に呑み込まれようとする危機にあるということを痛感する。

 こうして自己は、無限絶対の実在からの働きかけにより、虚無の深淵の前に孤立させられることになる。この危機に直面した時、自己は自分を支えてくれる常住不変・無限絶対の実在を深淵の彼方に求めることになる。自己は、生滅無常の生を超脱して無限絶対の実在に参入・帰一しようとするのである。

 このことは、自己は、虚無の深淵に面することによってはじめて、その彼方の無限絶対の実在に面することができるということを意味している。自己は、虚無の深淵の前に独り立つことを介して、無限絶対の実在の前に独り立つことになる。しかし、このことは、自己が自力で成し遂げたことではない。無限絶対の実在からの働きかけ・呼びかけがあって、はじめて自己はその脚下の虚無に面せしめられ、その彼方の無限絶対の実在に面せしめられるのである。

 そこには、無限絶対の実在が、自己をその根源的な存立基盤にまで還帰させようとする促しの力が働いている。自己は、この促しに応じ、無限絶対の実在の力に帰順することによってしか、その根源的な存在根拠に至ることはできない。にもかかわらず、自己は、何とか自力で、虚無の深淵を超えようとして超えることができず、苦しむことになる。ここには、我執が存在している。

 自力によっては、無限絶対の実在に到達することができないことに気づいた自己は、自力によるすべての試み放棄し、無限絶対の実在の力にすべてを託そうとする。しかし、そこには自力を全面的に放棄し、他力に全託しようとする自己のはからいが残っている。すなわち、そこには、なお我執が残存しているのである。

 自力のはからいのすべてが行きづまったは極限において、自己は、自己のはからいを全面的に放棄するのかしないかという決断を迫られることになる。それは、自己の全存在をかけた決断である。このとき、無限絶対の実在の呼びかけを信じて、自己の全存在を無限絶対の実在に託すことを決断し、全人格的行為をもって無限絶対の実在の働きと一体化する(実在・実存体験)ことによって、我執が克服される。自己は、他力によって我執を克服された存在として甦る。

 それは、具体的には次のような事態である。自己が虚無に面するということは、無限絶対の実在の絶対否定面に面するということである。自己(およびすべての被造物)は、無限絶対の実在に存在を賦与されることによって存立しているのであり、それ自身に本来的に帰属するものは何もない。すなわち、それ自体は全くの無である。

 虚無に面した自己は、自力を全面的に放棄することを決断し、自覚的行為によってその深淵の中に飛び込む。それによって、自己の自存性・自立性・我執は否定され尽くされる。それは、無限絶対の実在の呼びかけに応じて、自己が死への決断をもって自ら進んで我執的自己に死するということを意味している。この「死」によって、自己は、虚無の深淵の中に消滅する。しかし、この死を経ることによってはじめて、虚無の深淵の中に消滅した自己は、新しい自己として甦ることができる。

 このとき、自己は、無限絶対の実在の肯定面に面することになる。これまで、「虚無の深淵」という表現をし、その否定面につて見てきたが、深淵は、単なる虚無ではなく、同時に被造物の存在の「始源」、被造的世界の超越的「原型」としての「混沌」という実在である。混沌は、単なる無秩序、混乱ではない。その内部は、潜在的に分節されている。それは、分節化されたすべての個物が相即相入的に渾融する渾一態である。

 この潜在的な分節が無限絶対の実在の働き(創造的形成力)によって顕在化させられることによって、被造物が形成される。それが、無限絶対の実在が、被造物に存在を賦与するということ、虚無からの創造である。虚無の深淵の中に消滅した自己は、この存在賦与の働きによって新しい自己として甦るのである。これが、自己が無限絶対の実在の絶対肯定面に面するということである。虚無・混沌は、無限絶対の実在が被造物に面するところにまで降り来ったものであり、被造物に対向する無限絶対の実在である。

 我執を克服し尽くし、新しく甦った自己は、そのような深淵を介して無限絶対の実在そのものと断絶したまま結合する。こうして、虚無の前に孤立させられた孤独な自己は、混沌を介して無限絶対の実在と結合した単独者(誰によっても代替できない独自の個人)へと転換する。その自己は、無限絶対の実在の創造的形成力によって、混沌の潜在的分節が顕在化された個物である。そのことは、自己を絶対的に超越する無限絶対の実在が、自己に絶対的に内在する、ということを意味している。それが、本来的自己である。

 「仲保者」を介して無限絶対の実在に到達しそれと合一する自己

 A だが、本来的自己を全実在界大の規模において実現するためには、自己はこの段階にとどまってはならない。新しく甦った自己は、有限相対的次元を超越し、被造物に対向する無限絶対の実在の内に入ってゆかねばならない。そして自己は、ここに於いて、全人格的行為によって対向的無限絶対の実在との一体化を実現する。それによって、無限の創造的エネルギー・生命が、両者を一つに結びつけることになる。それが、この次元に於ける我執の克服、本来的自己の実現である。

 対向的無限絶対の実在は、有限相対的自己と無限絶対の実在との「仲保者」である。有限相対的自己は、この次元を介することによってのみ無限絶対の実在に到達することができる。有限相対的自己は、脚下の虚無に面する時、その彼方に無限絶対の実在を求め、そこに自己を根拠づけようとする。しかし、この虚無の深淵のために、自己は、自力で無限絶対の実在に到達することはできない。

 このため無限絶対の実在は、有限相対的自己に面するところにまで降りて来る。すなわち、有限相対的自己に対向する無限絶対の実在となるのである。これによって、有限相対的自己は、それを仲保者として無限絶対の実在に到達し、それと合一することが可能となる。それは、無限絶対の実在が、仲保者を介して、有限相対的自己に対し、無限絶対の実在へ還帰するように促し、そこに導くということである。

 B したがって、対向的無限絶対の実在の内へ超越し、それとの一体化を実現した自己は、そこにとどまることなく、さらにその根底の次元へと超越しなければならない。自己は、さらなる超脱を迫られるのである。

 この次元に於いて、自己は全人格的行為によって、無限絶対の実在との一体化を実現する。それによって、無限の創造的エネルギー・生命が両者を一つに結びつけることになる。それが、この次元に於ける我執の克服、本来的自己の実現である。自己が、永遠・常住不変の無限絶対の実在と合一することによって、感覚界における生滅無常の生を超脱する根源的基盤が形成されたのである。

 無限絶対の実在と合一した自己は有限相対的次元に帰る

 C しかし、自己は、この次元にとどまってはならず、今度は仲保者を介して、有限相対的次元に帰らなければならない。向上の途の窮ったところで反転して向下の途に転ずる、ということである。

 すでに述べたように、仲保者は、潜在的に分節化されている混沌であった。そこに於いては、すべての個物が、それぞれの独自性・独立性を保ちつつ相即相入して調和を実現している。それは、有限相対的次元が、それを自己のうちに映し出すべき超越的原型である。無限絶対の実在が、潜在的分節を顕在化させることによって、無限の過去と未来が同時存在的な瞬間である絶対現在(過去、現在、未来が相即相入する瞬間)が生起するが、同時に、その瞬間に、全被造物が相即相入する全存在空間が生起する。

 超時間・空間的な無限絶対の実在は、このように仲保者を介して、一連一瞬、時間・空間とそこに於ける全被造物として自己顕現してゆくとともに、仲保者介して自己の下に還帰してゆく。それに対応して、有限相対的次元に於ける全被造物が、虚無の深淵の中に消えてゆくとともに、そこから新たに生じてくる。これが、不断の創造である。

 無限絶対の実在の不断の創造に対応して、被造物の生滅は、一瞬一瞬、前後際断している。生の瞬間は絶対生、滅の瞬間は絶対滅。そこには、生に対する滅も、滅に対する生も存在しない。不生の生・不滅の滅であり、「不生不滅」である。

 無限絶対の実在は、このようなかたちで潜在的分節を顕在化させ、超越的原型を有限相対的次元に映し出してゆく。このようにして、無限絶対の実在の永遠性・常住不変性が一瞬一瞬、、人間の生死、人間以外の被造物の生滅の内に不生不滅性として映し出されてゆく。生の瞬間にも滅の瞬間にも、無限絶対の実在が仲保者を介して、その全体を顕現させてゆく。

 だが、人間が、このことを自覚することができない時、生滅無常な自己の生に常住を求め、それに執着する。そこに、我執が生じる。それと同時に、人間は、人間以外の被造物の生滅無常な存在にも常住を求め、それに執着する。そこに、我所執が生じる。こうして人間は、環境から自己を区分し、そこに存在するさまざまな個物を一方的に支配しようとする。その結果、自然生態環境・人間・社会文化環境のあいだ、自然的個物・人間的個人・文化的個物のあいだに対立・相剋が生じたのである。

 このことは、人間が、自己の生滅無常を超脱し、その生死の内に不生不滅を体現することができないために、人間以外の被造物の生滅無常を超脱させ、その生滅の内に不生不滅を体現させることができない、ということを意味している。そして、そのこと自体は、人間が、無限絶対の実在の不断の創造の働きに自己を一体化させることができない、ということに起因している。すなわち、人間が、無限絶対的次元と有限相対的次元のあいだの無限の創造的エネルギー・生命の顕現と還帰の運動を自覚的を制御できない、ということに起因しているのである。

 無限絶対の実在の自己還帰の運動に導かれて向上の道の終局に達した自己は、今度は、無限絶対の実在の自己顕現の運動に導かれて向下の道を辿ることになる。それによって、自己が無限絶対の実在の不断の創造と一体化した運動が全面的にかたちで進行してゆくことになる。

 すべての個物に不生不滅性を体現させる人間の責務とその忘却

 すでに述べたように、仲保者としての混沌は、潜在的に分節化されており、分節化されたすべての個物が相即相入的に調和している、という構造を有している。この構造は、有限相対的次元に映し出されるべき超越的原型である。混沌の潜在的分節が顕在化されることによって、すべての被造物が形成されるのである。

 自己は、自己自身が一つの個物として他のすべての個物と相即相入の関係にあることを自覚することができ、潜在的分節の顕在化の働きと一体化することができる。自己は、自覚的行為によって超越的原型を一瞬に一瞬、有限相対的次元に映し出してゆく。それは、有限相対的自己が、無限の過去と未来が同時存在的な絶対現在すなわち全時間・空間が統合された瞬間・瞬間に、自覚的行為によってすべての被造物の相即相入的調和をを実現してゆく、ということである。

 ここでは、有限相対的自己は、もはや虚無の深淵を介して無限絶対の実在と結合した単独者としてではなく、それぞれ独自性・独立性を有する他のすべての個物・個人との相即相入的調和を実現してゆく独自性・独立性を有する自己である。

 こうして、無限絶対の実在と合一した自己は、両者の一体性を基盤とし、それを離れることなく、混沌との一体性を介して一瞬一瞬、他のすべての個物・個人との一体性を実現してゆく。そのことは、有限相対的な個物・個人が、その究極的な存在根拠によって支えられてゆくということを意味している。それによって、すべての個物・個人が一瞬一瞬、無・死に面した生滅無常な在り方を超脱することができる。

 すべての個物・個人の生滅・生死は、一瞬一瞬、無限絶対の実在の永遠性・常住不滅性を映し出し、それを体現することによって、不生不滅性を獲得する(この瞬間は、永遠が時間の内に侵入し、両者が遭遇する「永遠の今」ということができる)。人間諸個人が、一瞬一瞬、不生不滅性を獲得してゆくことを通じて、人間以外のすべての個物も不生不滅性を獲得してゆき、在らしめられてある者どうしとして相互に調和する。ここには、いかなる我執も我所執も存在していない。 

 あらゆる被造物は、それ自体に本来的に帰属するものを何も持っていない。それは、一瞬一瞬、

無・死に面している。人間以外の被造物は、そのことを知ることができない。ただ人間だけが、自己を含むすべての被造物が、無・死に面していることを自覚するすることができ、自己を含むすべての個物の生滅無常性の克服、不生不滅性の体現を実現することができる。ここに、人間に課せられた重大な責務がある。人間が、この責務を自覚し得ないところに我執が生じる。

 現代の人間は、この責務を忘却したまま、ますます我執を強めていった結果、自然生態環境・人間・社会文化環境のあいだ、自然的個物・人間的個人・文化的個物のあいだに深刻な対立・相剋を惹き起こしてしまったのである。全人類一人ひとりが、現在、全実在界とそこに於ける本来的自己の忘却から覚醒するという課題を突きつけられているということは、この人間に課せられた重大な責務の忘却からの覚醒をを促されているということにほかならない。

 誕生から死に至る生を含む人間の生全体の意味と価値

 さて、無限絶対の実在の不断の創造活動に自己が一体化するということは、無限絶対の実在が、すべての個物が相即相入的に調和した潜在的分節を顕在化させる働きと自覚的に一体化する、ということを意味している。それによって、自己は、一瞬一瞬、超越的原型を映し出し、すべての個物・個人の調和を実現することができる。

 一瞬一瞬が、前後際断して非連続の連続的に経過してゆく次元に於いてこのような調和を実現した自己は、そこからさらに、時間が過去から現在へそして未来へと連続的に経過してゆく次元にまで向下運動を進めなければならない。この次元に於いては、事物はある時点で生じ、一定期間を経た後、ある時点で滅する。同様に、人間は、ある時点で誕生し、一定期間を経た後、ある時点で死ぬ。

 このような生を生きる自己は、もはや、前後際断した一瞬一瞬に不生不滅性を獲得してゆく自己、すなわち、一瞬に一瞬に完結性を有する自己ではない。誕生から死に至るまでの生を持続させてゆくために、自己は、多様な事物を必要とする。すなわち、自己は、多様な事物に対する欲求を持っている。

 自己は、その欲求を充足させるために、多様な目的を設定し、多様な行為を繰り広げてゆく。具体的には、多様な事物を形成する行為、そうして形成された事物を獲得・所有・享受するなどの目的意識的行為である。それらの行為は、その開始から目的に到達するまでに一定の時間過程を必要とする。そして、目的を達成するとともにその行為は終了し、消滅する(これに対して前後際断した生は、一瞬一瞬が目的の達成ということができる)。

 自己の誕生から死に至る生は、目的実現のための多様な行為過程の連続だということができる。そして、多様な行為過程の連続としての自己の生自体は、死とともに終了し、消滅する。この過程で、自己が、どのような目的を達成し、その時点でどのような意味と価値を有していようとも、それは結局、死とともに消滅するほかはない。この生自体は、いかなる不生不滅性も有していない。

 常識的な見方によれば、そのような生のみが、人間の生である。だが、全実在界大の観点に立つならば、そのような生のみが人間の生であるわけではない。そのことを確認するために、ここで、自己の向上と向下の運動を振り返ったてみる必要がある。

 有限相対的自己は、仲保者を介して、無限絶対の実在へ到達し、それとの合一を実現した。それは、自己の向上の途が窮まったということを意味している。自己が、その窮まったところから転じて、今度は向下の途を辿っていって、誕生から死に至る連続的な生に到達した。それは、自己の向下の途が窮まったということを意味している。こうして、全実在界の最表層から最深層に至る向上の途と最深層から最表層に至る向下の途の相互交撤が実現した。そこに、この相反する方向を持つ二つの運動を担う主体である全実在界大の自己すなわち本来的自己が実現する。

 誕生から死に至る連続的な生の主体としての自己も、決してそれ自体として存立しているのではない、それは、全実在界大の自己の一つの次元として存立しているのであり、その生は、全実在界の最表層と最深層とのあいだで展開される運動の内に、その一環として含まれているのである。

 この全実在界大の運動によって、その運動の究極的基盤である無限絶対の実在の永遠性・常住不変性を、一瞬一瞬が前後際断した生死を経過させてゆく自己は、仲保者を介してその生の内の不生不滅性として体現させてゆく。生の一瞬も死の一瞬も、永遠が時間の中に侵入する「永遠の今」として永遠の影をを宿してゆくことによって、そのことが可能となる。

 そして、この不正不滅性を、誕生から死に至る連続的な生の主体としての自己が、その生の内に体現する。したがって、誕生から死に至る過程で為されるさまざまな目的意識的行為、すなわち多様な欲求をを充足させるための行為は、自己の生全体に不生不滅性を体現させるための努力にほかならないのである。不生不滅性の体現、それが、この生全体の目的であり、意味と価値である。

 無限の創造的エネルギー・生命の自覚的制御とすべての個物の相互調和

 この生全体は、永遠の今の一瞬一瞬に不生不滅性を獲得してゆく自己を介して、無限絶対の実在の永遠性・常住不変性にまで連なっており、それを究極的基盤として存立している。それによって、この生全体が実現した意義と価値は、死とともに消滅するものではなくなる。自己の一回限りの生は、唯一独自の生として、永遠の意味と価値を獲得するのである。このことは、この生が、無限絶対の実在に連なることによって、その永遠性に参与する、ということを意味している。

 ここには、自己の生を実現するために、多様な欲求を充足させること自体が自己目的化し、そのために多様な事物をわがものとして貪ろうとする我執、我所執は存在しない。それぞれの個人が、その生の内に不生不滅性を体現させようとする行為を通じて、すべての個物・個人の一体性が実現される。我執、我所執は、それぞれの個人の生を実現するための行為が、不生不滅性の体現という目的を喪失するところに生じる。そして、そのこと自体は、有限相対的自己が仲保者を介して無限絶対の薬実在と結びつくことができず、一瞬一瞬、死に面するという事態を超脱できない、ということに起因している。しかし、その有限的自己は、仲保者を介して無限絶対の実在に至るとともに、そこから反転して、有限性相対的次元に帰る、という全運動を展開し終わったとのである。それによって自己は、全実在界の四つの次元すべてに於いて我執を克服し尽くしたのである。

 それは、無限絶対の実在の呼びかけに応じ、感覚界から超感覚的実在界へと転換し、そこに於ける無限の創造的エネルギー・生命の循環運動に全人格的行為によって自覚的に一体化した自己である。それが、本来的自己にほかならない。

 全実在界大の我執による自己内閉鎖性が根底から破られることにより、全実在界と自己は相互開放的となる。それによって、全実在界を循環する無限の創造的エネルギー・生命が全実在界大の自己の内を循環してゆくことになる。全実在界大の自己は、このようなかたちで、無限の創造的エネルギー・生命の流れを自覚的に制御してゆく。それぞれの自己が、そのようなかたちで働くことによって、すべての個人のみならず、人間以外のすべての個物の内を無限の創造的エネルギー・生命が循環してゆく。それによって、全実在界大のすべての個物・個人が、同一の無限の創造的エネルギー・生命によって一つに結びつけられ、相互の調和が実現する。

 それぞれの個人は、他のすべての個物・個人との、そのような一体性を感得しうることに喜びを覚える。それが、それぞれの個人の生が、究極的な価値を実現することにほかならない。

 人間が、全実在界に於ける無限の創造稲的エネルギー・生命の垂直的な循環を自覚的に制御することは、同時に、有限相対的実在界に於ける無限の創造的エネルギー・生命の水平的な循環を自覚的に制御することである。それによって、超感覚的実在界から有限相対的実在界の外面の感覚界に無限の創造的エネルギー・生命が無限衝動となって噴出してくる、という事態を根本的に克服することができる。

 形骸化した宗教・形而上学の基底の実在・実存体験への還帰という課題

 すでに述べたように、近代の人間は、感覚界に於ける自然生態環境と人間と社会文化環境のあいだの物質・エネルギー循環を、科学的知性と技術的意志にもとづく行為によって合理的に制御しながら、その知性と意志を無限衝動によって非合理的に駆り立てられる、という背理に陥ってしまった。人間は、いまだそれから抜け出すことができないでいる。

 近代科学技術文明ががもたらした自然生態環境・人間・社会文化環境のあいだの深刻な対立・相剋、人類の生態学的生存の危機は、全人類が、これまで見てきたようなかたちで全実在界に於ける無限の創造的エネルギー・生命の循環運動を自覚的に制御することによって、はじめて根本的に克服することができるのである。それは、人間が、自覚的行為によって感覚界を超感覚的実在界に統合するということである。それによって、感覚界に於ける自然生態環境・人間・社会文化環境のあいだの物質・エネルギー循環を制御する科学的知性と技術的意志にもとづく行為は、真に合理的なものとなることができる(ここには、感覚界を対象とする自然科学・人間科学・社会科学と超感覚的実在界を対象とする宗教・形而上学との統合という課題が存在している)。

 そのことは、日常的自己と本来的自己との統合が、全人類的規模で成し遂げられることによってはじめて可能となる事態である。

 だが、科学的知性と技術的意志によって日常生活の隅から隅まで律している現代の人間にとって、それはなんと困難な課題であることか。

 感覚界とそこに於ける自己のみを唯一の現実として認める多くの現代人にとって、超感覚的実在界とそこに於ける本来的自己などというものは、いかなる現実性も持ち得ない、一片の幻影でしかない。あるいは、超感覚的な無限絶対の実在などというものは、現世の苦悩を逃れようとする人間の憧憬が生み出した観念の産物として過去の遺物とされる。あるいは、また、超感覚的な無限絶対の実在との合一ということは、個人の信仰の問題として、純粋に心の内面の問題とされる。無限絶対の実在は、もはや多くの現代人の知性や意志を動かす力を喪失している。

 要するに、かつて超越的実在界とそこに於ける本来的自己を対象とした宗教や形而上学は、現代の地球生態環境の破壊による人類の生存の危機の克服に関して、なんら現実的な力を持ち得ないものとみなされているのである。そのもっとも素朴な考えは、次のようなものであろう。「そのような現代の危機を神や仏に祈ることによって解決できるというのか? だとすれば、それは、観念の力で物質を動かすことができるとすることではないのか?」。

 宗教や形而上学を、このような通俗的な理解から解放しなければならない。過去の宗教・形而上学を生み出した偉大な思想家たちは、感覚界から超感覚界へと転換し、そこに於ける無限絶対の実在と自己の合一という実在・実存体験を究極的基盤とする全実在界大の実在・実存体験を成し遂げたのである。それは、自覚的行為による実在と実存との一体化の体験であり、直観である。それは、感覚的体験、直観とは異なるが、明らかに一つの体験であり直観である。この超感覚的体験、直観を、通常の理性を越える智にもとづく概念によって論理的表現にもたらしたところに、宗教思想・形而上学が成立したのである。

 だが、現代では、宗教・形而上学は、この実在・実存体験と切り離された教義体系、学説体系として固定化、形骸化してしまっている。ここに、宗教・形而上学が現実を動かす力を持ち得なくなっている理由がある。宗教・形而上学が、現代において現実をを動かす力を再び獲得するためには、それを、概念的、論理的表現にもたらされる前の実在・実存体験にまで遡って捉え返す必要がある。

 それは、確かにこれまで、少数の思想的天才によって為された体験ではあるが、彼らにのみ可能な特殊な体験なのでない。そのような実在・実存体験をした思想家は、それを概念的、論理的に表現した思想によって、その体験が万人に可能であることを明らかにするとともに、万人に感覚界から超感覚界に転換して実在・実存体験に至る途を指し示したのである。

 現代は、全人類一人ひとりが、その思想をわがものとして獲得し、それらの思想の導きに従って(根源的には、無限絶対の実在の導きに従って)超感覚的な実在・実存体験に至ることが求められている、という人類史上かつてなかった時代なのである。

 無現絶対の実在の自己顕現と自己還帰の過程

 無限絶対の実在の呼びかけに応じその導きに従って、感覚界から超感覚格的実在界に転換した有限的自己が、向上の途を辿って無限絶対の実在との合一に達し、そこから反転して今度は向下の途を辿って有限相対的実在界へ帰る過程的運動が、どのようなかたちで展開してゆくかを具体的に考察した。それは、自己が我執を根源から総体的に克服してゆく途であり、それによって本来的自己が実現する。では、全実在界およびそこに於ける本来的自己の存立構造とはどのようなものであるのか。

 全実在界は、超時間・空間的な無限絶対の実在界と時間・空間的な有限相対の実在界からなる。無限絶対の実在界は、@無限絶対の実在界とA超越的原型の実在界という二つの次元からなり、有限相対の実在界は、B無限の過去と未来が同時存在的な絶対現在の瞬間が非連続の連続的に経過してゆく実在界とC時間が過去、現在、未来と連続的に進行してゆく実在界からなる。したがって、全実在界は、四次元統合態として存立しているのである。

 無限絶対の実在は、まったくの無分節である。これに対して、超越的原型の実在は潜在的に分節化されており、分節化されたすべての個物が相即相入的に渾融した渾一態である。それは、有限相対的実在界の内に映し出される原型である。無限絶対の実在が、その創造的形成力を働かせることによって、潜在的分節が顕在化してゆき、多様な被造物が形成される。すなわち、無限の過去と未来が同時存在的な絶対現在の瞬間に、超越的原型が映し出され、すべての個物の相即相入的調和が実現された存在空間が成立するのである。

 これは、無限絶対の実在の自己顕現、自己分節化の過程であり、それがさらに展開することによって、過去から現在そして未来へと連続的に進行してゆく時間の内で、生起から消滅までの一定の期間、存在を連続的に維持してゆく無数の個物が形成される。これが、無限絶対の実在の自己顕現、自己分節化の過程の終局である。そして今度は、これまで辿ってきた過程をを逆に辿ることによって自己顕現、自己分節化した無限絶対の実在が、もとの無分節に帰る。これが、自己還帰、自己無分節化の過程である。

 このように見てくるならば、無限絶対の実在は、自己顕現、自己分節化の過程を完了し、それに引き続いて、自己還帰、自己無分節化の過程をを展開する、というように段階的な運動を進行させてゆくものと解される。全実在界に於ける無限絶対の実在の運動を、一応このように過程的、段階的に解釈することは可能である。

 有限相対的実在界と無限絶対的実在界の相即的統一

 しかし、全実在界に於いて、現実的には、無限絶対の実在界から有限相対の実在界への顕現は、瞬間的な出来事であり、有限相対の実在界から無限絶対の実在界への還帰も瞬間的な出来事である。すなわち、二つの領域の顕現と還帰が一瞬一瞬、とどまることなく同時的に繰り返されてゆくのである。そのことは、無限絶対の実在界と有限相対の実在界が、一瞬一瞬、相即的に統一されてゆき、全実在界が成立してゆく、ということを意味している。

 この一瞬一瞬は、連続的に継起するのではなく、前後際断し、生(有)と滅(無)が、非連続の連続的に継起してゆく。有限相対の実在界に於けるすべての被造物は、無限絶対の実在から存在を賦与されることによって存立している。すなわち、被造物は、それ自体としては無なのである。無限絶対の実在が被造物に存在を賦与する瞬間、それが被造物の生起の瞬間である。それは無限絶対の実在が、自己を顕現させ、全被造物として展開する瞬間である。これが、滅に対する生ではなく、前後際断した存在の絶対生起(有)の瞬間である。

 それに対して、滅の瞬間には、無限絶対の実在が、被造物から自己が賦与した存在を取り戻す。それによって、被造物それ自体に帰属するものは何も無いという無が現前する。それが、絶対滅(無)の瞬間である。この瞬間に、無限絶対の実在は、全被造物を自己の下に引き戻す。これが、無限絶対の実在の自己還帰の瞬間である。

 生の瞬間には存在の絶対生起があるのみであり、滅の瞬間には存在の絶対滅があるのみである。このように、生と滅が前後際断的に継起していることによって、ある瞬間に生起した被造物が次の瞬間に滅することで、その次の瞬間に新しい被造物が生起することが可能となる。これが、不断の創造(一瞬一瞬、滅しているという面からみればそれは同時に不断の終末ということができる)にほかならない。

 生の瞬間も滅の瞬間も、無限絶対の実在の働きによって現成する。この前後際断的瞬間が非連続の連続的に統一されてゆくことによって、無限絶対の実在界と有限相対の実在界が統合されてゆき、全実在界が実現してゆく。それは、一瞬前の全実在界が滅して、新しい全実在界が生起するという出来事が、不断に繰り返されてゆく、ということを意味している。不断の創造によって、一瞬一瞬、新しい被造物が生起してゆくということは、同時に、一瞬一瞬、新しい全実在界が実現してゆくということなのである。

 一瞬一瞬は、前後際断したまったく独立的な存在論的位置を占めているがゆえに、一瞬一瞬、絶対的に新しい全実在界が実現してゆくのである。無限絶対の実在は、一瞬一瞬、自己顕現と自己還帰を繰り返してゆくことによって、無限絶対の実在界と有限総体の実在界を統合してゆき、全実在界を不断に新しくしてゆく。顕現と還帰という相反する二つの運動の遭遇点に、不断の創造が成立するのである。

 こうして永遠・常住不変の無限絶対の実在を根底とし、その上で顕現、還帰の運動が展開してゆき、無限の創造的エネルギー・生命が全実在界に於ける循環運動を展開してゆく。それは、無限絶対の実在の永遠を根底として、その上で永遠と時間が一瞬一瞬、相即的に統一されてゆく、ということである。しかし、無限絶対の実在の永遠そのものから見れば、全実在界の実現は一挙同時の出来事である。それは、時間を脱した永遠の出来事ということもできる。したがって、全実在界は、一瞬一瞬、顕現と還帰の運動を繰り返してゆくという面においては、絶対に動的であるが、他面においては絶対に静的である、という二側面も有しているのである。

 それぞれ二つの次元を有する無限絶対の実在界と有限相対の実在界が、無限絶対の実在の働きによって、一瞬一瞬、相即的に統一させてゆくことによって、四つの次元が調和した全実在界が新しくされてゆく。全実在界は、そのような運動を不断に繰り返してゆくが、同時に、永遠に絶対の静にとどまり続けるのである。有限相対に対する無限絶対ではなく、両者の相即的統一の運動を包越する全実在界こそが、真の無限絶対であるということができる。

 全実在界大の自己の存立構造

 では、そのような存立構造を有する全実在界に於ける本来的自己は、どのような存立構造を有しているのか。自己は、無限絶対の実在の呼びかけに応じることによって、それとの一体化を自覚的行為によって実現する。それによって、自己は、無限絶対の実在を根底とし、その上で展開されてゆく顕現と還帰の運動と自覚的行為によって一体化することが可能となる。

 無限絶対の実在は、一瞬一瞬、存在(被造物)を生滅させてゆく。それは、同時に、時間が生滅してゆくということにほかならない。無限絶対の実在は、そのように前後際断した瞬間を生滅させてゆき、顕現と還帰の運動を繰り返してゆくことによって、無限絶対の実在界と有限相対の実在界を相即的に統一してゆく。それによって、全実在界が一瞬一瞬、新しくなってゆくのである。

 自己は、前後際断している生滅の非連続の連続的統一の運動に、自覚的行為によって一体化する。人間もまた、他の被造物と同じように無限絶対の実在から存在を賦与されることによって存在を保つことができるのであり、本来それ自体に帰属するものは何も無い。他の被造物と違い、人間は、そのことを自覚することができる。そして、その自覚にもとづく行為によって前後際断している生死の非連続の連続的統一を実現してゆく。

 無限絶対の実在は、生の瞬間に全被造物を展開するが、自己は、この働きと自覚的行為にによって一体化することによって、有限相対的自己を成立させる。次に、無限絶対の実在は、滅の瞬間に、全被造物を自己のもとに引き戻すが、自己は、この働きと自覚的行為によって一体化することによって、無限絶対的自己を成立させる。

 自己は、このような生と死の非連続の連続的統一を実現してゆくことによって、有限相対の実在界に於ける自己と無限絶対の実在界に於ける自己を相即的に統一してゆく。それによって、全実在界大の本来的自己が、一瞬一瞬、実現されてゆく。それは、全実在界を循環する無限の創造的エネルギー・生命をその内で循環させてゆく自己である。この循環運動は、無限絶対の実在と自己との一体化を根底とし、その上で展開してゆく。この一体化によって、自己は、永遠性・常住不変性を獲得し、無限絶対の自己そのものになる。

 そして、この無限絶対の実在と無限絶対の自己の合一を根底とし、その上で、自己は、超時間・空間的無限絶対の実在界と時間・空間的有限相対の実在界を相即的に統一してゆく。その生の瞬間は、死に対する生ではなく、独立無伴の絶対生すなわち不生の生であり、その死の瞬間は、生に対する死ではなく、独立無伴の不滅の滅として絶対死である。こうして、自己は、無限絶対的自己と有限相対的自己を統合してゆく一瞬一瞬、永遠性・常住不変性を不生不滅性として体現してゆく。そのことは、同時に、全実在界大の本来的自己が、不生不滅性を体現してゆくということである。

 しかし、この全実在界大の本来的自己は、その根底の永遠から見れば一挙同時に実現するものとして絶対のに静とどまるのである。こうして、全実在界大の本来的自己は、永遠・常住不変の静にとどまりつつ、一瞬一瞬、不生不滅を体現した生を新しくしてゆく。それは、自己が、無限絶対の実在の不断の創造の働きに参与するということにほかならない。そこに、有限相対的自己と無限絶対自己との相即的統一の運動を包越する真の無限絶対的自己が成立する。

 そして、そのこと自体は、無限絶対の実在の呼びかけに応じた自己が、我執を完全に捨て去り、無限絶対の実在の全実在界大の働きにすべてを託するという決意にもとづき、その働きと自覚的行為によって一体化することで可能となる。こうして、自己が前後際断的な生と死を自覚的に非連続の連続的に統一してゆくことによって、無限絶対的実在界に於ける自己と有限相対的実在界に於ける自己が相即的に統一されてゆき、全実在界の調和が実現してゆく。

 この事態を、その根底の永遠から見れば、そこには、常に発現と還帰が一挙同時的に、それぞれに全実在界大の規模を有するすべての個物・個人の調和が実現している、ということにほかならない。

 こうして、自己は、無限絶対の実在との合一において永遠の生を楽しみ、永遠と時間を相即的に統一してゆく無限の過去と未来が同時存在的な絶対現在の一瞬一瞬に不生不滅の生を楽しむことになる。そして、そのことは同時に、自己が、他のすべての個物・個人と同一の無限の創造的エネルギー・生命で結びつけられた全実在界大の生を生きる喜びを感得することのなのである。それが、本来的自己がその価値を実現することである。

 それこそが、現代の人間が、忘却しているところのものにほかならない。現在、人類の一人ひとりが、無限絶対の実在の呼びかけに応ずることによって、忘却から覚醒し実現すべく決断すること迫られている本来的自己とは、そのようなものである。

 なお、『絶対無の哲学』、『創造的生命の形而上学』では、四次元統合態としての全実在界を、深層から表層へ、@絶対無の実在界A対自的絶対無の実在界B相対的絶対無の実在界C普遍的本質の実在界として、その存在構造を具体的に解明している。今後、必要に応じて、そのことに言及する。

                                                 

ハイデガー 存在と人間との呼応関係による本来的自己の実現

 近代技術文明の根底の自現(存在と人間との呼応関係)への還帰

 これまで、@近代科学技術文例が、その根底の全実在界から遊離し自己閉鎖的となった結果、現代の危機を生み出したこと、Aしたがって、現代の危機を根底的に克服するためには、近代科学技術文明の存立の場である感覚界とそこに於ける日常的自己を、その根底の超感覚的実在界とそこに於ける本来的自己へ転換しなければらないこと、Bその転換は、具体的にどのようなかたちで実現されるのか、ということについて論述してきた。

 では、近代科学技術文明を生み出した西洋の現代哲学者は、この根本的な思想課題とどのようなかたちで取り組んでいるのか。そのことを、ハイデガーについて考察してみることにする。

 ハイデガーは、近代技術文明の根底には、自現が存在しており、人間はそれに還帰することによって、非本来性を克服し本来の在り方を実現することができる、としている。自現とは、存在が人間を呼び求め、人間がそれに応ずる――という人間と存在との呼応関係のことである。

 ハイデガーのいう存在は、これまで言及してきた全実在界の根底の無限絶対体の実在に相当すると考えてよい(「存在」という概念自体は、極めてありふれたものである。しかし、ハイデガーの「存在」を、そのような日常言語のレベルで解してはならない)。

 無限絶対の実在は、感覚界に自己閉鎖的になろうとする日常的自己に呼びかけ、自己がそれに応ずることによって、超越的実在界へ転換し、そこに於いて本来的自己を実現することができる、ということはすでに具体的に考察した。ハイデガーが、技術文明から自現へ還帰することによって、人間はその本来性に於いて在りうる――としていることは、日常的自己が全実在界に還帰することによって、本来的自己を実現する――ということと同じ方向をめざすものということができる。

 超感覚的な無限絶対の実在が人間に呼びかけ、人間がそれに応じるということは、極めて空想的なこと、あるいは単なる比喩、擬人化として受け取られやすい。しかし、現代西洋の哲学者が、存在と人間の呼応関係を考察することを自己が取り組むべきもっとも重要な課題としていることを考えるならば、安易にそのような受けとめ方をすることは許されない。

 ハイデガーは、西洋の伝統的形而上学とは別の<自現の形而上学>(茅野良男)を構想している。そのことは、近代科学技術文明を超克するためには、近代科学が排除した超感覚的実在界に関する形而上学を新たなかたちで復興させることが不可欠であることを示すものとして捉え返すことができる。

 自然のエネルギーを強要し取り立てる近代技術の本質

 近代的な日常的自己とは、感覚的対象を主観に客観として対置し、そこに貫徹する法則を解明する科学的知性と、その応用としての技術的意志によって、対象を支配する主体であった。そのことに関してハイデガーは、次のように述べている。技術文明は、人間が主体となり、事物を主観に対する客観とし、支配する意志によって大地を支配していった。近代技術は、自然に向かって、エネルギーとして搬出され貯蔵され活用されることができるよう強要する。それは、自然エネルギーを強制的に取り立てることである。しかも人間自身が、自然のエネルギーを搬出するよう強要されているのである。  

 このように自然のエネルギーを強要し、一切の事物を調達物として取り立てるよう人間を強要する要求を、ハイデガーは、「立て集め」と名付けている。それが、近代技術の本質である。ハイデガーによれば、近代技術の根底には、存在の顕現がある。しかし、立て集めは、その存在の顕現を隠蔽してしまう。

 自然のエネルギーを強要し、調達物の取り立てへと駆り立てる人間は、自分自身がその中に巻き込まれ、調達物の取り立てに駆り立てられ、人間に役立つものとして仕立てられた調達物に目を奪われる。立て集めそれ自身、存在顕現の一様式でありながら、存在顕現を歪めてしまうのである。これは、まさに我執・我所執にほかならない。

 ハイデガーが以上のように分析した事態は、次のようなかたちで捉え返すことができる。近代的人間は、科学的知性と技術的意志にもとづく行為によって、感覚界に於ける物質・エネルギー循環を自覚的に制御する能力を獲得した。しかし、近代的人間は、感覚界の根底の超感覚的実在界に於ける無限の創造的エネルギー・生命を自覚的に制御する能力を獲得するには至らなかった。そのため、無限の創造的エネルギー・生命が超感覚的実在界から無限衝動となって噴出して来て、人間の知性と意志を駆り立ててゆくという事態が生起した。こうして、物量的生産力の増大が際限なく追求されてゆくことになった。無限の創造的エネルギー・生命の顕現は、ハイデガーのいうように歪められたかたちで進行していたのである。

 このような事態を根本的に打開するためには、無限絶対の実在からの呼びかけに応じて人間が、感覚界から超感覚的実在界へ転換することが必要となる、ということにはすでに言及した。ハイデガーもまた、人間が存在の呼びかけに応じて自現へ還帰し、存在の顕現を本来的な在り方にもたらすことの必要性を指摘している。それは、我執・我所執からの脱却の必要性を指摘したものとみなすことができる。

 頽落状態にある人間が不安によって死に直面させられる

 人間が、前述した転換を成し遂げるためには、外の感覚界に向かう志向を自己の根底に向かう志向へと転換しなければならなかった。それによって人間は、自己の生が一瞬一瞬、死に面しており、自己の脚下に虚無の深淵が開かれていることを自覚することが可能となる。それによって、人間は、虚無の深淵の彼方の無限絶対の実在へと向かうことが可能となる。

 ハイデガーもまた、人間は、自己の死に直面することによって非本来的自己から本来的自己へと転換することができる、としている。ハイデガーによれば、人間は「終わりへの存在」、「死への存在」である。人間は、存在可能性に向かって自己を投げかけることにおいて、絶えず自己自身を超え出て、その前方へ先走りし続けている存在である。そのようなかたちで先走りし続けている限り、人間は常に未だ終わりに達していない。しかし、同時に人間は、その先走りの一瞬一瞬に自己の終わりである死へと先走りし、それを先取している。すなわち、人間は、一瞬一瞬、死に差しかけられているのである。その限りにおいて人間は、常に既に終わりに達している。

 だが、日常的自己は、この死への存在という自己の在り方を忘却している。すなわち日常的自己は、自己の脚下に向かうことなく、ただひたすら外部に向かい、そこに於けるさまざまな存在事物にかかわっている。そのような日常的生活行為に没頭することによって、自己は一瞬一瞬、死・虚無に面していることから目をそらす。ハイデガーは、それを「頽落」と呼んで、人間の非本来的な在り方としている。そのような存り方をしている人間を、ハイデガーは「ひと」と呼ぶ。

 これは、既に言及した、自己が一瞬一瞬、死に直面していることから目をそらし、生滅無常な生の常住を追い求めてそれに執着し、外的な存在事物を獲得・所有しそれに執着する――という日常的な自己の在り方(我執、我所執)を、ハイデガーの立場から捉えたものということができる。

 ハイデガーによれば、自己の本来的在り方を忘却し、日常性に埋没している人間に対して、「不安」という根本気分が覚醒を促す。不安とは、特定の対象に対する恐怖ではなく、人間の存在そのものに属する。人間は、不安において死を根本的に経験する。すなわち人間は、不安において自己の存在、存在者の全体が虚無の深淵に陥没し去るような気分に襲われる。

 死とは、もっとも自己的であり、没交渉的であり、追い越すことのできない可能性である。したがって、死に直面するとき人間は、虚無の前に単独化されることになる。「人世間愛欲之中に在りて独り生じ、独り死し、独り去り、独り来る。まさに行いて苦楽の地に至りおもむくべし、自ら之にあたるに代る者あることなし。」(『無量寿経』)ということである。

 不安という根本気分は、日常性の内にある非本来的な自己を、虚無に晒され、誰にも代わってもらうこともできない孤独な自己という冷厳な事実に引き戻す。それは、人間が、自己を含むあらゆる存在者の有限性を自覚することにほかならない。すべての有限的存在者は、瞬間ごとに生じ、また瞬間ごとに滅している。

 あらゆる存在者の根底には、無が潜んでいる。その意味において、あらゆる存在者は、常に虚無の深淵に差しかけられている、はかなく危うい生滅無常の存在である。人間は、不安において自己が虚無の深淵に差しかけられているということを自覚することによって、同時に、すべての存在者が虚無の深淵に晒されていることを自覚する。あるいは、人間は、すべての存在者が虚無の深淵に呑み込まれようとする事態に直面することによって、虚無の深淵の前に孤立化させられる、といってもよい。

 有限的自己は、この無の体験によって、誰にも代わってもらうことのできない孤独な存在へと単独化される。虚無の深淵をのぞき込み、それに晒された自己の無常性、有限性を自覚することは、人間にとって戦慄すべきことである。そのため人間は、そこから目をそらし、日々の生活の忙しさのうちに自己の有限性を忘却しようとする。それが、自己の非本来的在り方であり、頽落てある。頽落とは、道徳的価値判断にもとづくものではない。道徳的に正しく勤勉な生活をしている人間も、自己の有限性を忘却している限り、頽落状態にあるのである。

 存在の呼び声への聴従と「先駆的覚悟態」(本来的自己)の実現

 だが、不安という根本気分は、人間を忘却から覚醒させ脚下の無に直面させることで、自己の本来性と非本来性という二つの可能性を開示する。では、不安という気分はどこから起こってくるのか。この気分は確かに、自己の内に生じる。しかし、それは、存在の働きによって起こされるのである。存在が、無の深淵の彼方から、頽落状態にある日常的自己に働きかけ、その脚下の無に向かわさせる、ということができる。

 ハイデガーは、気分は存在の声に由来すると述べているが、存在からの呼びかけによって、不安という気分が自己の内に生じる、あるいは不安という気分に襲われる。感覚界に閉じこもる日常的自己に対して、無限絶対の実在が働きかけ、その外的事物に向かう志向を転換させ、自己の脚下に向かわさせる、ということにはすでに言及した。

 前述したハイデガーの不安という根本気分の分析は、以上のような事態として捉え返すことができる。存在の声に由来する不安によって本来性と非本来性という二つの可能性を開示された自己に対して、「良心」の呼び声が、本来的自己を取り戻すよう促す。ハイデガーは、良心の呼び声は、私の内からやってくるが、私を越えてやって来る、と述べている。呼ぶものは、私ではないのである。それは、存在にほかならない。存在の呼びかけの声が、良心の声として私の内から起こるのである。存在が虚無の深淵の彼方から呼びかけることによって、良心が自己の内から生起するのである。

 この存在の呼び声に聴従することによって、自己はその本来的在り方を選択することを決意する。その本来的な在り方(本来的自己)を、ハイデガーは「先駆的覚悟態」と呼ぶ。自己は、一瞬一瞬、死に面することによって、もっとも自己的な単独者としてあり得る。しかし、日常的自己は、そのことを忘却して非本来的な在り方をしている。決意した自己は、死という最終可能性へ先駆する。それによって自己は、死への存在という自己自身を将来する。しかし、自己は、死への存在として初めから既にあったのだから、将来は、既在であるということができる。そのように決断は、将来に向かいながら自己自身に立ち返り現在を在らしめるのである。

 先駆的覚悟態は、未来から過去に還帰しつつ現在において決断することとして、将来、既在、現在の統一態としての「本来的時間」を、その内容としている。そのことにおいて自己は、有限的存在である。自己は、過去と未来が同時存在的な現在の一瞬に一瞬にその有限性に徹し、本来的自己をすなわち<実存>を実現する、ということができよう。実存は、虚無の深淵に直面することによって自己の有限性を自覚し、それに徹することができる。そして、それによって無の深淵の彼方の存在にかかわることが可能となる。 

 人間が、すべての存在者を呑み込もうとする虚無の深淵に面し、無常を感じるとき、深淵の彼方に常住不変・無限絶対の実在を求め、そこに自己を根拠づけようとする、ということにはすでに言及した。ハイデガーは、そのことを、前述した存在の人間への呼びかけの声とそれへの人間の聴従による非本来的自己から本来的自己への還帰というかたちで捉えた、ということができる。ハイデガーのいう自現とは、そのようなものである。自現は、存在の働きであり、人間はそれに聴従するのであるから、決意することは決意させられることにほかならない。

 これは、感覚界に於ける日常的自己から超感覚的実在界に於ける本来的自己へと全人格をかけた決意によって転換する――という古代以来、東西の宗教者・哲学者が取り組んできた思想課題に、現代西洋において取り組んだものということができる。そこに、ハイデガーの自現の形而上学が構想されているのである。

 自現が存在を与え時間を与える

 では、実存と虚無の深淵と存在との関係はどのようなものであるのか。有限相対的自己が面する虚無の深淵が、単なる虚無ではなく、混沌という実在である、ということにはすでに言及した。混沌とは、単なる無秩序、混乱ではなく、潜在的に分節化されており、すべての個物が相即相入的に調和している。それは、被造物の存在の始源、被造的世界の超越的原型であった。 

 混沌の根底の無限絶対の実在が創造的形成力を働かせることによって、潜在的分節を顕在化させる。それによって、無限の過去と未来が同時存在的な瞬間すなわち絶対現在(過去、現在、未来が相即相入する瞬間)が生起する。それは同時に、全存在空間(全被造物が相即相入する空間)が生起することである。時間・空間は、無限絶対の実在の創造的形成に力によって生起させられる。

 時間は、現在の一瞬に一瞬に生じ滅してゆく。それは同時に、全被造物の存在が現在の一瞬一瞬に生じ滅してゆくということである。すなわち、その内に全時間・空間を収める瞬間が、前後際断して非連続の連続的に統一されてゆくのである。それは、無限絶対の実在が、混沌という実在を介して、時間・空間とそこに於ける被造物として自己顕現してゆくとともに、混沌を介して自己のもとに還帰してゆく――という運動が一瞬一瞬、展開されてゆくということである。それによって、被造物の生滅の内に無限絶対の実在の永遠性・常住不変性が一瞬一瞬、不生不滅性として映し出されてゆく。

 有限相対的自己は、一瞬一瞬、時間・空間を生滅させてゆく無限絶対の実在の働きに自覚的行為によって一体化することで、無限の過去と未来が同時存在的な現在の一瞬(同時に全存在空間を収める一瞬)を非連続の連続的に統一してゆく。それによって、有限相対的自己は、その生の内に不生不滅性を体現させてゆくのである。そこには、無限絶対の実在からの呼びかけと有限的自己の応答という呼応関係が成立している。

 以上のような論述に踏まえて、ハイデガーにおける存在と人間との呼応関係である自現を捉え返してみよう。ハイデガーは、自現は、時間を明け透かせつつ届け、存在を選び整える、という。つまり、自現は、存在を与え(すべての被造物に存在を賦与し、存在者へと顕現するということ)、時間を与えるのである。自現は、自性を発現することによって存在と時間をそれぞれ独自のものの内にもたらすとともに、両者を相互依存性の中に保つものである。

 これは、先述した、無限絶対の実在が創造的形成力を働かせることによって、過去、既在、未来が相即相入する瞬間を生起させることが、同時に、全被造物が相即相入する全存在空間を生起させるることである――という事態を、ハイデガーの立場から捉えたものということができる。

 存在の明るみの中に立つ「開存」(本来的自己)

 ハイデガーは、将来、既在、現在の統一態としての本来的時間は、時空間という空け開きである、としている。自現が与える時空間が、ハイデガーの存在論における「世界」である。自現は、存在の本質活動であるから、結局、無限絶対の実在である存在が世界を生起せしめるのである。ハイデガーは、世界を、存在の明るみである、としている。存在が明らめられることによって、明るみが生じる。その明るみが、存在の顕現によって存在者が現れる場所としての世界なのである。

 虚無の深淵の彼方の存在は、その虚無の深淵を介して、全時間・空間とそこに於けるすべての有限的存在者を生起せしめるのである。

 頽落状態にある非本来的自己に、存在が、虚無の深淵の彼方から働きかけることによって、自己に不安という根本気分が生じる。それによって自己は、虚無の深淵に面せられ、すべての存在者がその中に呑み込まれるような気分に陥る。このとき、自己は、自分自身を含むすべての存在者の有限性を自覚する。この場合の有限性とは、自己をはじめとするすべての存在者が生滅無常な存在であるという意味での無常性である。 

 それに対して、存在の声に聴従した本来的自己としての実存は、直面する虚無の深淵を介して存在へとかかわることによって、自己の有限性を自覚しそれに徹する。この場合の有限性は、もはや単なる無常性ではあり得ない。それは、いわば虚無の深淵に呑み込まれようとする自己を抱きとめた存在によって引き戻された本来的自己の本質的な有限性だということができる。すなわち、自現に於いて存在とかかわり合っている自己の有限性である。だとすれば、虚無の深淵は、すべての存在者を呑み込むものとして、その前で自己が戦慄する単なる虚無ではあり得ないはずである。ここでは、根本気分は、不安ではなく「知恵」となる。ハイデガーが、無を「存在の通過段階」「存在の入り口」と言っているのは、そのことを示しているといえよう。

 この場合の無とは、すでに言及した、潜在的に分節化し、すべての個物が相即相入的に調和している混沌という実在、と解すべきであろう。そのような観点からハイデガーの自現を捉え返してみよう。存在は、その働きによって、潜在的分節を顕在化させることで、過去、現在、未来が相即相入する瞬間を生起させ、その瞬間に同時に、すべての存在者が相即相入する全存在空間を生起させる。存在が、将来、既在、現在の統一態としての本来的時間すなわち時空間を与えるということは、そのようなかたちで捉え返すことができる。

 存在の呼びかけに応じて決意し本来性を取り戻した自己すなわち先駆的覚悟態は、将来、既在、未来の統一態としての本来的時間をその内容としていた。この事態は、有限的自己が混沌を介して存在とかかわることによって、存在が本来的時間を与える働きに自覚的に応じること、として捉え返すことができる。人間が、本来的時間の中に立つということは、そのようなことである。自現とは、存在が呼びかけ人間がそれに応じることであったが、両者がかかわり合う瞬間に先駆覚悟態が実現する、ということができる。

 存在は、存在の明るみとしての世界を与えるとされていたが、ハイデガーが本来的自己は存在の明るみの中に立つとしていることも、そのようなかたちで捉え返すことができる。ハイデガーは、そのような自己を、存在の呼びかけに応ずる脱自的な「存在の住居の番人」である、としている。ハイデガーは、そのことを、人間が存在の光の中に立つこととし、そのような脱自的人間を「開存」と呼んでいる。そのような存在として自己は、一瞬一瞬、未来に向かいながら自己に立ち帰り現在を在らしめるというかたちで、その本来性と全体性を実現してゆくのである。 

 有限的自己の立場にとどまるハイデガー哲学の不徹底性

 それによって自己は、頽落状態すなわち我執を克服することができる。しかし、有限的自己の立場にとどまる限り、我執をその根底から克服し尽くすことはできない。なぜなら、自己の我執は、単に有限相対的領域にとどまるものではなく、深く無限絶対的領域にその根底を有しているからである。我執をその根底から断ち切るためには、自己は、まず虚無の深淵そのもの中に跳びこみ、自覚的行為によって無(混沌)と一体化することで、この次元に於ける我執を克服しなければならない。さらに自己は、この次元を超越し、存在そのものと自覚的行為によって一体化することで、この次元に於ける我執を克服することが求められる。

 非本来性の克服を、ここまで徹底させることなく、虚無の深淵を介して存在とかかわりあう有限的自己の立場にとどまっているところに、ハイデガーの不徹底性がある。

 存在と一体化した自己は、再び有限相対的領域へと帰らなければならない。それによって、有限相対的自己は、単なる決意ではなく自覚的行為によって無(混沌)を介して存在と結びつき、すべての個物の相即相入的調和という超越的原型を有限相対的実在界に映してゆくことが可能になる。すなわち、有限的自己が、過去と現在と未来が相即相入する自覚的行為の一瞬一瞬に他のすべての個物・個人との相即相入的調和を実現してゆくのである。

 そして、そのことを基盤として、過去から現在を経て未来へと直線的に進行してゆく時間の次元に於けるすべての目的実現に至る過程的行為も、他のすべての個物・個人との調和において為されてゆくことになる。それによって、ハイデガーが、近代技術は自然のエネルギーを強要し、一切の事物を調達物として取り立てる――としていた事態を根底的に克服することができる。

 以上、ハイデガーの思想の全体をテクストに即しつつ、四次元統合態としての全実在界という枠組みにおいて再構成してきた。その枠組みにおいては、ハイデガーの存在は、無限絶対の実在である絶対無すなわち無限の創造的エネルギー・生命に相当する。そして、虚無の深淵(混沌)は対自的絶対無の実在界、本来的時間、時空間、世界は相対的絶対無の実在界、直線的時間の進行してゆく次元は普遍本質の実在界に相当する。この全実在界に於ける無限の創造的エネルギー・生命と自覚的行為によって一体化した自己の実在・実存体験のロゴ化としての形而上学、ハイデガーの自現の形而上学は、そのような方向へと展開されてゆかなければならない。

 近代科学は、感覚によって捉えることのできる事物のみを認識対象としたため、超感覚的実在界を対象とする宗教・形而上学を排除した。そのため、近代科学に基礎づけられた近代科学技術文明は、日常的自己が超越的実在界へ転換するため通路を遮断してしまった。ハイデガーにおける非本来的自己から本来的自己への転換は、その通路を再び開くことによって、形而上学を復興させようとする試みである、ということができる。

 ハイデガー哲学の不徹底性の克服方向

 ハイデガー自身、この転換によって先駆的覚悟態という脱自的実在・実存体験をし、実存の自覚に達した、ということができる。その実在・実存体験のロゴス化が、ハイデガー形而上学なのである。ただ、ハイデガーの実在・実存体験は、あくまでも有限的自己のそれにとどまり、全実在界大の実在・実存体験という観点から見れば、なお不徹底性を免れていない。ただ、ハイデガーの哲学自身の内に、そのような不徹底性を克服する可能性と全実在界大の実在・実存体験のロゴス化としての形而上学へと展開してゆく方向性が存在していることを確認しておかなければならない。

 武市健人は、すでに言及した実存(エクシステンツ)と開存(エクーシステンツ)と存在(ザイン)の関係について、次のように述べている。「本質的には両者は異なるものではない。エクーシステンツに立ったからといって、現存在の有限性がすてられているわけではない。……しかしエクーシステンツには少なくとも表面上は、何か現存在を超越してザインそのものに成り切るという匂いが伴なうことも争えない。……しかし他面からいえば、そこに却ってエクーシステンツの徹底性がある。それはエクシステンツの立場の徹底であり強化として、自然としてのザインの真理に、そのまま立つものであり、そのかぎりでは、もはやエクシステンツの哲学(実存哲学)ではないともいわなければならないものがある。」(『実存哲学の問題』p110)  これは、有限的自己が、無限絶対の実在界に超越し存在そのものと合一することによって全実在界大の実在・実存体験をする、という方向にほかならない。

 過去には、そのような実在・実存体験をした宗教者、哲学者が存在し、その体験にもとづく宗教思想、哲学思想が形成、継承されてきたのである。それらの思想を、ハイデガーが取り組んだ新しい形而上学の形成という現代の哲学的課題の解決のために再生させることが必要となる。

 そのような観点から、次に、道元、親鸞、マイスター・エックハルトの思想を考察することにする。ここで、これらの思想家を取り上げるのは、道元、親鸞の思想が仏教思想が到達した頂点を示しており、マイスター・エックハルトの思想が「西洋の哲学史上を独歩するもの」(西谷啓治)とされているからである(禅仏教とエックハルトの思想の共通性については、すでに幾人かの論者が指摘している)。宗教思想は、感覚界から超感覚的実在界への転換と全実在界大の実在・実存体験という、そのもっとも核心的部分において継承、再生されるべきであり、浅薄皮相な人生訓や処世訓に切り縮めてはならない。

 道元、親鸞とエックハルトの思想を対応させて考察することにより、東洋と西洋、仏教とキリスト教という枠組みを越えて、新しく世界哲学として形成される形而上学が、どのようなものであるかということが明らかになる。それは、現代における一人ひとりの個人が、日常的自己から本来的自己への全人格的転換を成し遂げる途をを指し示すものである。

 

道元 仏性と人間との呼応関係による本来的自己の実現

 我執の克服を根本課題とする道元思想の現代的可能性

 道元の思想について西谷啓治は、その根本精神を新しく展開することが必要であり、何百年前のものを固定しても始まらない、と述べている(『正法眼蔵講話』三p65)。また、玉城康四郎は、科学技術の驚くべき発展のために神を受け入れる余地はもはやなくなったかのようにみえる現代にあって、道元思想が社会の力となり得るためにはいかにすべきか、またそれが社会の力となり得るとはいかなる状態を指すのか、と問うている。そして玉城は、この問題に取り組まねば、社会の中の人間は、社会の機構と科学技術のためにやがて神と同じ運命を辿るかもしれない(『仏教の根底にあるもの』p205〜207)と述べている。「神の死」につぐ「人間の死」ということであろう。

 近代科学技術文明が宗教・形而上学を排除したため、感覚界がその根底の超越的実在界から遊離して自己閉鎖的になった結果、現代の危機を惹き起こした、ということにはすでに言及した。それは、主体的には、日常的自己がその根底の本来的自己から遊離して自己閉鎖的になったという事態である。ハイデガーは、そのような現代社会の中にあって技術文明からその根底の自現(存在と人間との呼応関係)に還帰することによって人間は、本来的在り方を実現することができるとしていた。このハイデガーが取り組んだ根本課題を解決しうるものとして道元思想を再生させない限り、それは社会の力となりうることはできない。

 ハイデガーは、自然のエネルギーを強要し調達物を取り立てようとすることに自分自身が巻き込まれた現代の人間の非本来性を指摘していた。それが我執(自己中心的なわれ)であるということには、すでに言及した。我執の克服ということこそ、道元思想、否仏教一般の根本課題なのである。

 仏教では、貪瞋痴等を「煩悩」(身心を煩わし悩ます働き)という。貪とはむさぼり、自己の存在を追求しむさぼることであり、瞋とは怒り、他者を否定し支配しようとすること、痴とは無知、自己と他者の不二相即の理を知らないことである。煩悩とは、生滅無常の自己の生の常住を願いそれに執着するため、貪り怒り愚かさに振りまわされて生きていることである。それが、生死流転の人間の姿であり、我執にほかならない。ハイデガーが頽落としてとらえた先述の人間の在り方は、我執・煩悩の現代的形態ということができる。

 科学的知性と技術的意志によって生活を律する近現代人は、自己を主体とし、自然生態環境・社会文化環境を客体として二元化し、主体としての自己の生をむさぼる(貪)。そして環境を支配、征服する(瞋)。これは、環境と自己の不二相即の理を知らないこと(痴)にもとづく。ここに、我執からの脱却を根本課題とする道元思想ひいては仏教思想一般が、現代的なかたちで再生し得る、また再生させられなければならない根拠がある。

 よく、現在の自然環境破壊を招いたのは人間のエゴイズム(人間中心主義)であるから、エゴイズムを克服し環境を保全しなければならない、といわれる。しかし、エゴイズムの克服や環境保全が、感覚界の枠内に於ける自己の立場でいわれる限り、それもまた我執の一形態でしかないのである。

 道元における全人格的転換の体験である「身心脱落」

 我執から根底的に脱却するためには、感覚界から超越的実在界への根本的な転換を成し遂げなければならない。それによって、自己中心的な非来的自己が否定され、全実在界を循環する無限の創造的エネルギー・生命の流れと一体化した本来的自己が実現する。

 道元が、我執を離れるということは、自己の身心を投げ捨てて仏法そのものの身心となることだと述べている(『正法眼蔵随聞記』)のは、そのような事態として捉え返すことができる。仏法そのものの身心となるということは、我執を脱却することによって無限の創造的エネルギー・生命が全実在界大の自己に顕現し、それによって満たされる事態だということができる。道元の最大の宗教体験といわれる「身心脱落」とは、そのような全人格的転換の体験にほかならないのであり、ここに現代的なかたちで再生させるべき道元思想の核心がある。

 ハイデガーは、先駆的覚悟態という実在・実存体験によって実存の自覚に達した。それによって、非本来的自己から本来的自己への転換が成し遂げられたのである。ただ、ハイデガーの場合は、有限的自己の立場にとどまっていた。それに対して、道元の身心脱落は、有限相対の実在界と無限絶対の実在界が統合された全実在界大の規模における無限の創造的エネルギー・生命との一体化という実在・実存体験である。道元の場合の本来的自己とは、有限的自己であると同時に無限的自己として全実在界大の自己なのである。

 自己中心的な自己からこのような本来的自己への転換が、凡夫から覚者への転換といわれるものである。ハイデガーの場合、本来的自己としての先駆的覚悟態は、存在の呼びかけと人間のそれへの応答という自現において実現するものであった。道元の場合の本来的自己も、無限絶対の実在の呼びかけとそれへの人間の応答によって実現する。道元の場合の無限絶対の実在は、「仏性(仏)」とされている。

 それは、瞑想(禅定)中の釈迦が、それとの合一によって我執・煩悩から完全に脱却した自己が実現したことを自覚した、永遠・無限絶対の実在である「ダンマ」(法)のことである。釈迦が「自らを灯とし、自らを拠り所として、他のものを拠り所とせず、ダンマを灯として、ダンマを拠り所として、他のものを拠り所とせず、住せよ」と言っているのが、それである。

 玉城康四郎は、ダンマを「超感覚的な力」とか「形のない命の中の命いわば純粋生命」と呼んでいる。ダンマは、超感覚的な無限絶対の実在すなわち無限の創造的エネルギー・生命ということができる(ハイデガーの存在を絶対無と規定することができるということにはすでに言及したが、ダンマ・仏性も絶対無と規定しうる)。

 禅仏教は、この釈迦の自覚内容を、そのまま伝えるものである。したがって、道元の場合も、仏性との合一という実在・実存体験を究極的な悟りの境地とするのである。仏性との合一を実現することによって、全実在界に顕現した仏性との合一を実現した自己――それが、仏性の呼びかけに人間が応ずることによって実現した全実在界大の本来的自己なのである。

 仏性と自覚的に一体化する「只管打坐」という実践

 それについて、道元は「ただ我が身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからもいれず、こころもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。」(『正法眼蔵』生死)と述べている。

 この「仏のかたよりおこなはれて」ということが、仏性からの呼びかけにほかならない。それは、仏性が、人間を自己のもとに導こうとするもよおしである。それに自己のすべてを放下し、託すと決意することが、「信」という実践である。それが、「我が身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて」ということである。それは、「仏のかたよりおこなはれて」なす実践であるから、そこには、ほんのわずかの我執も存在しない。信とは、我執を否定する実践である。

 この自己の放下と全託という信が現成すると同時に、仏性と自覚的に一体化する実践が生起する。これが、道元の「只管打坐」(ひたすら坐禅すること)にほかならない。

 只管打坐とは、単なる身体的な運動として坐るということではない。それは、仏性すなわち無限の創造的エネルギー・生命の働きと自己を一体化させる自覚的な実践なのである(井筒俊彦は、日常的自然的態度を中止し、自分自身の内面の深層をどこまでも追求することによって、存在の深層を底の底まで究明しようとする――東洋哲学の主要な学派の方法、実践道の一つとして、禅仏教の坐禅を挙げている。井筒によれば、それは、人間実存の根源的変貌、表層的自我から深層的自己への転換、人間を根底からつくり変えることを目的とするものある(『意味の深みへ』p27〜29)。それによって、全実在界を循環する無限の創造的エネルギー・生命が、全実在界大の自己の内を満たすことになる。それが、身心脱落という実在・実存体験による本来的自己の実現なのである。

 本来的自己とは、人間の本然的在り方である。しかし、人間は我執のゆえに、それから逸脱して生きている。そのため、仏性との一体化を実現するには、我執を脱却する実践(修行)が必要となる。道元が「この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし」(『正法間眼蔵』弁道話)と述べているのは、そのことである。実践(修)によって、仏性との一体化(証、悟り)が実現するのである。

 修行とは、通常、我執の否定による実在・実存体験を次第に深めてゆき、最後に仏性と自己の一体化という境地に達する過程とされている。道元もまた、数年にわたる修行の過程を経た後に悟りの境地に到達したのである。しかし、道元の場合、修行は、単に悟りという目的に至るための手段にとどまるものではなく、悟りに至れば終わるというものではない。道元の場合は、仏性と自己の一体化、仏性即自己・自己即仏性をを実現したうえで、それを根底として実践を続けてゆくのである。

 道元は、そのことについて「それ、修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆえに、初心の弁道すなはち本証の全体なり、かかるがゆえに、修行の用心をさづぐるにも、修のほかに証をまつおもひなかれとをしふ、直指の本証なるがゆえなるべし。すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし。」(『正法眼蔵』弁道話)と述べている。修証一等、証上の修とは、悟って坐っている(実践している)ということにほかならない。

 仏性の自己限定によって有(存在)と時(時間)が生起する

 それは、仏性と自己の一体化を根底として、全実在界に遍満する仏性の働きと自己を自覚的に一体化させる実践である。その実践によって、全実在界大の本来的自己が実現するのである。その事態をより具体的に解明するために、自己が只管打坐という実践によってそれと一体化する全実在界に於ける仏性の働きが、どのようなものであるかを見てゆくことにする。

 仏性は絶対無であるが、すべてのものに於いて自己顕現する。存在(有)も時間(時)も、仏性が自己を限定したものである。存在は、現在の瞬間に於いて生じ、次の瞬間に於いて滅してゆく。そして、存在が生滅することが、時間が一瞬一瞬に生滅してゆくことにほかならない。道元が「有はみな時なり」(『正法眼蔵』弁道話)と言っているのは、そのようなことである。存在が生滅する一瞬一瞬は、前後際断し、それぞれ独立無伴である。そして、生の瞬間にも滅の瞬間にも、仏性が全現成している。

 こうして、過去、現在、未来が相即相入する瞬間が生じると同時に、すべての個物が相即相入する存在空間が生じ、次の瞬間には滅してゆく。そのような生滅が、非連続の連続的に統一されてゆくのである。超時間・空間的な仏性が時間・空間として自己限定し、存在(有)と時間(時)を相即相入させるのである。ハイデガーが、自現は、存在を与え時間を与えると規定した事態を、道元はこのようなかたちで捉えている、ということができる。

 絶対無としての仏性が、一瞬一瞬、自己顕現してゆくとともに自己還帰してゆく。それが、存在(有)と時間(時)が生滅してゆくということである。すべての存在者が一瞬一瞬、仏性の現成とし生起するとともに、仏性のもとに引き戻される、ということでもある。それによって、超時間・空間的な無限絶対の実在界と時間・空間的な有限相対の実在界が、一瞬一瞬、相即的に統一されてゆく。ハイデガーの場合、有限的自己は虚無の深淵を介して絶対無としての存在に結びつく、とされていた。虚無の深淵が単なる虚無ではなく、混沌という実在と解されるべきであるということには、すでに言及した。道元の場合についても同様のことがいえる。

 仏性の自己限定によって、時間・空間が生起するいうことは、混沌という実在の潜在的な分節を、仏性の創造的形成力が顕在化させることによって、時間・空間が生起する――こととして捉え返すことができる。すなわち、仏性が、超越的原型であるすべての個物の相即相入という潜在的分節を映し出すことによって、過去、現在、未来が相即相入する時間が生起すると同時に、すべての個物が相即相入する存在空間が生起し、両者が相即相入する――ということである(これはハイデガーの本来的時間すなわち時空と対応させて考察することができる)。

 仏教では、法身と報身を区別する。法身とは形のないもので、それが形をとったものが報身である。法身とは、すでに言及したダンマすなわち形のない命の中の命、純粋生命のことである。それは、仏教において空とか無とか表現されてきたもので、絶対無としての無限絶対の実在そのものということができる。仏性とは、これに相当する。これに対して報身とは、混沌という実在に相当するということができる。それは、有限的自己に面するところにまで降り来たった無限絶対の実在である(マイスター・エックハルトにおける神とその根底の神性の無すなわち絶対無と対応させて考えてもよい)。

 時間・空間的な広がりのあらゆるところを実践の場とする本来的自己

 こうして、絶対無としての仏性が、混沌を介して一瞬一瞬、有限相対的実在界に顕現してゆくとともに、混沌を介して自己のもとに還帰してゆく。それによって、相即相入した存在(有)と時間(時)が、前後際断して一瞬一瞬、非連続の連続的に統一されてゆく。道元の有時経歴(うじきょうりゃく。時が有として、有が時として現成する一瞬一瞬が、前後際断して相続、継起してゆくこと)は、そのようなかたちで捉え返すことができる。         

 有時経歴においては、一瞬一瞬が前後際断しているのであるから、生の瞬間は絶対生、滅の瞬間は絶対滅である。そこには、生にに対する滅もなければ、滅に対する生もなく、一瞬一瞬が永遠の今として不生不滅である。仏性は、その永遠性を有時の不生不滅の内に映し出す、ということである。

 こうして、有限相対の実在界が不断に新しくされてゆくが、有時経歴は有限相対の実在界と無限絶対の実在界の相即的統一点に成立のするのであるから、そのことは同時に、全実在界が不断に新しくされてゆくということである(動)。しかし、仏性の永遠そのものから見れば、仏性の全実在界への顕現と還帰は一挙同時の出来事である(静)。

 有限相対の実在界と無限絶対の実在界を包越する真の無限絶対としての全実在界は、絶対の静にとどまると同時に、一瞬一瞬、自己を新しくしてゆく。仏性は、絶対静 即 絶対動 として働くのである。

 自己は、この仏性の働きに全託する(信)と同時に、それと自覚的に一体化する(行)ことによって、本来的自己を実現することができる。それが、信にもとづく行(実践)としての只管打坐であり、修証一等であり、証上の修である。それによって自己は、身心脱落を得るのである。

 仏性は、生の瞬間にも滅の瞬間にも自己を全体的に現成させることによって、一瞬一瞬が前後際断して非連続の連続的に継起してゆき(有時経歴)、有限相対の実在界と無限絶対の実在界が相即的に統一されてゆく。自己は、有時経歴すなわち絶対生と絶対滅の瞬間の非連続の連続的継起に、その生と死の継起を自覚的に一体化させるのである。

 こうして、生の瞬間も死の瞬間も、仏性の全現成となる(絶対生と絶対死の前後際断的継起としての不生不滅)。そのことは、自己が、仏性が顕現した存在となる、ということを意味している。すなわち、いま・ここに於ける坐禅という実践によつて、生死を超脱し、我執を完全に克服した身心脱落の自己となる、ということである。

 その時、いま・ここを原点とする時間・空間的な広がりが成立し、自己は、そこにおける個物との一体化を実現する。それによって自己は、すべての個物の相即相入的調和を実現する。そこにおいては、すべての個物はことごとく仏性の自己顕現した存在となる。草木瓦石に仏性を見るとか、草木国土悉成仏ということは、そのようなことである。それが同時に、有限相対的な本来的自己の実現にほかならない。「十方世界是れ全身」とは、そのような自己のことである。いま・ここを原点とする時間・空間的な広がりのあらゆるところが、すべての個物の相即相入的調和を実現すべき自己の自覚的実践の場となるのである。

 前後際断した絶対生と絶対滅を非連続の連続的に継起させてゆく自己

 時間・空間的な実在界に於ける有限相対的な本来的自己は、同時に、時間・空間として全現成する以前の無限絶対の実在である仏性と一体化した無限絶対的な本来的自己である。自己は、いま・ここに於ける打坐という実践によって、有時を経歴させてゆくことによって、有限相対的な実在界とそこに於ける本来的自己と、無限絶対の実在界とそこに於ける本来的自己を、相即的に統一してゆく。それは、有限相対の実在界に自己顕現してゆくとともに、そこから再び自己還帰してゆく仏性の働きに、自己を放下して全託する自覚的行為によって一体化する、ということにほかならない。

 それによって、仏性の全実在界に於ける働きと一体化した全実在界大の本来的自己が、一瞬一瞬、実現してゆく。無限絶対の実在である仏性が、絶対静即絶対動として働くことによって有限相対と無限絶対を包越する真の無限絶対としての全実在界が成立する。全実在界大の本来的自己は、その仏性の働きと一体化した存在として、永遠そのものにとどまりつつ全実在界に於いて有限相対と無限絶対の相即的統一を実現してゆくのである。道元が「打坐して身心脱落することをえよ。もし人、一時なりというとも三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界ことごとく悟りとなる。」(『正法眼蔵』弁道話)と述べているのは、そのようなことである。

 自己は、有限相対的な実在界を超越して、全実在界の根底に於いて仏性との一体化を実現する。これが、証すなわち悟りの境地、三昧である。しかし、同時に自己は、無限の過去と未来が同時存在的な現在の瞬間のいま・ここに於ける打坐という実践によって、すべての個物の相即相入を一瞬一瞬、実現してゆく。それによって、時間・空間的広がりにおけるすべての個物は、それぞれが仏性の顕現として相互に調和する。道元が「わづか一人一時の坐禅なりといへども、諸法とあひ冥し、諸事とまどかに通ずるがゆえに、無尽法界のなかに、去来現に常恒の仏化道事をなすなり、彼々とともに一等の同修なり、同証なり。」(『正法眼蔵』弁道話)と述べているのが、それである。

 自己は、前後際断した生の瞬間、死の瞬間に、全現成する仏性の働きと自覚的行為によって一体化する。それによって、前後際断した生の瞬間は絶対生として、そこに生は存在せず、死の瞬間は絶対死として、そこに死は存在しない。すべての瞬間は、仏性の永遠の影を宿す永遠の今として不生不滅である。自己は、実践によって前後際断した絶対生と絶対死を非連続の連続的に継起させてゆくことによって不生不滅を実現してゆき、すべての個物と一体化した自己を非連続の連続的に継起させてゆく。それが、生死を超脱するということにほかならない。

 これは、秋山範二が次のように述べていることを、全実在界の存立構造という枠組みにおいて捉え返したものである。「要は生死共に仏性の全現成にして現成の当下に於いて一切存在の絶対不可疑性をいふにあった。言ひかへれば生死の住法位性(存在論的位置――根井注)を明らかにするにあったのである。生死は住法位にして前後際断している。生の瞬間に於てはたゞ法の絶対起あるのみ、死の瞬間には法の絶対滅あるのみ、滅に対した生でもなく、生に対した滅でもない。……生が死に対する時初めて生と云い得るが前後際断してたゞ生のみの世界には生といふも存在しない。全死の世界には又死は存在しない。生の法位に住する生はそれ故に不生の生であり、死の法位に住する死はそれ故に不滅の滅である。……絶対生、絶対滅の世界には故に生もなく、死もなしといひうる。不生不滅の世界である。」(『道元の研究』p154〜155)

 自然的個物・人間的個人・文化的個物の調和という課題と道元思想

 こうして、自己を放下し仏性に全託する信という実践と、仏性と自覚的に自己を一体化させる只管打坐という行(実践)によって、我執を克服し尽くした(身心脱落)全実在界大の本来的自己は、仏性と一体化した悟りの境地(三昧)を楽しみ、不生不滅の瞬間(而今)を楽しみ、万物との一体感を喜ぶことができる。道元の「自受用三昧」、「海印三昧」という境地は、このような全体的な連関構造において捉え返すことができる。

 「自受用三昧」、「海印三昧」の境地に入った自己は、仏性と自己の一体化を根底として、全実在界に遍満する仏性全体の働きと一体化することによって、自己の内をその働きで満たされる。そのことは同時に、それぞれの内を仏性全体の働きで満たされた万物と自己を一体化させることである。自己のその行為によって、万物は、全実在界を貫流する無限の創造的エネルギー・生命によって一つに結びつけられる。

 道元思想の全体を体系的観点から再構成することによって、全実在界とそこに於ける本来的自己の存立構造は、このようなものとして捉えることができる。そして、それこそが、近代科学技術文明が還帰すべきところのものなのである。

 全実在界と本来的自己から遊離した近代科学技術文明と日常的自己は、感覚界に自己閉鎖的となった。そのため、日常的自己は、我執的(自己中心的、人間中心的)自己となり、自然を支配・征服していった。その結果、自然生態環境と人間と社会文化環境のあいだ、自然的個物と人間的個人と文化的個物のあいだに深刻な対立・相剋を生じさせてしまったのである。それに対し、生態学的知識とその応用としての技術的意志によって、この対立・相剋を克服し、調和を実現しようとして真剣な取組みがなされている。

 そのことは、絶対に必要不可欠な措置である。しかし、それだけにとどまれば、近代科学技術文明のもたらした危機を根底的克服することはできない。なぜなら、生態学の対象としての自然生態環境・人間・社会文化環境は、あくまでも人間の感覚によって捉えることのできる対象であり、三者のあいだを貫流するのは物質・エネルギーだからである。三者は、あくまでも感覚界の枠内で捉えられているのである。

 我執を克服し、三者の調和を実現するためには、三者を、その内面に於いて捉えることが必要となる。すなわち、三者を、無限の創造的エネルギー・生命が貫流する相において捉えるのである。ここに、道元思想が、近代科学技術文明を根本的に転換させ得るものとして現代的に再生させられるべき根拠がある。なぜなら、道元思想は、自己が我執を克服して仏性の顕現となるとき、万物は、それぞれが仏性の顕現として、相互の調和を実現することを明らかにしているからである。

 草木河瓦石に仏性を見るとか、草木国土悉皆成仏とかいう思想が、それである。自己が、仏性すなわち無限の創造的エネルギー・生命を体現するものとなるとき、すべての自然的個物・文化的個物も、また無限の創造的エネルギー・生命を体現するものとなる。「十方世界是れ全身」といわれるように、有限相対的自己の実践の場となる。実践によって自己が、我執的自己から仏性の顕現としての自己になるとき、その実践によって同時に、自然的個物・文化的個物もまた仏性の顕現としての個物となる。それらの個物は、自己と同様、本然的に仏性の顕現であるのだが、自己の我執がその実現を妨げていたのである。

 「生存の舞台たる国土草木は、畢竟 衆生果報の伴随であって、衆生迷えば、国土もこれに感応して、擾乱を来たすとともに、主人公成仏すれば、その舞台たる国土は仏土となる。」(姉崎正治『法華経の行者日蓮』p263〜264)ということにほかならない。

 自己が我執的自己であったために、自然的個物・人間的個人・文化的個物のあいだに擾乱すなわち対立・相剋が生じ、仏性の顕現としての自己となったことにより、すべての個物は仏性の顕現としての個物となり、相互に調和する。有限相対的実在界は、仏性すなわち無限の創造的エネルギー・生命が遍満する世界となるのである。自己の成仏 即 山川草木国土の成仏 という思想は、以上のようなかたちで捉え返すことによって現代的に活かすことが可能となる。

 このように、有限相対的実在界の外面から内面に至るためには、外の感覚界に向かう日常的志向を自己の内面に向かう志向に転換するとともに、さらに、有限相対的実在界から無限絶対の実在界の根底の無限絶対の実在にまで深めてゆき、それとの合一を実現しなければならない。この合一を基盤として全実在界大の本来的自己が実現する。

 それによって、全実在界の真実相を解明した知としての形而上学を形成し、それに有限相対的実在界の外面(感覚界)の自然生態環境・人間・社会文化環境に関する自然科学・人間科学・社会科学を統合することが可能となる。それによって、人間が自然生態環境・人間・社会文化環境を貫流する物質・エネルギーを制御する能力のみならず、全実在界を貫流する無限の創造的エネルギー・生命を制御する能力を獲得することが可能となる。道元思想の全体を以上のようなかたちで再構成することによって、その根本精神を新しく展開し、社会の力とすることができる。

 

親鸞 無上仏と人間との呼応関係による本来的自己の実現

 親鸞に於ける永遠・無限絶対の実在としての真如・無上仏

 煩悩具足の我執的自己が、仏性からの呼びかけに応じて自己を放下し、全実在界に遍満する仏性の働きに全託し、自覚的行為によってそれと一体化することによって本来的自己を実現する――という道元思想が、自然生態環境と人間と社会文化環境のあいだの深刻な対立・相剋の克服という現代的課題の解決に、どのようなかたちで本質的な寄与を為しうるかということを考察してきた。親鸞思想も、また、そのような寄与を為しうるものとして現代的なかたちで再生することができる。

 だが、道元思想も、親鸞思想も、感覚界の枠内で人間がエゴイズムを捨て欲望を抑えることで自然を守るべきだとする通常の自然保護の考え方に切り縮められてはならないことを確認しておかなければならない。道元、親鸞の思想は、感覚界に於ける自己が、超感覚的実在界に全人格的な転換を成し遂げることによって、すべての個物との一体化を実現する――というその核心において現代に生かされなければならない。

 親鸞は「仏性すなわち如来なり、この如来、微塵世界みちてまします。すなはち一切群生海の心にみちたまへるなり、草木国土ことごとくみな成仏すととけり。」(『唯信鈔文意』)と述べている。ここには、道元のところで言及した、草木瓦石に仏性を見る、あるいは草木国土悉皆成仏と同一の思想が表現されている。すなわち、自己は、仏性と一体化することによって我執を克服し、有限相対的実在界に於けるすべての個物と一体化する、ということである。このとき、自己を含むすべての個物が、それぞれ仏性の顕現として相互に調和に達する。

 仏性が絶対無であるということを、道元思想について確認しておいた。親鸞は、それを、法身、真如、一如、無上仏、自然などの用語で表現している。要するに、それは、無限絶対の実在であり、永遠の生命(無量寿)のことである。ここでは、真如という永遠・無限絶対の実在を人格的に表現したものが、無上仏であるということを確認しておく。

 井筒俊彦は「『真如』は、……第一義的には、無限宇宙に充溢する存在エネルギー、存在発現力の、無分割・不可分の全一態であって、本源的には絶対の『無』であり『空』(非顕現)である。しかし、また逆に『真如』以外には、世に一物も存在しない。『真如』は、およそ存在する事々物々、一切の事物の本体であって、乱動し流動して瞬時も止まぬ経験的存在者の全てがそのまま現象顕現する次元での『真如』でもあるのである。」(『意識の形而上学』p15)と述べている。

 親鸞は、真如・無上仏を自然(じねん)とも呼んでいる。星野元豊は、自然は「絶対無」であるとしたうえで、「それは一切のものの成立の根底にあって、それらを成立せしめている成立の根本原理である。根本原理にといえば静的なものに感ぜられるが、この根本原理は一切のものを成立せしめ、生かしめている生命の根本原理として、絶対静的なものでありながら常に動いてやまない絶対動的な原理である。古人は、これを『無為自然』と呼んでいる。自らなすことなくして無限におのずから働く自然である。」(『現代に立つ親鸞』p146)と述べている。これは、井筒の真如の捉え方とまったく同一ということができる。

 それは、現代的に表現するならば、全実在界の究極的根拠・原理としての永遠・無限絶対の実在であり、全実在界に遍満する無限の創造的エネルギー・生命ということができる。有限相対的実在界のすべての自然的個物・人間的個人・文化的個物の内には、この同一の無限の創造的エネルギー・生命が充ち満ちている。先に引いた「如来微塵世界にみちてまします」とか「草木国土ことごとく成仏す」という親鸞の言葉は、このようなかたちで捉え返すことができる。

 真如・無上仏との一体化としての親鸞の実在・実存体験

 このような思想は、親鸞が実在界を主観に客観として対置し、それを外から観察することによって形成したものではない。親鸞は、自ら真如・無上仏との一体化という実在・実存体験をすることによって、この思想を形成したのである。

 道元の身心脱落が、感覚界から超越的実在界への全人格的転換によって、我執的自己が否定され全実在界を貫流する無限の創造的エネルギー・生命との一体化を実現した宗教体験である、ということにはすでに言及した。親鸞も、道元の最大の宗教体験といわれる身心脱落と同一の宗教体験をしたのである。通俗的に理解された禅と念仏、自力と他力という構図に捉われることなく、このことをしっかり押さえておかなければならない。

 もちろん、同一の実在・実存体験にもとづくとはいえ、両者の思想的表現は、それぞれ禅、念仏の文脈において為されていることによって異なっている。道元、親鸞のみならず、過去の東洋と西洋の偉大な宗教者、哲学者は、同一の、実在との一体化という体験を自らしたのである。表現はそれぞれ異なっているとはいえ、この点では何ら異なるところはない。

 全実在界に遍満する無限の創造的エネルギー・生命との一体化を成し遂げた思想家たちは、永遠の実在と自己の一体化という究極的基盤から全実在界の真実相を捉えた。それは、永遠の相の下に見られた永遠の真理である。それによって、それらの宗教者、哲学者たちの思想は、時代を超えて生き続け、現代に甦ることができるのである。

 親鸞の思想もまた、永遠の真理としてその核心を継承し、再生させることができる。道元のところで、無限絶対の実在である仏性は、絶対静 即 絶対動として働く、ということに言及した。全実在界大の本来的自己とは、この仏性の絶対静 即 絶対動の働きと一体化した存在である。道元においては、これが「海印三昧」、「自受用三昧」という境地であった。永遠の相の下に見られた全実在界の真実相とは、この境地において体得されたものである。

 親鸞もまた、これと同一の境地に到達していたことは間違いない。道元の仏性に相当する親鸞の真如・自然・無上仏が、「一切のものを成立せしめ生かしめる生命の根本原理として、絶対静的なものでありながら常に動いて止まない絶対動的な原理である」(星野・前掲書)ということにはすでに言及した。親鸞の実在・実存体験は、この真如・無上仏の絶対静 即 絶対動的な働きとの一体化の体験なのである。それによって、親鸞は、全実在界の真実相を把握するとともに、それを自己の内に体現したのである。

 無明・煩悩具足の凡夫の現代的形態としての無限衝動に駆り立てられる人間

 親鸞も、道元と同じように仏の呼びかけに応じて、自己放下して全実在界に於ける仏の働きに全託し、自覚的行為によってそれと一体化することで、我執を完全に克服した本来的自己を実現した。それが、親鸞における全人格的転換の体験である。だが、それは、単に親鸞一人の体験ではない。すべての人間が、それを体験することが可能なのである。本来的自己とは、人間が努力することによってそこに到達すべき目標・理想ではなく、すべての人間の本然的在り方なのである。

 しかし、日常的自己は、我執のゆえに、それから逸脱して生きている。その自己に対して、仏が本然の在り方に戻るよう促すのである。すべての人間が、それに応ずることによって実現することができるもの――それが本来的自己なのである。

 すでに言及したように、真如・無上仏すなわち絶対無としての無限絶対の実在は、すべての存在者の根底にあってそれらを成立せしめている根本原理である。人間を含めてすべての有限相対的存在者は、真如・無上仏によって在らしめられて在るのである。しかし、感覚によって捉えることのできる対象を唯一の現実とする日常的自己は、感覚界を絶対に超越する実在である真如・無上仏を見ることができない。これが、真如・無上仏についての根本的無知すなわち無明にほかならない。

 この無明のために日常的自己は、自身が真如・無上仏によって在らしめられて在るということを自覚することができず、自らの力によって存在しているかのように錯覚する。そこに、我執が生じる。このため、日常的自己は、自己とすべての他の存在者が真如・無上仏によって在らしめられて在るものとして自他不二の関係にあること知らず(痴=愚かさ)、他者を支配、征服する(瞋=怒り)ことによって、自己の生を貪る(貪=むさぼり)ことになる。これらは、すべて我執の姿にほかならない。このような自己が、「煩悩具足の凡夫」(身心を悩ますあらゆる働きをそなえた人間)である。貪瞋痴をはじめとするあらゆる煩悩の根源は、無明すなわち真如・無上仏に関する根本的無知(人間と自然生態環境・社会文化環境が自他不二の関係にあることに関する無知は、この根本的無知からの派生形態ということができる)である。

 超越的実在界に関する根本的無知のゆえに、そこから噴出する無限衝動に駆り立てられて、自然生態環境を支配・征服することで形成したさまざまな生産物で社会文化環境を豊富化するとともに、それを獲得することで際限のない欲求を追求してゆく現代人の姿こそ、煩悩具足の凡夫にほかならない。現代人は、そのような生に伴って生じるさまざまな問題に苦しみ、遂には人類の死滅の危機に直面するに至った。現代人は、それを克服しようとしながら、なお煩悩具足の生き方から脱却しえていない。それが、科学的知性と技術的意志を誇った近現代人の行き着いた姿なのである。

 仏と人間の「仲保者」としての浄土その人格的表現としての阿弥陀仏

 煩悩具足の凡夫が、凡夫としての生活を無自覚なままに続けている限り、自己の真如・無上仏についての根本的無知に気づくことはできない。なぜなら、煩悩具足の自己とは、真如・無上仏によって在らしめられて在るものであるにもかかわらず、我執によって真如・無上仏から面を背けている存在だからである。

 自己は、真如・無上仏に向かい、それに面することによって、はじめて、その根本的無知に気づくことができる。しかし、我執的自己は、自力でそれを為すことはできない。なぜなら、真如・無上仏によって在らしめられて在る自己自体は、本来それに帰属するものは何もない無であり、全く無力だからである。したがって、我執的自己が真如・無上仏に向かうことは、真如・無上仏の働きかけによってはじめて可能となるのである。

 そのことは、真如・無上仏に向かうにはまったく無力な人間のために、真如・無上仏の方から人間の方へ降り来るというかたちで為される。それについて星野元豊は、「浄土は仏に背面している人間を逆転して仏へ向かしめ、畢竟仏たらしめるために建立されているものであった。浄土はこの意味において仏と人間との間の仲保者であり、仏に背反している人間を仏に結びつける役割を担ったものということができよう。」(『浄土』P19)と述べている。

 真如の人格的表現が、法性法身としての無上仏であるのに対して、浄土の人格的表現が、方便法身としての阿弥陀仏である。絶対無としての真如・無上仏は、無限絶対の実在、無限の創造的エネギー・生命であった。絶対無そのものは、絶対に対象化することができない実在である。その絶対無が自己を対象化したものが、浄土・阿弥陀仏である。したがってそれは、絶対無そのものが、自己の像を自己の前に置くことによって対自的となったものとして「対自的絶対無」と呼ぶことができる(これまで混沌という実在としてきた次元である)。対自的となった無限絶対の実在が、浄土・阿弥陀仏なのである。

 絶対無としての真如・無上仏は、自己を浄土・阿弥陀仏として対象化することによって、同時に、人間の対象となるのである。親鸞が、『唯信鈔文意』で「しかれば仏について二種の法身まします。ひとつには法性法身とまふす。ふたつには方便法身とまふす。法性法身とまふすは、いろもなし、かたちもましまさず、しかればこころもおよばず、ことばもたえたり、この一如よりかたちをあらはして方便法身とまうす。」と述べていることは、そのようなかたちで捉え返すことができる。

 星野元豊は、真如・無上仏を絶対静的なものでありながら、無限に動いてやまない絶対動的原理と規定していた。それに対して、阿弥陀仏を「決して静的な人格ではなくして常に働いている最も動的な活動そのもの」、「作用実体」(『浄土』P142)と規定している。それは、活動態すなわち無限の創造的エネルギー・生命の人格的表現なのである。星野は、無上仏すなわち形のない「法性法身は方便法身によることなくしては顕われることができない。法性法身は具体的には方便法身としてのみ働くのである。」(『浄土』P31)と述べている。

 人間を無上仏に向かわさせる阿弥陀仏の働きかけ

 親鸞は、『自然法爾章』で「ちかひのやうは無上仏にならしめんとちかひたまへるなり、無上仏とまふすはかたちもなくまします。かたちもましまさぬゆへに自然とはまふすなり。かたちましますとしめすときは、無上涅槃とはまふさず、かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならひてさふらふ。弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり。」と述べている。

 無上仏は形のないものであるから、見ることもできず、人の心で思うことも語ることもできない(こころもおよばずことばもたえたり)ものである。その無上仏を人間に知らしめるための手段(れう)として出現したものが、阿弥陀仏なのである。その阿弥陀仏が、無上仏に背面する人間に呼びかける究極目的は、人間を無上仏にならしめることである。具体的には、背面する人間を、無上仏と一体化させることである。無上仏は一切のものを成立せしめる根本原理であるから、人間はそれと一体化することによって、我執を完全に克服した全実在界大の本来的自己を実現することができる。

 無上仏に背面する煩悩具足の凡夫は、自力でその背面を転換し、無上仏に向かい、そこに至ることはできない。その背面的自己に呼びかけ、その姿勢を転換させて無上仏へ向かわせ、そこ至らしめる働きをするのが、阿弥陀仏である。浄土(その人格的表現が阿弥陀仏)が、人間を無上仏と結びつける仲保者としての働きをするということは、そのようなことである。

 もちろん、阿弥陀仏の呼びかけといっても、幻聴のようなものがあるわけではない。煩悩具足の凡夫でありながら、そのことに無自覚なまま生きていた人間に、深刻な苦しみや悩みが生じ、それから脱却したいという切実な思いが生じるとき、そこには、無上仏に向かわせ、それに至らさせようとする阿弥陀仏の働きかけが存在しているのである。それによって人間は、無上仏への背面を転換せしめられ、浄土に面することになる。それは、人間が自己の存在の根底、脚下に面することである。

 そのとき人間は、自己の生が、一瞬一瞬、生じ滅していること、すなわち死に面していることを自覚する。すなわち、人間が、自己の存在の根底が無・永遠の死であることを自覚するのである。そのことは、無上仏によって在らしめられて在る人間が、仲保者としての浄土に面することによって、自己に本来的に帰属するものは何もないということ、すなわち、まったくの無であるということに気づかされる、ということである。

 人間が、虚無の深淵・永遠の死の前に独り立たされる。まさに「人世間愛欲之中に独り生じ、独り死し、ひとり去り、独り来る。まさに行いて苦楽の地に至りおもむくべし。自ら之にあたるに代わる者あることなし。」(『無量寿経』)である。もし、一瞬の死に一瞬の生が続かなければ「一息つかざれば千載にながく往く」(存覚『歎徳文』)であり、そこには永遠の死があるのみである。

 無上仏・阿弥陀仏との一体化と無明・我執・生死・煩悩からの脱却

 この事実に直面したとき人間は、自己の生が生滅無常のものであることを知り(無常観)、にもかかわらず自己の生の常住を追い求め(我執)、自他不二の理を知らず(痴)、他者を支配し(瞋)、自己の生をむさぼる(貪)などの煩悩にとらわれていたことに気づかされる(罪悪感)ことになる。人間が浄土に直面することで、生死・煩悩的自己の自覚に達したということは、それだけ無明が克服されたということ意味している。人間は、それによってはじめて生死・煩悩超脱の切実な要求を持つに至るのである。それは、人間が、生死・煩悩の超脱の場所として浄土を求めることである。

 『歎異抄』の「悪人なをもて往生をとぐ、いはんや善人をや。」という悪人とは、道徳的価値判断にもとづく善人に対する悪人ではない。それは、自己を煩悩具足の凡夫として自覚し、罪悪感を有する人間のことである。阿弥陀仏の本願は、そのような悪人を救うことを目的とするものであるというのが、親鸞の悪人正機(しょうき)説である。

 そのことは、阿弥陀仏によって、浄土を求めるように呼びかけられることにほかならない。この呼び声に応ずることによって、凡夫は生死を超脱して方便法身に帰入し、それと一体化する。すなわち「涅槃を得ということは、地上生活の約束を離れて、永遠なる真実に帰入することである。それは弥陀と同体となることである。弥陀となることである。」(金子大栄『教行信證の研究』p94)ということである。阿弥陀仏の呼びかけの究極目的は、人間を無上仏にならしめることであるから、この一体化を実現した自己は、さらにその次元を超越し、法性法身に帰入して、それと一体化する。これが、人間が、阿弥陀仏を介して無上仏にまで往く、ということにほかならない。

 真如・無上仏と一体化した自己は、それを根底として、全実在界に於ける真如・無上仏の働きとの一体化を実現する。その時、無・死に直面していた一瞬一瞬は、真如・無上仏よって在らしめられて在る自己を実現してゆく一瞬一瞬になる。自己が一瞬一瞬、面していた永遠の死は、自己の存在の究極的根拠としての永遠の生命に転じる。こうして、全実在界の真実相を捕捉した智と、それを体現した本来的自己が実現する。それが、全実在界大の規模に於いて無明・我執・生死・煩悩から脱却する、ということにほかならない。

 永遠・無限絶対の実在である絶対無は、無限の創造的エネルギー・生命である。それは、絶対無の実在界から対自的絶対無の実在界を介して、有限相対的実在界の二つの次元すなわち相対的絶対無の実在界と普遍的本質の実在界に発現してゆくとともに、対自的絶対無の実在界を介して絶対無の実在界へと還帰してゆく。こうして、無限の創造的エネルギー・生命が全実在界を貫流することになる。

 しかし、日常的自己は、この全実在界の真実相についての根本的無知のゆえに、それに背反して感覚界に自己閉鎖的となる。それが、自己中心的自己である。だが、自己中心的自己といえども、絶対無の現象形態以外の何ものでもありえない。ただ、それは、絶対無に対して背面的に対立しているのである。したがって、それに対しては、絶対無が自己のもとに引き戻そうとする力が常に働いている。

 この働きかけによって感覚界への自己内閉鎖性を破られた有限的自己は、その根底の無に面させられる。それによって自己は、その自己中心性を自覚する。その自己が、絶対無がそのもとに引き戻そうとする働きに応じ、それに任せ切ることによって、対自的絶対無の実在界に至り、対自的絶対無と一体化する。自己は、さらに絶対無の実在界に至り、絶対無と一体化する。それによって、自己中心性から完全に脱却した全実在界大の本来的自己が実現する。これまで考察してきた親鸞思想を、真如・法性法身・無上仏・浄土・方便法身・阿弥陀仏・阿弥陀仏の呼び声・浄土往生などの用語を使わずに表現すれば、以上のようになる。

 親鸞の回心の体験としての「三願転入」

 では、阿弥陀仏の働きかけによって自己を生死・煩悩具足の凡夫として自覚させられた人間は、具体的にはどのような過程を辿って、生死・煩悩を超脱し浄土に往生することができるのか。その過程を示したものが、親鸞のいわゆる「三願転入」である。

 三願とは、仏が立てた四十八の願の内の第十九願、第二十願、第十八願のことである。いずれも十方衆生の浄土往生を願ったものである。三願転入とは、第十九願から第二十願に至り、最後に第十八願に至ることで、阿弥陀仏の救いの世界に入った親鸞自身の回心の体験を示したものである。だが、この回心の過程は、親鸞の個人的体験にとどまるものではなく、すべての人間が生死・煩悩を超脱するために辿らなければならない過程なのである。そのような観点から三願転入の要点をまとめてみよう。

 第十九願において、自己は、自分の力で善根すなわち果報をもたらす善い行ないをし、功徳すなわち善を積んで得られた徳によって浄土に往生しようとする。しかし、そのように自分の力に頼ろうとすることは、我執以外の何ものでもない。それによって往生することは、不可能である。そのため、自己は第二十願へ至ることになる。第二十願における自己は、自己を放下し、一切を阿弥陀仏にまかそうとする。しかし、自己を放下しようと努めることの底には、なお我執が存在している。第二十願によっても浄土往生が不可能であることを悟った自己は、第十八願へ至る。

 第十八願において自己は、一切を阿弥陀仏にまかそうと努めるその我執そのものを投げ出す。そこには、自力の働く余地はまったく残されていない。我執が、絶対他なる力によって否定されたからである。そこに働いているのは、弥陀の本願力のみである。そこでは、自力から他力への、我執的自己から在あらしられて在る自己への根本的な転換が成し遂げられた。この転換の瞬間を、親鸞は「信楽開発の時剋の極促」(しんぎょうかいはつのじこくのごくそく)と表現した。それは、他力の信心が開ける(信楽開発)初めての瞬間(時剋の極促)である。

 それは、一切を放下し阿弥陀仏に全託した自己が、一切衆生を救済しようとする阿弥陀仏の本願力に摂取された瞬間である。いま・ここの瞬間に、弥陀の本願力よって在らしめて在るものとしての自己が実現したのである。それが「信心獲得」ということである。

 その瞬間に生起する念仏という行(実践)によって、自己は仏と一体化する。こうして、他力による救済、すなわち我執の根底的な克服、生死・煩悩の完全な超脱が実現する。南無阿弥陀仏と口称する念仏は、道元の只管打坐に相当する実践である。南無とは、阿弥陀仏に帰命(帰依)することである。親鸞は「しかれば『南無』の言は帰命なり。……ここをもて、『帰命』とは本願招喚の勅命なり。『発願廻向』といふは、如来すでに発願して、衆生の行を廻施したまふの心なり。『即是其行』といふは、すなはち選択本願なり。」(『教行信証』行巻二十五丁)と述べている。

 称名とは、人間が仏を呼び求める声ではない。それは、仏が人間を浄土に喚び招く声である。この阿弥陀仏から振り向けられた招喚の働きに、人間の帰命の働きが応ずるのである。ここには、阿弥陀仏と人間との呼応関係が成立している(ハイデガーの存在と人間との呼応関係である自現と対応させて捉え返すことができる)。

 親鸞の信体験と現代人の全人格的転換

 阿弥陀仏の働きかけの究極目的は、人間を無上仏へ至らせ、それと一体化させることにある。それによって、人間は、全実在界に遍満する無上仏の働きと一体化する。発願廻向という弥陀から人間への働きと、帰命という人間から弥陀への働きは、一体的なものとして働く。自己を放下して弥陀に全託する信という実践および、それにもとづく弥陀と一体化する念仏という実践の瞬間に、無上仏の働きが弥陀の働きを介して人間のもとに達していると同時に、人間の働きが弥陀の働きを介して無上仏のもとに達しているのである。

 そのことに関して、上田義文は「信心の決定は、本願海に帰入して、願心と一味となることだから、凡夫の生死流転する煩悩の心が無量寿(永遠の生命)の願心と合して一つになるので、時間が永遠に触れて、それと解け合うことによって、一面では時間が消えて永遠となると共に、他面では、永遠の中に摂取せられながら、生死の流れを続ける……信心決定の人も生死の中にあるわけであるから、一度願海に帰入して永遠に生死から隔てられた(生死の時間は終わった)が、その本願海にありながら、彼は生死の時間の中を流れる。これは一度願海への帰入で終わった生死が本願海で再び起こることであり、帰入以前の生死が凡夫の自力で流れる時間であったのに対して、これは願心という他力で流される時間である。」(『親鸞の思想構造』p64〜65)と述べている。

 これは、一瞬一瞬、無限絶対的実在界から有限相対的実在界に発現してゆくとともに、有限相対的実在界から無限絶対的実在界へ還帰してゆく――無限の創造的エネルギー・生命の働きに、人間が、自覚的行為によって一体化してゆく、ということを意味する。それが、我執を克服し生死・煩悩を超脱した全実在界大の実在・実存体験なのであり、本来的自己の実現にほかならない。

 親鸞の信体験は、このように深く広いものであった。上田義文は「方便法身(本願海)から法性法身(涅槃)への移りゆきは自然におこなわれ、それは凡夫のはからいにあらず、仏智の不思議である。……願海に真実に、そして深く入った親鸞には、方便法身と『一』にして『不可分』な法性法身の世界を言葉では語ることができなくても、その身で生きていたのであろう。……彼の信体験がこういう法性にまで根ざすような深いものであったことが、彼をして確信をもって、法然さえも云わなかった『現世に往生をうる』ということを言わしめた……親鸞は……真に永遠なもの(真如・寂滅・無時間)の次元にまで到達していた』(前掲書p150〜151)と述べている。

 親鸞の念仏は、永遠と時間が接触するいま・ここの瞬間に於ける実践であった。この体験は、親鸞一人のものではない。それは、すべての人間に体験可能なものとして開かれている。親鸞の「現世に往生をうる」という思想は、一人ひとりの個人が、感覚界から超越的実在界へと転換し、そこに貫流する無限の創造的エネルギー・生命と一体化し、すべての自然的個物・人間的個人・文化的個物と一体化した生を一瞬一瞬、実現してゆくべきである、というかたちで甦ることができる。

 ただ、親鸞が三願転入の過程を辿って宗教的回心を成し遂げるまでには、長く苦しい修行を必要としたように、現代の人間もまた、感覚界から超越的実在界への全人格的転換を成し遂げるためには、苦闘の途を歩み続けなければならない。近代科学技術文明を発展させ続けてきた人類は、現在、生物の一つの種としての死滅の危機に直面している。全人類は、共通の危機のもとに立たされたのである。

 これは、感覚によって捉えることのできる対象を唯一の現実としてきた人間が、自己の脚下に面することによって、自己が死に面していることを自覚する機会を与えられた、ということにほかならない。近代科学が、宗教・形而上学を排除したことにより、人間は、超感覚的実在界とそこに於ける本来的自己についての根本的無知に陥った。これは、現代の無明にほかならない。

 人類が死滅の危機に直面したということは、現在、一人ひとりの人間が無明を去って明を得ること、すなわち根本的無知からの覚醒の機会を与えられた、ということを意味している。だが、多くの人間はなお、そのことに無自覚である。近代科学技術文明がもたらしたさまざまな問題に取り組んでいる人々にしても、当面する問題の解決に追われ、それらの問題を根本的に解決するためには、超越的実在界への転換が必要となるということを自覚するには至っていない。

 科学技術文明がもたらす苦しみ、悩みの中にある一人ひとりの人間が、自己の根源的な無常性と罪悪性を自覚し、それから目をそらすことなく、全人格的転換のための苦闘を続けなければならない。それ以外に、一人ひとりの人間が、永遠と時間が接触するいま・ここの一瞬一瞬に於ける実践によって全実在界大の本来的自己を実現してゆくことを可能とする途はない。これまで行なってきたようなかたちで親鸞思想の全体を再構成することによって、そのことが明らかになるのである。

 

マイスター・エックハルト 神性と人間との呼応関係による本来的自己の実現

 神性との合一を人間の生の究極目的とするエックハルトの思想 

 感覚界に於ける非本来的自己が超越的実在界に転換することによって本来的自己を実現するということは、現代的であると同時に、人類にとって永遠の根本的課題であるということができる。この課題をハイデガー、道元、親鸞がどのようなかたちで解決しているかを見てきた。

 ハイデガーの場合は、存在と人間との呼応関係によって、道元の場合は、仏性と人間との呼応関係によって、親鸞の場合は、無上仏と人間との呼応関係によって、本来的自己の実現が可能となるとされていた。

 存在・仏性・無上仏は、いずれも絶対無としての永遠・無限絶対の実在であった。三者の思想は、時と場所を超え、人間は、全実在界に遍満する無限絶対の実在と一体化することによって本来的自己を実現することができる――という永遠・普遍の真理を明らかにするものである。

 次に、このことに関して、マイスター・エックハルトの思想を考察してみよう。エックハルトは、全世界の根底の実在を「神性」と呼んでいる。それは、神と子と精霊という三一的神を越えるものとして永遠・無限絶対の実在すなわち絶対無である。

 エックハルトは、神性は人間が理解することができるような像あるいは形態ではない、としている。神性は、像や形態を越えたものであり、像や形態は、被造物に対して現れた神に帰属するものである。この神と神性との関係は、親鸞における形のない無上仏とそれを人間に知らしめる手段として現れた阿弥陀仏との関係に相当するということができる。

 エックハルトは、神を超える神性の無と合一することによって人間は、真実な在り方を実現することができる、としている。この点においてエックハルトの思想は、道元、親鸞の思想と共通している。ハイデガーの場合、自己の有限性を自覚した本来的自己は、虚無の深淵を介して存在にかかわるとされていた。それは、あくまでも有限者の立場に立つものであり、自己は無限絶対の実在界へ超越し存在そのものと一体化する、というところにまでは至っていなかった。そこに、ハイデガーの不徹底性があり、それを超えるものとして道元、親鸞の思想を考察してきた。

 絶対無としての神性との合一を人間の生の究極目的とすることにおいて、エックハルトの思想もまた、ハイデガーの不徹底性を超えている。西谷啓治が、西洋の哲学史上を独歩するものとしたエックハルトの思想を、技術文明からその根底の自現(存在と人間との呼応関係)に還帰することによって人間がその本来的な在り方を実現する――という現代西洋の哲学者が取り組んだ課題の解決に、本質的な寄与をするものとして甦らせなければならない。

 自己の外部の神ならぬ被造物に向かう我執的自己

 親鸞思想について、絶対無としての無上仏が一切の存在者の根本原理であり、その働きが阿弥陀仏の働きとして現われ、一切の存在者を在らしめる、ということを確認しておいた。だが、人間が自己の存在が在らしめらて在ることに無自覚であるとき、自己の存在の根拠が自己自身の内に在ると思い込む。すなわち自己は、自力で存在しているかのように考えるのである。それが、我執であった。無上仏の具体的な働きである阿弥陀仏の本願力よって人間を無上仏に至らしめ、我執を根底的に克服する――ということが親鸞思想の中核であった。

 エックハルトの思想も、神性との合一による我執の克服をその中核としている、ということができる。エックハルトは、一切の被造物は神から存在を貸し渡されている、としている。それは、一切の被造物が、神によって在らしめられて在る、ということを意味している。しかし、人間が、そのことに無自覚であるとき、自己の存在の根拠を自分自身の内に求め、自分の力で自己を在らしめているかのように思い込む。すなわち、自己の存在を、自分のものとみなす。人間が、自己閉鎖的、自己中心的になるのである。これは、これまで何度も言及してきた我執にほかならない。

 具体的には、「われわれ自身のエッセ(存在――根井注)をあたかも自己の固有の帰属と思いこみ自己同一意識を他の被造物との区別性の上に成立させ、この自己意識を増々強固なものに仕立て上げ、そこから所有、獲得等の能所主客の対他関係を深めていく。そしてこの関係項たる他者の変貌、崩壊、消失等によって限りない苦しみの淵にあえぐことになる。」(田島輝久『マイスター・エックハルト研究』p340)ということである。

 エックハルトは、すべての被造物は純粋な無である、もし神がほんの一瞬、すべての被造物から離れるならば、それらは無に帰してしまうであろう、と述べている。人間には本来、自己に帰属するものは何もないからである。にもかかわらず、人間が、その存在を自己に帰属するもの思い込み、他の被造物を所有、獲得の対象とし、それらが崩壊したり消失したりすることに苦しむ――という我執。これは、道元、親鸞のところで言及した、自己中心的な我執的自己が、他者を支配、征服することで自己の生を貪り、そのために苦しむ――という煩悩にほかならない。

 無限絶対の実在に背面した人間は、ひたすら外的対象に向かう、ということにはすでに言及した。自己の存在が神によって貸し渡されたものであることに無自覚な人間は、自己の根底の神に向かわず、ひたすら自己の外部の神ならぬ被造物に向かうことになる。そのことをエックハルトは、人間の魂の諸力が大変広く分散していることとして捉えている。

 人間が、自己の存在を在らしめている神について無自覚であるということは、仏教における無明に相当する。煩悩の根源である無明から脱却する力は、我執的自己にはない、ということにはすでに言及した。人間は、在らしめられて在るものとして本来それ自身に帰属するものは何もなく、まったく無だからである。

 知性の内的認識を覆い隠す感覚・理性の外的認識

 親鸞の場合、そのような自己の外向的志向を内向的志向に転換させることで無明から脱却させ、真如・無上仏に至らしめるものは、無上仏の具体的な働きとしての阿弥陀仏からの働かけであった。

 エックハルトの場合も、外に向かって分散している魂の諸力を内に向かって集中させる力、すなわち外向的志向を内的志向に転換をさせる力は、人間自身にはないとされる。その転換を実現させるのは、神からの働きかけ、促しのほかにはない。人間の方から神に至ることができないとき、人間の方へ神が来るのである。その神の働きが「恩寵」である。人間の魂は、その内に、神からの働きかけに応じて神性にまで至る力を有している。エックハルトは、それを「知性」と呼ぶ。

 そのことに関してエックハルトは、次のように述べている。「魂は自分のうちに『あるもの』、決して消えない知性〔つまり認識能力〕の閃光を持っている。人は心の最高の部分である、この閃光のなかへ、魂の『像』を入れる。が、私たちの魂のうちには外部のものに向けられる認識がある。つまり、感覚的な、知的な認識で、それは表象と概念における〔認識〕で、これによって私たちのあの認識が覆われてしまうのである。」(『キリスト教神秘主義著作集』第六巻・エックハルトTp173)

 人間の魂の内には、外部に向けられる感覚や通常の理性による対象認識すなわち外的認識とは異なる内的認識があり、両者を区別しなければならない、とエックハルトはいう。エックハルトによれば、内的認識とは、神の存在に於いて知性にもとづくものである。だが、この知性にもとづく内的認識は、通常、外的認識に覆われている。我執的自己の外に向かう力が、知性の内に向かう力を覆い隠す、ということができる。

 そのことに関してエックハルトは、次のように述べている。「知性をそなえた被造物〔つまり、人あるいは人間の知性〕はすべての自然的な光の上にある光によって自己自身の外に動かされなければならない、と前に述べたように、神はこの愛をもって魂や天使の内に流れ込むのである。一切の被造物は自然的な光に大変喜びを感ずるので、恩寵の光が彼らをそこから上にひきあげるには、強力なものでなければならない。なぜなら、自然的な光に人間それ自体は喜ぶが、言い表しえないほど〔これより〕大きな恩寵の光は、人間から固有の喜びを奪い、自分のうち〔恩寵の光〕へと人間を引き入れるのである。」(前掲書p243)

 この場合の自然的光とは、先に言及した、他の被造物との区別性の上に成立する自己同一性意識の在り方である。この自己同一性意識は、我執にもとづく。したがって、いま引用したエックハルトの言葉は、我執的自己は、自己を中心として外部の被造物に向かい、それを所有、獲得することに大きな喜びを感ずる、ということと解してよいであろう。知性にもとづく内的認識が外的認識に覆われるということは、具体的にはそのようなこととして捉えることができる。

 神の働きとしての「恩寵」と人間の働きとしての「離脱」の一体化

 これは、仏教における無明を根源とする煩悩に相当するものである。外的認識という覆いを取り去り、人間から被造物に自己を結びつける喜びを奪い去り、自己の存在を在らしめている神についての無知から脱却させるために、神が人間の方へ来て人間を恩寵の光の中に引き入れなければならない。

 エックハルトは、そのことについて「私が光である知性をすべてものから離し、神の方に向けるならば、というのは、神はつねに恩寵をもって流れ出ているから、私の知性はこの恩寵の愛で照らされ、これと合一する、そしてそこに神自体である神を知り、愛するのである。」(前掲書p243)と述べている。

 神が恩寵の光をもって、知性を備えた被造物である人間の中に流れ込む。それによって人間は、それ自身の内から外へ引き出され、神自体である光の内に登ることになる。こうして、外に向かって分散している人間の魂の諸力を、内に向かって集中、統一することが可能となる。この事態は、人間が感覚界から超越的実在界へ転換することとして捉え返すことができる。人間の魂は、被造的世界と被造物としての自己を超越し、自己の内面を深く究明してゆく。こうして、人間の魂は三一的神と合一し、さらに神自体である神性と合一する。それによって、我執が完全に克服されるのである。

 このような魂の働きを、エックハルトは「離脱」と呼ぶ。エックハルトは「離脱によって私は神のみを受容せざるをえない……離脱はすべての被造物からまったく束縛されていない」(前掲書p381)と述べている。魂がこのように自己の内面を究明してゆく力が、知性なのである。神の恩寵の光が知性を照らすことによって、魂は離脱の過程を辿り神性に至ることができる。

 ここには、神の側からの人間への働きかけとしての恩寵と、人間の側からのそれへの応答としての離脱の一体化、という事態が成立している。離脱とは、人間が自己放下し神の恩寵に全託することだということができる。すなわち、人間が恩寵に随順するということである。

 これは、親鸞における、阿弥陀仏の側からの人間への働きかけとしての発願廻向と、人間の側からのそれへの応答としての帰命の一体化――と同一の事態である。阿弥陀仏の働きかけの究極目的は、人間を無上仏に至らしめ、それと一体化させることであった。エックハルトの場合も、神からの働きかけの究極目的は、人間を神性へ至らしめ、それと一体化させることにある。人間は、神からの働きかけに応じた離脱によって、そのことを実現する。

 人間は、神からその存在を貸し渡されたものとして、本来、自己に帰属するものは何もなく、それ自身においては無である、ということにはすでに言及した。にもかかわらず、人間が、自己の存在を自分のものと思い込むところに、我執が成立するのである。したがって、離脱とは、人間が我執を否定して、それ自身における無になり切ることだ、ということができる。先に言及した、離脱によって人間は、神のみを受容せざるを得ないということ、すなわち神ならざる一切の被造物を受容しないようにするということは、そのような自己無化の働きということができる。

 神と自己の合一「神の根底は私の根底であり、私の根底は神の根底である」

 この被造的世界と被造物としての自己の超越、自己無化によって、魂が神を受容することが可能となる。エックハルトは、そのことを、神が私に自己自身を与えたとか、神が私を神のひとり子として生んだとか表現している。そのことは、神以外の一切の被造物から離脱したことによって、魂の内に神的生命が流れ込み、両者を同一の生命が貫流し一つに結びつける、ということを意味している。そこに、三一的神と魂の合一が成立する。

 これは、親鸞における、阿弥陀仏の呼び声に応じて生死を超脱した凡夫が、方便法身である阿弥陀仏に帰入し、それと一体化する――ということに相当する事態である。より一般的なかたちで表現すれば、人間が自覚的行為によって対自的絶対無と一体化するということである。

 三一的神と合一した魂は、その根底の神性へと超越して、それとの合一を実現する。それを、エックハルトは「突破」と表現する。「神を突破する」とか「神性への突破」といわれるのが、それである。エックハルトは「神が私を突破するのと同じように、私も神を突破する。神が純粋な一であり、神御自身のうちに湧き出るところ、荒野、御自身の単一性にこの精神は神により導かれる。」(前掲書p146)と述べている。

 神性は、神・子・精霊という差別を含まず、像や形態を越えた単純な根底である。したがって、自己を無化することによって神と同一の神的生命によって結びつけられた魂は、さらなる自己無化が求められる。それによって、無化された自己の内に神的生命が流れ込み、神性と魂を同一の生命が貫流し一つに結びつける。そこに、神性と魂の合一が成立する。

 これは親鸞における、方便法身でがある阿弥陀仏との一体化を実現した人間が、さらにその次元を超越して、法性法身である無上仏と一体化する事態に相当するものである。より一般的なかたちで表現すれば、人間が、自覚的行為によって絶対無と一体化するということである。魂は、恩寵の働きかけに応じて離脱の過程をたどり、その最終段階である突破によって、神を超えて神性に到達したのである。エックハルトは、突破によって私と神が一つであることが与えられる、という。

 人間は、恩寵によって引き上げられることで、神性の高みまで到達した。恩寵の内で魂が向上の途を辿っているあいだは、人間は、神を遠方から見ている。しかし、人間が神性に到達したとき、恩寵は最高の完全に達し、もはや恩寵ではなくなる、とエックハルトはいう。

 そこでは「魂は神と合一し、神のうちに包まれる。そこでは恩寵は魂から離れるので、もはや恩寵とは共に働かないで、神のうちで神的に働くのである。」(前掲書p232)。そのことをエックハルトは、「ここにおいて、神の根底は私の根底であり、私の根底は神の根底である。ここで、神が神御自身の本性から生きるように、私も私自身の本性から生きるのある。」(前掲書p36)と規定している。そこでは、人間は、永遠であったもの、永遠にあり続けるものを勝ち取る。ここで、永遠の神的生命と一体的な自己の永遠の生命が実現する。

 世界と自己を超越することによって、自己は神と合一し、さらに神を越えて神性と合一した。突破によって自己は、世界と自己の根底を極め尽くしたのである。それを、エックハルトは「神の根底は私の根底であり、私の根底は神の根底である」と表現した。それは、自己が、全実在界の根底である永遠・無限絶対の実在すなわち神性と自覚的に合一することである。それによって、我執は根底的に克服されたのである。

 時間と永遠を相即させる主体である「一人」「真人」

 したがって、そのことは同時に、自己が在らしめられて在る存在であることに無自覚なまま、神ならぬ被造物に自己を結びつけていた我執も克服された、ということにほかならない。それは、「一切の被造物はわれわれを含め、神の絶えざる創造によってその都度、一瞬一瞬無の淵よりくりかえし創造されているのであって、神帰属のエッセを借り受けることによってわれわれが現に今ここに存在しているのであるとを知るのである。」(田島輝久『マイスター・エックハルト研究』p278)ということである。

 自己は、覆いを取り去られた知性によってそのことを知るとともに、そのような存在として自己を実現する。すなわち、神が存在を貸し渡す働きに、いま・ここの瞬間に於ける実践によって自覚的に一体化する、ということができる。これは、親鸞において、一切を阿弥陀仏にまかして、我執そのものを投げだしたいま・この瞬間に、我執的自己からの根本的転換が成し遂げられ、阿弥陀仏の本願力によって在らしめられたものとしていま・ここにあ在る自己を自覚的に実現する――という事態に相当するものである。

 エックハルトが、被造物が所有しうる一切の時間的な善と永遠なる善を持っている人間――と いっているのは、時間を超越して神性と合一することによって永遠性を獲得すると同時に、時間の内に帰って存在を貸し渡す神と合一した人間――として捉え返すことができる。エックハルトは、そのような人間について「自分のどのような働きでも妨げられない人々は、細心に配慮している。自分の一切の行動を永遠の光の像にならってきちんと行なう人々は妨げられない。このような人々はもののそばにいて、もののうちにはいない。彼らは〔ものの〕すぐ近くにいる、が、そのために〔ものの近くにいても〕、彼らははるか天の『永遠の輪』にいるのと同じくらい〔至福を〕もっているのである。」(『前掲書』138)と述べている。

 エックハルトは、神性と合一した人間は、「友のため」に時間の内に帰り他者のために働く、という。これは、仏教における「智慧あるが故に生死・煩悩に住せず、慈悲あるが故に涅槃・空寂に住せず」という大乗菩薩行の「無住処涅槃」の思想と同一のものである。無住処涅槃とは、迷い、生死の世界に住せず、そこを去って真如と合一した人間が、その涅槃の境地にとどまることなく、迷い、生死の世界に帰って、衆生救済(利他)のために働く、ということである。

 これは、一度、本願海に帰入して一面では時間が消えて永遠になるとともに他面では永遠の中に摂取されながら生死の時間の中を流れる――という、親鸞における信心決定と同一の事態である。そのことは、上田閑照が、一切の時間的な善と永遠な善を持っている人間について「時間を去って永遠性という方向が成就され前提された上で、しかも永遠性を離れることなしに時間のうちに帰ったようなありかた……『一』である神との永遠の一が達成された上で、そこからはじめて、第二の完全性としての時間のうちに於ける『多事』に心労し得る――それによって礙げられることなしに――のである。」(『エックハルト』p302)と述べていることによって確認することができる。

 これは、時間から永遠へと、永遠から時間へという逆方向の運動が、同一の主体の上に実践されている、ということを意味している(大乗菩薩行・無住所処涅槃の主体についても同じことがいえる)。エックハルトは、このように時間と永遠を相即させる主体を、「一人」、「真人」と呼んだ。

 これは、全実在界を貫流する無限の創造的エネルギー・生命と自覚的行為によって一体化した全実在界大の本来的自己にほかならない。真人とは、全実在界の根底である神性と自己の一体化を根底とし、全実在界に於ける神性の働きと一体化した自己ということができる。

 神性の宇宙論的運動と一体化したエックハルトの実在・実存体験

 エックハルトの神性が、永遠・無限絶対の実在としての絶対無である、ということにはすでに言及した。その絶対無は「三一―一なる神として自らを展開し、かくしてまた世界を内から展開した神は、再びこの神性の無へentwerdenするのである。そこに神の宇宙論的な運動が考へられている」(西谷啓治『神と絶対無』・著作集第七巻P61)のである。

  神性は、一瞬一瞬、無限絶対的実在界から有限相対的実在界に発現してゆくとともに、有限相対的実在界から無限絶対的実在界に還帰してゆく――という運動を展開してゆく無限の創造的エネルギー・生命である。その運動に、人間が、いま・ここの瞬間に於ける実践によって自覚的に一体化することで、時間と永遠を相即させてゆく。こうして、全実在界を貫流する無限の創造的エネルギー・生命が、全実在界大の自己の内にみなぎることになる。

 すなわち、「かの宇宙論的なディアレクティークは、神自身の自己展開として神のディアレクティークであり、然も同時にどこまでも神の内で起るのであると共に、その儘また霊のうちで起るものともいはれ得る。私が無の根底に立つ限り、かの宇宙論的な展開は、いはば私の霊を軸としてその廻りで行なはれ、私の霊の底なき根底を根底としてその上で行はれるのである。その意味では、霊が神性『無』に入って霊『ひとり』となるという時、霊は多くの『神化』する霊の一つとして神性に包まれるといふだけではない。寧ろ宇宙全体と神とをも根底的に包む神性とその無際涯なる廣ぼうを等しくし、神性そのものと一つになるのである。」(西谷啓治・前掲書P70)ということである。

 エックハルトの思想は、このような全実在界大の実在・実存体験を基底として成立しているのである。この点に於いてエックハルトは、道元、親鸞とまったく同一の立場に立っている。そのことは、門脇佳吉が、道元の思想について次のように述べていることを見れば明らかである。「道が広大無辺な『活き』によって宇宙全体を貫き、宇宙の隅ずみまで遍満している。坐禅とはこの『活き』と一つになり、無心に遊ぶが如く、宇宙全体を自由自在に遊戯することである。これこそ道元の『宇宙遊戯』といってよいだろう。同時にそれは衆生救済の仏行であるから『宇宙遊化』でもある。」(『道の形而上学』P127)

 親鸞思想については、玉城康四郎の次のような論述によって、エックハルト思想との立場の同一性を確認することができる。「ありとあらゆる世界は、究極唯一の法身へ、濾過され、浄化されていると同時に、この法身はまた、ありとあらゆる世界に充ち満ちており、かつ浸透してやまないということである。一切世界から唯一法身への濾過と、唯一法身から一切世界への浸透は同時であり、こうした唯一法身と一切世界との相互裏打ちのなかで、念仏の大行が実現し主体化するのである。」(『仏教の根底にあるもの』P136)

 このように見てくることによって、道元、親鸞の実在・実存体験が、神性と合一した自己が、神性が展開する宇宙論的な運動と一体化し、それを自らの内で展開する――というエックハルトのそれと同一である、ということが明らかになる。

 感覚界から超越的実在界への転換という現代的課題とエックハルト思想

 エックハルトが「神の根底は私の根底であり、私の根底は神の根底である」というように絶対無と一体化した自己は、それを根底として全実在界に於けるすべての個物と自己を一体化させる。それよって、全実在界大のがすべての個物が、同一の無限の創造的エネルギー・生命によって一つに結びつくのである。そこには、自己のいま・ここに於ける実践によって永遠と時間が相即する瞬間に、神性が自己のもとに達していると同時に自己が神性のもとに達していることが、即、神性が万物のもとに達していると同時に万物が神性のもとに達していることである、という事態が生起している。

 無限絶対的実在界に於いて神性と自己を同一の神的生命が貫流し両者を一つに結びつけ、神と自己を同一の神的生命が貫流し両者を一つに結びつける、ということにはすでに言及した。そのとき、有限相対的実在界に於いては、自己とすべての被造物を同一の神的生命が貫流しそれらを一つに結びつけることになる。それは、神から貸し渡された存在を自己のものと考え、自己を中心として他の被造物を所有・獲得しようとする――我執が克服され、神から存在を貸し渡されていま・ここにある存在としての自己が、すべての被造物との一体化を実現する、ということである。

 人間が科学的知性と技術的意志にもとづく行為によって、すべての自然的個物・人間的個人・文化的個物のあいだに深刻な対立・相剋を生みだしてしまった現代において、エックハルトの思想は、それを根本的に解決し得るものとして甦ることができるのである。

 エックハルトは、外部のものに向けられる感覚や通常の理性による外的認識が、知性にもとづく内的認識を覆い隠す、としていた。そのため人間が、他の被造物を所有・獲得しようとする我執が生じ、それらのものの崩壊、消失等に苦しむことになるのである。

 エックハルトがこのように捉えた事態は、現代においては、近代科学が感覚によって捉えることのできる世界のみを認識対象とし、そこに働く法則を理性によって解明した結果、感覚界の根底の超越的実在界を対象とする智が覆い隠された、というかたちで現われている。全実在界の真相に無自覚な人間は、その果てしない欲求を充足させるために科学的知性と技術的意志にもとづく行為によって他の存在者を獲得・所有しようとする。その結果、現代の人間は、自然生態環境と人間と社会文化環境のあいだに深刻な対立・相剋を生み出し、それを原因として全生活領域に生じるさまざまな問題に苦しんでいる。

 エックハルトは、神が恩寵の光をもって知性を備えた被造物である人間の中に流れ込むことによって、外に向かって分散している人間の魂の諸力を、内に向かって集中、統一することが可能となる、としていた。それによって人間は、自分自身の内から外へ引き出され神性にまで至り、それと合一することになる。こうして人間は、宇宙論的な運動を展開する神性と無際涯な広がりを等しくする存在として、その運動を自己の内で展開することになる。

 エックハルト思想の全体を、人間が、感覚界からその根底の超越的実在界に転換し、本来的自己を実現する――という現代の根本的課題と関わらせて再構成することによって、彼の思想が、その課題をどのように解決すべきかを示すものであるということを確認することができる。

  

 主な参考文献 

渡辺二郎『ハイデッガーの実存思想』『ハイデッガーの存在思想』 茅野良男『ハイデッガー』 山本英輔『ハイデガー『哲学への寄与』研究』 玉城康四郎『仏教の根底にあるもの』 秋山範二『道元の研究』 門脇佳吉『道の形而上学』 星野元豊『浄土』『現代に立つ親鸞』 上田義文『親鸞の思想構造』 金子大榮『教行信證の研究』 井筒俊彦『意味の深みへ』『意識の形而上学』 西谷啓治『絶対無と神』(著作集第七巻) 上田閑照『エックハルト』 田島輝久『マイスター・エックハルト研究』

                                                                      2011・4・30


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