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近代科学技術文明の超克と創造的生命の形而上学の形成                             

 

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                                                                     2007年10月12日   根井 康之  

 

 現代は、自然生態環境の破壊と人類の生存の危機をもたらした近代科学技術文明を超克した新しい文明を創出すべき人類史の大きな転換期だといわれています。この転換を人類が自覚的に遂行するためには、近代科学技術文明を支えてきた啓蒙主義的・合理主義的な知を根本的に転換させることが必要となります。

 近代自然科学に基礎づけられた啓蒙主義的・合理主義的な知

 啓蒙主義的・合理主義的な知の基礎を形成したのは、科学革命によって確立された近代自然科学でした。科学革命は、中世の神学・形而上学からの自然科学の解放・独立を達成しました。

 中世の形而上学は、古代から継承したアリストテレスの哲学とキリスト教を統合した体系を構築しました。アリストテレスは、全自然は、それを超越する「不動の第一動者」すなわち自らは動くことなく宇宙万物を動かす第一原理によって動かされている、と考えました。宇宙万物は、「不動の第一動者」を究極目的として運動する、というわけです。

 この宇宙観を継承した中世のスコラ哲学者トマス・アクィナスは、無から宇宙を創造したキリスト教の神が「不動の第一動者」である、としました。中世の自然観の特徴は、生成変化する自然現象を、宇宙の外にある「不動の第一動者」というような究極的実在を第一原理として統一的・総合的に説明づけようとする、という特徴をもっています。宇宙万物の存在の第一原因、宇宙万物の真理の原因を解明する学が形而上学ですから、中世の自然観は、形而上学との内面的な連関性をもっていたわけです。

 それに対して、近代自然科学は、自然現象を宇宙の外にある実在・第一原因から説明するのではなく、あくまでも自然現象をそれ自身の中で解明する、という立場に立っています。すなわち、自然科学は、人間の感覚によってとらえることのできる存在、具体的には物質的存在だけを認識対象とする、という方法的態度を採っています。科学的な知は、感覚的経験の事実を数学的に法則化することによって成立します。それは、真理の根拠を経験的実証性に置いています。

 したがって、自然科学の経験主義的・実証主義的な立場によれば、人間の感覚によってとらえることのできない不動の第一動者とか神といったものは、不確実な存在として認識対象の範囲外に置かれることになります。このような立場を徹底していけば、結局、感覚的に知覚される対象が唯一の実在であり、超感覚的対象などというものは非実在的なものとされることになります。

 こうして、近代自然科学は、形而上学との内面的な連関性を失いました。自然は、その根底の形而上学的実在によって動かされるものとしてではなく、それに内在する法則に従って運動してゆくものとしてとらえられることになりました。近代自然科学は、このように形而上学を排斥することで、自己を確立したのです。

 神学・形而上学的秩序から解放された近代的人間の自由と尊厳の確立

 啓蒙主義的・合理主義的な知は、このような方法的態度に立つ科学的な知に基礎づけられています。それは、時間・空間的な有限相対の実在界を超時間・空間的な無限絶対の実在界に由来するものとしてではなく、それ自身として理解しようとします。それによって、有限相対の実在界は、神学・形而上学的秩序から解放されることになりました。

 それは、有限相対的存在としての人間が、自由な存在としての自覚を獲得したことでもありました。中世においては、有限相対的存在としての人間、すなわち神の被造物としての人間の意志の自由は、神への背反によって悪をうみだす罪の原因とされました。すなわち、有限相対的人間は超越的絶対神に服従する存在として、その自由を奪われていた、といえます。近代的人間は、その超越的絶対神の存在を排斥・否定することによって、自己の自由と尊厳を確立しました。そこに、西洋近代が形成したヒューマニズムの偉大さがあります。

 近代においては、有限相対の実在界に於ける自然と社会も、超越的絶対神の支配から解放されました。中世においては、自然と社会は超越的絶対神に由来するものとされていました。自然は、全知全能の神の創造したものとして、そこには神の摂理が働いており、社会は神の摂理の表現であり、封建社会の支配−従属関係は、人間がそれに従属すべきものとされました。

 超越的絶対神への服従から解放され自己の自由を自覚した近代的人間は、自然と社会を、超越的絶対神に由来するものとしてでなく、それ自身において理解するという方法的立場に立ちました。こうして、人間は、その自由を最大限行使して、自然生態環境に能動的に働きかけ、それを改編して社会文化環境を形成することによって、生活の利便性を飛躍的に向上させてきました。

 形而上学を排斥した近代自然科学の本質的限界

 そのような人間の行為を制御してきた啓蒙主義的・合理主義的な知には、本質的な限界がありました。

 たとえ人間が、無限絶対的な超越神の存在を否定したとしても、有限相対的存在としての人間の根源に無限絶対の実在界が事実として存在していることに変わりはありません。人間を服従させる超越神は、人間が仮構したものとして、その存在は否定されるべきである(フォイエルバッハ、ニーチェのキリスト教批判は、そのことを哲学的課題として追求したものといえます)としても、究極的実在は厳然として存在しており、有限相対的人間の自由は、究極的にそこに基礎づけられています。

 ところが、近代的人間は、無限絶対的な究極的実在をぬきにして、自己の自由をそれ自身として確立しようとしました。そのため、有限相対的人間の自由は、究極的成立基盤から遊離した放恣な自由になります。こうして、有限相対的人間は、根拠なき放恣な自由を行使して、自然生態環境・社会文化環境を一方的に支配し、従属させようとします。すなわち、人間は、自己の生活の快適さ・幸福という目的を実現するための有用な手段として自然生態環境を一方的に改編し、こうして形成された社会文化環境を一方的に利用します。

 その結果、有限相対的実在界に於ける自然生態環境と人間と社会文化環境という三者のあいだに、深刻な対立・相剋が生じることになります(『創造的生命の形而上学』第2章参照)。その根拠は、啓蒙主義的・合理主義的な知が、形而上学を排斥し、有限相対的実在界を自己完結的・自己閉鎖的なものとみなしたことにあります。

 無限絶対的実在界は、有限相対的人間の自由の究極的成立基盤であると同時に、有限相対的実在界に於ける自然生態環境と人間と社会文化環境という三者の究極的統一基盤です。したがって、有限相対的人間の自由が、その究極的成立基盤から遊離するとき、自然生態環境・人間・社会文化環境の三者が、それらの究極的統一基盤から遊離することになります。こうして、無限絶対の実在界から遊離して自己閉鎖的となった有限相対の実在界に於いて、自然生態環境と人間と社会文化環境の三者のあいだに対立・相剋が生じることになったわけです。近代科学技術文明は、無基盤の文明といえます。

 これが、近代科学技術文明が自然生態環境を破壊したことによって生じた人類の生態学的生存の危機といわれる事態の実相であり、総体的存立構造です。その原因は、啓蒙主義的・合理主義的な知の基礎を形成した近代自然科学が、時間・空間的な有限相対の実在界しか認識対象とせず、超時間・空間的な無限絶対の実在界を認識対象とする形而上学を排斥したことにあります。そのことについて下村寅太郎は次のように述べています。

 近代自然科学の本質的限界をこのようなものとしてとらえたうえで、下村は、「近代のPhysikに対するMetaphysikの新建設の問題は、現代においても未解決である。むしろ今日においていっそう切実な問題である。未だ解決せられざる現代の『問題』であるというべきである。」(前掲書P179)と述べています。私の著書『創造的生命の形而上学――近代科学技術文明の超克――』は、「形而上学の新建設」という未だ解決せられざる現代の切実な問題に全面的に取り組み、有限相対の実在界と無限絶対の実在界の総体の真実相を解明した統一的・総合的真理認識としての形而上学を体系的に展開したものです。

 現代自然科学の宇宙像に対応する新しい形而上学の形成

 ニュートン力学として体系化された近代自然科学は、アリストテレスの自然学および、それに対応する形而上学を斥けることで形成されました。ところが、相対性理論・量子力学といった現代自然科学は、啓蒙主義的・合理主義的な知の基礎を形成したニュートン力学を根本的に転換させた、新しい自然認識を形成しました。一般相対性理論と量子力学を融合させた量子宇宙論は、ニュートン力学の宇宙像と根本的に異なる宇宙像を確立しました。それは、時空すなわち四次元時空連続体としての宇宙です。

 この新しい宇宙像が形成されたことによって、科学がふたたび形而上学との内面的な連関性をとりもどす可能性がうまれました。古代・中世の宇宙像およびそれに対応する形而上学、形而上学を排斥した近代自然科学の宇宙像に対して、現代自然科学の宇宙像に対応する新しい形而上学を形成することが、今日の切実な思想課題であるということができます。

 この課題の解決は、有限相対の実在界の存在構造を物理学の立場から解明した現代自然科学の四次元時空連続体の宇宙像を基礎として、自然生態環境・人間・社会文化環境の存在構造を解明した知を、超時空的な無限絶対の実在界を解明した知と統合することによって果たされます。

 それは、有限相対的実在界の自己完結性・自己閉鎖性を解体し、自然生態環境・人間・社会文化環境を、それらの究極的統一基盤に結びつけ、三者の対立・相剋を根本的に克服する可能根拠を明らかにすることです。それは、また、有限相対的人間が、その自由を、究極的成立基盤に結びつけ、自然生態環境・社会文化環境と自己の調和を実現することを明らかにすることでもあります。

 今日において、科学と形而上学が内面的な関連性を回復することは、「全学問が体系性をもつことである。全学問を一貫する論理があり、それによって組織的体系をもつことである。」(下村・前掲書)として、究極的実在を第一原理として全実在界の具体的な存在構造を解明した統一的・総合的な知を形成することにほかなりません。近代科学技術文明を支えた啓蒙主義的・合理主義的な知の根本的転換は、このようなかたちで遂行されます。

 近代の人間は、自由を獲得し、ヒューマニズムを形成しました。しかし、啓蒙主義的・合理主義的な知の本質的限界のゆえに、自由は、根拠なき放恣な自由となり、ヒューマニズムは、自然生態環境・社会文化環境を一方的に支配し、従属させる人間中心のヒューマニズムとなりました。全実在界の具体的な存在構造を解明した統一的・総合的な知を形成することは、西洋近代がうみだした偉大な成果を継承するとともに、その本質的な限界を克服して、真の自由・ヒューマニズムを確立することを可能とするものです。

 新プラトン主義の形而上学を継承したルネッサンスのヒューマニズム

 そのことをより具体的に明らかにするために、科学が形而上学との内面的連関性を喪失する以前の、形而上学と内的に結びついていたルネッサンス時代のヒューマニズムを検討してみる必要があります。ルネッサンスは、中世キリスト教世界を否定して、古典・古代、すなわちギリシャ・ローマの古典文学や哲学に復帰し、それを再生・復興させることで新しい社会を形成しようとした思想運動でした。それは、ギリシャ・ローマの人間像を理想・モデルとして、神学・封建制の束縛から人間の解放を実現することをめざしました。そこに、近代ヒューマニズムの精神が成立しました。

 ルネッサンスのヒューマニズムは、哲学の面では、中世のスコラ哲学から新プラトン主義の哲学にまで復帰し、それを再生させることで形而上学的に体系化されました。この場合の新プラトン主義の哲学とは、ローマ帝政時代の哲学者プロティノスの形而上学として体系化されたものです。ここで、その基本構造がどのようなものであるかをみてみたいと思います。

 プロティノスの形而上学における究極的実在・第一原理は、一者と呼ばれています。それは、すべてのものの根源であり、自らのうちから流れ出て宇宙万物となるとともに、自らのうちへと還帰します。そこに、「存在の諸段階」が成立することになります。それは、次のようなものです。

 @最深層には、一者が存在します。A次の段階は、ヌースあるいはイデア界です。この二つが、超時間・空間的な無限絶対の実在界です。B第三の段階は、宇宙霊魂です。C第四の段階は、自然です。Dそして、最表層が、質料です。このBCDが、時間・空間的な有限相対の実在界です。一者は、宇宙万有の彼岸にある究極的実在であるとともに、他のすべての段階に顕現しています。したがって、存在の五つの段階すべてにわたって、一者であるわけです。

 人間の霊魂は、宇宙霊魂に属していますが、自らを純化し、高めることによって、ヌースに達し、さらに一者まで帰ってゆき、それと合一することができる、とされています。ここでは、中世の神学のように、人間は、神の被造物である有限相対的存在として、自己を超越する無限絶対的存在としての神に隷属するものとしてはとらえられてはいません。人間は、自覚的に自己を高めることによって有限相対の実在界から無限絶対の実在界へと超越し、ついには究極的実在である一者にまでのぼることのできる存在とされています。その事態は、より具体的には次のようなことです。

 イタリア・ルネッサンスの思想家フィチーノは、このような新プラトン主義の思想を継承しました。フィチーノは、プロティノスと同じように、最深層から最表層へ至る存在の諸段階を五つに区分しています。それは次のようなものです。

 @一者である神、A知性である天使、B霊魂、C質、D延長物としての物体。

 @の一者とAの天使は永遠的であるとされていますから、超時間・空間的な無限絶対の実在界ということができます。それに対して、Cの質とDの物体は、時間・空間的な有限相対の実在界です。そして、Bの霊魂は、超時間・空間的な無限絶対の実在界と時間・空間的な有限相対の実在界をつなぐ、「第三の中間的存在」です。その霊魂の機能をもっとも完全なかたちで発揮するのが、人間の霊魂です。人間の霊魂は、有限相対の実在界にも無限絶対の実在界にも向けられています。人間の霊魂は、自覚的に一者に向けて自己を高めてゆき、一者との究極的合一を実現します。

 このようなかたちで新プラトン主義の形而上学を継承したルネッサンスのヒューマニズムは、究極的実在である一者との合一を実現するところに「人間の卓越性と尊厳性」を見いだしました。そのことについて、ルネッサンス研究家クリステラーは次のように述べています。

  ルネッサンスのヒューマニズムは、このようなかたちで形而上学との内面的連関性を有していました。すなわち、そのヒューマニズムは、究極的実在と人間の合一という事実を成立基盤とするものであった、ということができます。

  究極的実在と人間の合一という事実に立脚した形而上学の形成

 ところが、啓蒙主義的・合理主義的な知の基礎を形成した近代自然科学は、中世の形而上学を否定すると同時に形而上学そのものを排斥してしまいました。したがって、ヒューマニズムは、ルネッサンス期における形而上学との内面的連関性を喪失してしまいました。こうして、究極的成立基盤から遊離したヒューマニズムは、先述したような自然生態環境・社会文化環境を人間が一方的に支配し従属させる、人間中心のヒューマニズムにならざるをえませんでした。

 したがって、ヒューマニズムと形而上学の内面的な連関性をとりもどすことが、現代の切実な課題となります。すなわち、ルネッサンスのヒューマニズムと内的に結びついていた形而上学を継承し、現代的なかたちで再生させることが必要だということです。それが、啓蒙主義的・合理主義的な知を超克した新しい形而上学を形成するということにほかなりません。

 形成されるべき形而上学の究極的成立基盤は、先述した究極的実在と人間の合一という事実にあります(これが、ルネッサンスの形而上学から継承すべき核心的内容です)。無限絶対の実在界に於ける究極的実在と人間の一体化と両者の調和という事実――そこに、有限相対の実在界に於ける人間が自由な行為によって、自然生態環境・社会文化環境と自己の一体化と三者の調和を実現することを可能とする究極的基盤が存在します。

 究極的実在と一体化した人間は、そこから超時間・空間的な無限絶対の実在界と時間・空間的な有限相対の実在界の総体を観ることによって、全実在界の真実相を解明した形而上学を形成することができます。究極的実在と人間の合一という事実は、全実在界の調和の究極的基盤であると同時に、全実在界の真理の究極的基盤です。そこに立脚して形成される形而上学の基本構造がどのようなものかを、もう少し具体的にイメージしてもらうために、フィチーノが継承したプロティノスの形而上学を「一者の形而上学」と呼んでいる井筒俊彦の説明をみてみたいと思います。

  この場合の宇宙的生とは、単なる生物的生命、すなわち物質の高次の組織形態としての生命ではありません。一者とは、人間の霊魂が感性的世界を超越することによってはじめてそれと合一することのできる実在です。物質を超える創造的エネルギー、生物的生命を超える創造的生命――それが、宇宙的循環を展開する究極的実在としての宇宙的生です。

 一者と人間の合一が実現しているとき、それを究極的基盤として、全宇宙のうちで創造的エネルギーの上昇と下降の運動が展開してゆきます。そして、それと一体的に、全人間のうちでも同じ創造的エネルギー・生命(人間の内部で働く宇宙的生命の創造的エネルギー――井筒俊彦『意味の深みへ』)の上昇と下降の運動が展開してゆきます。こうして、全宇宙と全人間が一体化し、そこに創造的エネルギー・生命が貫流・遍満することになります。それが、「一者即一切」として、唯一の実在が遍在する全実在界の基本構造です。

  実在体験における叡智的直観にもとづく創造的生命の形而上学

 『創造的生命の形而上学』は、ルネッサンスのヒューマニズムが復帰したプロティノスの形而上学にもう一度復帰するとともに、それを現代的に再生させることで、全実在界の存在構造を具体的に解明したものということができます。

 創造的エネルギー・生命は超物質的存在ですから、感覚的にとらえることはできません。しかし、人間が究極的実在と一体化し、それと直接触れる実在体験が成立するとき、両者を貫流し一つに結びつける創造的エネルギー・生命を、超感覚的な叡智的直観によって直接捕捉することができます。そして、それを究極的基盤として、ともに無限絶対的次元と有限相対的次元の統合態である世界の総体と人間の総体を貫流し、両者を一つに結びつける創造的エネルギー・生命を直接捕捉することができます。

 そして、その超感覚的事実を分析することによって、全実在界の存在構造を解明した形而上学を形成することが可能となります(したがって、この形而上学は、決して経験をぬきにして、第一原理を独断的に設定し、そこからすべてを演繹する――という空虚な思弁ではなく、あくまでも実在体験にもとづくものです)。井筒俊彦が、神から出でて神に還る雄大な宇宙的循環過程を、人間は観照的生の上昇・下降の循環によって自ら主体的に体験することができる、と述べていることは、このようなかたちでとらえ返すことができます。

 啓蒙主義的・合理主義的な知は、経験を感覚的経験に、直観を感性的直観に限定した、その狭さのために、全実在界に貫流・遍満する創造的エネルギー・生命をとらえることができず、全実在界の真実相を覆い隠しました。実在体験における叡智的直観にもとづく創造的生命の形而上学は、その真実相を明らかにすることを可能とするものです。

 この形而上学は、全実在界の「存在の諸段階」を深層から表層へ向けて四つに区分します。それは次のようなものです(『創造的生命の形而上学』第1章参照)。

 @第一の次元――絶対無の実在界。ここでは、究極的実在である絶対無と人間を、同一の創造的エネルギー・生命が貫流し、両者を一つに結びつけ調和を実現します。

 A第二の次元――対自的絶対無の実在界。ここでは、対自的絶対無と人間を、同一の創造的エネルギー・生命が貫流し、両者を一つに結びつけ調和を実現します。

 この二つの次元が、超時間・空間的な無限絶対の実在界です。

 B第三の次元――相対的絶対無の実在界。

 C第四の次元――普遍的本質の実在界。

 この二つの次元が、時間・空間的な有限相対の実在界です。

 この実在界に於いては、それぞれが二つの次元を有する自然生態環境と人間と社会文化環境を同一の創造的エネルギー・生命が貫流し、三者を一つに結びつけ調和を実現します。同一の創造的エネルギー・生命が貫流・遍満する全実在界は、それぞれに調和を実現した多次元が、相互に調和する、という構造を有しています。

 「絶対無の形而上学」としての西田哲学の継承・展開と人間の真の自由

 究極的実在を絶対無と規定したのは、西田哲学の実在観を継承したものです。西田幾多郎は、『一般者の自覚的体系』において、「存在の諸段階」を深層から表層に向けて四つに区分しています。それは次のようなものです。

 @絶対無の場所、A叡智的一般者、B自覚的一般者、C判断的一般者。

 自覚的一般者に於いてある意識的な自己は、自己の底に超越することによって叡智的一般者に於いてある叡智的自己に至り、叡智的自己が自己の底に超越することによって、絶対無の場所に於いてある真の自己に至ります。

 この西田の体系を、宇宙霊魂に属する人間の霊魂がその根底へ下ることでヌース(叡智)と合一し、さらにその根底へ下ることで一者と合一するというかたちで自己を高めてゆく――プロティノスの「一者の形而上学」と対応させてとらえ返すことによって、「絶対無の形而上学」としての西田哲学の現代的意義を確認することができます。西田の形而上学からプロティノスの形而上学にまで還るとともに、それから西田哲学をとらえ返すことによって、西田哲学の可能性を全面的に実現することが可能となります。「創造的生命の形而上学」は、「絶対無の形而上学」を継承・展開したものということができます。

 「創造的生命の形而上学」において、全実在界の第一原理・究極的実在とされている絶対無は、他のいかなるものにもに依存せず、他のいかなるものにも制約されず、自らのうちに自己の根拠を有しています。それは、他のもののうちに在るものではなく、自らに於いて自らに由って自らとして在る自由な実在です。人間は、自己を自覚的に高めてゆくことで、その深底に至るということは、プロティノス、フィチーノ、西田の形而上学で確認しました。(西洋近代において、それらに対応するものとして、意識が感覚的確信から出発して、知覚、悟性、自己意識、理性、精神、宗教と段階的に上昇・純化してゆき絶対知に至る――というヘーゲルの『精神現象学』をあげることができます。)

 その人間は、実在界の最深層に於いて、自由な実在である絶対無と自己を自覚的に一体化させることによって、自らに於いて自らに由って自らとして在る自由な実在です。ここでは、それぞれが自由な実在である絶対無と人間が、それぞれの絶対的独自性・独立性を保ったままで、一つに結びつきます。

 ここに、人間の根源的自由が成立します。@絶対無の実在界に於ける、それぞれが自由な実在である絶対無と人間の一体化の事実を究極的な成立根拠として、A対自的絶対無の実在界に於いて、対自的絶対無と自己を一体化させる人間の自由が成立し、B相対的絶対無の実在界とC普遍的本質の実在界に於いて、自然生態環境・社会文化環境と自己を一体化させる人間の自由が成立します。絶対無と人間の一体化の事実は、人間の自由の究極的な成立基盤です。

 こうして、人間が有限相対の実在界を無限絶対の実在界へと超出し、絶対無との一体化を実現することは、有限相対的人間の自由を、対自的絶対無の実在界に於ける人間の自由を介して、絶対無の実在界に於ける無限絶対の実在的人間の自由に結びつけることである、という関係が成立します。それによって、有限相対的人間は、自由な行為によって自然生態環境・社会文化環境と自己の調和を実現することが可能となります。それは、有限相対的人間の自由と無限絶対的人間の自由が統合されることによって、有限相対の実在界に於ける自然生態環境と人間と社会文化環境が、三者の究極的統一基盤と結びつけられ相互の調和を実現することでもあります。

 中世の神への背反の自由でも、近代の根拠なき放恣な自由でもない、人間の真の自由は、このようなものとして確立されます(超越的絶対神の支配から解放された有限相対的人間の自由は、その究極的成立基盤と結びつけられることで、真の自由となります)。

  人間の生と全実在界の運動の究極目的である創造的生命の一体感

 絶対無は、すべての個物の根源であり、それと一体化した人間は、すべての個人の根源です。両者の一体化の事実を究極的基盤として、それぞれが無限絶対的次元と有限相対的次元の統合態であるすべての個物・個人が成立します。すべての個物の根源と一体化したすべての個人の根源は、同時に、すべての個人の自由の究極的成立基盤です。それぞれに四つの次元を有するそれぞれの個人が、自由な行為によって、それぞれが四つの次元を有する他のすべての個物・個人と自己を自覚的に一体化させるものどうしとして働きあうことによって、すべての個物・個人が創造的エネルギー・生命によって一つに結びつけられ相互の調和を実現します。

 このとき、創造的エネルギー・生命が、絶対無の実在界から対自的絶対無の実在界へ、そこから相対的絶対無の実在界へ、そしてさらに普遍的本質の実在界へと流れ出てゆくとともに、そこから段階的に絶対無の実在界へと還流してゆく――という宇宙的循環が、すべての個物・個人のうちで展開されてゆきます。

 他のすべての個物・個人と自己を自覚的に一体化させたそれぞれの個人は、この事態を自覚することができます。すなわち、それぞれの個人は、自己のうちに貫流・充満するのと同一の創造的エネルギー・生命が他のすべての個物・個人のうちに貫流・充満しており、それによって他のすべての個物・個人と一つに結びつけられている、という自己の生の真実相を自覚することができます。そして、それぞれの個人は、この創造的生命の一体感に歓喜を覚えます。それが、人間の生の究極目的であると同時に、全実在界に於ける創造的エネルギー・生命の運動の究極目的ということができます。

 全実在の真実相を自覚することのできない啓蒙主義的・合理主義的な知に支えられたために、近代科学技術文明は、他のすべての個物・個人と一体的な創造的生を生きる喜びを、それぞれの個人にとって味わい難いものとしてしまいました。

 近代科学技術文明が、自然生態環境と人間と社会文化環境のあいだに深刻な対立・相剋をひきおこしたということには、すでに言及しました。そのことの原因は、人間の自由が、その究極的成立基盤から遊離した根拠なき放恣な自由になったことにありました。そのことを個人のレベルでとらえ返せば、個人の自由が放恣な自由になるということを意味しています。

 したがって、自然生態環境と人間と社会文化環境のあいだに対立・相剋が生じているとき、同時に、すべての自然的個物と人間的個人と文化的個物のあいだに対立・相剋が生じることになります。それぞれの個人にとって、すべての個物・個人と一体的な生を生きる、生きる喜びが味わい難いものとなるとは、そのような事態です。

 このような事態を根本的に転換させることによって、近代科学技術文明を超克した新しい文明を創出することが、はじめて可能となります。新しい文明は、人間の生の究極目的、全実在界に於ける創造的エネルギー・生命の運動の究極目的を実現するものでなければなりません。

 啓蒙主義的・合理主義的な知は、先述した究極目的を自覚することができません。そのため、有限相対的人間の生は、その究極的基盤から遊離して自己目的化し、自然生態環境と社会文化環境を、その実現のための手段として従属させることになりました。

 先行する形而上学を継承する「領受」と真の意味を再生する「顕開」

 ここに、全実在界の運動、人間の生の究極目的を自覚することのできる創造的生命の形而上学が形成されるべき現実的理由が存在します。それが、「形而上学の新建設」という時代的要請に応えることにほかなりません。

 もちろん、形而上学の新建設といっても、従来の形而上学とまったく無関係に新しいものを形成するということではありませんし、また、そのようなことができるわけがありません。これまでみてきたように、ルネッサンスの思想家は、中世を乗り越えるために、古典・古代に復帰し、その形而上学を継承・再生させることで、神学のくびきから人間を解放し、ヒューマニズムを確立しようとしました。ところが、その後の科学革命によって形成された自然科学は、形而上学を排斥してしまいました。そのため、自然科学が基礎を形成した啓蒙主義的・合理主義的な知に支えられた近代科学技術文明が現代の危機をひきおこすことになりました。

 だとすれば、近代の総体を根本的に乗り越えてゆくためには、ルネッサンスの思想家が復帰した古典・古代にまでもう一度帰り、その形而上学を継承し、それを現代的なかたちで再生させることが必要となります。もちろん、このことには、ルネッサンス期の形而上学、さらにはルネッサンス以降の近代の形而上学の継承と再生も含まれます。先行する形而上学を領受するとともに、その形式化・固定化を打破し、真の意味を顕開する。新しい形而上学の形成は、「領受顕開」(金子大栄)によって実現されます。

 ルネッサンスの思想家は、西洋の古典・古代に復帰しましたが、人類は二千数百年前、ギリシャだけでなく、インド、中国においても精神革命をなしとげました。すなわち、人類は、ほぼ同時期に、これら三つの地域で、呪術・神話から脱却して哲学・形而上学を形成するに至ったのです。

 精神革命をなしとげた思想家たちは、全実在界の根源に於いて究極的実在と内面的に交わり、それを叡智的直観によってとらえました。そして、この直観にもとづいて、全実在界の真実相を体得・体認しました。ギリシャにおけるイデア、インドにおけるヴェーダーンタ・ウパニシャッドのブラフマン、仏教の空・ダンマ、中国における儒教の天、老荘の道などは、同一の究極的実在を、それぞれの伝統的な思想的文脈で表現したもの、ということができます(『創造的生命の形而上学』第3章第1節参照)。こうして、ギリシャ、インド、中国において、それぞれの究極的実在を第一原理とする独自の形而上学が形成されました。

 ギリシャの形而上学は、その後、キリスト教と結びつき、西洋独自の形而上学として継承・展開されてゆきます。インド、中国においても、独自の形而上学が継承・展開されてゆきます。イスラームにおいても、イスラーム教と結びついた独自の形而上学が形成され継承・展開されてゆきます。

  究極的実在が力を失った近代の人間の生の自己目的化

 しかし、近代以後は、西洋の啓蒙主義的・合理主義的な知に支えられた近代科学技術文明、すなわち、西洋に起源をもつ文明が全地球的規模に拡大してゆきました。その結果、世界中のあらゆる地域の人々の生活は、形而上学との内的連関性を失った啓蒙主義的・合理主義的な思考によって制御されたものとなってゆきます。そうなると、人々の生活は、その究極的成立基盤から遊離してゆく傾向を強めます。そのことについて、西谷啓治は次のように述べています。

  ここであげられている神、天、自然、宇宙の理、道、ロゴスなどは、これまで言及してきた全実在界の第一原理としての究極的実在です。その究極的実在が、もはや人間の行為や思考を動かす力を失ったために、人間中心主義、人間の自己目的化、すなわち、これまで言及してきた人間中心のヒューマニズム、人間の生の自己目的化が生じた、というのです。ここで指摘されている自我中心主義とは、ユングが、現代人の自我は、全人格の中心である自己(本来的自己)から遊離している、と心理学の立場から分析しているのと同一の事柄です。

 これは、有限相対的存在としての諸個人の生が、その根源、すなわち(すべての個物の根源である)絶対無と一体化した(すべての個人の根源である)人間から遊離したことによって、ひきおこされた事態です。そこに、ニーチェが最高価値の価値喪失と規定したニヒリズムが生じ、諸個人の生が価値を喪失し、虚無化・空洞化してゆきます。

 このような事態が、全地球的規模で生起したのです。ここに、近代科学技術文明がひきおこした全人類的な危機の実相があります。

  現代における「形而上学ルネッサンス」による人類の思想史の転換

 だとすれば、この現代の危機を克服するためには、古代の精神革命の時代のギリシャ、インド、中国の思想にまで復帰するとともに、それ以後、東洋と西洋において継承・展開されてきた形而上学を、全実在界の最深層に於ける実在体験を共通の基盤として統合し、現代的なかたちで再生することが必要となります。このことは、東西のさまざまな形而上学を、同一の究極的実在の直接経験にもとづいて全実在界の真実相を解明したもの、としてとらえ返すことによって可能となります。(したがって、近代の啓蒙主義的・合理主義的な知から古代の思想へ復帰することは、同時に、有限相対の実在界から全実在界の根源へ還帰することでもあります。)

 すでに言及したように、プロティノスの形而上学を「一者の形而上学」と規定した井筒俊彦は、『大乗起信論』における究極的実在である「真如」について、「プロティノスの描く『一者』の形姿は、そのまま、ただちに以て『起信論』の『真如』の描写とするに足る。」(『意識の形而上学』P47)と述べています。このことは、東洋と西洋の形而上学を、いま述べたようなかたちで統合しうることを示しています。

 ところで、現代の自然科学が、啓蒙主義的・合理主義的な知を基礎づけた近代自然科学のそれとは根本的に異なる宇宙像を形成したことによって、科学がふたたび形而上学との内的連関性をとりもどす可能性がうまれたということには、すでに言及しました。そのことに関して井筒俊彦は、現代自然科学の世界像の「基本構造には、伝統的な東洋哲学の世界像に酷似するところがあり、西洋の物理学者のなかにも、もうその事実に気づいて、それを自分の理論のなかに組み入れようとしている人がある。」(著作集第9巻P42)と述べています。

 東洋の伝統的な形而上学は、現代自然科学と結びつくことによって現代的なかたちで再生し、新しい形而上学の形成に大きな思想的貢献をすることができます。そして、そのことは同時に、近代自然科学が斥けた西洋の伝統的な形而上学を、現代自然科学と結びつけることを可能とすることでもあります。

 こうして、先述した思想の「領受顕開」が、全人類的思想史の規模で行なわれることになります。それは、いわば、現代における「形而上学ルネッサンス」ということができます。最初に、現代は人類史の大きな転換期であるといいましたが、現代は、人類の思想史の大きな転換期でもあるといえます。人類は、新しい精神革命あるいは思想革命の時代を迎えている、といえます。

 したがって、新しい形而上学の形成とは、狭いアカデミックな哲学の世界の一分野の課題などでは断じてありません。それは、一人ひとりの人間が、自己の生を、有限相対的次元への閉鎖性から開放して、その究極的成立基盤に結びつけ(統合された全体的人格の実現)、他のすべての個物・個人との創造的生命の一体性を実現する――という人格の根本的変革、あるいは人間の根底からのつくりかえ(井筒俊彦)にかかわる切実な課題です。

  創造的生命の一体性を実現する共同体と多元的・重層的な協働関係の形成

 すべての個物・個人の創造的生命の一体性の究極的成立基盤は、絶対無の実在界に於いて絶対無と人間が創造的生命によって一つに結びつけられた両者の一体化の事実にあります。ここに於ける絶対無に於いては、すべての個物が一つに融合しており、それと自覚的に一体化した人間に於いては、すべての個人が一つに融合しています。これが、すべての個物・個人の究極的な統一基盤です。

 対自的絶対無の実在界に於いては、対自的絶対無とそれに自覚的に一体化した人間が、ともに全体と個の調和、個と個の調和という構造を有しています。これは、二つの次元からなる有限相対の実在界が、それを自己のうちに映す「原型」です。このような原型を映すことによって、有限相対の実在界に於いて、すべての自然的個物・人間的個人・文化的個物の調和が実現します。

 全実在界の真実相を自覚した人間は、この原型の構造を観て、それを有限相対の実在界に映すために、共同体を自覚的に形成します。すべての個物・個人の創造的生命の一体性を実現する倫理的共同体、それを可能とならしめる条件としての、政治・経済・法的等の共同体といった諸制度・組織が、それです(『創造的生命の形而上学』第3章参照)。それによって、諸個人が、根源的自由に基礎づけられた自由な存在として協働することを通じて、すべての個物・個人が調和を実現することが可能となります。

 したがって、それは、すべての個物・個人のあいだの対立・相剋を内蔵した既成の共同体、制度・組織(『創造的生命の形而上学』第2章参照)の根本的な変革によって、はじめて可能となります。先述した人格の根本的な変革と、既成の共同体、制度・組織の根本的な変革は、不可分一体的なものとして遂行されます。

 現在、有限相対の実在界に於ける人間生活のさまざまな領域・分野には、これまで言及してきた対立・相剋を共通の原因とするさまざまな矛盾・問題が生じており、その解決をめざすさまざまな実践・運動が展開されています。それらの実践・運動を担う諸個人は、彼らが解決しようとしている矛盾・問題が生じてきた根本的な原因をしっかりと把握し、すべての個物・個人の一体性を実現しうる共同体という理念を、それぞれの領域・分野に実現すべく、既成の共同体、制度・組織を変革してゆくことが必要です。諸個人が、それぞれの領域において、自己の人格と制度・組織の根本的変革を一体的に実現することをめざして、協働してゆかねばなりません。

 共通の根拠から生じるさまざまな矛盾・問題の解決をめざすさまざまな実践・運動が、共通の理念の実現をめざして、多元的・重層的な協働関係を形成してゆくことによって、近代科学技術文明、近代総体を根本的に転換することが可能となります。


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