『東西思想の超克』再説 第2回 古代の東西の形而上学――プロティノスの形而上学・華厳の形而上学

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『東西思想の超克』再説

第2回 古代の東西の形而上学

    プロティノスの形而上学・華厳の形而上学

 

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  プロティノスの形而上学

  プラトン、アリストテレスの哲学を超えたプロティノスの哲学

 新プラトン主義哲学の始祖プロティノスの哲学は、プラトン、アリストテレス、ストア学派の思想の総合である。

 プラトン、アリストテレス哲学の目的は、人間が自覚的行為によって感覚界から超感覚界へ超脱し絶対者と合一することで、本来的自己を実現することにあった。このことは、プロティノス哲学においても変わらない。プロティノス哲学も、自己が絶対者と合一するという実在・実在体験のロゴス化として形成されたのである。ただ、プラトン、アリストテレスとプロティノスでは、絶対者のとらえ方が異なっている。プラトンは、超感覚界をイデア界と呼び、その最高の位置を占める究極的絶対者を「善のイデア」と呼んだ。アリストテレスにおいて、それに対応する絶対者が、「思惟の思惟」としての神であった。それに対して、プロティノスは、それらの絶対者を彼方に超越した絶対者を定立した。それが、「善者」あるいは「一者」である。

 善者は、実はプラトンが、実在・実存体験においてとらえていたものであった。プラトンは、それについて『国家』において言及しているだけであり、絶対者をもっぱら善のイデアとしてとらえている。井筒俊彦は、プラトンの絶対者の秘教的側面を善者、公教的側面を善のイデアに区分している。プラトンは、自身が体験した絶対者の秘教的側面をそれ自体として論理的に追求していないが、プロティノスは、そのことを遂行することによって、善のイデアを頂点とするイデア界を超出する実在を定立したのである。

 したがって、感覚界を超脱した人間は、プラトンのイデア界を超えて一者という絶対者に合一するのである。だが、プロティノスの哲学体系においては、人間が感覚界から一者へ上昇してゆく下から上への方向だけでなく、一者から感覚界が下降的に形成されてくる上から下への方向が考えられている。この点が、プラトン、アリストテレスの哲学体系に比べたプロティノスの哲学体系の大きな特徴をなしている。

 プロティノスの哲学体系においては、万物が一者から出て一者へ帰る。これは、万物が根元火から出て、根元火に帰る、というストア学派の思想を継承したものである。プロティノスの哲学体系においては、万物が一者から出るという下降面が「流出」であり、万物が一者に帰るという上昇面が「還帰」である。一者は、永遠無限絶対の実在であり、無限の創造的エネルギー・生命である。万物が一者から出て一者に帰るということは、無限の創造的エネルギー・生命が全実在界において、流出と還帰という循環運動を展開してゆく、ということを意味している。

 人間が自覚的行為によって感覚界から超感覚界へ超脱し、一者と合一するということは、無限の創造的エネルギー・生命の還帰の運動と一体化するということにほかならない。こうして一者と合一した人間は、今度は自覚的行為によって無限の創造的エネルギー・生命の流出の運動と一体化し、再び感覚界に戻ってくる。こうして、無限の創造的エネルギー・生命の循環運動と人間の循環運動の一体化としての全実在界大の実在・実存体験が成立し、全実在界大の本来的自己が実現する。プロティノス形而上学体系は、その体験のロゴス化であり、本来的自己による全実在界の真実相の自覚なのである。

  一者からの流出による叡知界、霊魂の世界、感覚界の形成

 この全実在界の真実相が具体的にどのようなものであるかを明らかにするため、まず、一者からの流出がどのようなかたちで展開してゆくかを見てみなければならない。一者は、自己以外の何ものにも依存することなく自存する無限の充実である。その一者が自らの外に流れることによって、叡知界(プラトンのイデア界に相当する)、霊魂の世界、感覚界が段階的に形成されてゆく。

  ? 一者から叡知的質料と諸形相が生じる。形相が無限定の質料を限定することによって、全体的叡知が諸個別叡知を統一する叡知界が形成される。全体的叡知は一者の模像であり、諸個別叡知の中心である。両者の関係は、プラトンにおける多数のイデアとそれらを統一する善のイデアの関係に対応するものである。

  ? 全体的叡知から叡知的質料と諸形相が生じる。形相が無限定の質料を限定することによって、宇宙霊魂が諸個別霊魂を統一する霊魂の世界が形成される。宇宙霊魂は、全体的叡知の模像であり、諸個物霊魂の中心である。

  ? 宇宙霊魂から感性的質料と諸形相が生じる。宇宙霊魂の上部は叡知界にとどまっているが、下部は下の世界に下降する。プロティノスは、それを「自然」と呼ぶ。自然は、宇宙霊魂が全体的叡知から受け取った形相を放射して感性的質料を限定する。それによって諸個別物体が形成され、諸個別霊魂がそれに宿る。こうして感覚界(宇宙とそこにおける万物)が形成される。自然は宇宙霊魂の影像であり、それぞれに霊魂が宿る万物の中心として働く。この場合の霊魂は、万物に宿るものであるから、人間の「こころ」「たましい」に限定されるものではない。それは、それ自体では生きる力を持たない物体を生かすものである。したがって、動植物、天体も何らかの霊魂を有しているのである。

  前述したように霊魂の上部は叡知界にとどまる(本来の意味での宇宙霊魂であり、その源は一者にある)が、下部は感覚界に下降する(宇宙霊魂の影像としての自然)。このことは、霊魂の世界が感覚界と超感覚界に跨っており、二つの領域を媒介している、ということを意味している。それによって、叡知界と感覚界が、宇宙霊魂によって結合され、原型としての前者が後者に映されるのである。感覚界は、叡知界の模像なのである。プラトンが、感覚界におけるさまざまな事物は、原型としてのイデアを不完全なかたちで映し出す似像であるとしてとらえた事態を、プロティノスはこのようなかたちでとらえ返したのである。

  万物が一者から出て一者へ帰る運動と一体化した人間

  人間の霊魂も、下部は感覚界に下降し、肉体に宿るが、上部は叡知界にとどまる(本来の意味での人間霊魂としての人間霊魂の叡知的部分)。人間霊魂の叡知的部分とは、植物的霊魂、動物的霊魂と区別される、人間霊魂に固有な能動的知性に相当するものである。アリストテレスによれば、人間は能動的知性を有していることによって肉体から離れて「思惟の思惟」としての神と合一することができる。

  プロティノスにおいては、人間は霊魂の叡知的部分を働かせることによって、肉体から離れ叡知界に至り、更にそれを超えて一者に至ることができる。それだけでなく人間は、今度は一者から叡知界を経て感覚界に戻ることができる。そのことが可能となるのは、人間の霊魂が感覚界と超感覚界に跨り二つの領域を媒介していることによる。全実在界を循環する無限の創造的エネルギー・生命の循環運動と一体化した全実在界大の本来的自己は、こうして実現するのである。

  このことは、万物が一者から出て一者に帰るという運動が、人間の霊魂の叡知的部分において自覚的になる、ということを意味している。アリストテレスによれば、人間を含めて万物は究極的目的である神に至ろうとする欲求を有している。しかし、人間以外の存在者は、そのことに無自覚である。ただ、能動的知性を有する人間だけが、その欲求を自覚することができる。こうして、人間が能動的知性を働かせて神に至るとき、そのことを通じて万物もまた神に至る。アリストテレスがこのようにとらえた事態は、プロティノスの体系においては一者から流出した万物が一者に帰るという還帰の局面なのである。人間が霊魂の叡知的部分を働かせて一者に帰るとき、そのことを通じて万物もまた一者に帰るのである。

  霊魂の肉体からの解放と一者への上昇

 全実在界の自覚的要素としての人間は、そのような重大な責務を有している。だが、感覚界に下降し、肉体に宿った人間の霊魂は肉体の影響を受け、自己本来のあり方である叡知的部分を忘却する。こうして人間は、叡知界への道を遮断して感覚界に自己閉鎖的となり、自己が一者から生じた存在であることを知らず自立的になろうとする。

  そのことについて、プロティノスは次のように述べている。「はたしていったい何者が、たましいに父なる神を忘れさせてしまったのであろうか。自分はかしこから分派されたものであって、全体がかのものに依存しているわけなのに、そういう自己自身をも、またかの神をも識ることのないようにしてしまったのはいったい何であろうか。むろんそれは、あえて生成への一歩を踏み出して、差異を立て、自分を自分だけのものにしようと欲したから、それがたましいにとってそのような不幸のはじめとなったのである。」(『エネアデス』?1)。こうして人間は「自分がかしこから出てきた者であるということすら識らぬに至ったのである。」(『エネアデス』?1)。その結果、人間は、肉体的欲望に振り回され、生成変化する物体を追い求める。この我執、我所執が、一切の悪の根源である。そのために人間は、さまざまな苦悩を味わうことになる。

 人間が、我執から脱却して自己本来のあり方を実現するためには、肉体の桎梏から霊魂を解放しなければならない。それには、外の感覚的事物に向かって散乱している霊魂を、それ自身のうちに集中し、その内奥の一者へ向けて転換させなければならない。

  プロティノスは、「われわれの求めているものは一なるものであって、われわれが考察しているのは、万物の始めをなすところの善であり、第一者なのであるから、万物の末梢に堕して、その根源にあるものから遠ざかるようなことがあってはならない。むしろ努めて一者の方へ自己を向上復帰させ、末梢にすぎない感覚的物からは遠ざかり、いっさいの劣悪から解放されていなければならない。なぜなら、懸命の努力の目標は善にあるからである。」(『エネアデス』?9)と述べている。すなわち、霊魂は「あらゆる外物から身を引いて、内部への全面的転向を必要とすることになる。」(『エネアデス』?9)のである。

 これが、霊魂の浄化である。これは、プラトンが魂を肉体から解放することによって、人間が感覚界から超感覚へ超脱し善のイデアと合一する――とした「死の練習」にほかならない。プロティノスは、霊魂の浄化について「肉眼を閉じて、そのかわりに万人がもちながら、わずかな人しか用いない別の眼(心眼)をめざめさすべきである。」(『エネアデス』?6)と述べている。

 このことは、感覚器官、それと結びついた通常の理性の働きを抑止し、それとは根本的に異なる知的直観、知性の働きを活性化させること、としてとらえ返すことができる。それが、すべての人間が有していながら、感覚界に自己閉鎖的となり、感覚的事物を追い求めている人間が忘却している霊魂の叡知的部分の働きを活性化させる、ということにほかならない。それによって、「われわれが(感性界に)降下して身にまとったものを脱ぎ捨て、上の世界に方向を転じて昇っていかなければならない。」(『エネアデス』?6)のである。

 人間が感覚界を超脱し一者との合一に至る道

  こうして、人間が感覚界を超脱して叡知界に至り、さらに、それを超えて一者に至ることが可能になる。そのことは、人間が、万物の一者に帰ろうとする欲求の自覚的頂点として働くということにほかならない。この一者への還帰の道は、次のようなかたちで進行する。

  ? 感覚界を超脱した人間の霊魂は、霊魂の世界に至り、諸個別霊魂を統一する宇宙霊魂と合一する。それによって、人間の霊魂は、宇宙霊魂よって他のすべての個別霊魂と一体化させられる。この霊魂は、すでに肉体から離脱していることによって、叡知界に上昇することが可能となる。

  ? 人間霊魂は、全体的叡知と合一することによって、全体的叡知を見るとともに、自己を見る(知的直観、知性を働かせる実存的観想)。人間霊魂は、全体的叡知と合一することにより、それによって統一されたすべての個別的叡知と一体化し、自己の中にすべての個別的叡知を見、すべての個別的叡知の中に自己を見る(知的直観、知性を働かせる実存的観想)。感覚界を超脱し叡知界に至ることによって、肉体的欲望を貪るために物体を追い求めるという我執、我所執を克服した人間霊魂は、すべての個別的叡知の中に入ることができるのであり、また自己の中にすべての個別的叡知を入れることができるのである。

  ? 叡知界においては、それぞれの個物は、そのうちに他のすべての個物を含むものどうしとして相即相入し、すべての個物が相互に調和する。そこには、「一即一切、一切即一」という関係が成立する。プロティノスは、そのことについて「(かしこでは)すべてのものが透明で、暗黒な所や反撥する部分は全然なくて、すべての者とすべての物がすべての者にとって内面まで明瞭なのである。なぜなら、光は(別の)光にとって明瞭だからである。つまり(かしこでは)すべての者がすべてのものを自己の内に有してもいるし、また(一個の)他者の内にすべてのものを見るのでもあるから、あらゆる所にあらゆるものがあり、あらゆるものがあらゆるものであり、またそれぞれのものがあらゆるものであって、その輝きは無限である。」(『エネアデス』?8)と述べている。

 ? 最後に、人間霊魂は、叡知界を超越し、一者と合一する。それが、神秘主義的な合一体験としての「恍惚」である。プロティノスは、自己のその体験について「まるで自己自身でさえもなかったと言ってもよいであろう。むしろちょうど、それは肝をうばわれたり、あるいは神憑りにかかったりした時のように、虚白の状態のまま静寂に帰してしまうのであって、自己の存在にはいささかの動揺も見られず、どの方面にも偏向はなく、自己自身を中心とする回転さえも存在せず、全体にわたって静止し、いわば自分が静止そのものになり切るようなものなのである。」(『エネアデス』?9)と述べている。

 一者からの流出と一体化して人間が感覚界へ戻る道

  上昇の道を辿って一者に到達した人間霊魂は、そこにとどまることなく、今度は下降の道を辿ることによって再び感覚界に戻らなければならない。すなわち、一者から叡知界が生じ、叡知界から霊魂の世界が生じ、霊魂の世界から感覚界が生じる――という一者からの流出と一体化し、それを主体的に体験するのである。それにより、浄化によって肉体から離脱した霊魂は、再び肉体と結びつくことになる。

 このとき、感覚界と超感覚界は、双方に跨る人間霊魂によって媒介、結合されている。したがって、肉体と結びついた人間霊魂は、超感覚界から分離し、感覚界に自己閉鎖的になるということはありえない。人間霊魂が、自己が一者に由来するものであることを忘却して自己だけのものであろうとする我執は克服されている。感覚界と超感覚界に跨る人間霊魂が、叡知界にある上位の叡知的部分を働かせるとき、感覚界において肉体に住みついた霊魂の下位の部分は、「徳」としての「知恵」を獲得する。

 プロティノスは、そのことについて「この感性界にやってきて、自分以外のもの(肉体―根井注)と住むようになると、彼は知性の力で、それも自分と同じようなものとし、できれば外からの衝撃を受けないもの、あるいは少なくとも、主人の望まないことは何もしないものとなるように、心がけるのである。」(『エネアデス』?2)と述べている。このような人間が持っている徳が、知恵である。したがって、肉体と結びついた人間霊魂が知恵に即して生きるとき、肉体的欲望にふりまわされるということはなくなるのである。

 感覚界と超感覚界を媒介・結合する人間霊魂が、上位の叡知的部分を働かせることによって、すべての個別的叡知と一体化するとき、下位の部分の知性を働かせることによって、万物と一体化する。こうして、叡知界におけるすべての個別的叡知の相即相入的調和という原型が、感覚界における模像としての調和として映し出されることになる。このことは、感覚界が自己閉鎖性を破られ、叡知界に支配されるものになる、ということを意味している。人間が感覚界に戻る働きを通じて感覚界に戻った万物は、前述したような人間の働きを通じて相互の調和を実現する。逆に言えば、人間が超感覚界から離れて感覚界に自己閉鎖的となるとき、万物は、相互の調和を実現することはできないのである。ここに、人間の重要な責務が存在する。

  プロティノス哲学の不徹底性とその克服

  プロティノスは、プラトンが体験しながら、論理的に追究することをしなかった絶対者の秘教的側面を主体的に体験し、イデア界を超える永遠無限絶対の実在である一者を定立した。プロティノスは、一者との合一を基盤として、万物が一者から出て一者に帰る循環運動と一体化し、その実在・実存体験のロゴス化としての形而上学を形成した。

  そのことについて、井筒俊彦は次のように述べている。「彼以前の思想家達はいずれも絶対者を無としてではなく有として、積極的肯定的にのみ捉えようと焦燥し、そのためにかえって絶対者の深玄幽邃な本姿を逸した。この点に於いて、プロティノスの思想はまさに卓立独歩の観があった。彼はその絶対無の形而上学によって、たんにアリストテレスを越えてプラトンに帰ったばかりでなく、プラトン精神を極限にまで推しすすめつつ、ついにプラトンその人を超えたということができるのである。」(『神秘哲学』第二部P205〜206)

 このようにプラトンの不徹底性を克服し、西洋における絶対無の形而上学の礎を形成したプロティノスではあったが、その絶対者体験にはなお、不徹底的なところが残されていた。プロティノスは、一者との神秘主義的な合一体験を恍惚としていた。それは「没我(エクスタシス)であり、一体化であり、自己放棄」(『エネアデス』?9)である。

  一者の内へ自己を失うというかたちでのプロティノスの合一体験の不徹底性について西谷啓治は、次のように述べている。「もし一者からの世界の流出ということが問われるべきならば、それと同時に一者からの『自己』の定立も問われなければならない筈である。万法・万象の有とその真理性と共に、それらを知る存在としての『人』の有と知、またそこに於ける『真実』の現成も問われなければならない。一者との脱自的な冥合のうちに自己の真実を見出す、ということに止まっていてはならない。それだけでは、自己というものの本来の本質であり、また人間存在の本性である自覚性というものの回復に未徹なるところが残るのである。」(『禅の立場』P118著作集第11巻)

  西谷は、人間存在の自覚性は明確な知の性格を持たねばならず、それは、根本的な覚つまり目覚めであることとしての知だとしている。このことは、人間が恍惚ではなく、自覚的行為によって、絶対者と一体化することとしてとらえ返すことができる。それによって人間は、知的直観、知性という能力を働かせて絶対者を直接捕捉し、絶対者を見ることによって自己を見ることが可能となる。それが、恍惚を超えた実存的観想である(プロティノスでいえば知性が一者の領域にまで透入することである)。

  こうして人間は、絶対者と自己が自他不二の関係にあることを体得、体認することができる。この関係においては、自己は、主体としての絶対者の内に消失するのではない。自己は、主体としての絶対者に対して主体性を保っている。そのように、それぞれが主体である絶対者と自己が、絶対的な二でありながら同時に絶対的な一である(主主合一)ということが、自他不二ということである。それは、真の絶対無としての絶対者の体験にほかならない。

 現代に甦るプロティノスの絶対無の形而上学

  このように自覚的行為によって絶対者と合一した自己は、それを基盤として、全実在界を循環する無限の創造的エネルギー・生命と自覚的行為によって一体化する(全実在界大の実在・実存体験)。このとき、知的直観、知性の働きは全実在界に及んでいる。こうして、全実在界大の観想意識に全実在界がその真実相を映し出すことになる(その真実相の具体的内容については『絶対無の哲学』『創造的の形而上学』において論理的・体系的に展開してある)。そこに、全実在界大の実在・実存体験のロゴス化としての形而上学が成立する。

  自己が全実在界に遍満する無限の創造的エネルギー・生命と一体化するとき、有限相対的次元(プロティノスにおける感覚界)は、外面的な物体の相においてではなく、超感覚的な知性によって無限絶対的次元と同一の無限の創造的エネルギー・生命が遍満している相においてとらえられる。

 全実在界を無限の創造的エネルギー・生命が循環するということは、そこにおける全実在界大のすべての個物の内に同一の創造的エネルギー・生命が循環するということ(絶対者から出て絶対者へ帰る循環)を意味している。全実在界大の自己は、自覚的行為によってすべての個物と一体化する。それによって、すべての個物の内の無限の創造的エネルギー・生命の脈動と自己の内の無限の創造的エネルギー・生命の脈動が一体的となる。全実在界のすべての個物は、同一の創造的エネルギー・生命によって一つに結びつけられ相互に調和する。

 全実在界大の自己は、そのようなかたちで無限の創造的エネルギー・生命を制御することによって、自己の本来的あり方を実現すると同時に、すべての個物の本来的あり方を実現する。プロティノスの絶対無の形而上学は、このような方向へ展開することによって、全実在界の真実相を忘却して感覚界に自己閉鎖的になり、肉体的欲望にふりまわされてさまざまな苦しみを味わっている現代人に対して、感覚界から超感覚界への全人格的転換を促すものとして甦るのである。すなわち、プロティノスの形而上学は、無限の創造的エネルギー・生命が流出と還帰という無限の循環運動を展開してゆく全実在界の真実相を、絶対無と合一した自己がそこに身を置きつつ、一挙同時にとらえたもの、永遠の相の下に見られた真理、永遠の哲学として現代に甦るである。

 華厳の形而上学

 ダンマとの合一体験にもとづく釈迦の思想を継承した華厳の思想

 『華厳経』は、釈迦の思想を継承・展開した初期大乗仏教の主要な経典の一つである。それは、釈迦が究極的な悟りの境地に到達した後に自ら体得した真理の世界を説くものとされている。そのことは、『華厳経』は、釈迦の悟りの体験を追体験した初期大乗仏教徒が、その体験の内容を示したものである、ということを意味している。初期大乗仏教徒は、自覚的行為によって感覚界から超感覚界へ超脱し、永遠無限絶対の実在(絶対者)であるダンマ(法)と合一し、それを体得する――という釈迦と同一の体験をしたのである。

 釈迦は、生老病死という苦悩からの脱却を根本問題とした。感覚界における人間は、自己の生が生滅無常なものであることを知らず、それを常住不変なものとみなして執着する(我執)。そのため人間は、生死の流れに押し流されて転がりつづけ、貪り、怒り、愚かさなどの苦しみを味わうことになる。それが、生死に流転する煩悩具足の凡夫(心身を悩ますあらゆる働きを備えている人間)にほかならない。釈迦は、「瞑想」(禅定)という実践によって超感覚界に超入し、そこにおいて生死を解脱した「涅槃」という境地に到達した。それが、釈迦の悟りである。

 悟りの境地に到達した釈迦は、そこから生滅無常の世界を見ることによって、その実相を体得した。それが、縁起の理法である。縁起とは、無明によって執着があり、執着によって苦がある、というように因果の系列を辿るものである。この系列を逆に辿ることによって、無明の止滅によって執着が止滅し、執着の止滅によって苦が止滅する、ということになる。この縁起の理法の体得によって、釈迦は、生への執着から解放された自由な境地に至った。

  釈迦は、感覚界から超感覚界へ超脱し、悟りの境地に到達した。しかし、悟りの境地は、単に感覚界を排除したものではなく、感覚界を包括しているのである。ただ、ダンマと合一した釈迦の眼には、生死の流れに押し流されている人々と違って、生老病死という苦悩の原因がどのようなものであり、それがどのようにして止滅するかがはっきりと見えたのである。このことは、釈迦が、独り悟りの世界にとどまることなく、感覚界におけるすべての人々を苦しみから救うための途を見出した、ということを意味している。

  すでに言及したように、ダンマとは、永遠無限絶対の実在であり、有限相対的次元と無限絶対的次元の統合態である全実在界に貫流・遍満する無限の創造的エネルギー・生命である。無限絶対の次元においてダンマと合一しそれを体得した釈迦は、同時に、全実在界における無限の創造的エネルギー・生命と一体化することによって有限相対的次元の実相である縁起の理法を体得したのである。

  『華厳経』のヴィルシャナ仏と蓮華蔵世界と衆生界

 ダンマは、有限相対的次元を超越する究極的実在である。だが、同時にダンマは、全実在界に遍満する全体的実在である。それは、有限相対に対する無限絶対ではなく、有限相対と無限絶対を包括する真の意味の無限絶対である。このようなあり方から絶対者をとらえるとき、それは「如来」と呼ばれる(ダンマと如来は同一の実在である)。『法華経』譬喩品には「この三界は皆是れ我が有なり、その中の衆生は悉く是れ我が子なり」と述べられている。

  生死流転する世界は、如来の所有であり、その中の衆生は如来の子だというのである。このことは、生死流転の世界の中の衆生は如来に由来するものであり、如来によってか在らしめられてある存在である、ということを意味している。生死流転の世界で生老病死などによって苦しんでいる一切衆生は、如来の働きによって、涅槃に入らしめられるとされている。これは、如来に由来する一切衆生が、如来のもとに帰るということにほかならない。

 このことは、プロティノスにおける万物は一者から出て一者へ帰るということと同一の事態である。それは、無限の創造的エネルギー・生命が、無限絶対的次元から有限相対的次元に発現してゆくとともに、再び無限絶対的次元へ還帰してゆくという、プロティノスにおける一者からの流出と一者への還帰という循環運動に対応するものである。釈迦のダンマとの合一体験を追体験した大乗仏教徒は、釈迦の思想をこのような方向へ展開していったのである。

  『華厳経』もまた、そのような体験による永遠無限絶対の実在の体得、縁起の理法の体得の表現として成立したのである。『華厳経』においては、絶対者は如来あるいはヴィルシャナ仏とされている。ヴィルシャナ仏は、「光明遍照」すなわち光を放って遍く照らし出しているものであり、その働きの及ばないところはない。それは、まさに全実在界に遍満する無限の創造的エネルギー・生命そのものである。ヴィルシャナ仏は、永遠無限絶対の実在の人格的表現なのである。

 初期大乗仏教徒は瞑想(禅定)という実践によって感覚界から超感覚界に超脱することにより、ヴィルシャナ仏を体得するとともに、縁起を体得した。ただ、『華厳経』が釈迦と異なるのは、縁起が衆生界すなわち生死流転の世界のものではなく、仏の世界すなわち生死流転を超えた世界のものとされていることである。この仏の世界は「蓮華蔵世界」と呼ばれている。したがって、『華厳経』における無限絶対の領域は、ヴィルシャナ仏と蓮華蔵世界という二つの次元を有しているのである これを、プロティノスの体系と対応させれば、ヴィルシャナ仏が一者に、蓮華蔵世界が叡知界に、衆生界が感覚界に、それぞれ相当する。ヴィルシャナ仏は、プロティノスの一者と同じ「絶対無」である。

  蓮華蔵世界の縁起(法界縁起と呼ばれる)は、釈迦のそれとはあり方を異にしている。釈迦の場合は、苦しみの原因の系列を辿って無明に至り、無明の止滅から原因の止滅の系列を辿って苦しみの止滅に至る、というものであった。それに対して、華厳の縁起は、それぞれの個物が相互相依の関係にあり、それぞれの個物がその内に他のすべての個物を含むものどうしとして相即相入的に相互の調和を実現する、というものである。

  これは、プロティノス哲学の叡知界における万物の相即相入的調和とまったく同一の事態である。プロティノスの体系と華厳の体系にこのような対応関係があることは、決して偶然のことではない。プロティノスと大乗仏教徒は同一の永遠無限絶対の実在と自己との合一および、それを基盤とする全実在界に循環・遍満する無限の創造的エネルギー・生命と自己との一体化という実在・実存体験によって体得した真実相を、それぞれの思想的文脈において表現したのである。したがって、両者の思想が対応するのは当然のことなのである。

 衆生に対する如来の働きかけを媒介する仲保者

 プロティノスの場合、感覚界に下降して肉体に宿った霊魂は、自己本来のあり方を忘却して、肉体的欲望にふりまわされる、とされていた。こうして、人間が生成変化する物体を追い求める我執、我所執が原因となって、さまざまな苦しみが生じる。それは人間が、自己が一者に由来するものであることを忘れ、自立的であろうとすることによって生じた事態である。

  それは、華厳においては、自己が如来の子であること、すなわち如来に由来するものであることを忘却し、生死流転の世界で生老病死などに苦しんでいる衆生の姿にほかならない。『華厳経』性起品はそのことについて、次のように述べている。「また次に仏子よ、如来の智慧は処として至らぬと云うことはない。なぜなら、衆生ひとりとして、如来の知恵を具足して居ないものはないから。ただ衆生は顚倒のゆえに如来の智慧を自覚せざるのみ。もし顚倒をはなれるならば、すなわち一切智・無師の智・無礙の智をおこすだろう」。

 如来の知恵とは、一切の衆生に及んでいると同時に、一切の衆生の存在の根源として、それ自身にとどまっている如来の働きのことである。一切の衆生は、生死流転の世界を超脱して自己を在らしめている根源としての如来と合一し、本来的自己を実現する可能性を有している。生死を解脱し如来と合一した涅槃の境地こそ、一切の衆生の本然のあり方なのである。にもかかわらず、衆生は、自己が如来によって在らしめられて在る存在であることを忘れて自立的であろうとする顚倒のために、自己の本然的なあり方を自覚することができない。こうして衆生は、生死流転し、苦しみつづけることになる。

 そのような衆生に対して、如来が働きかけて本来的自己を実現させるのである。すなわち「自分はよろしく彼等衆生におしえて聖道をさとらしめ、とこしなえにあらゆる妄想顚倒の垢縛をはなれしめ、如来の智慧のまどかにその身のうちに在って、ほとけと相違しないことを自覚せしめよう」(『華厳経』性起品)とするのである。このような如来の衆生への働きかけを媒介するものが、蓮華蔵世界における普賢菩薩である。普賢菩薩は、ヴィルシャナ仏の表徴、すなわちヴィルシャナ仏が蓮華蔵世界に示現したしるしである。それは、ヴィルシャナ仏がダンマの人格化であるのに対して、蓮華蔵世界として顕現したかぎりでのダンマの人格化ということができる。このような存在として普賢菩薩は、プロティノスにおける一者の模像であり叡知界の中心である全体的叡知に対応させることもできよう。

 蓮華蔵世界にある普賢菩薩は、向上的にヴィルシャナ仏と合一して悟りの境地に至る(自利)。しかし、普賢菩薩は、そこにとどまることなく向下的に衆生に働きかけ、その顚倒を打破することによって、ヴィルシャナ仏へと導き悟りの境地に入らせる(利他)。このように自利と利他の働きが相即したものが、大乗菩薩行としての普賢行である。普賢菩薩とは、このようなかたちでヴィルシャナ仏と衆生を媒介する活動態(仲保者)である。

 すべての人間の大乗菩薩行の模範としての普賢菩薩

 感覚界における人間は、 永遠無限絶対の実在によって在らしめられてある存在である。そのことを忘却するとき人間は、感覚界に自己閉鎖的となり、永遠無限絶対の実在に背面することになる。そのような人間に対して、永遠無限絶対の実在は、自己のもとに引き戻そうとして働きかけるのである。そのとき、永遠無限絶対の実在の示現としての活動態が、背面する人間に働きかけて、永遠無限絶対の実在の方を向かせ、そこまで導いてゆく。このような仲保者の働きは、永遠無限絶対の実在から来ているのであり、両者は不可分一体的なものとして働く。

 仲保者としての活動態は、上向的には永遠無限絶対の実在にまで上るとともに下向的には感覚界にまで下るというその働きによって、永遠無限絶対の実在から出て永遠無限絶対の実在に帰る無限の創造的エネルギー・生命と一体化することができる。そのような働きをする仲保者としての活動態は、すべての人間にとって模範となる。すなわち、仲保者としての活動態の働きかけによって永遠無限絶対の実在と合一した人間は、そこにとどまることなく、再び感覚界に戻って利他のために働かなければならないのである。すなわち、それぞれの人間が、仲保者としての活動態と等しく他の人間の利益のために働くのである。『華厳経』におけるヴィルシャナ仏と普賢菩薩と衆生の関係を、仏教用語を使わずに表現すれば以上のようになる。普賢菩薩とは、ヴィルシャナ仏と衆生を媒介する活動態の人格的表現なのであり、すべての人間が、それを模範として大乗菩薩行としての普賢行を実践しなければならないのである。

 生死流転の世界における衆生は、我執(自己中心性)のゆえに貪(自己の生をむさぼること)、瞋(他者を否定し支配しようとすること)、痴(自己と他者が不二相即の関係にあることを知らないこと)などにふりまわされる煩悩具足の凡夫である。衆生がこのようなあり方をしているため、生死流転の世界におけるすべての個物は相互に調和することなく障礙しあうことになる。

 すべての個物が相即相入的に調和する蓮華蔵世界

 このような衆生に対して、普賢菩薩が働きかけ、衆生が自覚的行為によってそれに応じる。それによって衆生は、我執を打破されて生死流転の世界を超脱し蓮華蔵世界に至る。衆生は、蓮華蔵世界において普賢菩薩と合一するとともに、万物と一体化する。生死流転の世界は、万物の相互障礙の世界であったが、蓮華蔵世界における自己は、我執を打破されていることによって、万物の中に入ることができるとともに、万物を自己の中に入れることができる。こうした自己の働きによって、すべての個物が相即相入的に調和を実現する。蓮華蔵世界は、相互無障礙の世界である。これが、法界縁起と言われるものである。

 この場合の縁起とは、単に万物が相互相依の関係にあるということを客観的にとらえたものではない。それは、自己が主体的実践によって万物の中に入ることで、自己の中に万物を見、万物の中に自己を見る――というかたちで体得・体認された真実相である。このようにして体得された縁起について、『華厳経』は「一つの毛孔のなかに、無量のほとけの国土が、装いきよらかに、広々として安住する。」「一つの微塵のなかに、あらゆる微塵のかずに等しい微塵の国土が、ことごとく住している。」(廬舎那仏品)と述べている。

 プロティノスが、万物が相即相入的に調和する叡知界としてとらえたのと同一の次元を、華厳は、このような存在構造を有する蓮華蔵世界としてとらえたのである。

 それは、非常に微小なものの中に無限大が入っている「一即一切、一切即一」として、すべての個物が互いに他の中に映しあっている重々無尽の世界である。このような重々無尽の法界縁起を成立させている究極的実在が、ヴィルシャナ仏である。それについて『華厳経』は、「一一の微塵のなかに、仏の国界が安住し、仏雲あまねく護念して、行きわたって一切を覆いつつむ。―微塵のなかに、ほとけは自在の力を現わし、あらゆる微塵のなかに神変したまうことも同様である。諸仏およびその神力は、ともに廬舎那仏の示現したまうところである。」(廬舎那仏品)と述べている 一つひとつの非常に微小なものの中に、仏の国界が安住しており、一つひとつの非常に微小なものの中から仏の雲が湧き起って一切を覆いつつんでいる。一つひとつの非常に微小なものの中に仏の自在力が働いており、その他の一切の非常に微小なものの中においても諸仏が神変を示している。それらのすべては、ヴィルシャナ仏の示現である。

 ヴィルシャナ仏と合一し覚者(フッダ)となった人間                                                       

 ヴィルシャナ仏の示現としての普賢菩薩の働きかけに応じることで、蓮華蔵世界に入らしめられた自己は、万物の中に入ることで自身に縁起の理法を体現する。そのような蓮華蔵世界の全体が、ヴィルシャナ仏の示現なのである。そのことは、ヴィルシャナ仏という根源から発した無限の創造的エネルギー・生命が、蓮華蔵世界の全体に遍満するということを意味している。そして、その無限の創造的エネルギー・生命は再びヴィルシャナ仏のもとに戻る。

 そのことについて、『華厳経』は次のように述べている。「そのとき、世尊はあらゆる菩薩の大群に、ほとけの無量無辺の境界と自在の法門を知らしむために、眉間の白毫相から、一切菩薩慈光観察照十方蔵と名づくる、あらゆる宝のいろの灯明雲の光明を放たれました。その光はあまねく一切のほとけの国土をてらし、一念のうちに隈なく一切の法界をてらし、一切の世界に、あらゆる仏のもろもろの大願の雨を降らせ、普賢菩薩をあらわし、それを大衆に示しおわって、もとに戻って仏の足底の網の紋の中に入りました。」(廬舎那仏品)

  このことは、蓮華蔵世界に在る自己が、蓮華蔵世界からヴィルシャナ仏の世界に戻る無限の創造的エネルギー・生命とともに、ヴィルシャナ仏のもとに至り、それと合一する、ということを意味している。生死流転する世界における人間諸個人は、衆生というあり方をしている。それに対して、蓮華蔵世界における人間諸個人は、普賢菩薩と同じ菩薩というあり方をしている。そして、ヴィルシャナ仏の世界における人間諸個人は、仏(ブッダ)というあり方をしている。この場合の仏(ブッダ)とは、釈迦がダンマと合一することによって、生死を解脱した悟りの境地に到達した覚者(ブッダ)となった、ということと同じ意味のものである。

 衆生界に対する配慮を欠落させた華厳経の限界

  こうして悟りの境地に到達した自己は、そこにとどまることなく、蓮華蔵世界を介して衆生界に戻り、そこにおいて利他行を実践しなければならない。すなわち、普賢菩薩と同じ大乗菩薩行を実践しなければならないのである。蓮華蔵世界が万物の相互無障礙の世界であるのに対し、衆生界は万物の相互障礙の世界であり、両者は逆行的に対立している。この対立は、自己中心的(我執)な煩悩具足の凡夫と、我執、煩悩を克服した菩薩との対立でもある。蓮華蔵世界における主体的実践によって万物の相即相入的調和という縁起の理法を体得・体認した自己は、衆生界に戻って他者に働きかけ、彼らを我執、煩悩から脱却させねばならない(利他)。すなわち自己は、主体的実践によって我執を原因とする万物の相互障礙を克服し、衆生界に万物の相互無障礙を実現しなければならないのである。

 そのことは、自己が、蓮華蔵世界における万物の相即相入的調和という原型を衆生界に映し出す、ということを意味している。こうして、自己の主体的実践によって蓮華蔵世界と衆生界の逆行的対立が克服され、両者が相即的に統一される。このことは、釈迦の衆生界の縁起と華厳の蓮華蔵世界の縁起を相即的に統一することである、ということもできる。だが『華厳経』では、蓮華蔵世界と衆生界のこのような連関構造が具体的に明らかにされておらず、蓮華蔵世界についての論述が中心となっている。そのことについて、玉城康四郎は、次のように述べている。

  「この経典の真理がわれわれ衆生の現実態に対応するものであり、いいかえれば、その真理がわれわれ自身のものとして熟し得る可能性を示しているということができよう。しかしながら、経典全体としては、ほとんどまったく、法、法界、仏、如来に関わるものに充満しており、衆生の業報態、現実態に対する注視、配慮が欠落しているといわねばならない。それゆえに、この経典は仏道の基本路線を十分に充足しているとはいえないであろう。この点において、『華厳経』が衆生の宗教として展開し得なかった所以である。」(『仏教の思想』2大乗仏教P84〜85)

 このような『華厳経』の限界を克服するためには、その思想を、前述したように、蓮華蔵世界と衆生界の逆行的対立を主体的実践によって相即的統一に転換させるというところまで展開してゆかねばならない。それによって、衆生界を蓮華蔵世界に超脱し、さらにヴィルシャナ仏との合一という悟りの境地に至った自己が、そこにとどまることなく、蓮華蔵世界を介して再び衆生界に戻り他者のために働くという大乗菩薩行が完全なものとなるのである。

 大乗菩薩行を実践する自己は、ヴィルシャナ仏から出てヴィルシャナ仏に帰る全実在界における無限のエネルギー・生命の循環運動と自己を一体化させることができる。それが、ヴィルシャナ仏と自己との合一という実在・実存体験を究極的基盤とする全実在界大の実在・実存体験であり、その体験主体が全実在界大の本来的自己である。全実在界大の自己が、知的直観、知性を働かせることによって、その実存的観想意識に全実在界の真実相が映される。それは、全実在界を、相即的に統一された衆生界と蓮華蔵世界がヴィルシャナ仏に統合された相において見る、ということを意味している。

 現代におけるすべての個物・個人の相互調和と『華厳経』

  この全実在界においては、万物がヴィルシャナ仏から出てヴィルシャナ仏へ帰る循環運動が進行してゆく。それは、全実在界を循環する無限の創造的エネルギー・生命の循環運動が、それぞれの個物の中で進行してゆくということにほかならない。したがって、そこでの個物は全実在界大の規模を有しているのである。自己は、それらすべてを個物と一体化する。すなわち自己が、万物の中に入ることによって、自己の中に万物を見るとともに、万物の中に自己を見る。こうして、全実在界大の本来的自己が、それぞれ全実在界大の規模を有する万物が相即相入的に調和するという真実相を体得・体認するのである。

  『華厳経』によれば、一切の衆生は、如来と合一し本来的自己を実現する可能性を有しているが、顚倒のためにそのことを自覚することができないのである。全実在界の真実相からすれば、一切の衆生がその潜在的可能性を実現することは、すべての全実在界大の個物が相即相入的調和を実現するというところまで総体化・具体化されなければならない。

  一切の衆生は、自己が、ヴィルシャナ仏によって在らしめられてある存在であることを忘却して生死流転の世界へ自己閉鎖的となる。そのため、一切の衆生は、自己中心的となり、自己の生を貪り、他者を支配しようとするなどの煩悩にふりまわされて生きることになる。その結果、衆生界に万物の相互障礙が生じるのである。現代の人間も、また、全実在界とそこにおける自己の本然的なあり方を忘却し、感覚界に自己閉鎖的となっている。そのため、自己中心的となった現代の人間は、自然生態環境・社会文化環境を自己の欲望を実現するための手段として支配する。その結果、生じたのが、自然的個物・人間的個人・文化的個物のあいだの深刻な対立・相剋であった。これはまさに、現代における万物の相互障礙以外の何ものでもない。このような転倒した事態を根本的に転換させるためには、人間は感覚界から超感覚的な全実在界に超脱し、そこにおけるすべての全実在界大の個物・個人の相即相入的調和を実現しなければならない。『華厳経』の思想は、このようなかたちで現代に甦ることができる。

 たしかに、現代の多くの人間にとって、ヴィルシャナ仏、普賢菩薩などというものは容易に受け入れがたいであろうし、ヴィルシャナ仏が眉間の白豪相から光明を放ったなどという表現はほとんど荒唐無稽なものとか思えないであろう。しかし、華厳の思想内容をこれまで見てきたようなかたちでとらえ返し、全実在界大の実在・実存体験のロゴス化としての形而上学(それは、釈迦の無我説を継承・展開した絶対無の形而上学である)として再構成することによって、それが時代を超えて生きつづけるに足る力を持っていることが明らかになる。

          プロティノスの引用は、田中美知太郎・田之頭安彦訳によった。華厳の引用は、江部鴨村訳によった。                                                                                                                                                                                                                                          2011.11.27


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