東西の形而上学の統合による「世界哲学」としての絶対無の形而上学の形成
それを全人類一人ひとりがわがものとして獲得し、<本来的自己>を実現しなければならない
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近代科学技術文明は、発展の結果、自らの存立基盤である自然生態環境を破壊し、人類の生物的生命の存続の危機という結果を惹き起こした。この事態に対して、人類は生き延びるためのさまざまな努力をしている。すなわち、自然と共生できる新しい生活のあり方、自然生態環境と調和した新しい文明を創りだそうとして、全地球的−地域的な取組みが行なわれている。だが、人類は、なお、自らが直面している危機の深刻さを真に自覚するには至っていない、と言わざるをえない。
近代科学技術の限界の克服方向とそこに潜む楽観論
確かに、人間が科学技術によって、自然を一方的に支配した結果、自然生態環境の物質・エネルギー循環を撹乱したことが科学的に解明され、それに対処するための環境技術の開発が進められている。人々は、自分の日常生活そのものが、環境を破壊し、自らの生命を危うくするとともに全人類の生命の危機につながる、ということを自覚しつつある。そして、人々は、そのような自覚に基づき、日常生活の全領域の見直し・変更に真剣に取り組んでいる。
にもかかわらず、そこには、なお、自然の支配による社会の無限の進歩という楽観的な見方と共通する一種の楽観論が残っているのではないか。環境保全のために、グローバルな取り組みの必要性が強調され、それに向けて、世界各国の協調体制がつくりあげられつつある。にもかかわらず、先進国・途上国がともに掲げる経済発展という目標のために、それらの取組みは十分な成果をあげているとはいえない。そのことの原因を、単に各国の政治・経済的対立といったことに求めてよいのであろうか。そこには、科学的知性と技術的意志に基づく人間の自由な行為によっては制御することのできない力が働いているのではないか。
人間は、自然生態環境・社会文化環境と自己との相互作用を自由意志によって制御することで、その多様な欲望を充足させる。そのことは、人間が人間であるかぎり、永久にに変わらない本質的なあり方である。近代の科学技術は、その人間の自由を飛躍的に高めた。しかし、近代以降の人間の生のうちには、人間の自由意志によっては、とどめることのできない無限衝動が働いている。人間の生が、無限衝動と化したのである。
近代の科学技術に対しては、次のような批判がなされている。近代科学は、自然を、因果法則に従って、機械的に運動するものとして捉えた。そして、そのような自然認識に基づく技術によって自然に働きかけたために、自然環境の破壊を招いた。この近代科学技術の限界を克服するためには、近代科学科を、生命系を対象とする科学的知識(生態学=エコロジー)に包摂するとともに、その認識に基づく技術によって自然へ関わってゆかねばならない(このことは、自然科学のみならず、社会科学=経済学の分野についても指摘されている)。
だが、それによって果たして、無限衝動と化した人間の生を、自然生態環境・社会文化環境と調和した生へと根本的に転換できるのであろうか。そこには、先述したある種の楽観論があるように思える。
そのような見方に対しては、次のような反論がなされるであろう。では、それ以外にどのような危機克服の方法があるのか。人間は、それ自身生物の一つの種として自然生態環境のうちにありながら、同時に意識と意志を持つ存在として、自然生態環境を超え出て、それを自由な行為によって改変し、社会文化環境を形成する。そして、人間は、二つの環境と自己との相互作用を自由な行為によって媒介することで、その生を実現してゆく。それが、人間に与えられた最大限の可能性ではないのか。
だとすれば、自然生態環境・社会文化環境と自己の対立・相剋を、三者の調和へと転換させる――という現代の人間に与えられた最大の共通目的の実現のために、一人ひとりの人間が、自己の生活の全領域において行為しなければならない。それが、現代人の最大の責務ではないのか。
人間にそれ以上のことを求めるのは、結局、近代の人間が確立した自由・自立を否定し、超自然的な力に頼ろうとすることになるのではないのか。これは、近代合理主義的な思考によって自らの生を規制している現代の人間が抱く当然な疑問である。この疑問に、いかに答えるのか。これは、近代科学技術文明をめぐる最大の難問である。
近代科学技術文明の根底に潜むニヒリズムと人間の生の無意味化・無価値化・無目的化
この疑問を解決するためには、ここで、近代科学技術を基礎づけた近代科学の自然観・宇宙観の特徴が、どのようなものであるかを見ておく必要がある。古代・中世の宇宙観の特徴は、生成変化する宇宙内の自然万有を動かす永遠不変の形而上学的実体の存在を認めたところにあった。すなわち、宇宙内の自然万有は、その根底の形而上学的実体を目的として生成変化してゆくもの、とされたのである。
近代の科学的宇宙観は、形而上学を排斥した。すなわち、自然現象を、宇宙の外にある形而上学的実体・原因から説明するのではなく、あくまでも、それに内在する法則に従って運動するものとして捉えたのである。
科学的宇宙観に立脚しているかぎり、宇宙の運動そのものは、無目的的である。それは、科学的宇宙観が、宇宙の究極的目的因を否定することによる。究極的目的因に根拠を置いているとき、宇宙はそれ自体の内に目的をもち、宇宙の存在と運動の意味と価値はその目的を達成することにある。したがって、宇宙の究極的目的因は、同時に意味と価値の究極的な根拠である。それが否定されることによって、無目的な宇宙からは意味と価値が剥奪される。しかも、科学は、感覚によって捉えられる物質的存在だけを認識対象とする(超感覚的な形而上学的実体の否定)。こうして形而上学を排除した科学的宇宙は、意味も価値ももたず非情な物質的運動を展開してゆく存在となった。
この広大な宇宙の一点である地球における人間は、目的意識的活動を行ない、自己の生に意味と価値を賦与する存在である。しかし、科学の立場からすれば、人間の生とその意味と価値、目的意識的活動も、結局は広大な宇宙の無目的・無意味・無価値な物質的運動に還元される存在でしかない(物質の高次の組織形態としての生命・意識・意志)。これは、科学が形而上学を排斥し、超感覚的実体の存在を否定したことによるものである。
科学が否定した超感覚的実体の場所には、虚無の深淵が開かれた。宇宙の運動と、そこにおける人間の生は、根拠を失ったのである。根拠の虚無の深淵。それによって、宇宙の運動、人間の生の目的・意味・価値は、無化されることになったのである。
それは、近代におけるニヒリズムの到来にほかならない。近代科学は、自己が科学的宇宙像を形成することによって、ニヒリズムを到来させたにもかかわらず、そのことを自覚することができない。そして、近代合理主義的思考は、近代科学技術文明の根底に潜むニヒリズムを自覚することができない。ここに、近代合理主義の本質的限界が存在する。このことに無自覚なまま、機械的自然観を生態学的自然観に転換させるさせることで、自然生態環境・人間・社会文化環境の調和を実現しようとしても、決してそれを実現することはできない。
近代的人間の自由は、なお根源的なものではない。その根底に虚無の深淵が存在している無−根拠の自由なのである。そのことは、人間が、自由な行為によって、自然生態環境・社会文化環境と相互作用する自己の生を制御しようとしても、その生が無限衝動(人間が欲望を充足させようとする無限衝動)として現われ、その衝動を自由な行為によって制御できない、ということに現われている。
生の衝動の無限化と人間を駆りたてる呪縛された自由
近代合理主義は、超感覚的実体を否定することで有限相対的人間の自由を確立した。しかし、その人間の生が、自分の自由によって制御できないということが、近代合理主義がいくら否定しても超越的実在界が存在しているということを、事実として証明している。人間を動かす無限の衝動は、虚無の深淵から発現してくるのである。合理主義は、超感覚的実在界を否定したから、そこから発現してくる力を捉えることができず、したがってそれを制御することができない。
この力は本来、自然生態環境・社会文化環境と自己を媒介する人間の自由の行為と、それによって実現される人間の生を、超感覚的実在界の究極的基盤に結びつける力である。しかし、近代合理主義は、そのことを認識することができず、そのようなかたちで、その力を制御できない。
そのため、その力が無限衝動となって噴出してくるのである。そして、この無限衝動が人間を駆りたて、人間の生態学的生存の危機、その死滅の危機を惹き起こすまでに到ったのである。
……科学的知性や技術的意志の立場そのものも、それらを規制する何ものをもその背後にもたないために、つまりその背後に虚無をもつために、文字通り無人の野を行くような(むしろ、無神にして無人・無物なる野を行くような)、とどめる何ものもなしに果てしなく進む、無限な衝動の相を現わしている。もちろん、自然の未知なる領域のうちへ探求と発見の歩を一つ一つ進めること、自然の制約を克服して人間の力を拡大するための手段をつぎつぎに発明することは、人間の自由な仕業によるものではあるが、同時にその進歩には、人類が死滅でもしない限り人間自身の手では勝手にとめられないという性格が含まれている。しかし、進歩するように絶え間なく駆り立てられ、とめどなく進歩せずにはおられないということは、一種の呪詛にも似た運命的必然である。科学や技術の「進歩」のうちでは、自由を本質とする人間の存在は、自由へ呪縛されている相を現わす。上に無限衝動と呼んだものである。科学的知性や技術的意志のうちに働く人間の生は、「人間」の枠を破った非人間的な無限衝動の相を現わし、その知性や意志を駆りたてる。そこには、人間の自由な仕業の奥に運命的必然の相が現われてくる。……衝動は底のないところから発起するもののような、制止する反動力を本質的に含まぬもののような相を呈してくる。……生の衝動の無限化は、ここでも、自由が根底から運命の相を現わしつつ、呪縛された自由となってくること、自由が「業」の相を呈してくることである。要するに、近代の人間は、合理性を求める方向に於いても、非合理性に生きる方向に於いても、同様に深い「業」の相を露呈しつつある。(『西谷啓治著作集』第十一巻P168〜169)。
近代科学技術文明のもたらした危機は、このような深さにおいて捉え返されなければならない。
近代科学技術文明の根底には、その成立のときから虚無の深淵が開かれ、ニヒリズムが潜在している。しかし、人間は、そのことから目を外らし、楽天的に無限の進歩を追求してきた。その結果として、人間を死滅の危機に直面させた。そのような生に、はたしてどのような意味があるのか。人間の生は、根源的な疑いと化したのである。
この危機は,近代科学技術文明の根底に潜在してきたニヒリズムを、顕在化させることを促す。しかし、ニヒリズムは、近代に特有な現象ではない。それは、個人が自己の有限相対的な生を根底にまでつきつめてゆくとき、必ず突きあたらざるを得ない、いつの時代の人間にも共通する根本的な問題である。それが、科学技術文明がもたらした危機という現代的な状況によって、全人類的な問題として現われてきたのである。
生滅無常の感覚界と有無のパラドックス・生死のパラドックス
近代科学は、生成変化する自然現象の根底にある不変の実体を問うことをせず、生成変化する自然現象をそれ自身として解明する――という方法的的態度を確立した。生成変化する自然現象の世界は、時間、・空間的な有限相対の実在界である。それは、生滅無常の世界である。そこでは、新しい有の生じた刹那に、古い有は無に帰してゆく。
人間の日常的意識は、感覚的事物だけをを唯一の実在とし、感覚界を超越する実在界の存在を認めない。近代科学は、日常的意識の立場を方法的に精錬化したものであるがゆえに、時間・空間的な感覚界のみを認識対象としたのである。その感覚界とは、生滅無常の世界である。そこにおけるあらゆる存在事物は、常住不変性を持たない(仏教の無常観)。存在事物が生成変化するということは、生滅するということを意味する。すなわち、一瞬一瞬、滅することによって生じる、ということである。
その有は、無をその契機として含んでいる。すべての存在事物の根底には、虚無が潜んでいるのである。存在事物が有限相対的であるということは、その有が無を含んでいる、ということを意味する。
すべての存在事物は、一瞬一瞬、虚無の深淵にさしかけられたた存在である。すなわち、有限相対的存在は、それ自体のうちに絶対的根拠をもたないものとして、その根底には、虚無の深淵が潜んでいる。これは、存在事物が、ある時点で生じ、その有が一定期間続いた後、ある時点て滅して無に帰す、ということではない。その有が、先述したように、一瞬一瞬、虚無の深淵にさしかけられている、ということが有限相対的事物の実相である。その有は、無を裏にもった有てある。ここには、有無のパラドックスが存在している。
有限相対的存在としての人間も、そのうちに有無のパラドックスを含んでいる。すなわち、その有は、無という契機を含んでおり、虚無の深淵に差しかけられているのである。人間の場合、有無のパラドックスは、生死のパラドックスとして現われる。その生は、死に裏づけられた生である。
有限相対的事物は、一瞬一瞬、生滅する、生滅無常な存在である。人間の場合、一瞬前の自己が死ぬことによって新しい自己が生まれる。一瞬前の自己が死ぬことが、同時に新しい自己が生まれることである。人間の生が、一瞬一瞬、直面する虚無の深淵は、永遠の虚無、死の永遠性である。
先には、現代の人間は、生態学的生存の危機、すなわち、生物の一つの種としての人間の生命の危機に直面している、と言った。この場合の生死とは、一人の人間が、ある時点で誕生し、一定期間、意識を有する生命活動をした後、死に、その心身が消滅する、ということを意味する。
しかし、それは、あくまでも対象的に捉えられた生死的存在としての人間でしかない(むなしく物質から出て物質に帰る存在としての人間)。一瞬一瞬、死の永遠性に直面する人間、それが、有限相対的存在としての人間の実相である。自己の存在を自覚することのできる人間は、自己の生が一瞬一瞬、死にさしかけられていることを自覚することができる。そのことによって、人間は、有限相対的世界の、自己を含むすべての存在事物が、虚無の深淵にさしかけられている、ということを自覚することができる。
科学的宇宙観によれば、宇宙は、無目的・無意味・無価値の物質的運動を展開してゆく存在である。この広大な物質的宇宙の微小な一点である地球上における人間の生も、結局は物質に還元される。その生の意味・価値・目的も、宇宙の無目的性・無意味性・無価値性に還元される。それは、科学的宇宙観が、その根底に虚無の深淵を開いており、ニヒリズムを潜在させているからであった。有限相対の存在界を、そのような物質的宇宙として捉えるかぎり、現代の危機克服の根底的方向を明らかにすることはできない。
そのような科学的宇宙観に替えて、有限相対の存在界を、その根底に於いてすべての存在事物が一瞬一瞬、虚無の深淵にさしかけられているものとして捉えるとき、科学的宇宙観に基づく近代科学技術文明がもたらした危機を根底的に克服する方向を示すことができる。
生死のパラドックスの主体化とニヒリズムの主体化
人間は、有限相対の存在界の存在事物の自覚的尖端として、有限相対の存在界の根底=自己の根底に於いて、その生の一瞬一瞬、虚無の深淵に直面する。それによって、科学的宇宙観に潜在するニヒリズムは、人間よって自覚されたニヒリズムとなる。
日常的生活においてもニヒリズムは現われる。すなわち、何らかのきっかけで、日常的生活を支えていた既成の意味と価値が疑問と化し、確たる生の意味と価値を見いだし得ない、という事態が生ずるのである。しかし、この段階のニヒリズムは、なお生死のパラドックスの自覚には至り得ていない。
多くの場合、それは、例外的事態であったり、自己の生に空しさを感じるというペシミスティックな気分にとどまる。つまり、日常的生そのものを根本的に否定・転換させるだけの力を持ったものではない。だが、日常的生のうちにもはや、自己の生のいかなる手がかり・すがるべき何ものも存在しないという危機が生じるとき、日常的生は、虚無の深淵に直面する生に転換される。それは、対象的に捉えられた生死的存在としの自己から、主体化・実存化された生死的存在としての自己への転換である。ここでは、生の進行の終点に見られていた死が、生の直下に開かれた虚無の深淵となる。
有限相対的存在としての人間は、生死のパラドックスを含んでおり、その生は、一瞬一瞬、死に直面している。この生と死の関係は、それを外から眺めて捉えた客観的事実ではない。個人は、生と死のパラドックスを主体的に、わがこととして体験・体現しなければならない。そのとき、個人は、自己の一身において、相互に矛盾する生と死とが相互に分離できないかたちで結びついている、という絶対的危機の状況にあることを自覚する。
個人は、自己の存在が常に虚無の深淵に落ち込むという不安にさらされることになる。この生死のパラドックスを解消しないかぎり、不安を克服することはできない。にもかかわらず、個人は虚無の深淵から目を外らすことで自己の有のみを見ようとする。
すなわち、個人は、自己の存在の実相が、生滅無常のものであることから目を外らし、自己の生を常住のものと見做し、それに執着しようとする。それは、ニヒリズムの克服ではなく回避にすぎない。ニヒリズムの回避形態は、それだけではない。虚無の深淵に面した個人は、そこに超越的な絶対神のような存在を仮構し、それに依存することで、自己の生を肯定しようとする。それが、自己の有への執着にほかならない。このようなかたちでニヒリズムを回避することなく、生死のパラドックスを、わがこととして一身に体現し、自覚的に絶対的危機の主体に徹すること、すなわち、それぞれの個人がニヒリズムの主体となりきること――それ以外に、ニヒリズムの根底的克服はありえない。
人間の深層に巣くう生への執着の否定・転換
有限相対的存在としての個人は、時間・空間的世界の中にあって、各自的身体の いま・ここ を原点とする固有の時間・空間的パースペクティブを有している。すなわち、各個人は、全体的な時間・空間的世界を、いま・ここ を原点とする時間・空間的パースペクティブのうちに固有のかたちで映し出すのである。各自の いま は、過去と未来を含んでおり、ここ は、あらゆる そこ と結びついている。各人はこの時間・空間的なパースペクティブにおいて、さまざまな対象を認識し、それに働きかける。それによって、各自に固有の生の意味と価値が設定され、目的が実現される。
各自の いま・ここ は、全体的な時間・空間的世界と個人の生の接点である。それぞれの個人が、生死のパラドックスを経験する主体となるとき、すなわち、一瞬一瞬、いま・ここ において虚無の深淵に直面するとき、自己の存在を支えていた時間・空間的世界は、消失し、固有の時間・空間的パースペクティブも消える。すなわち、過去と未来は いま のうちに収縮し、あらゆる そこ は、ここ のうちに収斂してしまう。個人は、一切の対象との関係を失った存在として、いま・ここ の瞬間において虚無の深淵に面する。自己の生の一切の意味・価値・目的は、消滅する。自己の存在は、無化されるのである。それは、一瞬一瞬、いま・ここ において虚無の深淵に面することによって、自己が無化される、という虚無の体験である。そこに、時間・空間的世界のうちにも、その根底にも、自己の生を支えるいかなるものも存在しない、という事態が生じることになる。
自己は、自らの「所有」としてそれに「もたれ」かかり得るごとき何ものをももち得ずに、無化された自己として、単なる「ある」に還元される。……そこでは「われ在り」は、定位され得る如何なる在所をももたない、いわば宙にういているかのような「有」である。自己はその心身に於いて時間的・空間的な世界のうちで今ここに在りながら、その「今ここ」は時間上・空間上の限定を失っている。果てしない過去も果てしない未来も「今」のうちへ収縮し、あらゆる方向に於けるあらゆる方位が「ここ」へ収斂し、そしてその後に残った時や所の影すらも含まない虚無の開けのうちで、自己は今この局所にある(『西谷啓治著作集』第十一巻P192〜193)。
それぞれの個人が、固有の時間・空間的パースペクティブを有していることによって、相互に代替不可能な独自の生が成立する。しかし、自己が虚無の深淵に面する瞬間、無化された自己が、替わる者なき孤絶した「われ」として、いま・ここ にある。無化された自己と虚無の深淵が、いま・ここ に於いて接するという虚無の体験、生死のパラドックスの主体的体得――これこそが、絶対的な危機にほかならない。それは、自己の存在が、一瞬一瞬、虚無の深淵の中に呑み込まれようとする危機である。
近代科学技術文明の発展の結果、現在、全人類が直面している生態学的生命の死滅の危機は、この絶対的危機にまで深められ、それを一人ひとりの個人が、わがこととして、自覚し、主体的に引き受けることを決断することが迫られる。有限相対的存在としての人間のうちには生死のパラドックスが含まれているが、通常、人間には、死から目を外らし、生にのみ執着しようとする衝動がある。それは、有限相対的存在の根底の深淵に根拠を置いているがゆえに日常的な意識によっては捉え尽くすことができず、また日常的意志によっては否定し尽くすことのできない動きである。それを、一人ひとりの個人が、自己の深層まで極め尽くし、否定し尽くすこと――それが、虚無の自覚、主体化ということにほかならない。
すなわち、ニヒリズムを回避することなく、自らその主体となることである。近代科学技術文明は、その根底に虚無の深淵を潜在させているにもかかわらず、それを見ないために、人間の生は、無限衝動に転化する。虚無の深淵から無限衝動として噴出してくる力を制御するためには、まず、有限相対的存在としての人間の深層に巣くう生への執着を根本的に否定・転換させることが必要となる。
虚無の体験の実在・実存体験への転化と生死のパラドックスの解消
無化された自己が、いま・ここ で虚無の深淵と直面するとき、有限相対的存在としての自己は、生死の対立の彼方、虚無の深淵の彼方に、自己の無限・絶対の根拠を求めざるを得なくなる。すなわち、生滅無常の存在を超えて、常住不変の究極的根拠・永遠の実在を求めるのである。
しかし、有限相対の存在としての自己と無限絶対の実在とのあいだには、虚無の深淵が横たわっており、両者のあいだには、断絶が存在している。人間は、自力では、この断絶を超えて無限絶対の根拠に到ることはできない。しかし、自己が、生死のパラドックスを主体化し、極限にまで突きつめるとき、無限絶対の実在が、虚無の深淵の場に自己を顕現させる。虚無は、実在に転化する。時間・空間的世界の根底の虚無の深淵・死の永遠性は、永遠の実在となる。
死に直面した生の一瞬一瞬は、永遠的実在が、時間に侵入する瞬間となる。内容のない無限連続性としての時間の流れが、瞬間によって切断されて、永遠の実在が自己を顕現させる。この瞬間は、同時に、有限相対的存在としての自己が、永遠の実在に自己を根拠づける瞬間である。
有限相対的実存が無限絶対の実在に根拠づけられてゆく一瞬一瞬が、非連続の連続的に統一されてゆく。それによって、虚無の体験は、いま・ここ に於いて一瞬一瞬、実存が実在と一体化してゆく――という実存・実在体験に転化する。それが、生が一瞬一瞬、死に直面するという生死のパラドックスの解消にほかならない。、瞬間に於いて、時間・空間的世界とそれぞれに固有の時間・空間的パースペクティブを有する実存が、永遠の実在と結びつく。
永遠が、時間に侵入する瞬間には、無限の過去と無限の未来が同時存在的であり、それを原点として、時間・空間的世界の全体が成立する。そして、それぞれの実存は、全体世界をこの各自の いま・ここ を原点として固有の時間・空間的パースペクティブに従って自己のうちに映し出す。
それによって、虚無の深淵に直面することで、無化され、時間・空間的パースペクティブが消失し、いま・ここ にある孤絶した「われ」が、代替不可能な独自の個人に転化し、その全体的な存在を実現してゆくことになる。
虚無の深淵に直面する自己は、一瞬前の自己が死ぬことによって次の瞬間の自己が生まれる、という生滅無常の存在である。それに対して、永遠が、時間に侵入する瞬間は、それぞれの個人の存在の唯一的・一度的な瞬間として、それぞれに永遠の影を宿している。それぞれの瞬間は、前後際断したものとして、相互独立的である。
無限絶対の実在に根拠づけられた生死の実相=不生不滅
そのようなものとして、永遠に接した生の瞬間には、絶対的な生があるのみであり、そこには、滅に対する生は存在しない。また、永遠に接した死の瞬間には、絶対的な死があるのみである。そこには、生に対する滅は存在しない。そのように、それぞれが、独立的な絶対的生と絶対的死が一瞬一瞬、非連続の連続的に統一されてゆく。
全生の瞬間と全死の瞬間の非連続の連続的統一である。それが、無限絶対の実在に根拠づけられた生死の実相であり、生死のパラドックスの解消ということである。
要は生死共に仏性の全現成にして現成の当下に於いて一切存在の絶対不可疑性をいうにあった。言いかえれば生死の住法位性を明らかにするにあったのである。生死は住法位にして前後際断している。生の瞬間に於てはただ法の絶対起あるのみ、死の瞬間には法の絶対滅あるのみ、滅に対した生でもなく、生に対した滅でもない。故に生じたといっても何から生じたという事なく、所謂法の「起也」のみである。不思議に生起せる存在の絶対現前あるのみである。死というも何が滅したというではなくただ存在の絶対滅あるのみである。……生が死に対する時初めて生と言い得るが前後際断してただ生のみの世界には生というも存しない、全死の世界には又死は存しない。生の法位に住する生はそれ故に不生の生であり、死の法位に住する死はそれ故に不滅の滅である。……絶対生、絶対滅の世界には故に生もなく、死もなしと言いうる。不生不滅の世界である。然るに吾々は先に一瞬一瞬は生にして同時に死なりと言った。各々の瞬間は一方より見れば生にして同時に死であり、他方より見れば不生不滅である。生にして同時に死なるときそれは無常不可得であり、不生不滅なるときそれは住法位の絶対存在である。之れ前章の終りに言える存在一般の弁証法的性格にして同時に人間の生の本質的なる構造である(秋山範二『道元の研究』P154〜155)。
時間・空間的世界は、無限の過去と未来が同時存在的な瞬間に於いて永遠と結びつき、その中で、過去から現在そして未来へと直線的に時間が進行してゆく。この時間においては、人間の生は、誕生から死に向かって直線的に進行してゆく。そしてこの生が、一瞬一瞬に永遠を刻みつける生のうちに統合されてゆく。誕生から死へと直線的に進行してゆく生は、実存の瞬間を通じて永遠に通じている。
無限絶対の実在との合一という実在・実存体験と形而上学の形成
日常的意識における個人は、直線的に進行する自己の生を、より長く生き続けようとする(生の直接的肯定の立場)。そのとき、個人は、自己の存在が根拠を欠いていること自覚することができない。
したがって、日常的意識によって捉えられた生は、対象化された生であって、主体的・実存的な生ではない。近代科学は、日常的意識を方法的に精練化した立場に立つものであるがゆえに、主体的・実存的生を捉えることができない、という本質的な限界を有している。近代科学技術文明のもたらした危機は、一人ひとりの個人に対し、対象的生から主体的・実存的生への根本的転換をを迫っている。この決断のためには、それぞれの個人が、自己の生が一瞬一瞬、死に直面していることを自覚しなければならない。無化された自己の自覚を経ることなしには、対象的生から主体的・実存的生への転換を成し遂げることはできない。
自己の存在の根底に虚無の深淵が開かれていることを自覚したとき、自己の存在を根拠づける無限絶対の実在を求める切実な思いが生じる。この事態に直面したとき、古代における神秘主義的実在・実存体験が成立し、宗教・形而上学の形成があったのである。
およそ存在するものはすべて無を契機として含んでおり、あらゆる存在者の根底には必ず無がひそんでいる。何かが有るということは、すなわち無いということでもある。我々の経験の中に入って来るもので絶対的に有りといい得るものはなく、あらゆるものは無の絶壁上に懸けられた危く脆い存在である。人は自己の、そして自己以外の万物の存在が含むこの契機にたいして言いしれぬ不安を抱き、万物を呑下しようとする暗冥の深淵を時として覗き込んでいまさらのごとく慄然とする。意識なく自覚ない諸々の事物は、己が存在の基底にひそむ無の契機を知ることなく、ただ端的に無を抱きつつそこに在るだけであるが、自己の存在性を意識する自覚的存在者としての人間は、ほかならぬ我と我が身に於いて、直ちに万物の存在が包蔵する無の深底を自覚するのである。「悲劇的実存」といい「実存の不安」と言われるものは、存在そのものがすでに存在否定的要素を不可避的に抱いている事実、すなわち存在の非存在性という根源的パラドクスに深く基いているのである。存在者の有がその本質的契機として無に裏づけられ、無を含むということは、それが本質的に相対的存在であるということにほかならない。存在の含むこの無がいわゆる「無の深淵」の不安として自覚的、実存的に把握される……あらゆる存在者の相対性を痛感し、不断に成壊去来して常なき事物の実相を徹見すればこそ、イオニアの詩人たちは常住不変の彼岸の世界にあこがれ、イオニアの哲人たちは永劫不滅の絶対者、「根源」を尋求したのではなかったか。(井筒俊彦『神秘哲学』第一部P26〜29)
このように、無限絶対の実在を尋求した古代の哲人たちは、その実在との合一という実在・実存体験によって、有無のパラドックスを解消した。そして、この体験のロゴス化として、形而上学が形成されたのである。
近代科学は、その形而上学を排除したことによって、人間の存在の根底に虚無の深淵を開きながら、それを隠蔽し、生死のパラドックスを忘却してきた。したがって、人間は、再び自己の存在の根底の虚無の深淵を自覚すること迫られている。一人ひとりの個人が、対象的生にとどまるのか主体的・実存的生に転換するのかの決断を迫られている。
対象的生とは、結局、物質に還元される生物的生命である。それに対して、主体的・実存的生とは、生物的生命を超える実在的生命である。現代の人間は、生物的生命に生きるのか、それとも実在的生命に生きるのかをめぐる決断を迫られている。
無限絶対の実在と有限相対の実存との相補的統一
現代の人類の危機を、生物的生命の危機として捉えることにとどめるのか、それとも一瞬一瞬、死に直面している生の絶対的危機として捉えるのかの決断が迫られている。しかし、人間が科学的宇宙像の枠内にとどまるかぎり、この決断をすることは不可能である。なぜなら、科学的宇宙像は、それ自体として完結しており、その根底に潜在する虚無の開けを決して見ることはできないからである。この虚無の深淵の自覚を抜きにして、生物的生から実存的生への転換は不可能である。個人が、虚無の深淵に直面し、世界の時間・空間、自己の時間・空間的パースペクティブが、いま・ここ に収縮・収斂し、世界と自己が無化されるとき、個人は、すでに科学的宇宙観の枠を超えて、実在界へ(感覚界から超感覚界へ)至る入り口に立っている。
宇宙の根底の虚無を見ることのない科学の立場と、自己の存在の根底の虚無を見ることなく、生に執着する立場を、徹底的に否定することによって、世界と自己を無化することを通じて、科学的宇宙像・人間像を実在的・実存的なそれに転換することが可能となる。世界の内にも自己の内にも自己の存在の手がかりとなるものは何も存在せず、自己の存在を支える何者も存在しないという極限状況に自らを追い込むとき(虚無の深淵の前で孤絶した「われ」になり切るという主体的決断)、はじめて虚無の深淵の彼方に自己の存在の無限絶対の根拠を求めようとする真摯な願望が生じる。
しかし、孤絶した自己と無限絶対の根拠のあいだには虚無の深淵が横たわっており、両者のあいだには絶対的な断絶がある。徹底的に無化された自己は、自力で、この深淵を乗り越えることができない。この危機的瞬間に、無限絶対の実在が虚無の深淵に自己を顕現させ(実在が現前する)、無化され、孤絶した自己に根拠を与える。それによって、虚無の場は、実在の場に転化し、無化された世界と自己は、実在の世界と自己の実在的生に転化する。それは、一切の自己への執着、自力のはからいを放棄するように、という無限絶対の実在から自己への促しと、自己のそれへの応答の相互交徹によって可能となる事態である。
これは、自己の存在根拠を失った人間が、虚無の深淵から噴出してくる無限衝動の力を制御することができず、それに駆りたてられて死滅へ向かっているという動向に対し、無限絶対の実在が、人間を究極的な成立根拠にまで引き戻そうとする働きの現われにほかならない。
こうして成立したのが、無限絶対の実在と実存との一体化という実在・実存体験である。ここに、有限相対的実存の実在的自由が実現する。科学的知性と技術的意志に基づく人間の自由は、この実在的自由に結びつけられることによって、無限衝動として虚無の深淵から噴出してくる力を制御することが可能となる。科学的認識・技術的実践による人間の自由は、それ自体として完結するかぎり、それがうみだした危機を克服することはできない。生態学的知識やそれに基づく技術的実践のみで現在の生態学的生存の危機を克服することができると考えるのは、あまりにも楽天的でありすぎ、そのような危機認識は、あまりにも浅すぎる。
虚無の深淵に顕現した無限絶対の実在と実存とは、相補的に統一される。両者が相補的に統一される いま・ここ の瞬間は、有限相対の実在界と無限絶対の実在界の境界点、・結合点である。この結合点に立つ実存は、根拠なき単なる有限相対的存在ではない。しかし、そこには、人間は有限相対的であり、その根底の実在は無限絶対的である、という区別が存在している。その実存の自由は、なお徹底され、深化されなければならない。
すなわち、自己は、その根底の無限絶対の実在界のうちに超入し、実在との相補的統一を実現しなければならない。そこに、両者が一体化した実在・実存体験が成立する。この場合の統一・一体化は、有限相対的実存と無限絶対的実在との垂直的関係ではなく、両者の水平的関係である。この関係における人間は、それ自身が無限絶対の実存として、無限絶対の実在と関係する。そこに、無限絶対の実在・実存体験が成立する。実存の自由は、ここまで深められた。しかし、この自由は、さらに深められなければならない。
永遠無限絶対の実在との合一を基盤とする全実在界大の実在・実存体験
すなわち、虚無の深淵に顕現した無限絶対の実在界に超入した自己は、そこから、さらにその根底の無限絶対の実在界そのものへと超入しなければならない。そこに於いて、無限絶対の実在と実存の相補的統一が実現し、実在・実存体験が成立する。ここに、実存の自由の究極的成立根拠がある。虚無の深淵に顕現した無限絶対の実在界は、有限相対の実存を無限絶対の実在界そのものへと到らしめる仲保者としての役割を果たすのである。このように、実在・実存体験の深まりによって、対象的側面により高い実在が現れてゆくことと相即的に、主体的側面により高い実存が現われる、という事態が進行してゆく。そして最後に、不生不滅・永遠無限絶対の実在と実存の究極的統一が実現する。
それは、自己が、虚無の深淵から無限衝動となって噴出してくる力を、その深底に向けて制御してゆき、ついに制御し尽くす、ということを意味している。それによって、科学的知性と技術的意志に基づく自由な行為によって制御された生が、無限衝動と化す、という事態が根本的に克服される。
永遠無限絶対の実在とは、物質的エネルギーを超える無限の創造的エネルギーであり、物質の高次の組織形態である生物的生命を超える無限の創造的生命である。したがって、感覚的に捉えられる存在だけを対象とする科学は、それを捉えることはできない。この無限の創造的エネルギー・生命が、最深層の次元から、無限絶対の次元と有限相対の次元の統合された全実在界の最表層の次元に向けて発現してゆくとともに、そこから再び最深層の次元に還帰してゆく、という運動を展開してゆく。
形而上学を排斥した近代科学は、単に、超時間・空間的な無限絶対の実在界を捉えることができなかっただけでなく、そこから発現してきて時間・空間的な有限相対の実在界に内在する無限の創造的エネルギー・生命を捉えることができなかった。つまり、科学的宇宙像は、全実在界の真実相を忘却したのである。全実在界の最深層の次元は、すべての個物・個人の究極的な成立基盤であり、個物・個人は、それぞれが、全実在界大の規模を有するものとして存在している。すなわち、すべての個物・個人のうちでは、無限の創造的エネルギー・生命が、最深層の次元から発現してくるとともに、再びそこに還帰してゆくのである。それぞれの個人は、全実在界に於ける無限の創造的エネルギー・生命の循環を自己のうちに映し出し体現している、ということができる。全実在界大の規模を持つすべての個物・個人は、同一の創造的エネルギー・生命によって一つに結びつけられている。
感覚的世界から超感覚的世界へ(外面から内面へ)翻転し、実在・実存体験を深めてゆき、最深層の次元に於いて、永遠無限絶対の実在と一体化した自己は、全実在界を見る。それによって、自己の生が、すべての個物・個人と一体的であることを直観することができる。そして、そのような自己が、<本来的自己>であることを直観する。すなわち、最深層の次元に於ける実在・実存体験を基盤とする全実在界大の規模の実在・実存体験である。古代から現代に至る東洋と西洋の偉大な宗教家・哲学者は、自らそのような実在・実存体験をすることによって、全実在界の真実相と、そこに於ける<本来的自己>を捉えようとしてきたのである。形而上学は、そのような主体的な実在・実存体験のロゴス化として成立したのである。そのことを、プラトンの形而上学に関する井筒俊彦の見解について見てみよう。
形而上学は、人が先ず「形而上的なもの」を親しく体得するところに成立する。故に、プラトンにとっては、形而上学への道は神秘主義の道であり、神秘主義はロゴス的な形而上学体系のパトス的基体をなすものであった。プラトンはイデア界の超越を説き、「イデアのイデア」ともいうべき善のイデアの絶対超越を唱えたが、同時にまた、感性界から超越的世界に翻転し、さらに超越界の絶頂にまで飛躍して真実在に直接逢着するの道を人間精神のために用意した(『神秘哲学』第二部P51)。
それぞれの個人が他の個物・個人と一体的な生を実現することを抑圧する近代科学技術文明
だが、近代科学は、形而上学を否定してしまった。それは、単に、生成変化する宇宙の根底に措定された何らかの超越的実体が否定された、ということを意味したのではない。科学的認識を一般化した啓蒙主義的・合理主義的な知は、人間の存在の根底の超越的絶対神の存在を否定した。たしかに、それは、中世の神学的くびきから人間を解放し、その自由を確立したことにおいて進歩であった。しかし、啓蒙主義的・合理主義的思考が近・現代の生活を律するものとなったとき、近・現代人は、自己の根底に虚無の深淵が開いていること見ることができなくなった。
それは、外面的・感覚的世界に生きる人間が、そこを通ってのみ、内面的・超感覚的全実在界へと翻転することのできる入り口である虚無の開けが見失われた、ということを意味している。すなわち、外面的・感覚的世界に於ける自己の自由を、内面の超感覚的全実在界に於いて、すべての個物・個人との一体的生を実現する人間の自由に結びつけ、それに基礎づけるための通路を、切断してしまったのである。近代科学技術文明が形而上学を排除したことによって生じた事態は、このようなかたちで捉え返さなければならない。
だから、科学的知性と技術的意志によって行為する自由な自己は、全実在界を貫流する創造的エネルギー・生命を制御することができず、そのエネルギー・生命は、虚無の深淵から無限衝動となって噴出する。そして、自由な自己の行為は、それに駆りたてられることになったのである。近代科学技術文明は、全実在界に於いて、それぞれの個人が<本来的自己>を実現することを阻害・抑圧しているのである。ここに、科学技術文明がもたらした根源的矛盾が存在する。もし、近代科学技術文明が排除した形而上学を、単に、生成変化する自然現象の根底に超越的実体の存在を認め、それに宇宙の運動を根拠づけるもの、として捉えるならば、この根源的な危機を理解することはできない。生態学的生存の危機を、その根底の全実在界を貫流する創造的生命を体現する<本来的自己>の実現が抑圧される、という危機にまで深めて捉えなければならない。
外面的・感覚的世界において、人間が、自然生態環境・社会文化環境と自己の相互作用を自由な行為によって媒介し、その生を実現することは、本来、内面的・超感覚的全実在界に於けるそれぞれの個人が、他の個物・個人と一体的な創造的生=<本来的自己>を実現するための外的・物質的条件なのである。
しかし、近代科学技術文明は、その外的・物質的条件の形成のための活動に、創造的エネルギー・生命を従属させる、という転倒を生じさせてしまったのである。事態をこのように捉えることによって、はじめて、広大な宇宙の一点における地球生態環境の破壊という問題に、いったい、超感覚的実在を対象とする形而上学がどのような関係があるのか、という素朴な疑問に根本的な回答を与えることができる。形而上学を排除した近代科学に基礎づけられた科学技術文明が惹き起こした現代の危機を克服するためには、科学的世界認識を新しい形而上学と結合しなければならない。
しかし、その場合の形而上学とは、自然・宇宙の根底の超感覚的な実在に関する学という一般的な解釈の枠を超えた、全実在界に於ける実在・実存体験のロゴス化という性格を持ったものでなければならない。
近代科学技術文明の危機克服のために求められている現代の形而上学の基本構造
現在、科学的世界認識と統合しうる新しい形而上学が求められているということは、一人ひとりの個人の生に外在的な認識を形成するということではない。現在、求められている形而上学は、一人ひとりの個人が、外面的・感覚的世界から内面的・超感覚的世界へと全人格的転換を為し遂げるべく決断することを迫られている、ということを明らかにするものでなければならない。
近代科学技術文明が、自然生態環境と人間と社会文化環境のあいだの深刻な対立・相剋を惹き起こしたという危機的状況の中にあって、実在・実存体験のロゴス化として形成される形而上学は、全実在界の真実相を、次のような4次元統合態として解明する。
◎絶対無の実在界
絶対無は、単なる虚無でもなければ、有に対する非有でもない。それは、相互に矛盾する有と無を矛盾したまま包摂する実在である。そのような実在にしてはじめて、有無のパラドックスを解消し、生死のパラドックスを不生不滅に転換しうる。
絶対無の実在界に於いては、それぞれが独自性を有する絶対無と人間を、創造的エネルギー・生命が一つに結びつけている。絶対無は、永遠無限絶対の実在であり、自己自身に於いて、自己自身に由って、自己自身として在る自由な実在である。それと一体化するところに、人間の自由の究極的成立基盤がある。主体は、両者の結合点に合一することによって、絶対無の実在界の全体と、そこに於いて絶対無と相即的に統一された自己の実存を直観する(実在・実存体験)。この体験のロゴス化としての、絶対無と人間との絶対矛盾の自己同一という論理(両者を矛盾のままに統一する)が成立する。
◎対自的絶対無の実在界
対自的絶対無という実在と人間を、無限の創造的エネルギー・生命が一つに結びつける。主体は、両者の結合点に合一することで、対自的絶対無の実在界の全体と、そこに於いて対自的絶対無と相補的に統一された自己の実存を直観する。実在・実存体験のもロゴス化としての、対自的絶対無と人間の絶対矛盾の自己同一という論理が成立する。この実在界では、すべての個物・個人が、それぞれの独立性を保ったまま相互に調和する。主体は、他のすべての個物・個人と一体化した自己を直観する。この自在・実存体験のロゴス化としての、すべての個物・個人の絶対矛盾の自己同一という論理が成立する。この次元は、超時間・空間的な絶対無の実在界が、時間・空間的な有限相対の実在界に自己顕現する媒介領域である。そして、この次元に於けるすべての個物・個人の相互調和は、それを有限相対の実在界が自己のうちに映し出す超越的<原型>である。
◎相対的絶対無の実在界
絶対無という永遠の実在が、超時間・空間的実在界から時間・空間的実在界へ自己を顕現させる瞬間、すなわち、永遠が時間のうちに侵入する瞬間には、無限の過去と未来が同時存在的である。その一瞬一瞬に、時間・空間的実在界に於ける自然生態環境と人間と社会文化環境が、創造的エネルギー・生命によって一つに結びつけられてゆく。主体は、その結合点に合一することで、相対的絶対無の実在界の全体と、そこに於いて相対的絶対無と相即的に統一された自己の実存を直観する。
この実在・実存体験のロゴス化としての、三者の絶対矛盾の自己同一という論理が成立する。この実在界では、すべての自然的個物・人間的個人・文化的個物の相互調和が実現する。主体は、他のすべての自然的個物・個人・文化的個物と一体化した自己を直観する。この実在・実存体系のロゴス化としての、すべての自然的個物・人間的個人・社会的個物の絶対矛盾的自己同一という論理が成立する。
◎普遍的本質の実在界
自然生態環境と人間と社会文化環境を創造的エネルギー・生命が一つに結びつけ、三者の相互媒介運動が、直線的に進行する時間の流れに沿って過程的に進行してゆく。この次元では、三者は、一瞬一瞬に矛盾したままに統一されるのではなく、三者の矛盾は、過程的に止揚・統一されてゆく。主体は、三者の統一点に合一することで、普遍本質の実在界の全体と、そこに於いて自然生態環境・社会文化環境と一体化した自己、他のすべての自然的個物・人間的個人・文化的個物と一体化した自己を直観する。この実在・実存体験のロゴス化としての、三者の相対矛盾の自己同一・−すべての自然的個物・人間的個人・文化的個物の相対矛盾的自己統一という論理が成立する。
一人ひとりの個人の生とは無縁な外在的知識と化した形而上学
以上が、科学技術文明の危機を克服するために求めらている現代の形而上学の基本構造である(この形而上学の論理的・事象的体系がどのようなものであるかは『絶対無の哲学』において全面的に展開されている)。それは、すぐれて現代的な形而上学である。だが、この形而上学は、全実在界の真実相を永遠相下に見るという形而上学の永遠の課題に、現代の具体的な状況の中にあって取り組んだものである。そのようなものとして、それは、現代の形而上学であると同時に永遠の哲学・永遠の形而上学である。それは、全実在界に於ける創造的エネルギー・生命の運動と自己を一体化させた主体が、全実在界の真実相と<本来的自己>を、永遠の次元に於いて一挙・同時に直観した実存・実在体験のロゴス化として、永遠の哲学・永遠の形而上学である。
この形而上学に、自然生態環境・人間・社会文化環境を対象とする自然科学・人間科学・社会科学(外的・感覚的世界の学)を統合した全体的知を形成しなければならない。それが、形而上学と分離した科学を形而上学と再結合するという課題を、具体的に遂行することである(この課題に取り組み、近代科学技術文明を根本的に転換させて新たに創出すべき現実秩序の存立構造を解明したのが『創造的生命の形而上学』である)。
形而上学とは、主体の実在・実存体験と無縁な客観的な学問体系ではない。それは、一人ひとりの個人が可視的な感覚界から不可視的な超感覚界に自己を転換させることを助成するものである。しかし、現代の多くの人間にとって、形而上学は、そのようなものとしては捉えられてはいない。確かに、古代から継承されてきた多くの形而上学が存在している。しかし、それらの形而上学は、一人ひとりの現実的な生とは、ほとんど無関係な学問としてしか扱われてはいない。すなわち、自己の生とは無縁な外在的な知識としてしか受け取られていないのである。
古代から現代に至るさまざまな形而上学の学説の内容は、その表現が時代的制約を帯びているということもあって、極めて難解であり、一つの学説の理解すら容易ではない。まして、それらの全体的な連関を理解することはほとんど不可能に近い。たとえ、既成の形而上学の知識を外部から賦与されたとしても、一人ひとりの現実的生にとって、ほとんど、本質的な影響を与えるものとはなり得ない。たとえば、アリストテレスの不動の第一動者、キリスト教の神――偉大な形而上学者が、そのような超越的実在を原理とする形而上学を形成したということを了解しえたとしても、そのような実在を信じることは、多くの現代人には、ほとんどできなくなっている。
一般的には、:形而上学とは、感覚的に捉えることのできる自然の究極的原因・目的としての超自然的実在についての学(自然学を超える超自然学)と理解されている。だが、形而上学とは、主体が「感性界から超越的世界に翻転し、さらに、超越界の絶頂にまで飛躍して真実在に直接逢着する」(井筒俊彦『神秘哲学』第二部P51)という実在・実存体験のロゴス化として存立している。このような実在・実存体験は、普通、神秘主義と呼ばれている。この実在・実存体験を抜きに形而上学を捉えるとき、それは主体と切り離された客観的な体系とならざるをえない。それが、西洋形而上学の正統的な解釈である。過去の偉大な形而上学も、そのようなものとして取り扱われることになる。かくして、形而上学は、一人ひとりの個人の現実的な生とは無縁な学説として、専門学者の解釈の対象となる。
一方、神秘主義の方は、普通の人間には経験することのできない宗教的・思想的大天才にのみ許される経験と解される。かくして、形而上学も神秘主義も、多くの現代人の生活にとっては、疎遠なものとなっている。では、そのような一般的な思想状況の中にあって、形而上学は一人ひとりの個人の生にとってどのような意味があるのか。
<永遠の哲学>としての過去の偉大な形而上学と現代の一人ひとりの個人の生
過去の偉大な形而上学は、主体の転換・深化によって、究極的実在と合一し、全実在界の真実相とそこに於ける自己の真実相を永遠相下に見た<永遠の哲学>という性格を有している。この点において、時代状況や思想的伝統の違いを超えた普遍性を有している。すなわち、時代と場所を超える<永遠の真理>である。それは、それぞれの個人が、主体的実在・実存体験の深化によって、全実在界に於ける他のすべての個物・個人と一体化した生=<本来的自己>を実現した体験に基づいて形成された学的認識であるがゆえに、全人類・すべての個人がそれぞれ<本来的自己>を実現するにあたって<模範>となる体験に裏づけられているのである。
すなわち、形而上学を裏づける実在・実存体験は、一人ひとりの個人が実在・実存体験の深化によって、固有の<本来的自己>を実現する道筋を示すものなのである。そのようなものとして、古代から現代に至る東西の:形而上学は、<本来的自己>を忘却した全人類・すべての個人に覚醒を促し得る叡智なのである。形而上学は、一人ひとりの個人の現実的生にとって、決して外在的な知識ではない。個々の人間が形而上学を学ぶということは、それを学説として学習し、知識として獲得する、ということではない。それは、一人ひとりの個人が、ロゴス化・体系化以前の、思想家の主体的・実存的体験そのものと主体的・実存的に交わり、触れ合う、ということを意味している。
過去の哲学者は、永遠無限絶対の実在との合一という実在・実存体験を基底として、全実在界を貫流する創造的エネルギー・生命と一体化し、その創造的エネルギー・生命を自らのうちに体現した全実在界大の<本来的自己>bを直観する、という実在・実存体験をしたのである。それは、万物・万人と創造的エネルギー・生命によって一つに結びつけられた全実在界的・全人格的な実在・実存体験、永遠の真理の体得・自覚である。過去の思想家の実在・実存体験は、永遠の真理として、現代の人間の体験と同時的となる。
ニイチエの根本思想は、彼の実在それ自身および真の実存体験に於いて開示される存在(Sein)そのものと同じように、あるいはそれらと一体となって、一つの≪混沌≫の姿をあらわす。ただし、この混沌とは、決して帰するところない散乱や統一の魂ない混乱を意味するのではなく、創造的な生命に溢れているがゆえに如何なる定型にも盛切れぬ力動態であることをいうのである。この混沌に切入る者は、その奥底の渦に捲き込まれて脱出の道を見定めがたくなる恐れさえある。だが、ニイチエの混沌の思想圏は、その危機を冒して其の内に入り、混沌の生命を共体験(mit-erleben)し、それを共に実存的に生きぬく試みをするのではないかぎり、核心から何かを捉えることができないであろう。その場合、捉えられるものは純粋にニイチエとしてのニイチエ自体であるよりも、むしろわれわれの自己の実存的パースペクテーヴにおいて掴まれるニイチエであるかもしれない。それゆえ、そのときには、ニイチエの名のもとに自己自身の生を語らざるを得ないことになるであろう。……八方に破れた開放的に力動的な全体として、ニイチエ存在は或る無尽蔵なのである。彼との交わりにおいて、この無尽蔵から何かを汲みとることが、同時にわれわれがそこに於いて本来的自己の可能性へと立還ってゆくことでもある。ヤスパースのいうように、『課題は、ニイチエを自己のものとすることにおいて、自己になること』である。(信太正三『ニイチエ研究』P1〜2)
ニイチエの中心問題は、あくまで『いかにして本来あるものと成るか(Wie man wird,was man ist)』、ということであって、理想化された人間本質の理念に照らして抽象的に自己を観察することではない。(『前掲書』P2)
非本来的自己から本来的自己への転換を促す無限絶対の実在の働きかけ
形而上学は、このようなものとして、一人ひとりの個人に非本来的自己から本来的的自己への転換の決断を促す。
つまり我々が「世人」から本来の自己自身へ、単独者としての自己へ、帰るということであった。それ故に、形而上学は、単なる知性の閑事業ではなくして、我々の存在そのものを賭けた決断の業なのである。(西谷啓治『ニヒリズム』P214)
形而上学的な思惟とは、もとよりほかならぬ、われわれ自身の思惟である。……思惟の主体としての魂全体の大きな転換が要請される。形而上学の問題は、すぐれて魂の――その本性、純粋性、不死性の――問題でもある。(藤沢令夫『イデアと世界』P61〜62)
哲学することが実存的に哲学することであるかぎり、哲学することは、過去の実存たちの思惟を我がものとしそれと対決することにおいて遂行される。(渡辺二郎他訳・ヤスパース『哲学の世界史序論』P91〜92)
いつの時代の個人にあっても、その個人が、感覚的世界のうちに非本来的自己として閉塞しようとしても、超感覚性的世界の本来的自己へと転換するように促す無限絶対の実在の働きかけが存在している。非本来的な自己は、全実在界と全実在界大の自己の真実相に無自覚である。しかも、自己が無自覚であることを自覚していない。
さて、人が実存的に「不覚」の状態にいるということは、すでに詳しく述べたように「妄念」の所産にすぎぬ妄象的存在界を純客観的に実存するものと思いこんでそれに執着し、そのために人が自己の本性を晦冥され、自己本然のあり方から逸脱して生きている――しかもそれに気づかずに――ということ。「不覚」の真っ只中にいながら、それを全く自覚していない、それこそ「不覚」の「不覚」たる所以なのである。ところが、ふと何かの機会に――実はそれはすぐ後で説明する「本覚」からの促しによって、というのが『起信論』の見方なのだが――忽然と「不覚」の自覚が生じてくることがある。それというのは、『起信論』によれば、「本覚」としての資格で機能する「覚」は、「不覚」の状態にある人々に向かって、絶えず喚びかけの信号を送り出し続けているからなのであって、もしたまたま、発信されたこの実存的信号が、心の琴線に触れることがあれば、自分の実存が「不覚」の状態に落ちこんでいること、すなわち己れが自己本然の姿を忘れて生きていること、に気づき、慄然として、自己のあるべき姿(=「覚」の状態)に戻ろうとする。それが、すなわち「始覚」なのである。(井筒俊彦『意識の形而上学』P149〜150)
本来的自己を忘却し、感覚性的世界に生きている人間が、日常生活の危機・破綻に遭遇するとき、既成の生活の意味・価値・目的が疑わしくなる。そのとき、人は、不安・絶望に陥り、虚無・死に直面するに至る。そこには、究極的実在からの働きかけ、促しが存在している。すなわち、本来的自己から逸脱して生きている個人に対し、生を転換し、創造的エネルギー・生命が貫流する全実在界の根源に還帰するように促している無限絶対の実在の働きが存在しているからこそ、個人は逸脱した生活に安住することができず、生活の上に生じるさまざまな問題に悩み苦しむことになる。
そのとき、個人は、既成の生活を律した思考や意志に行きづまりを感じる。それが、個人の無自覚から自覚への大きな転換のきっかけになる。
ここに見られるように、「肚裏の悶え」「心頭の煩悩」ある所こそ、話頭を看ずる「好時節」なのであり、かかる疑団の膨張・気力の充溢のない所に、いかに公案を投げ与えても、何らの効果をももたらさないであろう。ところでその思量・計較に行詰まりを感ずる「肚裏の悶え」は、日用塵労界に生きてあってこそ積極的に燃え上がるものであり、然も日用塵労界にある限り、古典的教養・三蔵十二分教の知識を以って身を固めた「聡明性」が、至る所に待避の洞窟を構えている。そこにははてしない悪循環がある。此の悪循環を断ち切り、すべての思量・計較を一処に専注せしめ、先徳悟得の胸懐に直参し、当面の行道主体の頓速な転回投入の機縁をうん醸し完遂せしめること、これが看話の目的である。(荒木見悟『仏教と儒教』P221)
個人が自己を映し、その本来的あり方を自覚・自得する<鏡>としての形而上学
ただ、普通の人間が、そこから自力で全実在界の根源にまで還帰し、全人格的自己を自覚・自得することは、容易なことではない。ほとんど不可能といってよいであろう。そこに、実在・実存体験のロゴス化としての形而上学が大きな役割を果たすことになる。
哲学的言説の役割は、プロティノスによれば、我々に魂の根源へと向かうように促すことである。「我々が語ったり書いたりするのは、(人を)かのものへ(一者)と送り出し、議論から観照へと目覚めさせるからなのであって、それはちょうど、何かを観ようと欲している者に道を示すようなものなのである。つまり道や道程は教えられげるが、その何かを観ることは、すでに観ようと欲している者の仕事なのである。(岡野利律子『プロティノスの認識論』P193)
個人は、全実在界と全実在界大の自己の真実相を捉えた形而上学を、<鏡>とし、そこに自己を映すことによって、自己の本来的あり方を自覚・自得することができる(また、それは同時に、自己の無自覚・逸脱を自覚・自得することでもある)。
文字を通して精神を読み取る。これは一種の直接経験の方向です。文字を読むというのは教えを読むということですけれども、同時にそれは自分自身を読むということでもある。読むものは自己自身もを読む。……そういう意味が入っていないと心読にならない。これはやはり鏡ということです。「古鏡照心」という言葉があります。ただ理論や思想を読むだけでなく、そこに自分自身を読むということが加わってこなくちゃいけない。その場合に教えが鏡となって自分自身を照らす。……しかし学問は手段に過ぎない。そこに書かれているスピリットが肝心である。自分をなくしたところで本当の自分自身を読む。それが古鏡照心ということです。教えは鏡であるということですね。逆に言うと、そこから自分の心が教であると言われる。あらゆるものがその心に映っている。教えの内容になるもの万法か鏡である、事事物物が鏡である。すべてのものがありのままで現れる。(西谷啓治『正法眼蔵講話』三P47〜48)
ルターも、神の語りかけは常に霊による心の内的な働きであり、また常に神によるその都度現前する直接のふれ合い、ささやき(Einrunen)であることを真実にわきまえていた。しかしこの霊的内面性(die geisthafte Innerlichkeit)は、神の意志する秩序に従って、人間の宣教の言葉と言葉の外的な聴従という外面性(Auserlichkeit)に固く結びついている。そして、神が心のうちに語りかける直接性(Unmiterbarkeit)は外的な言葉の聴従という間接性、媒介性(Miterbarkeit)においてのみ「出来事」(Ereignis)となるのである。(今井晋『ルター』P55〜56)
元来、禅は説明を嫌い、己れが解釈されることに烈しく反撥する。禅は本質的に言語を超えた体験的事実であるのに、およそ説明とか解釈とかいうものは徹頭徹尾操作だからである、と。だから禅を言葉で説明し解釈することは、どんなにそれが見事に行われようとも、所詮は第二義門に堕した作業にすぎない、と。もとより私はそれを否定しはしない。ただここで一言しておきたいのは、禅にたいするこのような禅自身の言い分は、あくまでも宗教的実践道としての禅の立場表明であって、禅を取り扱う哲学者にはおのずからそれとは違う言い分がある、ということである。禅本来の立場からみて第二義門であるものこそ、哲学にとっては第一義門のなのであり、禅自身が第一義門とするものは、、哲学的にはたかだか思想の前ロゴス的準備段階であり、思考のための素材であり、第二義門であるにすぎない。禅は体験であることは否定すべくもないが、体験だけが禅なのではない。他面,東洋哲学の諸伝統を、新時代の要請に応ずる形で組みなおそうと志す人間にとって、禅の限りなく豊穣な思想的可能性は、無視するにはあまりにも魅力的でありすぎる。(『井筒俊彦著作集』9 P318〜319)
形而上学の真理をわがものとして獲得しようとする個人は、外面的な言語、文字を読むことを通じて、それに固く結びつけられている内面的なロゴス化以前の体験的事実を読むのであり、そのことは同時に、自分自身を読むことである。
哲学的真理が眼前にあって、それを学びさえすればよいと思っている者は、決して哲学には達しないだろう。哲学を学習している人間はむしろ、可能的実存として、諸々の実存と交わりを結ぶ。すなわち、かつて存在した最も無制約的な実存および、最も明るくなった実存と、歴史のうちで交わりを結ぶのである。彼は、過去の尊敬すべき精神と交流するのであり、そうした精神に問いたずねることを許されている。(渡辺二郎他訳ヤスパース『哲学の世界史序論』P90)
鏡としての普遍的なもの。人間の現実性を普遍史において概観することは、最高度にとらわれのない人間存在へ至る道である。普遍的な像であってはじめて、明るく、もはや歪めることのない鏡となるのであり、人間は、そこで己れを見て取り、己れを了解するのである。……自らの根源に迫ろうとするわれわれの衝迫は、すべての根源的なものという鏡を自らの前に置く。(『前掲書』P104)
全実在界に貫徹する論理を自己の生のうちに体現する個人
形而上学の対象である全実在界には、次のような論理が貫徹している。
永遠無限絶対の実在(=絶対無)と実存との絶対矛盾の自己同一。それを究極的基盤として、全実在界大の規模に於ける全体と個の絶対矛盾の自己同一、すべての個物の絶対矛盾の自己同一。これは、全実在界を客体として、その論理を外在的に解明したものではない。個人が、非本来的自己を否定・転換し、その自己を深めてゆくことによって、無限絶対の実在(=絶対無)と合一する直接経験(実在・実存体験)において絶対無との一体性を直観する。個人は、それを基盤として、全実在界大の他のすべての個物・個人と合一する直接経験(実在・実存体験)において、それらの個物・個人との一体性を直観する。論理は、このような直接経験(実在・実存体験)における直観のロゴス化として存立している。
論理とは、全実在界を貫流する無限の創造的エネルギー・生命の運動法則である。無限の創造的エネルギー・生命は、全実在界の最深層から最表層へ発現してゆくとともに、そこから再び最深層へ還帰してゆく。この循環運動の法則が働くことにより、それぞれが全実在界大の規模を持つ万物が一つに結びつけられ、相互の調和を実現する。
人間は、この法則を自覚することができる。個人は、自己を絶対無と合一させることにより、無限の創造的エネルギー・生命の循環運動と自己の生の上昇・下降運動を合一させる。それによって個人は、前述したように、絶対無との一体性を直観し、他のすべての個物・個人との一体性を直観することができる。このとき、自己は、全実在界に貫徹する法則を、自らの全実在界大規模の生のうちに主体的に体現している。より具体的には、主体は、すべての個物・個人がそれぞれに個性・独立性を保ったまま相互に調和を実現するかたちで働きあう――その運動の法則=論理を、自己の生のうちに自覚的に体現しているのである。
この実在・実在体験、直観の哲学的な反省によって、全実在界の論理的存在構造を解明した形而上学が形成される。すなわち、全実在界に貫徹する法則=論理の働きにより、すべての個物・個人が相互に調和を実現した相を、永遠の次元に於いて、一挙・同時に捉えた真理認識の形成である。
これは、いつの時代のどのような個人にも共通する普遍的な永遠の真理である。したがって、個人は、形而上学の言語・文字を読み、論理を理解することを通じて、その内面のロゴス化(論理化)以前の実在・実存体験に触れることによって、自己の真実相を自覚・自得することができるのである。一人ひとりの個人が、永遠の真理としての形而上学をわがものとするということは、その形而上学を形成した思想家の実在・実存体験と同時的なものとして自己に固有の実在・実存体験をする(共体験)ということを意味している。それは、西谷が述べているように一種の直接経験にほかならない。
本来的自己から逸脱して生きる個人に対し、無限絶対の実在が、自己成立の根源へ還帰するよう決断することを促すのに対して、個人は、このようなかたちで応ずることによって本来的自己を実現する。個人が、<鏡>としての形而上学に自己を映すことによって、その本来的あり方を自覚・自得するということは、単なる比喩的表現ではなく、このようなことを意味している。
全人類的危機の克服を可能とする新しい形而上学を形成するという課題
全人類が生態学的生存の危機に直面した現代において、物質的個物・生物的個体・人間的個人・文化的個物が、同一の物質・エネルギーによって結びつけられており、近代科学技術文明が、その物質・エネルギーの循環を撹乱したことが科学的に明らかにされている。そこから、すべての個物・個人の一体性の回復が主張されている。しかし、このレベルにとどまるかぎり、人間的生命は生物的生命へ、生物的生命は物質に還元されざるをえない。このように捉えられたすべての個物・個人の一体観を、それぞれが全実在界大の規模を有するすべての個物・個人が無限の創造的エネルギー・生命を宿し、それらが一つに結びつけられている――という一体観に転化させなければならない。
私が大宇宙であり、また私の目前にある樹木も大宇宙であり、その樹に止まっている鳥も大宇宙だとすると、大宇宙が無数にあることになる。(松永有慶『密教』P51)
今日の人間が直面している生態学的生存の危機を根底的に克服するためには、一人ひとりの個人が、そのような生命観の根本的転換を成し遂げ、それを体現した生を実現しなければばならない。そのためには、古代から近代に至る形而上学を、それを可能にするかたちで現代において再生させなければならない。
近代科学技術文明の根底には深淵が開いており、ニヒリズムが潜んでいる、ということには既に言及した。科学的知性と技術的意志によって自己の生を制御する諸個人は、虚無の深淵から無限衝動となって噴出してくる力を制御することができない。そのため、近・現代の人間は、現代の生態学的生存の危機を惹き起こしたのである。だが、近代科学技術文明の根底には、本来的自己から逸脱して生きる諸個人をその根源に引き戻そうとする無限絶対の実在の促しが潜んでいる。自己は、この促しに応じることによって自己成立の根源に還帰し、無限の創造的エネルギー・生命の循環運動と一体化した全実在界大の生=本来的自己を実現する。
それは、形而上学を否定した近代科学の根底に、否定されたにもかかわらず、形而上学が潜在していた、ということにほかならない。この潜在的な形而上学を、顕在化することが求められている。現代の危機に対応する新しい形而上学の形成である。しかも、その形而上学は、一人ひとりの個人の生とは無縁な深淵で難解な学問体系ではなく、一人ひとりの個人がその真理をわがものとして獲得することによって、それぞれに本来的自己を実現すべきものとして求められている。
西洋近代科学・啓蒙主義・合理主義は、古代・中世を通じて継承されてきた西洋の伝統的形而上学を否定した。近代科学技術文明が全地球的規模にまで拡大した結果、啓蒙主義・合理主義は、全人類の生活を律する思考となった。その結果、いかなる事態が生じたか。西洋の伝統的形而上学のみならず、それとは異なるものとして古代・中世を通じて固有の伝統を形成してきた東洋の形而上学も、また、力を喪失し否定されることになったのである。
全人類の生は、無根拠なものとなった。かつて、ニ−チェは、ニヒリズムの到来をヨーロッパの遭遇すべき運命として捉えたが、今日では、ニヒリズムは全人類の運命となった。このニヒリズムを克服するために新しく形成されるべき形而上学は、人類全体の形而上学、すなわち、ヤスパースの言う「世界哲学」、「全地球哲学」でなければならない。そのためには、西洋の形而上学と東洋の形而上学を、全実在界の最深層の次元を共通の基盤として根源的に統合しなければならない。
絶対無という次元で遭遇し、統合に向かう東西二類型の形而上学
この課題に取り組むにあたって、まず、東西の形而上学の歴史を、その始源にまで遡源してみる必要がある。人類は、約2500年前、ギリシャ、インド、中国において、それぞれ実在・実存体験のロゴス化としての形而上学を形成した。東西の形而上学は、ほぼ同時期に始源を有しているのである。それは、呪術の克服による哲学的思惟の形成としての精神革命である。その主な思想は、次のようなものである。
ギリシャ――アナクシマンドロス、ヘラクレイトス、パルメニデス、ソクラテス、プラトン、アリストテレス。
インド――ウパニシャッド、釈迦。
中国――孔子、老子・荘子。
これらの形而上学は、それぞれの地域に固有の思想的文脈において表現されているが、同一の実在・実存体験に基づくものとして成立していることにおいて全人類的な普遍性を有している。ただ、その実在・実存体験のロゴス化の相違によって、東西二類型の伝統的形而上学が形成され、以降、継承されることになった。
ギリシャ以来の西洋の伝統的形而上学は、有限相対的世界の根底の超越的実在を<有>として捉えてきた(<有>の形而上学)。それに対して、東洋においては、古代以来、<有>として捉えられた超越的実在の更に根底の<絶対無>の実在・実存体験に基づく形而上学(<絶対無>の形而上学)の伝統を形成してきた。西洋においては、三位一体の神=絶対者を<有>として捉えるキリスト教の正統的立場と相俟って、<有>の形而上学が正統的なものとされてきた。したがって、西洋の正統的形而上学の立場に立つかぎり、<有>の根底の<絶対無>という次元は見失われることになる。ハイデガーは、西洋の形而上学の歴史は、存在忘却の歴史である、とした。そして、ギリシャのPhysis(原自然)にまで遡ることによって、存在忘却を克服し、<存在・原存在>(Sein・Seyn)に基づく別の形而上学を構想している。
ハイデガーが、西洋の形而上学の歴史は、存在忘却の歴史であると言うのは、西洋の形而上学が<有>の根底の<絶対無>を忘却してきたこととして捉え返すことができる。また、ギリシャのPhysis(原自然)、ハイデガーの存在(原存在)は、東洋の伝統的な形而上学が立脚した絶対無という実在として捉え返すことができる。ハイデガーは、西洋の正統的形而上学を超克し、存在(原存在)=絶対無の実在・実存体験のロゴス化としての新しい形而上学を形成しようとした、ということができる。このように見てくるならば、現代においては、東西の形而上学が、絶対無という究極的次元で遭遇し、統合に向かっている、ということができる。
西洋の形而上学の歴史の表層流と深層流
ただ、西洋の形而上学の歴史については、次のことを確認しておく必要がある。西洋の形而上学といえども、決して正統的な有の形而上学の枠内で自己完結していたわけではなく、その根底の絶対無の実在体験に基づく形而上学も存在していたのである。すなわち、東洋の形而上学と共通する形而上学である(たとえば、プロティノス、エックハルトの形而上学)。しかし、それらは、正統的な立場に対しては、あくまでも傍流・底層流・異端にとどまった。
そのような絶対無の形而上学の形成に至らない場合でも、西洋の各時代の形而上学は、有の根底の絶対無という次元にまで思索を深めていた、あるいは、その次元に立脚していたのである。しかし、その場合でも、それらの形而上学は、有の形而上学という正統的な枠組みのゆえに、絶対無という次元を自覚的に解明することができなかった。あるいは、絶対無の実在体験を、あくまでも有という枠組みから捉えるという限界を有していた(たとえば、プラトンにおける善の実在体験とそのロゴス化の不十分性、それを始源とする正統的な有の形而上学、その不十分性を克服したプロティノスの絶対無の形而上学としての一者の形而上学)。ハイデガーが遡源したギリシャのPhysis(原自然=絶対無)という実在・実存体験、そのロゴス化としての絶対無の形而上学は、底層流として西洋の形而上学の歴史を一貫して流れ続けてきたのである。しかし、有の根底の絶対無という実在は、正統的な哲学史研究によって無視され、深く隠され続けてきた。
ニケーア公会議は、いわゆる「ニケーア信条」Symbolum NIcaenum を採択することによって、正統信仰の基本理念を決定した。これ以後、キリスト教世界の思想には「正統」と「異端」の区別が問われるようになってくる。ニケーア公会議以前には、たとえ教父たちの間に論争があったとしても、どちらの主張が正しいかということを決定する最終的権威は存在しなかった。しかし公会議の決定が法廷の判決に似た効果をもつようになってからは、異端宣告を受けた思想は社会の表面に存続することは許されなくなる。このため西洋の精神史はこれ以後、表層流と底層流あるいは光と影ともいうべき二重構造をもつようになってゆくのである。ユングの精神史研究の一つの重要な意図は、従来の研究が無視してきた精神史の底層流 Unterstrohmungen を発見することによって、西洋精神史の全体像を再構成するところにある、と言ってもいいかもしれない。(湯浅泰雄『ユングとキリスト教』P210)
この底層流を正当に評価し、隠された実在を顕在化させることが必要となる。そのためには、西洋の科学・啓蒙主義・合理主義以前の古代・中世のそれぞれの時代の東西の形而上学を、絶対無という次元を共通の基盤として、統合的に捉え返すことが必要となる。それによって、西洋の形而上学を正統的な解釈の枠組みから解放し、現代に活かすことが可能になる。
近代については、啓蒙主義以前の形而上学、啓蒙主義と対決しその超克をめざした形而上学を、東洋の形而上学と共通の基盤から統合的に捉え返さなければならない。そのうえで、近代文明の危機をもたらした啓蒙主義・合理主義を超克し得る新しい形而上学の形成をめざす東西の現代思想を、共通の基盤から統合的に捉え返すことが必要となる。
ヤスパース、中村元は、東西の哲学史の並行現象を指摘している。これを、東西の形而上学の並行現象として以上のようなかたちで捉え返す。それによって、古代〜現代の東西のすべての形而上学は、永遠相下に見られたものとして、同時的なものとなり、現代に生きるすべての個人に人格の根本的転換の決断を迫るものとして、彼らによってわがものとして獲得されることになる。
東西の形而上学の歴史の総体を統合的に捉え返すための基本構図
ヤスパースの言うように「われわれはヨーロッパ哲学のたそがれから世界哲学のあけぼのの途上にいる」のであり、「やがて来る全地球哲学」の形成は、<有>の形而上学から<絶対無>の形而上学への転換によって成し遂げられる。そのような観点からの東西の形而上学の歴史の統合的把握の基本構図は、次のようなものである。
◎古代の精神革命
○ギリシャ――イオニアの自然哲学(フュシス)、ソクラテス、プラトン(善のイデア)、アリストテレス(不動の第一動者)。
○インド――ウパニシャッド(ブラフマン・アートマン)、釈迦(ダンマ)。
○中国――孔子(天)、老子・荘子(道)。
◎古代の東西の形而上学
○プロティノス―― 一者・絶対無の形而上学、事事無礙。
○華厳思想――空・絶対無の形而上学、事事無礙。華厳思想のプロティノスへの影響。
◎普遍思想と形而上学
○イエス(プネウマ)とパウロ・ヨハネの神学(ヨハネ神学→アウグスティヌス→マイスター・エックハルト→タウラー→ルター)。
○大乗仏教――龍樹(大乗仏教理論の開祖)の中観と世親の唯識。
◎古代、東西それぞれにおける思想の統合
○アウグスティヌス――ギリシャ哲学とキリスト教の統合。
○中国華厳・天台――インド仏教と中国思想の統合。
◎中世、東西それぞれに於ける形而上学体系の構築。
○トマス・アクィナス――古代以来の西洋哲学の総合・体系化。
○朱子・王陽明――古代以来の東洋哲学の総合・体系化。
◎中世、東西それぞれにおける神秘主義(絶対無の実在・実在体験)と絶対無の形而上学の形成。
○マイスター・エックハルト――プロティノス・アウグスティヌスを継承。
○イスラーム神秘主義――イスラーム哲学へのプロティノスの影響。
○道元・親鸞――道元・親鸞思想とエックハルト思想の照応関係。
◎近代
○ルネッサンス――ギリシャ哲学へ回帰(フィチーノがプロティノスへ)。プロティノスを介して華厳思想と対応させる。
○宗教改革――ルターが原始キリスト教へ回帰。パウロ神学を介して大乗仏教思想と対応させる。
○デカルトのコギトとスピノザ・ライプニッツの哲学――スピノザ・ライプニッツの形而上学と華厳・天台の形而上学との対応。
○科学革命(ニュートン力学)と18世紀啓蒙主義・カント哲学。カントの物自体と東洋の絶対無。
○ドイツ観念論――ヘーゲル哲学−啓蒙主義の完成とその克服。古代以来の西洋哲学の総合・体系化。西洋の正統的形而上学の完成。ヘーゲルの『精神現象学』と空海の『十住心論』を対応させ、前者の有の形而上学を後者の絶対無の形而上学へ超越する。シェリング哲学−ドイツ観念論の崩壊と西洋の正統的形而上学の終末。シェリングと仏教思想の対応。
◎現代哲学への転換
○キェルケゴール――ヘーゲル哲学の崩壊と実存の思想。
○ニーチェ――そのニヒリズムをエックハルトを介して大乗仏教思想と対応させる。
○フォイエルバッハ・マルクス――マルクスの自然主義=人間主義とフォイエルバッハの<自然>を、ギリシャの<フュシス>を介して東洋的自然と対応させる。
◎現代
○相対性理論・量子力学とフッサールの現象学――現代科学と形而上学の統合。朱子の自然哲学を継承した三浦梅園の自然哲学と対応させる。
○フッサールの現象学から実存哲学へ――ハイデガー・ヤスパースの哲学と西田・田辺哲学。西洋の正統的形而上学とは別の形而上学の形成をめざすハイデガーの<存在>と、大乗仏教の<空>の現代化としての西田幾多郎の<絶対無>を対応させる。
「結局哲学史は永遠の真理のかけがえのない一回限りの形態での多様な顕現、新たな根源のそのつどの覚醒の反復ということになる」(ヤスパース)のである。
西洋哲学史上最初の絶対無の形而上学としてのプロティノスの一者の形而上学
東西の形而上学の歴史の総体を統合的に捉え返すための基本構図を、このようなものとして確認したうえで、現代において、<有>の形而上学から<絶対無>の形而上学への転換を成し遂げるために、まず、西洋において初めて<絶対無>の形而上学を形成した新プラトン主義の哲学者プロティノスの思想が見てみることにする。
かくして「実在と思惟の彼方」、「美と善の彼方」、「万有の彼方、いと荘厳なるヌースの彼方」に、絶対充実即絶対無としてのプロティノス的「一者」が定立された。彼以前の思想家達は、いずれも絶対者を無としてではなく有として、積極的肯定的にのみ捉えようと焦燥し、そのためにかえって絶対者の深玄幽邃な本姿を逸した。この点に於いて、プロティノスはまさに独立独歩の観があった。彼は、その絶対無の形而上学によって、たんにアリストテレスを越えてプラトン精神に帰ったばかりでなく、プラトン精神を極限にまで推しすすめつつ、ついにプラトンその人をも越えたということができるのである。(井筒俊彦『神秘哲学』第二部P205〜206)
プロティノスは、プラトン精神を極限にまで推し進め、それを超克することによって、西洋哲学史上初めて、絶対無の形而上学を形成した。ただ、このことは、プラトンの実在・実存体験が、プロティノスのそれより浅いということを意味するのではない。そのことについて井筒俊彦は、次のように述べている。「ギリシャ思想史の長い旅路をはるばるプロティノスまで辿って来て、そこから振りかえれば、我我は絶対者にたいするプラトンの哲学的把握が、少くとも彼の著作に具体化されたかぎりに於いては、まだ窮極的ではなく、なお最後の一歩を残していたことを見出さざるを得ない。もとより、『善』それ自体は、観照的体験によって捉えられた最後の究竟絶対者であって、これをさらに越えるということはいかなる意味に於いても不可能であるが、この究竟者を形而上学的にロゴス面に移して行くその移し方に、なお一歩を進める余地を残していたというのである」(『神秘哲学』第二部P205)。
プラトンは、感覚的存在界の彼岸にイデア界の存在を認めた。そして、全イデア界の根本に、さまざまなイデアを統一する「イデアのイデア」としての「善のイデア」という実在が存在する、とした。だが、プラトンは、『国家』において、実在とそのまま同じではなく、実在の彼方に超越した「善者」に言及している。井筒俊彦は、「善のイデア」をプラトンの絶対者の公教的側面、「善者」を秘教的側面として区別できる、としている。プロティノスは、究極的実在である「一者」を「善者」とも呼んでいる。このことは、プロティノスが、プラトンの実在の秘教的側面に思索を集中して、プラトンがロゴス化することを拒んだ「善者」をロゴス的に追求した、ということ意味している。こうして、プラトンの絶対者の公教的側面のロゴス化としての<有>の形而上学を超越する、<絶対無>の形而上学としての一者の形而上学が形成されることになったのである。
同一の実在・実存体験をそれぞれの思想的文脈でロゴス化した華厳とプロティノスの形而上学
プロティノスの形而上学をこのようなかたちでとらえ返すことによって、東西の形而上学を、絶対無という究極的次元を共通基盤として統合することが可能である、ということが明らかになる。そのことをより具体的に解明するために、プロティノスの思想と大乗仏教の華厳の思想を対応させてみることにする。そのことに関して、井筒俊彦は次のように述べている。
「事事無礙」は、華厳的存在論の極致、壮麗な華厳哲学の全体系がここに窮まるといわれる重要な概念であります。しかし「事事無礙」という考え自体、すなわち経験的世界のありとあらゆる事物、事象が互いに浸透し合い、相即渾融するという存在論的思想そのものは、華厳あるいは中国仏教だけに特有なものではなく、東西の別を越えて、世界の多くの哲学者たちの思想において中心的な役割を果たしてきた重要な、普遍的思想パラダイムであります。……イスラームの哲学者、イブヌ・ル・アラビーの存在一性論もその典型的な一例ですし、その他、中国古代の哲人、荘子の「混沌」思想、後期ギリシャ、新プラトン主義の始祖プロティノスの脱我的存在ヴィジョン、西洋近世のライプニッツのモナドロジーなど、東西哲学史に多くの顕著な例を見出すことができます。これらの哲学者たちの思想は、具体的には様々に異なる表現形態を取り、いろいろ違う名称によって伝えられてはおりますが、それらはいずれも、華厳的術語で申せば「事事無礙」と呼ばれるにふさわしい一つの共通な根源的思惟パラダイムに属するものであります。わけてもプロティノスが『エンネアデス』の一節で彼自身の神秘主義的体験の存在ビジョンを描くところなどに至っては、まさしく『華厳経』の存在風景の描写そのままであります。(『井筒俊彦著作集』9P122)
「事事無礙」とは、すべての事(個物)が、それぞれ差別をもち、独存しているが、しかも他のものを拒否したり礙げることなく相即相入する、すなわち、網の目のように互いに入りあい、重重無尽に流通・融合して、全体として調和を保っている、ということを意味している。井筒は、この華厳思想の存在論的構造が、プロティノスの神秘主義的体験の存在ビジョンと酷似している、というのである。このことに関して、中村元は「恐らく、『華厳教』の思想がプロティノスに影響したのではないかと思われる」(川田熊太郎監修・中村元編集『華厳思想』P133)と述べている。
「事事無礙」とは、プロティノスの形而上学における叡智界(プラトンのイデア界にあたる)の存在構造である。プロティノスの形而上学は、次のような階層構造を有している。@最深層には、一者あるいは善者が存在する。A次の段階は、叡智界である。B第三の段階は、宇宙霊魂である。C第四の段階は、自然である。Dそして、最表層が質料である。究極的実在である一者あるいは善者は、自らのうちから流れ出て宇宙万物となるとともに、自らのうちに還帰する。そこに、前述した「存在の諸段階」が成立することになる。
人間の霊魂は、宇宙霊魂(第三神)に属しているが、自らを純化し、高めることによって、叡智界に上る。そして、叡智界を主宰する「大なる叡智」(第二神)と合一する。さらに人間は、一者あるいは善者(神)に上り、それと合一する。このように、人間は、より高い存在の段階に上ってゆくことによってより、高い自己を実現してゆく。これは、人間の霊魂の上昇面である。一者あるいは善者と合一した人間の霊魂は、そこから叡智界へ下り、さらに宇宙霊魂へ下る。これは、人間の霊魂の下降面である。先述したように、一者あるいは善者は、自らのうちから流れ出てゆくとともに、再び自らのうちに還帰する、という循環運動を展開する。人間は、霊魂の上昇・下降運動によって、一者あるいは善者の循環運動を自ら主体的に体験する。これは、一者あるいは善者との合一という実在・実存体験を基底とする全実在界大の実在・実存体験と言うことできる。
華厳の思想がプロティノスの思想に類似しているということは、このような循環構造を持つ同一の実在・実存体験を、両者が、それぞれの思想的文脈においてロゴス化したことによるものとして捉えるべきであり、単なる偶然の一致と解してはならない。
プロティノスが、叡智界として捉えた実在界を、『華厳教』では、「世間界」を超えた「法界」としての「蓮華蔵世界」として捉えている。叡智界と蓮華蔵世界が、事事無礙という同一の存在構造を持つのは、両者が同一の実在・実存体験のロゴス化として存立しているからである。また、プロティノスが、叡智界の根底の一者あるいは善者として捉えた実在を、『華厳経』では永遠の超越的絶対者である「毘盧舎那仏」として捉えている。毘盧舎那仏を毘盧舎那仏たらしめているものは「法(ダンマ)」である。ダンマとは、釈迦がそれと合一することによって悟りを開くいた究極的実在である。それは、大乗仏教一般においては「空」という実在とされており、絶対無として捉えることができる。プロティノスが、究極的実在である一者あるいは善者を絶対無として捉えたということには既に言及した。したがって、プロティノスと華厳は、主体的体験によって捉えた絶対無という同一の実在を、一方は一者あるいは善者とし、他方は毘盧舎那仏としたということができる。
西洋においては、異端的・傍流的なものにとどまった絶対無の形而上学
霊魂とか毘盧舎那仏とかいう表現には、現代の人間は、違和感を覚えたり、反発を感じたりするかもしれない。確かに、それらの表現は、時代的制約を帯びている。しかし、プロティノスと華厳の形而上学は、自己が、全実在界の最深層に於いて究極的実在と合一することにより、全実在界を貫流する無限の創造的エネルギー・生命と一体化する――という実在・実存体験の哲学的表現として、全実在界の真実相と自己の真実相=<本来的自己>を解明していることにおいて、時代的制約を超えているのである。
東西の神秘主義は、その発展過程についてみても、実に長い歴史を持っているので、それぞれの時代の歴史的制約を免れることはできない。しかし、ひろく人類の思想に通ずる普遍的な真理をもち、それをそれぞれ特有のしかたにおいて印象的に提示している。それは時代を超えるものをもっている。その時代的制約を通して、いまのわれわれに、また他の文化圏の人々に、生きた真理をもって強く迫ってくるのである。(中村元『中世思想』下P367)
古代の東洋・西洋それぞれの地域における神秘主義的体験のロゴス化としてのプロティノスと華厳の形而上学を、絶対無という究極的実在を共通の基盤として統合的に捉え返してきた。それによって、それらの思想は、近代科学技術文明がもたらした危機に直面する現代の全人類によって、わがものとして獲得されるべき真理たりうるのである。
ただ、この場合、神秘主義という言葉は、通俗的な意味に解されてはならない。西谷啓治は、「自己の根源と根源的自己と、絶対者と真の自己とは全く二であると共にまた生きた一つであり、前者の生命か後者へ流通することによって、後者は前者へ直接に合一する。そして絶対者とのかかる生きた直接的な合一が、神秘主義に於ける体験並びに思想の中心点」(『著作集第三巻』P8)である、としている。西谷によれば、神秘主義はこのようなものとして、「自己は何であるか、何によって、何のためにあるか」等と問うものに対して、「自己は矢張自己、然も絶対者と合一する自己であり、また、絶対者によってと同時に自己によってである」(『前掲書』P9)という回答を与える。
このことは、一人ひとりの個人が、絶対者との合一を基底として、全実在界大の自己=<本来的自己>を実現すること、として捉え返すことができる。個人は、絶対者との合一という神秘主義的体験によって、非本来的自己から本来的自己への全人格的転換を成し遂げるのである。.
プロティノスと華厳の思想がともに<絶対無>の形而上学という性格を有していることを確認することによって、東西の形而上学の根源的な統合が可能であるということが明らかになった。だが、プロティノスのような<絶対無>の形而上学は、西洋においては正統的・主流的なものとはなりえず、<有>の形而上学に対して異端的・傍流的なものにとどまった。中村元は、そのことに関して次のように述べている。
このように東西のあいだに対応関係が見られるけれども、西洋においては否定神学や神秘主義は何といっても付随的なものであり傍流にすぎなかったが、東アジア・南アジアにおいては、少なくとも教義的には主流となっていた。空観のような思想は、西洋ではひろく根を下ろすことができなかったが、東洋では大乗仏教を通じて一般化した。(浄土真宗の教学といえども、空の理論を基礎としている。少なくとも教義の上では表面的には基本思想とみなされていたのである。)ここに、東と西では重点の置き方が異なっていたと言い得るであろう。(中村元『前傾書』P358)
プロティノス精神の継承者としてのアウグスティヌスとその思想の限界
そのことを確認したうえで、プロティノスの神秘主義思想が、以降の西洋の形而上学の歴史において連綿として継承され続けていった、という事実を見逃してはならない.。その継承がどのようなかたちでなされたかを、まず、井筒俊彦が、プロティノスの精神の真の継承者と見做しているアウグスティヌスの思想について見てみよう。
アウグスティヌスの思想は、継承した新プラトン主義の神秘主義思想を、キリスト教と結びつけることで形成された。彼は、『告白』において、プロティノスと同様の霊魂の上昇の神秘主義的体験について語っている。プロティノスは、宇宙霊魂に属する人間の霊魂は、叡智界に上り、さらに一者に至ってそれと合一する、としていた。それに対し、アウグスティヌスは、人間の霊魂は、感覚的世界から精神へと上昇し、さらに神に至ってそれと超感覚的に合一する、としている。
そのアウグスティヌスが、神の三位一体の一、父と子と聖霊の唯一実体としての「神性」に言及していることは注目に値する。神性とは、顕示する神に於ける隠れた背面である。これは、プラトンの絶対者の公教的側面である善のイデアに対する秘教的側面である善者に相当するもの、ということができる。プラトンは、神秘主義的体験によって捉えられた最後の絶対者を形而上学的ロゴス面に移すことにおいて不徹底性を残した、ということには既に言及した。アウグスティヌスの思想も、また、それと同じ限界を有している.。
そのことについて、西谷啓治は「彼の正統派的信仰が彼をしてその前から避けしめ、彼をしてそれに陥ることを反って警戒せしめたと思われる一つの帰結が残されていた。それは即ち、先に述べた神と神性との区別の徹底である」(『著作集』第三巻P90)と述べている。アウグスティヌスは、神を有とするキリスト教の正統信仰のために、有の形而上学の枠を超え絶対無の形而上学を形成することはできなかったのである.。
神性との合一という実在・実存体験に基づくエックハルトの絶対無の形而上学
このアウグスティヌスの思想の限界の克服が、彼以降の神秘主義思想家の課題となる。それは、「アウグスティヌスのうちにも含まれていた新プラトン的傾向を一層強調することによって、遂には有である神と区別された『超有』又は『無』としての神性に達する」(西谷啓治『前掲書』P90)こととして実現される。それが、ディオニシウスからエリウゲナを経て、エックハルトに至る系統の神秘主義である。
エックハルトは、永いあいだ有(esse)を神の本性の定義としていたが、ついに最後には神を有を超えたものであると宣言した。……<有と無との対立を超えたもの>は大乗仏教においては「空」と呼ばれ基本的な観念となり、それを基礎として幾多の思想体系が成立したのであるが、しかし、西洋ではエックハルトが最後に到達した思想的結論はさほど発展しなかったようである。ここにも東と西との大きな相違を認めることができる。(中村元『前掲書』P443〜444)
エックハルトは、人間の生の究極目的は神との合一による真の自己の実現である、とする。エックハルトにおける神への上昇の神秘主義体験とは、次のようなものである。人間の霊魂の諸力は、通常の場合、外界に向かって働く。神と合一するためには、その諸力を内に向かって集中しなければならない。この状態が「精神}としての霊魂であり、霊魂はここから神へと向かい神と合一する。この場合の神は有としての神であり、人間は有としての人間である。霊魂は有としての神を超えて「神性」に至り、それと一つになる。
神性とは、有と無の対立を越えたもの、すなわち絶対無である。エックハルトは、霊魂がこの神性と一つになることを、「神の根底は私の根底、私の根底は神の根底」と表現し、それによって人間は真の自己、自由な自己となる、としている.。このように、エックハルトは、アウグスティヌスにおいては不十分であった神と神性との区別を徹底させ、絶対無との合一という実在・実存体験に基づく形而上学を形成した.。プロティノスの絶対無の形而上学は、アウグスティヌスを経てエックハルトによって継承された、と言うことができる。
プロティノスによれば、一者あるいは善者は、自らのうちから流れ出て宇宙万物となるとともに、再び自らのうちに還帰する――という宇宙的な循環運動を展開してゆく。プロティノスは、この循環運動を、自らの生の上昇・下降運動によって、主体的に体験することで、絶対無の形而上学を形成した。
エックハルトによれば、絶対無としての神性は、一者あるいは善者と同じように自らのうちから三一神を展開し、さらに万物を展開するとともに、再び自己のうちに還帰する――という宇宙的な運動を展開する。神性のこの運動は、同時に人間の生の運動である。すなわち、人間は、自己を神性と合一させることにより、宇宙的な運動を自らのうちで展開してゆく。それは、具体的には次のようなものである。
霊の神化という見地からいえば、かの宇宙論的なディアレクティークは、神自身の自己展開として神のディアレクティークてあり、然も同時にどこまでも神の内で起こるものであると共に、その侭また霊の内で起るものともいわれ得る。私が無の根底に立つ限り、かの宇宙論的な展開は、いわば私の霊を軸としてその廻りで行われ、私の霊の底なき根底を根底としてその上で行われるのてある。その意味では、霊が神性の「無」に入って霊「ひとり」となるという時、霊は多くの「神化」する霊の一として神性に包まれるいうだけではない。寧ろ宇宙全体と神とをも根底的に包む神性とその無際涯なる広袤を等しくし、神性そのものと一つになるのである(『西谷啓治著作集』第七巻P70)。
同じ実在・実存体験のキリスト教的・仏教的表現、エックハルトと道元・親鸞の絶対無の形而上学
プロティノスの絶対無の形而上学を継承したエックハルトの絶対無の形而上学は、このような実在・実存体験のロゴス化として形成された。プロティノスの形而上学については、華厳の形而上学とのあいだに照応関係があるが、それは、両者が同一の実在・実存体験をそれぞれの思想的文脈において表現していることによるものである、ということには既に言及した。プロティノスと華厳の形而上学をこのようなかたちで捉え返すことによって、東西の形而上学を、絶対無という究極的次元を共通の基盤として統合することが可能になることを明らかにし得る、ということにも既に言及した。
ところで、華厳の思想は中国において、禅宗に大きな影響を与えた。すなわち、「さて仏教諸宗派の中で、最も直爾端的に『本来の面目』『本分の田地』の把持を高調するものは、禅宗であり、その禅宗に思想的基盤を与えるに最も力あったものは、『本来的一乗教』である華厳学であった」(荒木見悟『仏教と儒教』P7)。その中国禅を継承し独自の思想を形成した道元とエックハルトのあいだに思想的照応関係があるということは、既に幾人かの人によって指摘されている。
このことは、プロティノスと華厳の関係と同じように、エックハルトと道元が、同一の実在・実存体験をそれぞれの思想的文脈においてロゴス化たことによるもの、として捉え返されねばならない。エックハルトの形而上学は神性との合一という実在・実存体験に基楚づけられていたが、道元の形而上学において、それに対応する実在・実存体験は、「前後際断して絶対現前の今の瞬間に於いて只管に打坐する我は同時に如来地に坐する仏祖である。この瞬間に我は即仏祖である」(秋山範ニ『道元の研究』P237)というものである。道元の形而上学は、仏祖(釈迦が合一した究極的実在であるダンマ=絶対無)との合一という実在・実存に体験に基礎づけられている。この実在・実存体験とは、具体的には次のようなものである。
道が広大無辺な「活き」によって宇宙全体を貫き、宇宙の隅ずみまで遍満している。坐禅とはこの「活き」と一つになり、無心に遊ぶが如く、宇宙全体を自由自在に遊戯することである。これこそ道元の「宇宙遊戯」と言ってよいだろう。同時にそれは衆生済度の仏行であるから「宇宙遊化」でもある(門脇佳吉『道の形而上学』P127)。
これは、神性と合一した自己が、神性が展開する宇宙的な運動を、それと一体的に自らのうちで展開する――というエックハルトの全実在界大の実在・実存体験と完全に照応するものである。この同一の実在・実存体験を、エックハルトはキリスト教哲学的に表現し、道元は仏教哲学的に表現した。道元は、それによって、大乗仏教の「空」の観念を基礎とした独自の絶対無の形而上学を形成した、と言うことができる。
エックハルト思想との照応関係は、自力門とされる禅宗の道元思想に対して他力門とされる浄土真宗の親鸞思想とのあいだにも見いだすことができる。そのことは、玉城康四郎が、『教行信証』「行巻」の根本特徴を「ありとあらゆる世界は、窮極唯一の法身へ、濾過され、浄化されていると同時に、この法身はまた、ありとあらゆる世界に充ち満ちており、かつ滲透してやまないということである。一切世界から唯一法身への濾過と、唯一法身から一切世界への滲透は同時であり、こうした唯一法身と一切世界との相互裏打ちのなかで、念仏の大行が実現し主体化するのである」(『仏教の根底にあるもの』P136)としていることを見ても明らかである。
念仏とは、無碍光如来の名を称することであるが、それは、「如来の世界が事実として実現されることであり、念仏者自身に主体化されることである。いいかえれば、如来の無碍光が念仏の主体者に滲透してやまないこと」(『同書』P133)なのである。
親鸞の思想は、前述した神性と合一した自己が、神性が展開する宇宙的な運動と一体的化し、それを自らのうちで展開する――というエックハルトの実在・実存体験と同一の体験を、仏教哲学的に表現したものである。この同一の実在・実存体験を、道元は禅的に、親鸞は浄土的に表現したのである。そのようなものとして、親鸞の思想は、大乗仏教の「空」の観念に基づく独自の絶対無の形而上学であると言うことができる。
エックハルトの思想と道元・親鸞の思想の照応関係の根底には、東洋と西洋という枠組みを超えた普遍的な実在・実存体験が存在している。そして、この実在・実存体験は、プロティノスの思想と華厳の思想の照応関係の根底に存在した実在・実存体験と同一のものなのである。それは、絶対無と合一することを基底として、全実在界を貫流する無限の創造的エネルギー・生命の運動と自らの生の運動を一体化させる――という全実在界大の実在・実存体験である。この運動によって実現される全実在界の真実相と自己の真実相=<本来的自己>を、最深層の永遠の次元に於いて、一挙・同寺に把握したもの、すなわち、永遠相下に見たものが、全実在界大の実在・実存体験のロゴス化としての絶対無の形而上学である。
そのようなものとして、プロティノス・華厳・エックハルト・道元・親鸞の絶対無の形而上学は、古代・中世という時代的な相違、東洋・西洋という場所的な相違を超えて永遠の真理を体現してしいる。だから、それらの形而上学は、永遠の哲学として、現代に生きる全人類・一人ひとりの個人に非本来的自己から本来的自己への全人格的転換を強く迫るだけの思想的な力を有しているのである。
西洋の有の形而上学の完成者ヘーゲルの『精神現象学』と空海の『十住心論』
中村元が指摘しているように、エックハルトが、神は有を超えたものであるという思想的結論に基づいて形成した絶対無の形而上学は、その後の西洋の哲学史において主流的な地位を占めることはなかった。しかし、彼の思想は、深いところにおいて、その後の哲学に大きな影響を与え続けていったのである。ナトルプは、エックハルトからニコラウス・クザーヌス、ヨハン・ケプレルを経てライプニッツへ、そしてカントへ、という思想の流れを見いだしている。それを踏まえて西谷啓治は、「カントに初まる独逸哲学の壮大な山脈も、曾てエックハルトが極めた高みを再び取戻そうとする」(『著作集』第七巻P260)ところから形成されたものだと言える、としている。
プラトンに始まる西洋の正統的な有の形而上学は、ドイツ観念論の頂点に位置するヘーゲルの形而上学において、その完成をみた。プラトンの形而上学は、神秘主義的な真実在体験のロゴス化として形成された。既に言及したように、プラトンの神秘主義的体験とは、自己が、感覚界から超越的世界へと翻転し、さらに超越界の絶頂にまで飛躍して真実在と合一する、というものであった。その場合、プラトンの体験は、善のイデアの根底の善者の深みまで到達していた。しかし、プラトンは、その体験をロゴス面に移すにあたって不徹底であったために、彼の形而上学は有の形而上学にとどまった。
プロティノスは、このプラトンの不徹底性を克服し、善のイデアの根底の善者=一者に立脚する絶対無の形而上学を形成した。そのプロティノスの神秘主義的的体験とは、宇宙霊魂に属する人間の霊魂が、自己を純化し高めることによって叡智界に上り大なる叡智と合一し、さらに一者あるいは善者に上りそれと合一する、というものであった。
ヘーゲルにおいて、これに対応するものは、『精神現象学』における、感覚的確信から出発して、知覚、悟性、自己意識、理性、精神、宗教、絶対知というかたちでの意識の段階的な上昇・純化の過程である。『精神現象学』が、最後に到達した絶対知を原理として展開されるのが、ヘーゲルの形而上学としての『論理学』の体系である。その『論理学』は、有を始元とするものであり、ヘーゲルの形而上学は、有の形而上学なのである。
西洋の形而上学の歴史は、存在忘却の歴史である――とするハイデガーは、存在をイデアと解釈することがプラトンとともに始まった、とする。ハイデガーによれば、存在をイデアと解釈することは、存在をフュシスとして根本的に経験することから生じている。しかし、存在をフュシスとして解釈するのではなく、イデアが存在の唯一の決定的な解釈となるとともに存在忘却の歴史が始まる、というのである。そして、「それ以来、存在を理念と解する解釈が、西洋の思考のすべてを、その変遷の歴史を貫いて今日に至るまで、ずつと支配している。西洋的思考の第一期の偉大な究極的な決算であるヘーゲルの体系においても、現実的なものの現実性、すなわち、絶対的な意味での存在が『理念』として把握され、またはっきりとそうよばれているということは、やはり、いま述べた由来にもとづいているのである」(川原栄峰訳・『形而上学入門』P229)としている。
西洋の有の形而上学の完成形態としてのヘーゲルの形而上学を、このようなかたちで捉えるハイデガーは、現代は西洋の形而上学の終末の時期である、とする。そして、ハイデガーは、ギリシャのフュシス体験を取り戻すことによって、従来の形而上学とは異なる形而上学が到来する、と考えている。 このことは、西洋の形而上学が、有という枠組みを超えて絶対無という究極的実在に至り、それを共通基盤として東洋の形而上学と統合し、東西の枠組みを超えた「世界哲学」としての新しい形而上学の創出へ向かっている――こととして捉え返すことができる。
そのことをより具体的に理解するために、ヘーゲルの『精神現象学』との類似が指摘されている空海の『十住心論』を見てみることにする。『十住心論』は、第一住心から第十住心に至る人間の精神と存在の種々の発展段階を示したものである。すなわち、「十住心は我執に溺惑せる衆生の世俗的立場を超え、この我執の根底となる一切の迷妄を滅尽し、遂に大日如来の法身大我に帰入し、自己と大日と同体不二の妙趣を体得し、実のごとく自心の心性を知るに至る道程を明らかにするものである」(金山穆韶・柳田謙十郎共著『日本真言の哲学』P52)というものである。
大日如来の法身とは、ヘーゲルの『精神現象学』が到達した絶対知、すなわち有の根底の「空」、すなわち絶対無という実在のことである。『十住心論』は、世俗的世界に生きる主体が、自己を否定・転換して超越界に至り、その自己を深めてゆき、遂には究極的実在である絶対無と合一する、という神秘主義的体験道を示すものである。それによって、「自己中心の観点を、百八十度回転させる。つまりおのれへの執着を否定することによって、宇宙的な視座からおのれを眺める目が開かれる。それは大宇宙と同質のものとして、おのれを発見することであり、自我の内部にひそむ普遍的な宇宙意識を開発することにもなる」(松長有慶『密教』P92)。このように、空海の密教思想は、絶対無と自己との合一を基盤とする全実在界大の実在・実存体験のロゴス化としての、絶対無の形而上学なのである。空海の密教思想をこのようなかたちで捉え返すことによって、それが、現代において、プラトンに始まりヘーゲルで完成した西洋の有の形而上学を、新しい形而上学へと超克してゆく方向を指し示す力を有していることが明らかとなる。
エックハルト思想、ニーチェ思想、華厳をはじめとする東洋思想の照応関係
ドイツ観念論においても、ヘーゲルの形而上学の原理である有の根底に、フィヒテは「絶対者それ自身」、シェリングは「知ある無知」という境域を認めている。. 西洋の正統的な形而上学は、その完成と同時に超克に向かったということができる。すなわち、有の形而上学を絶対無の形而上学へと乗り越えてゆくという方向を示した、ということである。ヘーゲルの哲学体系崩壊以降の西洋哲学は、この方向に進むことによって、エックハルトが極めた高みそのものへ至ろうとしている、と見ることができる。
そのことは、ヘーゲル哲学と対決したニーチェの思想とエックハルトの思想に照応関係が認められることによっても明らかである。信太正三によれば、「ニイチエの企図は、人間を創造者にまで呼び返すことにあるとみられる。人間を自己本来の創造的≪混沌≫に深く根づかせ、その根元の無尽蔵の産出力にまで引き戻すことである。その引き戻しは、もちろん、同時にあくまでそれぞれの実存者の自己による自己への前進的引戻しである。今ある自己を超え進んで本来の自己存在へと行き戻る試みにほかならない」(『ニイチエ研究』P32)。こうして「超越的な神々の死の後の世界、意味なく目的なきこの世界の底に、ニイチエの見いだすものは≪混沌≫の存在にほかならなかった。それ自らの蔵する力の発揚のままに、あふれ去りあふれ来る混沌のデュナミック、破壊し建立しつつ貫流し来る混沌生成力、人間の生は自らの根源においてこの≪混沌≫に達して其の混沌力のままに破壊し創造する遊戯に住するところに、自由を得る道がある」(同書P40)のである。このことは、ニヒリズムを回避することなく、その主体となり切ることによって、ニヒリズムを克服した自己が絶対無という境域に到達する――ということとして捉え返すことができる。
ニーチェが到達したこの境域について信太は、「西洋の近代の哲学者にして、キリスト教神秘主義の道を辿ることなしにここまで思索を運び入れたのは、ニーチェが最初ではないだろうか。。彼は一つの新しい独自な宗教的世界へと踏みこみはじめていたように見える。キリスト教の神をその反対極へと遠ざかることを通じて、まさしく逆対応的ともいえるかたちで、神なき神性に面したといえるかもしれない。エックハルトが神をば神性へと前進的に突破したとするならば、ニーチェは同じようなことを背進的に突破した、と考えられなくもない」(『永遠回帰と遊戯の哲学』P174)と述べている。
ニーチェは、エックハルトと同じように、有としての神の根底の神性すなわち絶対無にまでその思索を深めていった。 そのことに関して信太は、「禅や老荘へ、また華厳や天台の哲学へと通じる西洋の道を切りひらきはじめていたように思う」(同書P174)と述べている。このことは、西洋の非主流的な神秘主義思想が、東洋の主流的な神秘主義思想と、現代における新しい絶対無の形而上学の形成に向けて統合されてゆきつつある、ということを示している。それは、現代における全人類的な思想課題である。近代科学技術文明がもたらした全人類的危機を根底的に克服するためには、人類の思想史の総体における現段階の課題が、このようなものであることをはっきりと把握しておかなければならない。
ハイデガー哲学と西田哲学、現代において絶対無という次元で遭遇し、統合に向かう東西の哲学
西洋の形而上学の歴史は、存在者と区別される存在を忘却し続けてきた歴史である――とするハイデガーが、存在に基づく別の形而上学を構想していた、ということには既に言及した。その別の形而上学を、茅野良男は「自現の形而上学」と呼んでいる。自現(Ereignis)とは、人間と存在との呼応関係である。存在は人間を呼び求め、人間はそれに応ずることによって、存在者の次元から存在のうちへ跳躍しそれに帰属するとともに存在者の次元に還帰する。それによって人間は、その究極的で本来的なあり方を実現する。
ハイデガーの存在が、西洋の正統的な形而上学が解明してきた有の根底の絶対無である、ということには既に言及した。したがって、自現の形而上学は、絶対無と自己の合一によって本来的自己を実現するという全実在界大の実在・実存体験のロゴス化としての――絶対無の形而上学の形成をめざしているもの、として捉え返すことができる。
ハイデガーは、彼が西洋の形而上学の終末期であるとする現代において、そのような自現の形而上学を構想している。ハイデガーは、近代科学技術文明の根底には自現が潜んでおり、人間は自現に還帰することによって、その本来的あり方は持つことができる、としている(渡辺二郎『ハイデッガーの存在思想』P267参照)。このことは、科学的知性と技術的意志によって自己の生を律する個人が、全実在界に還帰することによって、本来的的自己を実現することができる、ということとして捉え返すことができる。そのハイデガーは、「現代という世界時代の内に於いて思策のこととすべき事柄は一体何であるか、そしてまたその事柄は、一体如何にして定められるか」と問うている。
その問いに関して彼が、「開けを思索することとそれを十分に<すなわち、開けの内にまで行き届くという仕方で>特徴をつけることを通って吾々はある一つの境域のうちに到達し、その境域は、変転されたヨーロッパ的思索を東アジア的『思惟』との稔り多き対決的解明の内へ齎すことを、たぶん可能にするであろう。その対決的解明は、人間的現有を極度に技術的に算−定し操作することに依る脅威、そういう脅威に面しつつそこから人間の本質を救い出すという労苦に満ちた仕事に、助勢し得るかも知れない」(辻村公一訳『思索の事柄へ』P157〜158)と述べていることは注目に値する。西洋起源の近代科学技術文明が、全地球的規模に拡大し、全人類的危機をもたらした現代において、プラトン以来の形而上学とは別の形而上学を構想するハイデガーが、東アジア的思惟との稔り多い対決的解明の可能性を指摘しているのである。
これに対して、東アジアにおいては、西田幾多郎が、東洋の伝統的形而上学を踏まえて、ギリシャから現代に至る西洋思想と対決し、東西の哲学を統合した「世界哲学」の形成を追究している。西田は、『一般者の自覚的体系』中の「叡智的世界」という論文において、全実在界を四つの次元を有するものとして捉えている。四つの次元とは、最表層から最深層に向けて、@判断的一般者、A自覚的一般者、B叡智的一般者、C絶対無の場所、である。
自覚的一般者に於いてある意識的自己は、自己の底に超越することによって、叡智的一般者に於いてある叡智的自己に至り、、叡智的自己が自己の底に超越することによって、、絶対無の場所に於いてある真の自己に至る。西田は、絶対無と自己の合一を基底とする全実在界大のを実在・実存体験のロゴス化としての絶対無の形而上学を形成しようとしていた、と言うことができる。
ハイデガー哲学と西田哲学をこのようなかたちで対応させて捉えることによって、それぞれ2500年の伝統を有する東洋と西洋の哲学が、現代において、絶対無という次元で遭遇し、ハイデガーの言う「世界時代」の「世界哲学」としての絶対無の形而上学の形成に向けて統合をされてゆくという方向を示している、ということ明らかにすることができる。
東西の形而上学の統合、諸科学と形而上学が統合された統一的・全体的な知の形成
西谷啓治が、世界が真に一つになってゆく現代において、神秘主義が果たす役割について次のように述べていることも、そのような観点から捉え返すべきであろう。
その意味からいって、「世界」を異にした基督教と仏教との間にすら、なお相通ずる緒が見出されるということは、単なる好奇の対象という以上の意義をもつのである。それはいわば、歴史的に隈なく制約された二つのものの内から、その歴史的限定を突破しつつ、人間の永遠なる本質の根底そのものを地盤としたような宗教的な生或は少くともその切尖が、露呈されているということである。勿論かかることは、ただエックハルトと禅とに就いてのみ言えるのではない。或る意味で其等への対極に位するルターと浄土門との間にも、唯信の立場としての照応か見出される。此の両者の間に於ける類似も、既に多くの人々の注目を引いた事柄である。いずれの場合にせよ、その照応の根底には、人間の本質そのものに根差す根源的な宗教的生が、その普遍性のままで、音づれを伝えていると解することが出来る。……宗教的生に於ける普遍性ということから言えば、神秘主義ほど普遍的なるものはない。西洋に於ては、それは希臘哲学と基督教とを貫通し、カトリックと新教とを貫通している。それは回教のうちからも力強く出現して居り、婆羅門教以来の印度の宗教はそれに満たされている。そして仏教はいわばそれの身心脱落した形態ともいうべきものである。……兎に角、何等かの形て神秘主義はあらゆる宗教のうちに含まれている。多くの宗教心理学者や宗教哲学者が神秘主義に宗教の本質を求めたことも、その理由はあるのである。即ちそれが、人間の本質そのものを地盤とした宗教的生と見做されたからである。世界が真に一つの世界になって行く時、世界霊性史の将来に於ける展開は、神秘主義に深い関係をもつであろう。(『西谷啓治著作集』第七巻P6〜8)
プロティノスと華厳の思想が、ともに絶対無の形而上学という性格を有していることを確認することによって、東西の形而上学の根源的統合が可能であることが明らかになる、ということには既に言及した。それが可能となるのは、東西のさまざまな形而上学が、人間の本質そのものを地盤とした普遍的な宗教的生である神秘主義の哲学的表現として存立しているからである。
中村元は、『華厳経』の思想がプロティノスに影響を与えたのではないか、という見解を示していた。そのプロティノスの思想がアウグスティヌスにおいてキリスト教と統合された、ということには既に言及した。井筒俊彦は、「華厳は、プロティノスを通して、イスラーム哲学にも、中世ユダヤ哲学にも深く関わってくることになるのです。イスラーム哲学、特にスーフィズムは、プロティノスの強い影響の下に発展した思想潮流ですし、タルムード期以後のユダヤ哲学の史的展開もまた、プロティノスをぬきにしては考えられません。……イブヌ・ル・アラビーの『存在一性論』も、プロティノスの影響を受けております。」(『著作集』9P127)と述べている。「存在一性論」とは、「観想によって開けてくる意識の形而上学的次元において、存在を究極的一者として捉えた上で、経験的世界のあらゆる存在者を一者の自己限定として確立する立場」(『イスラーム哲学の原像』序)であるが、この場合の究極的一者とは絶対無である。華厳の思想は、このようなかたちでイスラーム哲学に影響を与えたが、華厳をはじめとする大乗仏教思想は、中国によって受容され儒教・老荘思想との統合を成し遂げた。
それぞれの時代、東西それぞれの地域において、このようなかたちで二つの思想の統合が実現したのは、それらの思想が、西谷の言う人間の永遠なる本質の根底そのものを共通の地盤としていたからにほかならない。現代においては、東西それぞれの思想の展開の歴史を踏まえ、それらの思想の総体を、東洋と西洋という枠組みを超えて共通の究極的成立基盤から統合してゆかねばならない。それが、現代の人類に課せられた壮大な思想的課題である。
現代における絶対無の形而上学は、この課題を解決するものとして形成される。それは、全人類が直面する生態学的生存の危機、全人類の運命となったニヒリズムを根底的に克服するものであらねばならない。形而上学を排斥した近代科学の一般化としての啓蒙主義的・合理主義的思考によって自己の生活を律する現代の諸個人は、<本来的自己>を忘却した。そのため、虚無の深淵から無限衝動となって噴出してくる力を制御することができず、自然生態環境と人間と社会文化環境とのあいだに深刻な対立・相克を生じさせてしまった。
これは、単なる環境破壊という問題ではない。この事態は、人間諸個人の生が、その究極的成立基盤から遊離したために、さまざまな生活行為が分散化し、それぞれが自己目的化するいうこと、として捉えられなければならない。諸個人の生は究極的目的を喪失し、根源的な自己同一性をを持てなくなっている。現在、解決がめざされている生活の全領域における諸問題は、その現われである。東西の思想の総体を統合したものとして形成される現代の絶対無の形而上学が、このような事態を根本的に転換させることを可能とするものであるためには、それは、近・現代の自然科学・人間科学・社会科学の総体を、全実在界の究極的境域を共通基盤として根源的に統合するものであらねばならない。
近代科学が排斥した形而上学が、このようなかたちで諸科学との内面的な連関性を取り戻すことによって、個別分散化した諸科学が統一性と体系性を有することが可能となる。
この諸科学と形而上学が統合された統一的・全体的な知を一人ひとりの個人が、わがものとして獲得することにより、科学的知識と技術的意志によってその生を制御される諸個人が、感覚的世界から超感覚的世界へ翻転し、その最深層の次元に於いて、究極的実在と合一し、<本来的自己>を実現するとともに、再び感覚的世界に還帰し、生活の全領域において生ずる諸問題を根底的に解決することが可能となる。それによって、科学的知識と技術的意志によって制御された猪個人の生は、その自己閉鎖性を克服し、他のすべての個物・個人と創造的エネルギー・生命によって一つに結びつけられた全実在界大の自己=<本来的自己>を実現するための外的条件となるのである。それが、一人ひとりの個人が自己のうちに貫流・充満する同一の創造的エネルギー・生命が、他のすべての個物・個人のうちにも貫流・充満しており、それによって自己が他のすべての個物・個人と一つに結びつけられている――という一体観に歓喜を覚えるという、生の究極目的を実現するということにほかない。