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 『現代哲学と人文科学――西田哲学でフーコー・デリダを読む――(現代の科学と哲学)

                                                                       (1987年 農文協刊)  ⇒農文協「田舎の本屋さん」はこちら

                                                                    ⇒目次はこちら

内容紹介

 1960年代中葉、ミシェル・フーコーは、人間の終焉について語った。「人間は消滅しようとしているのだ。神の死以上に――というよりはむしろ、その死の澪のなかでその死との深い相関関係において」(『言葉と物』)と。一方、西田幾多郎は1930年代末に、新たに生まれ出るべき人間について語っている。「近世の内在的人間中心主義から歴史的人間の客観主義に移る」ことによって「新しい人間は、再び人間成立の根底に還って、制作的・創造的人間として生まれ出なければならない」(「人間的存在」)と。

 このことは、現代の東洋と西洋の哲学者が同一の根本的な思想課題に取り組んでいるということを示している。ここで問題とされているのは、近代ヨーロッパ的な人間主体にほかならない。ヨーロッパ近代の人間とは、その普遍的理性によって、対象を客観化して自己に対置する存在である。それによって、世界は表象として意識に内在するものとなり,すべての存在するものは、その存在と真理の根拠を人間主観のうちに置くことになる。

 これこそ、人間の認識はすべて対象に従わなければならないという考え方から、対象は人間主観の先験的形式に従って構成されたものであるという考え方への――カントの「コペルニクス的転回」にほかならない。こうして近代ヨーロッパ的人間は、客観に対する主観というカントの純粋理性のうちに、その哲学的表現を見いだしたのである。カントは、人間が認識できるのは現象だけであって、その根底にあると思われる物自体については認識できない、という立場をとっていた。それは、自然を、数学的理性によって把握され、関数関係で表現される合理的で客観的な対象と化し、その根底の実体が何であるかについては問わない――という近代自然科学的な認識の哲学的な捉え返しにほかならない。

 だが、相対性理論・量子力学という現代物理学は、既に、主観−客観二元対立的次元の根底の次元を科学の立場から解明している。したがって、現代物理学が科学の立場から解明したのと同一の存在次元を哲学の立場から解明すること――それが、現代哲学の根本的な課題となる。それは、カントが認識不可能とした物自体の世界を対象とする新たな哲学的認識を形成するということにほかならない。フーコーや西田の言葉は、そのような世界認識の構図において捉え返されなければならない。

 カントは、人間の認識の対象を現象の世界に限定したが、それは因果律の支配する必然性の世界であった。したがって、そこに人間の自由は存在しえない。そこで彼は、現象の世界の根底の物自体の世界に、人間の主体的自由の根拠を求めた。現代哲学は、主観−客観二元対立的世界の根底の世界を認識対象とし、そこに有限的人間の自由を根拠づけることを求められているのである。

 本書では、フッサール、ハイデガー、西田幾多郎、フーコー、デリダの哲学を、この課題にそれぞれどのようなかたちで取り組んでいるかという観点から捉え返している。

 フッサールは、近代哲学は近代自然科学的方法を模範としたために、理念化された客観的世界像を真理とみなした結果、それが形成されてきた具体的基盤を隠蔽した、としている。このような近代哲学の限界を克服するため、フッサールは、現象学的還元という方法によって、客観的世界からその根底の生活世界へと還帰する。そこに存在するのは、超個人的で普遍的な主観としての人間ではなく、経験し、認識し、具体的に能作している各自的な主観性としての人間である。そのような存在としての各人が、それぞれに独自性を保ちつつ相互に調和する「相互主観的世界」――それが、フッサールが解明した主観−客観二元対立的な世界の根底の世界の存在構造である。

 ハイデガーは、近代においては人間が世界の中心・基体となり、世界が像と化す、としている。これは、近代自然科学的方法を模範とした近代哲学に対するフツサールの批判と、同一の立場である。ハイデガーよれば、主観−客観二元対立的な世界の根底の次元に於ける人間は、もはや客観に対する主観としてではなく、世界の内に現に実存している人間として、「世界・内・存在」「現存在」という存在の仕方をしている。

 西田幾多郎は、近代の人間中心主義の克服を、人間成立の根底に還帰し、そこに「創造的世界の創造的要素」としての人間のあり方を解明する、というかたちで遂行している。西田によれば、主観−客観二元対立的世界の根底に存在するのは、もはや主観としての人間ではなく、その身体的行為によって自己を超えた世界へと関わってゆく行為的自己なのである。それは、意識内在的な表象としての世界ではなく、行為的自己がそこに於いて実践的に対象に働きかけ制作を行なってゆく、歴史的世界にほかならない。 

 この世界に於いては、全体は単なる個の総和ではないし、個は全体の部分にすぎないのではない。全体と個とが、いずれか一方に還元できないものとして、それぞれに独立を保って対立しながら、そのまま統一されている――という論理的関係にある。西田は、そのことを「全体的一と個的多との絶対矛盾的自己同一」と表現している。歴史的世界に於ける有限的個人の創造的自由は、そのような論理によってはじめて基礎づけることができる。即ち、諸個人は、同一の全体的世界をそれぞれ固有なかたちで表現する存在として独立性と自由を有している、ということを明らかにすることができるのである。西田は、「創造的世界の創造的要素として制作的・創造的なる所に、我々の真の自己というものがあるのである。」(「人間的存在」)としている。

 フーコーは、現代人文科学が近代的「人間」概念を解体しつつある、としている。フーコーによれば、それらの科学は、デカルトのコギトやカントの先験的主観の根底の次元に立っている。精神分析学は無意識的なものの次元に、文化人類学は歴史性の次元に置かれているのであり、言語学はそれらに形式的モデルを与えるものとして存在している。フーコーは、これらの人文科学をモデルとする「人間諸科学」の可能性を提示している。それは「生き話し生産するかぎりにおいての人間を対象とする」(『言葉と物』)科学、「歴史的人間」にかかわる科学なのである。フーコーの思想と西田哲学における歴史的世界に於ける制作的人間・創造的人間との間には、明らかに照応関係を見いだすことができる。

 デリダは、ソシュールの言語学やレヴィ・ストロースの文化人類学などの現代人文科学に批判を加えている。それは、人文科学の人間学化の危機を克服し、生き、語り、生産するかぎりでの人間、即ち歴史的人間を対象とする人間諸科学を形成する――というフーコーの提示した可能性を具体的に解明しているもの、ということができる。フーコーが、人間中心主義の超克の可能性を見いだした次元は、デリダによって、いかなる自己同一性を有する実体も見いだすことができない、すべてが他者関係の網の目の内に捉え込まれている世界、として解明された。差異を生み出す「差延作用」と、それによって生み出される差異の体系としての世界である。この世界は、フッサールの「相互主観的世界」を、デリダの立場から捉え返したものということができる。

 以上、現代の東洋と西洋の哲学者の思想を、西洋近代哲学の人間中心主義を超克し、主観−客観二元対立的世界の根底に有限的人間の自由を根拠づける――という共通の課題に、それぞれの立場から解決を与えている、という観点から統一的に捉え返した。その目的は、現代を生きる一人ひとりの人間が、近代的な人間中心的な生き方を根本的に転換して真に自由な自己としての生を実現することはどのようにして可能か、ということを明らかにすることである。

 なお、本書は、現代物理学が認識対象としている主観−客観二元対立的世界の根底の次元を、それぞれの哲学者がどのようなかたちで解明しているのか、ということについて主題的に論述している。この次元は、あくまでも時間・空間的な有限相対的世界である。だが、これらの哲学者の思想は、この次元のみを認識対象としているわけではない。これらの哲学者の思想は、時間・空間的な有限相対的世界と超時間・空間的な無限絶対の世界からなる全実在界という総体的な枠組みの中でとらえ返す必要がある。この総体的な枠組みがどのようなものであるかについては、『絶対無の哲学――西田哲学の継承と体系化――』『創造的生命の形而上学――近代科学技術文明の超克――』を参照していただきたい。

目次

 はしがき

序章 人間の終焉から新しい人間へ

 第1節 神無き無から絶対無の場所へ

 第2節 四次元時空・生活世界・歴史的世界

 第3節 人間諸科学・差異・場所の論理

第1章 現象学的還元と生活世界

 第1節 崩壊した人間性と新しい人間性

 第2節 超越論的主観主義を超えて

 第3節 キネステーゼ的主観性と開放的モナドの共同体

第2章 近代的人間を超え存在の明るみの中へ――ハイデガー――

 第1節 存在忘却と世界像の時代

 第2節 世界の時空構造と実存

 第3節 存在から絶対無の場所へ

第3章 場所の論理と創造的モナドロジーの世界――西田幾多郎――

 第1節 内在的人間中心主義から歴史的人間の客観主義へ

 第2節 主客対立の根底の絶対無の場所

 第3節 過程的弁証法と場所的弁証法の統合

第4章 エピステモロジーと人間の終焉――フーコー――

 第1節 言説的実践とエピステーメー

 第2節 人間の出現と人間学

 第3節 人間諸科学と人間の解体

第5章 エクリュールとテクストとしての世界――デリダ――

 第1節 ロゴス中心主義とディコンストラクション

 第2節 現前から行為的現在へ

 第3節 世界の論理的構造をと差延作用

結語

 あとがき

 引用文献

 


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