世界思想史における西田哲学の位置と意義
なぜ、今日、西田哲学は顧みられないのか
西洋文明と非西洋文明の接触と新しい文化複合体形成の可能性
東西思想の統合による「世界哲学」の形成をめざしたに西田幾多郎
継承すべき西田哲学の核心的な思想内容としての<絶対矛盾的自己同一>という論理
「絶対無の論理」・「場所的弁証法」の立体的構造化
すべての個物が絶対に矛盾したまま統一されるという関係の成立
私的利益をを追求する経済的アトムとしての諸個人の<われ>と<わがもの>への執着
すべての自然的個物・人間的個人・文化的個物が相互に調和する「万物万人の共同体」の形成
近代自然科学に基礎づけられた啓蒙主義的・合理主義的な知
神学・形而上学的秩序から解放された近代的人間の自由と尊厳の確立
形而上学を排斥した近代自然科学の本質的限界
現代自然科学の宇宙像に対応する新しい形而上学の形成
新プラトン主義の形而上学を継承したルネッサンスのヒューマニズム
究極的実在と人間の合一という事実に立脚した形而上学の形成
実在体験における叡智的直観にもとづく創造的生命の形而上学
「絶対無の形而上学」としての西田哲学の継承・展開と人間の真の自由
人間の生と全実在界の運動の究極目的である創造的生命の一体感
先行する形而上学を継承する「領受」と真の意味を再生する「顕開」
究極的実在が力を失った近代の人間の生の自己目的化
現代における「形而上学ルネッサンス」による人類の思想史の転換
創造的生命の一体性を実現する共同体と多元的・重層的な協働関係の形成
■ 東西の形而上学の統合による「世界哲学」としての絶対無の形而上学の形成
それを全人類一人ひとりがわがものとして獲得し、<本来的自己>を実現しなければならない
近代科学技術の限界の克服方向とそこに潜む楽観論
近代科学技術文明の根底に潜むニヒリズムと人間の生の無意味化・無価値化・無目的化
生の衝動の無限化と人間を駆りたてる呪縛された自由
生滅無常の感覚界と有無のパラドックス・生死のパラドックス
生死のパラドックスの主体化とニヒリズムの主体化
人間の深層に巣くう生への執着の否定・転換
虚無の体験の実在・実存体験への転化と生死のパラドックスの解消
無限絶対の実在に根拠づけられた生死の実相=不生不滅
無限絶対の実在との合一という実在・実存体験と形而上学の形成
無限絶対の実在と有限相対の実存との相補的統一
永遠無限絶対の実在との合一を基盤とする全実在界大の実在・実存体験
それぞれの個人が他の個物・個人と一体的な生を実現することを抑圧する近代科学技術文明
近代科学技術文明の危機克服のために求められている現代の形而上学の基本構造
一人ひとりの個人の生とは無縁な外在的知識と化した形而上学
<永遠の哲学>としての過去の偉大な形而上学と現代の一人ひとりの個人の生
非本来的自己から本来的自己への転換を促す無限絶対の実在の働きかけ
個人が自己を映し、その本来的あり方を自覚・自得する<鏡>としての形而上学
全実在界に貫徹する論理を自己の生のうちに体現する個人
全人類的危機の克服を可能とする新しい形而上学を形成するという課題
絶対無という次元で遭遇し、統合に向かう東西二類型の形而上学
西洋の形而上学の歴史の表層流と深層流
東西の形而上学の歴史の総体を統合的に捉え返すための基本構図
西洋哲学史上最初の絶対無の形而上学としてのプロティノスの一者の形而上学
同一の実在・実存体験をそれぞれの思想的文脈でロゴス化した華厳とプロティノスの形而上学
西洋においては異端的・傍流的なものにとどまった絶対無の形而上学
プロティノス精神の継承者としてのアウグスティヌスとその思想の限界
神性との合一という実在・実存体験に基づくエックハルトの絶対無の形而上学
同じ実在・実存体験のキリスト教的・仏教的表現、エックハルトと道元・親鸞の絶対無の形而上学
西洋の有の形而上学の完成者ヘーゲルの『精神現象学』と空海の『十住心論』
エックハルト思想、ニーチェ思想、華厳をはじめとする東洋思想の照応関係
ハイデガー哲学と西田哲学、現代において絶対無という次元で遭遇し、統合に向かう東西の哲学
東西の形而上学の統合、諸科学と形而上学が統合された統一的・全体的な知の形成
■ 宗教思想と形而上学の現代的再生による諸個人の全人格的転換 ――ハイデガー、道元、親鸞、マイスター・エックハルト――
はじめに
序 近代科学技術文明からその根底の真の実在界への還帰と本来的自己の実現 感覚界とそこに於ける日常的自己から全実在界とそこに於ける本来的自己への転換 近代科学技術文明が惹き起こした自然生態環境・人間・に社会文化環境の間の対立・相剋 無限の創造的エネルギー・生命を制御しえない科学的知性と技術的意志 人間中心主義・エゴイズムの克服という課題 自己の生の生滅無常性から目をそらした近代人とニヒリズム 自力で感覚界から超越的実在界へ転換できない日常的自己 無限衝動に知性と意志を駆り立てられる日常的自己 全実在界大の本来的自己の実現への全過程 虚無の深淵・混沌に面した我執的自己の「死」と甦り 「仲保者」を介して無限絶対の実在に到達しそれと合一する自己 無限絶対の実在と合一した自己は有限相対的次元に帰る すべての個物に不生不滅性を体現させる人間の責務とその忘却 誕生から死に至る生を含む人間の生全体の意味と価値 無限の創造的エネルギー・生命の自覚的制御とすべての個物の相互調和 形骸化した宗教・形而上学の基底の実在・実存体験への還帰という課題 無現絶対の実在の自己顕現と自己還帰の過程 有限相対的実在界と無限絶対的実在界の相即的統一 全実在界大の自己の存立構造
ハイデガー 存在と人間との呼応関係による本来的自己の実現 近代技術文明の根底の自現(存在と人間との呼応関係)への還帰 自然エネルギーを強要し取り立てる近代技術の本質 頽落状態にある人間が不安によって死に直面させられる 存在の呼び声への聴従と「先駆的覚悟態」(本来的自己)の実現 自現が存在を与え時間を与える 存在の明るみの中に立つ「開存」(本来的自己) 有限的自己の立場にとどまるハイデガー哲学の不徹底性 ハイデガー哲学の不徹底性の克服方向
道元 仏性と人間との呼応関係による本来的自己の実現 我執の克服を根本課題とする道元思想の現代的可能性 道元に於ける全人格的転換の体験である「身心脱落」 仏性と自覚的に一体化する「只管打坐」という実践 仏性の自己限定によって有(存在)と時(時間)が生起する 時間・空間的な広がりのあらゆるところを実践の場とする本来的自己 前後際断した絶対生と絶対滅を非連続の連続的に継起させてゆく自己 自然的個物・人間的個人・文化的個物の調和という課題と道元思想
親鸞 無上仏と人間との呼応関係による本来的自己の実現 親鸞に於ける永遠・無限絶対の実在としての真如・無上仏 真如・無上仏との一体化としての親鸞の実在・実存体験 無明・煩悩具足の凡夫の現代的形態としての無限衝動に駆り立てられる人間 仏と人間の「仲保者」としての浄土その人格的表現としての阿弥陀仏 人間を無上仏に向かわさせる阿弥陀仏の働きかけ 無上仏・阿弥陀仏との一体化と無明・我執・生死・煩悩からの脱却 親鸞の回心の体験としての「三願転入」 親鸞の信体験と現代人の全人格的転換
マイスター・エックハルト 神性と人間との呼応関係による本来的自己の実現 神性との合一を人間の生の究極目的とするエックハルトの思想 自己の外部の神ならぬ被造物に向かう我執的自己 知性の内的認識を覆い隠す感覚・理性の外的認識 神の働きとしての「恩寵」と人間の働きとしての「離脱」の一体化 神と自己の合一「神の根底は私の根底であり、私の根底は神の根底である」 時間と永遠を相即させる主体である「一人」「真人」 神性の宇宙論的運動と一体化したエックハルトの実在・実存体験 感覚界から超越的実在界への転換という現代的課題とエックハルト思想
ミレトスの自然学とエレアの存在論・プラトン・アリストテレス・ウパニシャッド・釈迦・殷周革命と天の思想・孔子・老子・荘子
序
科学を基礎とする近代合理主義による超感覚的実在界の否定
二つの存在領域に対応する人間の意識、認識能力の二つのあり方
超感覚界から自己を遮断し感覚界に自己閉鎖的になった現代の人間
「哲学する」という実践による感覚界から超感覚界への超脱
生滅無常の存在者の絶対的「根源」を求める哲学、宗教
「有無のパラドックス」「有無の矛盾」に無自覚な近代合理主義
無限絶対の実在に至る途を断たれた現代の人間の閉塞状況と哲学の課題
実在・実存体験という基体から切り離され固定化された哲学の現状
神話、呪術の克服による「哲学する」ことの開始
人間が自覚的行為によって超感覚的な力を制御し「本来的自己」を実現する
全人類が「本来的自己」を実現する途を拓き示した古代の偉大な思想家たち
人類の思想的地盤を形成してきた哲学的言説、宗教的教説の伝統
「科学革命」による合理主義的な自然認識の形成と形而上学、神学の排除
自然生態環境・人間・社会文化環境のあいだの深刻な対立・相剋
超感覚界から噴出してくる無限衝動に駆り立てられる人間
近代科学技術文明の全地球的な拡大と全人類的な思想的地盤の喪失
「文明化した未開」ともいうべき現代における哲学の根本的課題
東西の思想的伝統の統合による「世界哲学」の形成
古代の精神革命
ギリシャ
ミレトス学派の自然学、エレア学派の存在論
ギリシャにおける神話的思惟の克服と哲学の形成
生成変化する世界の「根源」の探求と形而上学の始まり
プラトン
「死の練習」による感覚界から超感覚界への超脱と「善のイデア」の体験
イデアの統一連関を映し出すコスモス(宇宙・秩序)
哲学的問答法によると善のイデアへの遡源
全人類に無限絶対の実在へ至る途を示すプラトンの哲学
アリストテレス
宇宙万物の運動の究極目的としての「不動の動者」
人間の認識能力の最頂点である能動的知性
全宇宙が自己を自覚し、神の永遠性に参与する場所である人間の魂
観想的生活による神の永遠性への参与
全実在界大の実在・実存体験のロゴス化としての形而上学
アリストテレスの形而上学の現代的再生の方向性
インド
ウパニシャッドの哲学
万物の根本原理であるブラフマンと個人の根本原理であるアートマン
感覚界から超感覚界への超脱とブラフマンとの合一
釈迦
「我執」を原因とする生死からの脱却を目的とする仏教
瞑想によるダンマとの合一という「涅槃」への到達
釈迦におけるダンマ(いかなる形態をも超えた純粋生命)の体験
縁起の理法の自覚と「我執」にとらわれた生き方の克服
絶対無の形而上学の伝統の原点としての釈迦の思想の現代的再生
中国
殷周革命と天の思想
神話、呪術からの脱却と「帝」から「天」への移行
祈りによる無限の創造的エネルギー・生命との一体化
孔子
孔子における天との合一体験としての「仁」
「克己復礼」の実践による「仁」の実現
天と合一した自己は、同時に万物万人と合一する
「本来的自己」の実現を目的とする孔子の祈り
「天」から離れた時代としての現代に甦る孔子の思想
老子
「樸に復帰す」「嬰児に復帰す」という主体的実践
自己否定を経て自己本来のあり方に帰る
高次の知である「無知(明))」による道の体得・体認
道から生み出された万物が道に復帰する運動と一体化した自己
現代の人間に対して全人格的転換の方向を示す老子の思想
荘子
万物の生成変化を超越し、それを支える「道」という実在
生死をその根源の「道」から見ることのできない通常の知の限界
「坐忘」により超感覚界に超脱し、「真知」により道の働きと一体化する
「万物斉同」の境地に立つ「至人」「聖人」の自由自在な行為
自然的個物・人間的個人・文化的個物の対立、相剋を克服する万物斉同の思想