『東西思想の超克』再説 第3回 世界宗教と形而上学――キリスト教―イエスの宗教・パウロの神学・ヨハネの神学  大乗仏教―龍樹の中観哲学・世親の唯識哲学

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『東西思想の超克』再説

第3回 世界宗教と形而上学

    キリスト教―イエスの宗教・パウロの神学・ヨハネの神学  大乗仏教―龍樹の中観哲学・世親の唯識哲学

 

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 イエスの宗教

  全人類を罪からの救済に導くイエスの宗教思想

 仏教の開祖である釈迦は、感覚界から超感覚界的な実在界に超脱し、永遠無限絶対の実在であるダンマ(法)との合一状態に到達した。釈迦は、それによって迷いの境地から悟りの境地への全人格的転換の途を全人類に示した。キリスト教の開祖であるイエスも、感覚界から超感覚的実在界に超脱し、永遠無限絶対の実在である神のプネウマ(聖霊)との合一状態に到達した。イエスは、それによって肉的人間から霊的人間への全人格的転換の途を全人類に示した。

 イエスにおいては、感覚界と超感覚界の関係は、肉とプネウマとの関係としてとらえられている。イエスは「霊(プネウマ―根井注)こそが生かすものであって、肉は何の役にも立たない。私があなたがたに語ってきた言葉は霊であり、命である。」(『ヨハネ福音書』6の63)と述べている。人間が肉に従って生きることは「罪」である。人間は、魂を肉体から分離(魂の浄化)することによって感覚界から超感覚界に超脱し、プネウマに従って生きることが可能となる。それが、人間が神によって罪を許され、救済されることにほかならない。

 このことは、プラトンが、人間は魂を肉体からできる限り分離すること、すなわちカタルシス(魂の浄化)によって感覚界から超感覚界に超脱し、絶対者を体験することができる――とした事態に対応するものである。玉城康四郎は、釈迦におけるダンマの直接経験とイエスにおけるプネウマの直接経験が同質的であることを指摘しているが、それはプラトンの絶対者の体験とも同質的である。

 玉城康四郎は「ブッダではダンマが顕わになることにより、キリストでは神のプネウマが現われることにより、それぞれの根源的な存在の転換が実現したということができる……これが両者にとって根源的目覚めの原型たるべきものであり、のみならず、人間存在の目覚め一般の原型というべきである。」(『比較思想論究』P453)とべている。

 根源的目覚めとは、人間が絶対者すなわち永遠無限絶対の実在を体験することによって、全人格的転換をとげることであり、「回心」「覚醒」「解脱」などと呼ばれる事態である。プラトンが、人間は絶対者を体験することにより、神と似たものとなり、永遠性を獲得する、としていることも同じ事態である。釈迦とイエスの絶対者の体験が同質的であるということは、両者が体験したダンマとプネウマが同一の実在であるということを意味している。

 それだけでなく、プラトンの体験した絶対者も、また、釈迦とイエスが体験した実在と同一なのである。そこには、仏教とキリスト教の相違を超え、さらに宗教と哲学の相違を超えた、同一の実在との合一という普遍的な実在・実存体験が存立している。真正の宗教、真正の哲学は、すべてこの実在・実存体験を究極的な基盤として成立するのであり、個々の宗教思想、哲学思想は、その実在・実存体験をそれぞれ独自のかたちで表現しているのである。

 永遠無限絶対の実在は、全実在界成立の根底であり、すべての個人は、感覚界から超感覚界へ超脱しその実在と合一することによって、それぞれに本来的自己を実現することができる。したがって、その実在との合一という実在・実存体験は、すべての個人の本来的自己成立の根底として全人類の共通基盤なのである。イエスは、自らその体験をした先覚者である。したがって彼の宗教思想は、全人類を本来的自己の実現へと導くことができるのである。

 プネウマの直接経験によるイエスの全人格的転換

 イエスが直接経験したプネウマは、「神のプネウマ」(『マタイ福音書』3の16〜17)と呼ばれている。神は永遠無限絶対の実在であり、プネウマとはその神の無限の創造的エネルギー・生命である。そのようなものとして「プネウマはすなわち神である。」(玉木・前掲書P479)ということができる。神は、人間をはじめとするすべての被造物を在らしめている実在であり、すべての被造物は神から創造的生命を賦与されることによって存在を保っているのである。

 神の無限の創造的エネルギー・生命は、無限絶対的次元から有限相対的次元に発現してゆく下向運動と、有限相対的次元から無限絶対的次元に還帰してゆく上向運動を不断に展開してゆく。こうして、無限絶対的次元と有限相対的次元が統合された全実在界に、無限の創造的エネルギー・生命が循環・遍満することになる。神は、このような働きをする存在として全実在界成立の根源なのである(存在即働きとしての神)。無限の創造的エネルギー・生命の循環運動が一瞬でも停止すれば、すべての被造物は無に帰してしまうほかはない。神の働きを抜きにした被造物それ自体は、まったくの無であり、まったくの無力である。

 このことを神と人間の関係においてととらえ返すならば、両者のあいだに絶対の断絶が存在しているということを意味している。したがって人間は、自力で神に至ることはできない。神に向かうには、まったく無力な人間に対して、神の側から働きかけが為される。それは、神が人間を自己のもとに導こうとする招きであり、呼びかけである。この事態は、永遠無限絶対の実在が、有限相対的人間に存在を賦与する力が常に働いていると同時に、永遠無限絶対の実在が、有限相対的人間を自己のもとに引き戻す力が常に働いていることとしてとらえ返すことができる。

 この神からの呼びかけに応答するところに、イエスの信仰が成立した。信仰とは、神を信じ、自己のすべて放下し、神に託することを決断するとともに、実践によって、神が自己のもとに導こうとする働きと一体化することである。その実践が、イエスにおける「祈り」である。イエスは、祈りという実践によって、感覚界から超感覚界に超脱し、プネウマを直接経験した。それによって、イエスが全人格的転換をなしとげた最大の出来事は、彼がヨルダン川でヨハネからバブテスマ(洗礼)を受けている時に起こった。『ルカ福音書』には「さて、すべての民が洗礼を受けている時、イエスも洗礼を受け、そして祈っていると、天が開き、聖霊(プネウマ―根井注)が姿形のあるさまで鳩のように彼の上に降りて来、かつ、天から声がした。お前は私の愛する子、お前は私の意にかなつた。」(3の21〜22)とある。

 この文章は、自己を神に全託したイエスの内に、神のプネウマ、すなわち無限の創造的エネルギー・生命が流入、浸透し、神とイエスを一つに結びつけた事態を表現しているものと解することができる。それによってイエスは、神との合一に達したのである。イエスは、祈りという実践によって、感覚器官およびそれに結びついた理性の働きを抑止し、知的直観、知性を働かせた。すなわち、知的直観によって神と合一し、知性によって神を知ったのである。イエスの祈りは、釈迦がそれによってダンマとの合一に達した瞑想という実践に対応するものであり、後のキリスト者がそれによって神との合一に達した瞑想に連なるものである。

 人間のプネウマへの背反、人間と神の敵対関係

 ところで、プネウマ、すなわち無限の創造的エネルギー・生命は、全実在界に貫流・遍満するものであった。したがって、無限の創造的エネルギー・生命が神からイエスに浸透し、両者を一つに結びつけたとき、同時に、全実在界に貫流・遍満する無限の創造的エネルギー・生命がイエスに浸透し、両者が一つに結びつくことになる。すなわち、全実在界の根源において、神の水平的な働きとイエスの一体化が実現するとき、同時に、神の垂直的な働きとイエスの一体化が実現するのである。このとき、知的直観、知性の働きは全実在界に及び、その真実相が自覚される。

 有限相対的次元とそこにおける人間は、この全実在界大の自覚の内に包括されており、その真実相はイエスによって自覚されている。すなわち、有限相対的存在としての人間が神によって在らしめられて在る存在であり、神の働きが現に人々のもとに来ていることをイエスは自覚していたのである。イエスは、このような真実相を自覚すると同時に、世の人々がその真実相を知らないということを自覚する。

 イエスは、「私は父に頼み、父はもう一人の弁護者を、[その弁護者が]いつまでもあなたがたと共にいるようにと、あなたがたに与えて下さるようになろう。それは真理のプネウマであるが、世はこれを受け入れることができない。世はそれを看ることもなければ、知ることもないからである。」(『ヨハネ福音書』14の16〜17)と述べている。この場合の「世」とは、感覚界としてとらえ返すことができる。そこにおける人間は、感覚器官によってとらえることのできる対象を唯一の現実とみなす。したがって、このような人間は、超感覚的な実在であるプネウマをとらえることができない。

 このため、世の人々は、自己が神から無限の創造的エネルギー・生命を賦与されることによってしか存在することはできないということを知ることができない。そのため世の人々は、自己が自己自身によって存在するかのごとくみなして自立的であろうとすることになる。そこには我執が存在している。それが、肉に従って生きることであり「罪」にほかならない。こうして、世の人々は無限の創造的エネルギー・生命が循環・遍満する全実在界に背を向け、感覚界に自己閉鎖的になろうとする。そこに、人間のプネウマへの背反、人間と神の敵対関係が生じる。

 感覚界は、全実在界の有限相対的次元の外面であり、その内面には無限絶対的次元から発現してきた無限の創造的エネルギー・生命が脈打っている。ただ、感覚界に自己閉鎖的な人間は、それをとらえることができないのである。イエスは、感覚界から超感覚界へ超脱し、そこから感覚界の真実相を自覚したがゆえに、肉に従った世の人々の罪の生活と、プネウマに従うことによって救済された自己の生活の逆行的対立をはっきり見てとったのである。こうして、世の人々が罪の内にあることを見て取ったイエスは、彼らを救うべく、全実在界の真実相を自覚した存在として再び感覚界に帰るのである。

 イエスの悔い改めの呼びかけと神の支配への服従

 こうして、世の人々に対するイエスの宣教が為される。それは、プネウマに背反した罪の状態にある人々に対する悔い改めの呼びかけである。イエスの宣教の言葉は、日常的な言葉とは根本的に異なっている。感覚界における日常的な言葉は、主観と客観を二元的に対立させる日常的な知と結びついている。そこには、自己と他者を対立させ、自己執着する我執が働いている。それに対してイエスの言葉は、神を根底として全実在界に貫流・遍満する無限の創造的エネルギー・生命と自己との一体化を体得・体認した知と結びついている。

 それは、全実在界の真実相を自覚したものとしての真理を表現する言葉なのである。したがって、イエスの悔い改めの呼びかけを聞く人間は、それを単に理性で理解するのではない。理性は、あくまでも日常的な知の枠内にとどまるものである。イエスの言葉を理性で理解しようとするかぎり、それはいわゆる「頭で理解する」ことにとどまらざるをえない。それに対して、イエスの言葉を真に理解するときには、主観・客観二元対立的な日常的な知そのものが根本的に転換させられ、全人格的転換がひき起こされる。すなわち、その人間は、感覚界から超感覚界へ超脱し罪から救われるのである。

 神は、人間に存在を賦与することによって人間を在らしめる。それは「創造者」としての神の働きである。人間が、そのように神によって在らしめられて在る存在であることを知らないとき、我執が生じる。神は、人間をそのような状態から救おうとして働きかける。それは、「救済者」としての神の働きである。その働きが「神の支配」である。イエスは「見よ、神の支配はあなたたちの[現実の]ただ中にあるのだ。」(『ルカ福音書』17の21)と述べている。

 神の救済の働きは、現に人間の脚下に来ている。イエスは、そのことをはっきりと自覚していた(そのことは、イエスが、人間は神の創造の働きによって在らしめられて在る存在であることを自覚していたことと一体的である)。だが、世の人々は、そのことを知らない。そのような人間に対してイエスは、悔い改めて神の支配に服従するよう呼びかけるのである。イエスは人々に「お前の神なる主を、お前の心を尽くし、お前のいのちを尽くし、お前の想いを尽くし、お前の力を尽くして愛する」(『マルコ福音書』12の29〜30)ことを命じる。

 神を愛するとは、神を信じて自己のすべてを神に委ねることを決断し、自覚的行為によって、神が人間を自己のもとに引き戻そうとする働きと一体化することである。それが、神の支配への服従であり、そこでは我執は完全に克服されている。たしかに神を愛することは、人間の主体的行為である。しかし、それは、神が自己を愛するように人間を促すことに応じることによって、はじめて可能となるのである。

 すでに言及したように、人間のもとには現に神の救済の働きが来ていた。そのことは、人間のもとに神の罪に対する赦しが来ていたということにほかならない。その働きに人間が、自覚的行為によって応じることによって、悔い改めが実現し救済が成就するのである。そこには、いささかの自力のはらいもない。この点でイエスの信仰は、ユダヤ教のパリサイ派の律法主義とは根本的に異なっている。律法主義者は、律法を遵守することに全力を集中し、道徳的に良い行為を重ねことを救済の条件とした。そこには、自力で救済に与ろうとする我執が存在している。こうして律法は、神の支配すなわち救済の働きから乖離し、人間を拘束する外的規範と化したのである。

 イエスは、このような律法主義に反対し、人々に対して神の支配に服従するよう呼びかけたのである。世の人々は、イエスの呼びかけに応じ、神が人間を自己のもとにひき戻そうとする働きと一体化することによって、神のもとに至り、神のプネウマ、すなわち無限の創造的エネルギー・生命によって神と一つに結びつけられる。イエスは、このようなかたちで人間を神のもとへ導いてゆく。

 こうして神と合一した人間は、それを究極的基盤として全実在界に貫流・遍満する無限の創造的エネルギー・生命と一体化した本来的自己を実現する。イエスの宣教の言葉を聞き、それに従って実践するときに、イエスのうちに充満しているのと同じ無限の創造的エネルギー・生命が、その人間のうちにも充満するのである。イエスの悔い改めへの呼びかけに応じることによって、人間は肉に従った生き方からプネウマに従った生き方へ全人格的転換を遂げ、人間のプネウマへの背反が克服される。イエスのそのような働きの背後には神の働きがあり、イエスは神の支配を体現している。イエスは、神の呼びかけに応答することによって、無限の創造的エネルギー・生命が無限絶対的次元から有限相対的次元に発現してゆくとともに、そこから無限絶対的次元へ還帰してゆく――という全実在界における神の下向・上向運動と一体化し、それを体現している。イエスは、そのような存在として神に背反する人間と神を媒介・結合する。イエスは、上に向かっては神の呼びかけに応じ、下に向かっては罪人としての世の人々に悔い改めを呼びかけることによって、神と人間の敵対関係を和解させる仲保者なのである。

 すべての人間の「模範」としてのイエスと本来的自己の実現

 そのイエスの「神を愛せよ」という命令に従って自己のすべてを神に委ねた人間は、神によって我執を否定され尽くされ、罪から赦された。この神の支配への服従は、隣人に対する愛として現われる。我執とは、人間が神によって在らしめられて在る存在であるにもかかわらず、そのことを知らずに自己自身で存在しているかのように思いこむところに生じる。そのような人間は、自己を他者と対立させ、自己に執着し、他者を利用、支配しようとする。そこには、我執、我所執が存在している。我執による人間の神への背反が克服されたとき、人間はそのような自他関係を根本的に転換させなければならない。イエスは、「お前は、お前の隣人をお前自身として愛する」(『マルコ福音書』12の31)ことを命じるのである。

 「神を愛せよ」という命令に従って神に服従した人間は、神のプネウマ、すなわち無限の創造的エネルギー・生命によって神と一つに結びつけられ、そこに、両者の相即的統一が実現する。一方、「隣人を愛せよ」という命令に従って他者に服従した人間は、神のプネウマ、すなわち無限の創造的エネルギー・生命によって他者と一つに結びつけられ、そこに両者の相即的統一が実現する。

 神に背反する人間は、有限相対的次元の外面である感覚界の内面に無限の創造的エネルギー・生命が脈打っていることを知ることができず、外面に自己閉鎖的となり、我執が生じることになった。だが、いまやそのような自己閉鎖性は破られ、我執は克服された。自己は、他者を利用、支配するのではなく、他者に従属し、そのために働くのである。

 イエスは、神の呼びかけに応答して感覚界から超感覚界へ超脱するとともに、感覚界に帰って世の人々に悔い改めを呼びかけた。その呼びかけに応じた人間は、感覚界から超感覚界へ超脱するとともに、感覚界に帰って他者のために働く。このようにイエスの上向・下向運動は、すべてに人間にとっての「模範」なのである。それぞれの個人がイエスの運動に自覚的行為によって倣うとき、有限相対的次元から無限絶対的次元へと無限絶対的次元から有限相対的次元へという逆方向の運動が一人の主体の上に行じられる。それによって、それぞれの個人は、神の垂直的運動すなわち全実在界における無限の創造的エネルギー・生命の循環運動と一体化した本来的自己を実現する。

 そのとき、それぞれの個人の内に無限の創造的エネルギー・生命が充満し、すべての個人を一つに結びつける。このとき、水平的には、無限絶対的次元において、神とすべての個人を同じ無限の創造的エネルギー・生命が一つに結びつけ、両者の相即的統一が実現する。それと同時に、有限相対的次元において、すべての個人を同じ無限の創造的エネルギー・生命が一つに結びつけ、彼らの相即的統一が実現する。

 死滅の危機に直面した人類を救済するイエスの宗教思想

 だが、事態はそれだけにとどまるものではない。すでに言及したように、人間のみでなく、すべての被造物は、神によって在らしめられて在る存在である。したがって、人間が自覚的行為によって、先述のような相即的統一を実現するとき、それを通じて同時に万物万人の相即的統一が実現するのである。こうして、すべての存在者が神から出て神へ帰る壮大な運動を体現した全実在界大の万物万人の共同体が形成される。

 人類は、そのような重大な責務を有しているのである。にもかかわらず、現代の人類は、そのことを忘却してしまった。そのような事態をもたらしたものは、近代科学であった。近代科学は人間の感覚でとらえられる事物のみを認識対象とするため、超感覚的実在界を対象とする宗教を排除してしまった。そのため、近代科学によって基礎づけられた近代科学技術文明は、超感覚界を全実在界から乖離し、感覚界において自己完結的な運動を展開してゆくことになった。それは、人間が、永遠無限絶対の実在に背反し感覚界に自己閉鎖的になるということを意味した。そこに、我執の近代的形態である人間中心主義が生じた。

 人間は感覚界の中心として、科学が対象とする物質的事物を技術によって加工した事物を享受することによって、自己の生活を豊かにすることをひたすら追及してきた。それは、肉に従った生活の近代的形態以外の何ものでもない。その結果が、自然的個物・人間的個人・文化的個物のあいだの深刻な対立・相剋であり、人類の死滅の危機であった。イエスの宗教を継承したパウロが「もしもあなたがたが肉に従って生きるなら、あなたがたは確実に死ぬであろう。」(『ローマ人への手紙』8の13)と述べていることが、現実味を帯びてきたのである。それは、まさに現代の人類の罪にほかならない。

 キリスト教の源頭に立つイエスの宗教思想の全体を、これまでみてきたようなかたちでとらえ返し、再構成することによって、それは、現代の全人類に悔い改めを呼びかけ、本来的自己、万物万人の共同体の実現へと導いてゆくものとして甦るのである。それが、現代において、人間が感覚界から超感覚界実在界へと全人格的転換をなしとげることであり、「もしも、あなたがたがプネウマによってからだの行為を殺すなら、あなたがたは生きるであろうと。」(『ローマ人への手紙』8の13)ということを現代的なかたちで実現することにほかならない。

 パウロの神学

 イエスの弟子たちにおける「復活したイエス」の顕現体験

 イエスは、神の呼びかけに応答することによって、感覚界から超感覚界に超脱し、神のプネウマ、すなわち無限の創造的エネルギー・生命によって神と一つに結びつけられた。こうしてイエスに、神に背反している人々を神のもとへ導くという使命が与えられた。その使命を遂行するために、イエスは感覚界に帰り、人々に悔い改めて神の支配に服従するよう呼びかけた。

 その呼びかけに応じてイエスの弟子になった人々に対して、イエスは、この「世」から自己を徹底的に分離することを求めた。「そしてイエスは、ガリラヤの海辺を歩みながら、シモンとシモンの弟アンドレアスが海で網を打っているのを見た。彼らは漁師だったのである。そこでイエスは彼らにいった、『私の後について来なさい。そうすればあなたたちを人間[を捕る]漁師にしてやろう』。そこで彼らはすぐに網を捨て、彼に従った。」(『マルコ福音書』1の16〜18)という文章は、そのようなことを意味している。

 すなわち、イエスは、感覚界にある人々に対し、自己を絶対的に否定し、神にすべてを委ねることを求めたのである。それに応じた人々は、信仰を獲得した。だが、弟子たちは、イエスが十字架上で死んだことに衝撃を受け信仰を失った。その弟子たちが、再び信仰を取り戻したのは、「復活したイエス」に出会うという体験をしたことによってであった。

 イエスの死・復活とは、有限相対的次元における人間イエスが死んで、無限絶対的次元において甦らせられたということである。そのイエスの復活体を、原始教団はキリストと呼び、「父なる神」と同じような「主なる神」であるとした。その復活したイエスが弟子たちに現われ、弟子たちは、それを見たのである。「まことに主は起こされ、シモンに現れた」(『ルカ福音書』24の34)のである。ここで「起こされた」と言われていることは、復活したという意味である。

 弟子たちがイエスの幻を見たことは事実である。しかし、そのことを、単なる目の錯覚や精神病理学的現象と解してはならない。イエスの十字架上の死を見て一度は信仰を捨てた弟子たちは、復活したイエスを見ることによって、彼をキリストと信じ、宣教活動を開始したのである。そのように弟子の存在を根本的に転換させた復活したイエスの顕現体験とは、そもそもどのようなものであるのかということを理解することが重要である。そのためには、弟子たちの顕現体験とイエス自身の体験および彼に従った人々の体験が、どのような関係にあるのかということを明らかにしなければならない。

 宗教的経験としての顕現体験の本質的意義

 イエスは、神という永遠遠無限絶対の実在と合一し、全実在界に循環・遍満する無限の創造的エネルギー・生命と一体化するという実在・実存体験をした。それによって、イエスの内には無限の創造的エネルギー・生命が充満した。そのイエスが、世の人々に悔い改めを呼びかけたということは、神がイエスを媒介として神に背反する人々を自己のもとに引き戻そうと働きかけた、ということを意味している。

 イエスは、上に向かっては神に至り、下に向かっては人間に至る、神と人間との仲保者として働くのである。イエスを媒介とする神の働きかけに応じた人々は、仲保者としてのイエスと合一するという実在・実存体験をする。それによって、彼の内にイエスの内を満たしたのと同じ無限の創造的エネルギー・生命が充満する。イエスと人々は、神のプネウマ、すなわち無限の創造的エネルギー・生命によって一つに結びつけられたのである。プネウマに背反していた人々は、このようにして根本的な存在転換を遂げる。

 弟子たちにおける復活したイエスの顕現体験は、イエスの呼びかけに応じた人々におけるイエスとの一体化体験に対応するものである。信仰を捨て神に背反した弟子たちに対しては、神が彼らを自己のもとに引き戻そうとする働きかけが為される(より一般的に言えば、感覚界に自己閉鎖的なすべての人間に対して永遠無限絶対の実在が彼らを自己のもとに引き戻そうとする力が常に働いているのである)。

 弟子たちの顕現体験は、このような神からの働きかけによって引き起こされたものである。この体験は、ウィリアム・ジェイムズが、次のように叙述している宗教的経験と同一のものである。「しばしば声が聞こえたり、光が見えたり、幻を見たり、自動的な運動現象が起こったりする。そして、個人的な意志が放棄されたあとでは、つねに、高い力が外から流れ込んできてそれにとり憑かれてしまったような感じがする。その上、刷新され、安心を得、深められ、義を得たという感じが、自分の本性が根本的に新しく生まれかわったと信じさせるに足るほど不思議な歓びを与えるのである。」(『宗教的経験の諸相』桝田啓三郎訳・岩波文庫上P344)

 弟子たちの顕現体験においては、彼らが幻を見たという事実よりも、彼らが外から流れ込んできた高い力によって自分の本性を根本的に新しく生まれ変わらされたという事態こそが本質的なのである。そのことは、門脇佳吉が「復活したイエスの出現に出会った弟子たちは、最初、驚き、恐れ、疑いさえ抱くが、圧倒的な栄光に満ちたイエスを直接経験して、大いなる『平安と歓び』のうち引き入れられたのである。この復活体験こそ、弟子たちを決定的に変革し、それ以後の彼らの生涯を方向付けた『原体験』であった。」(『道の形而上学』P299)と述べていることによっても明らかである。

 イエスを通じて神の垂直的な働きと一体化した人間

 このような結果を引き起こす神の働きかけを媒介する仲保者が、復活したイエスにほかならない。復活したイエスが、弟子たちにどのようなものとして現われたかについては、福音書に次のような記述がある。イエスが弟子たちの只中に現われた時、彼らは、幽霊を見ているのだと思った。するとイエスは、彼らに「私の両手と両足を見よ。私以外の何者でもない。」(『ルカ福音書』24の39)と言って、両手両足を見せた。そしてイエスは、彼らを祝福し、その姿のままで天に運び上げられた。そこで弟子たちは、彼を伏し拝んだ。

 このことに関して門脇佳吉は、「弟子たちは復活したイエスが生前と同じように肉体を備えており、それを彼らは肉眼で見たと結論してよいであろう。しかし、イエスの肉体が生前のものと全く違って神的なものとなっていたことは、それを見た弟子たちが直ちに『ひれ伏した』ことからわかる。この『ひれ伏した』動作はモーセが神に出会ったときになした『神を見ることを恐れ、顔を覆った(出エ三の六)動作と同じものと考えてよいだろう。』(『道の形而上学』P301)と述べている。

 イエスの復活体を原始教団がキリストと呼び、父なる神と同じなる神とみなした、ということにはすでに言及した。その復活したイエスが肉体を有し、しかも、それが神的なものに高められていた、というのである。そのことは、復活したイエスの総体が、無限絶対的次元と有限相対的次元からなる超感覚的な実在であるということを意味している。弟子たちが、復活したイエスを見たということは、彼らが無限絶対的であると同時に有限相対的な実在を直接経験したということなのである。それは、ウィリアム・シェイムズが、高い霊的な力が人間に直接触れるとしている事態である。

 復活したイエスは、超感覚的実在であるから、その経験はもちろん感性的経験ではありえない。弟子たちは、復活したイエスの総体を、感性的直観を超える知的直観によって直接捕捉し、それと一体化するという実在・実存体験したのである。それが、幻視・幻覚を伴った顕現体験なのである。門脇のいうイエスの直接経験(原体験)は、そのようなものとしてとらえ返すことができる。

 弟子たちに現われた復活のイエスは、彼らを自己のもとに引き戻すために神が自己を顕示したものである。したがって、復活のイエスと弟子たちが一体化するとき、神のプネウマ、すなわち無限の創造的エネルギー・生命が両者を一つに結びつける。復活のイエスの内には、生前のイエスの内に充満していたのと同じ無限の創造的エネルギー・生命が充満しており、それが弟子たちの内にも充満する。こうして弟子たちは、イエスを通じて神の垂直的な働き、すなわち全実在界に循環・遍満する無限の創造的エネルギー・生命の内に引き入れられ、それと一体化する。

 パウロの顕現体験と回心=根源的な存在転換

 無限絶対的実在である神と有限相対的存在である人間を媒介する、無限絶対の実在と有限相対的実在の統合態――それが、弟子たちが復活したイエスと呼んだところのものの実態である。この肉体を有する神という観念が、「まことに神・まことに人」としての神人イエス・キリストとされ、イエス・キリストが神と人間を媒介するというキリスト教神学が展開してゆく。

 その基礎を形成したのが、パウロであった。パウロも、弟子たちと同じ復活したイエスと出会うという体験をした。彼は、その顕現体験を思想的に反省することによって、壮大な神学体系を形成したのである。パウロは、律法を厳格に守ることによって救済されるとする律法主義者、パリサイ派であった。そのため彼は、イエスの弟子たちを迫害し、彼らを殺害するためにダマスコ市に入ろうとしていた。その時、彼は、突然回心した。それを引き起こしたのは、復活したイエスを見たという体験である。

 それは次のようなものであった。「ところが、行ってダマスコの近くまで来ると、突然、天からの光が彼をめぐり照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウルなぜ私を迫害するのか』という声を聞いた。そこで、彼はたずねた、『主よ、あなたはどなたですか』。すると答えた、『私は、お前が迫害しているイエスである。起きて町に入りなさい。そうすれば、お前のなすべきことが告げられるであろう』。サウロと共に来た者たちは、ものも言えずにそこに立っていた。声は聞いたが、誰も見なかったからである。サウロは地から起き上がった。しかし、目を開けても何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いて、ダマスコに連れていった。サウロは三日の間目が見えず、食べることも飲むこともしなかった。」(『使徒行伝』9の3〜9)

 パウロは、「私は私たちの主イエスを見たのではないのか。」(『コリント人への第一の手紙』9の1)と述べている。パウロは、弟子たちと同じ幻視・幻聴を伴った顕現体験をしたのである。パウロに復活したイエスが顕われたことは、イエスの弟子たちを迫害する罪あるパウロを自己もとに引き戻し、救済しようとする神の働きかけが為されたことによって引き起こされた事態ある。

 パウロは、迫害者であった自己を弟子たちと比べて、未熟児のごときものと規定している。「彼は、すべてのものの最後に、ちょうど未熟児のごとき私にも現れられた。」(『コリント人への手紙』15の8)と述べている。また、神は「神子を私のうちに啓示することをよしとされた」(『ガテラヤ人への手紙』1の16)とも述べている。

 このような顕現体験によって、パウロの回心がなしとげられた。すなわち「私は律法による私の義を与えられているのではなく、むしろキリストへの信仰による義、信仰に基づく神からの義を与えられているのである。」(『フィリピ人への手紙』3の9)という律法主義からの根源的な存在転換がなされたのである。律法主義とは、律法を守ることによって、罪から救われようとする立場である。そこには、自己の道徳的に正しい行為によって神と結びつくことができるという自力主義、我執が存在している。

 パウロは、顕現体験によって、そのような自力主義、我執を絶対的に否定され、神にすべてを委ねて神からの働きかけに服従することによって救済されるという立場に転換したのである。パウロは、そのことについて「実際私は、神に対して生きるために、律法をとおして律法に対して死んだのである。私はキリストと共に十字架につけられてしまっている。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内で生きておられるのである。」(『ガテラヤ人への手紙』2の19〜20)と述べている。

 「キリストが私の内で生きておられる」とは、神のプネウマが、パウロを復活したイエスと一つに結びつけ、復活したイエスの内に充満する無限の創造的エネルギー・生命が、パウロの内に充満するという事態である。それは、復活したイエスを通じて、神がパウロを罪から救済したということにほかならない。こうして、パウロにとって十字架上に刑死したイエスは、主キリストとして信仰の対象に転換したのである。

 万物を創造する神の働きの「仲保者」としてのキリスト

 パウロの回心は、復活のイエスと一体化し、イエスとともに死んでイエスとともに甦るという死復活の体験であった。パウロは、この体験を反省し彼が所有していた神学的知識を援用して理論化することによって、その神学を形成したのである。それは、キリストとの合一を通じた神との合一という実在・実存体験のロゴス化としての神学であり、神のプネウマすなわち、無限の創造的エネルギー・生命が循環・遍満する全実在界の真実相の自覚としての真理認識という性格を有している、ということができる。

 具体的には、パウロの神学は、自己が神によって救われたという事実にもとづいて、神の創造と救済の働きがどのようなかたちで為されつつあるのかということを明らかにしたものである。パウロの神学においては、神と人間のあいだに絶対的な断絶がある。パウロの神学における神は、『旧約聖書』出エジプト記の「私は在りて在るものである」という神観念を継承している。神は、人間をはじめとするすべての存在者を在らしめる存在であり、すべての存在者は、神によって在らしめられて在る存在である。そこには、創造者と被造物の絶対的区別がある。

 永遠無限絶対の実在である神が、力動的に働きつつある絶対的な主体として、すべての被造物を創造しつつあるのである。この神の働きを抜きすれば、被造物自体はまったくの無であり無力である。人間が、自己がこの神の働きによって在らしめられて在ることを知らないとき、神に背反して罪に陥ることになる。人間自体は、まったくの無力であるから自分自身で罪から脱け出す力を有していない。しかし、そのような人間に対しても、神の救済の力は常に働いているのである。

 しかし、人間は、そのことを知ることができない。人間が、神の創造力と救済力が断絶を超えて自己の脚下に来ていることを知ることができないとき、神と人間の断絶関係は両者の敵対関係に変わる。この両者を媒介するものが、神の創造力と救済力をその内に具現した仲保者としてのキリストにほかならない。このキリストの働きによって、神と人間の敵対関係が克服され、両者が絶対的に断絶したまま統一されるのである。

 パウロは、自己が神によって救済された体験の普遍的意義を探求することによって、その神学体系を構築したのである。では、神の創造力と救済力は、キリストを通じて具体的にどのようなかたちで働きつつあるのか。神は、すべての被造物の創造者であるが、キリストは「神のかたち」として「神と等しくある」(『フィリピ人への手紙』2の6)ものである(いわゆる「先在のキリスト」)。『コロサイ人への手紙』には、「この方は見えざる神の形姿。あらゆる創造の[内で]最初の誕生者。事実、御子において万物が創造された。……万物は御子を通して、そして御子に向けて創造されている。また、御子は万物に先立ち、万物は御子において存立している。」(1の15〜17)とある。

 万物は神から出ると言われるように、神によって創造されるのであるが、その創造は、神から出た「神の子」キリストを通じて為される。キリストは、神の創造の働きの仲保者なのである。八木誠一は、神は、存在するものの「存在」の根源・有の創造者であり、キリストは、存在するものが「どのようにあるか」を定める存在の原型であると規定している(『キリストとイエス』P134)

 キリストの受肉とイエスの死・復活、神と人間の和解

 そのキリストが神のかたちを捨て受肉したのが、人間イエスである。すなわち「キリストは、神の形のうちにあったが、神と等しくあることを固守すべきものとはみなさず、むしろ己れ自身を空しくした、奴隷の形をとりつつ。さらに人間と似た者になりつつ、人間としての姿において現れつつ、それ自身を低くした」(『フィリピ人への手紙』2の6〜8)ということである。

 八木誠一の見解によれば、ナザレのイエスは、存在の原型であるキリストが、地上でとった「典型的な形」「円満な具現」である(『キリストとイエス』P133)。だから、イエスは、受肉した存在として罪を犯す可能性を有しながら「罪を知らない方」(『コリント人への第二の手紙』5の21)であったのだということができる。その罪を知らないイエスを、神は「私たちのために罪とされたのである」(同)。罪のないイエスは、人間の罪を償うために人間に代わって十字架上に死んだのである。ここには、全体の罪を償うめに、特定の個人を神への犠牲としてささげる――という古代ヘブライ民族の考え方が反映している。

 「イエスは、私たちの罪過のゆえに[死へと]引き渡され、そして私たちの義のために[死者たちの中から]起こされた」(『ローマ人への手紙』4の25)のであり、それが、いわゆる「復活のキリスト」である。

 イエスが人間の罪を償うめに死んだことによって、人間の罪のために生じた神と人間の敵対関係は克服され、両者のあいだに和解が成立した。「すべてのものは、キリストをとおして私たちをご自身に和解させ、そして、私たちに和解の[ための]奉仕を与えられた神から出ている。なぜならば、神はキリストにあってこの世界をご自身に和解され続けておられたからであり、その際神は、人間の罪過を彼らに帰すことをせず、私たちのうちに和解の言葉を託されたのだからからである。」(『コリント人へ第二の手紙』5の18〜19)ということである。

 イエスの死・復活は、人間にとっては、神によって罪から救済される道が開かれたということを意味する。先在のキリストは、神の創造の仲保者であったが、復活のキリストは、神の救済の仲保者なのである。神の創造力と救済力を具現しているキリストの内では、無限絶対的次元におけるキリスト(先在のキリスト)が受肉して有限相対的次元におけるナザレのイエスとなり、十字架上に死んで、無限絶対的次元において復活する(復活のキリスト)――という下向・上向運動が不断に展開してゆく。

  したがって、神と人間の仲保者であるキリストとは、具体的には、キリストとイエスの統合態である。キリストとイエスは異なっているが、不可分に統合されている。それが、神人イエス・キリストにほかならない。パウロのいう「キリストのからだ」とは、このような統合態としてとらえ返すことができる。その内には、神のプネウマ、すなわち無限の創造的エネルギー・生命が循環・遍満している。「キリストのからだ」の内で下向・上向運動が不断に展開してゆくということは、そこにおいて死・復活が絶えず繰り返されてゆくということを意味する。

 神のプネウマによって結びつけられた万物万人の共同体

 したがって、すべての人間は、キリストのからだと合一し、イエスとともに死んでイエスとともに復活することで、罪から救済されるのである。それは、イエスとともに死んでイエスとともに甦るというパウロの回心体験を追体験することにほかならない。だから、パウロは「あなたがたは私に倣うものになりなさい。――[かく言う]私もまた、キリストに倣う者であるように――。」(『コリント人への第一の手紙』11の1)と述べているのである。

 「キリストのからだ」と合一するための実践が、洗礼(バブテスマ)である。洗礼は、単なる儀式ではない。それは、瞑想や祈りと同様、人間が感覚界から超感覚界へ超脱して永遠無限絶対の実在と合一するという全人格的転換をなしとげるための自覚的行為なのである。それによって人間は、イエスがヨハネから洗礼を受けることによって、神のプネウマが神とイエスを一つに結びつけ、イエスの内に全実在界に貫流・遍満する無限の創造的エネルギー・生命が浸透した――という体験を追体験することになるのである。

 パウロは、洗礼による「キリストのからだ」との合一について「キリストへと洗礼を受けたあなたがたは、皆キリストを着た」(『ガテラヤ人への手紙』3の27)と述べている。「キリストのからだ」と合一することによって、人間に「私たちは、その死への洗礼をとおして、彼とともに葬られたのである。それはキリストが、父の栄光をとおして、死者たち[の中]から起こされたように、そのように私たちもまた、生命の新しさにおいて歩むためである。」(『ローマ人への手紙』6の4)ということが生じるのである。

 こうして、キリストと合一したすべての人間の内に、「キリストのからだ」の内に充満している無限の創造的エネルギー・生命が充満することになる。「あなたがたはキリストのからだであり、そして、[その]部分としての肢体である。」(『コリント人への第一の手紙』12の27)からである。「キリストのからだ」における無限の創造的エネルギー・生命の働きは、全人類に及ぶのである。

 それだけではない。「キリストのからだ」の働きは、人間以外のすべての被造物にまで及ぶのである。人間が罪にあるとき、被造物も隷属状態にある。「被造物自身も、朽ちゆくものへの隷属状態から自由にされ、神の子供たちの栄光を持つ自由に至るであろう」(『ローマ人への手紙』8の21)という希望を有しており、救済を求めているのである。こうして、人間が救済されるとき、万物もまた救済され「キリストのからだ」において一つ結びつけられる。すなわち、万物万人が神のプネウマによって一つに結びつけられ、すべての個物・個人の内に無限の創造的エネルギー・生命が充満するのである。すべてのものが神から出て神へ帰るという神の全実在界大の運動は、神の創造力と救済力を具現するキリストを通じて全実在界大の万物万人の共同体を実現することを究極目的として進行してゆく。

 パウロの神学を以上のようなかたちでとらえ返すことにより、それは、人間が永遠無限絶対の実在に背反して人間中心主義的になったために生じた、自然的個物・人間的個人・文化的個物のあいだの深刻な対立・相剋という現代の危機を根底的に克服する方向を示すものとして甦るである。

 ヨハネの神学

 絶対に断絶する神と人間を結合する「イエス・キリスト」

 『ヨハネ福音書』は、「結び」において、その目的を「あなたがたが、イエスが神の子キリストであることを信じる[ようになる]ためであり、信じていることにより、その名のうちにあって命を持ち続けるためである。」(20の30〜31)としている。

 イエスが、神の子であるということは、神であると同時に人間である神人「イエス・キリスト」のことを指している。イエス・キリストは、創造者の側と被造物の側の双方に属している。そのような存在であるイエス・キリストによってのみ、絶対に断絶する神と人間が結びつけられる。イエス・キリストは、神が人間に来る道であると同時に人間が神に至る道である。

 「イエスが神の子キリストであることを信じる」とは、自己のすべてを委ねて、イエス・キリストと合一することである。そうすることによってのみ人間は、神に至ることができる。こうして人間は、神のプネウマ、すなわち無限の創造的エネルギー・生命によって神と一つに結びつけられる。神と人間が合一するのである。

  神と人間を結びつけた無限の創造的エネルギー・生命は、神から出て神へ帰る全実在界大の運動をイエス・キリストを介して展開してゆく。イエス・キリスト、神と 合一した人間の内には、無限の創造的エネルギー・生命が充満することになる。それが「命を持ち続ける」ということにほかならない。ヨハネ自身、イエス・キリスト、神との合一という実在・実存体験をしたのであり、その体験のロゴス化として、その神学を形成したのである。

  『ヨハネの第一の手紙』には、次のように述べられている。「はじめからあったもの、私たちが聞いたもの、私たちの目で見たもの、よく観て、私たちの手で触ったもの、[すなわち]、命のことばについて――そのいのちが現れた。そして父のもとにあったが私たちに現れたその永遠の命を私たちは見て、あなたがたに証しし、告げるのである。」(1の1〜2)

 はじめから、すなわち世界の創造以前から神とともに在ったキリストが、現在イエスとして到来しているのである。ここには、永遠の今と歴史的現在が同時成立している。それによって、永遠の実在である神のプネウマ、すなわち無限の創造的エネルギー・生命が、超時間空間的次元から時間空間的次元に発現してゆくとともに、そこから再び超時間空間的次元へ還帰してゆく運動が、イエス・キリストの内で進行してゆくことになる。

 無限絶対的次元と有限相対的次元の統合態であるイエス・キリストの全存在の内には、神の無限の創造的エネルギー・生命が充満している。イエスが神の子キリストであるということは、そのような事態である。ヨハネは、イエス・キリストとの合一によって、その無限の創造的エネルギー・生命を直接捕捉したのである。それが、「父のもとにあったが、私たちに現われたその永遠の命」をヨハネが見たということにほかならない。

 この場合、見たということは、単に目で見たということにとどまるものではない。外面的に目で見るということの内面において、超感覚実在である無限の創造的エネルギー・生命を直接捕捉したということがヨハネの体験の核心である。それによって、イエスが神の子キリストであるということを、理性を超える知性によって知ることが可能となる。

 ここでは、イエスが神の子キリストであることを信じることが即、イエスが神の子キリストであることを知ることである。信じるとは、人間がイエス・キリストの働きかけに服従し、自己のすべてを委ねるという行為である。そのことが即、人間がイエス・キリストによって永遠の今と歴史的現在が同時成立する場にひき入れられ、父とともに在るキリストが同時にイエスであるという真実相を知るということなのである。それが「私たちはあなたが神の聖者であることを信じ、そして知っています。」(『ヨハネ福音書』6の69)ということにほかならない。それは、信じるという行為が即知るという知、すなわち行的知であり、信即知であるということにほかならない。

 それによって、全実在界の真実相をとらえた全体知が成立する。それは、イエス・キリストの働きかけに服従することによって全実在界に引き入れられたヨハネが、イエスからその内に充満する神の無限の創造的エネルギー・生命を賜り、イエス・キリストが自己とともにあることを自覚したということを意味している。それが、ヨハネと「父とその御子イエス・キリストとの交わり」(『ヨハネの第一の手紙』1の3)という実在・実存体験、すなわち、神と一体的なイエス・キリストとヨハネが一体化するという体験によって体得・体認した真理認識としての全体知である 。

 「まことに神・まことに人」としての「受肉したロゴス」

  その全体知の内容を具体的に展開したのが、ヨハネの神学体系である。それは、すべての人間にイエスが神の子キリストであることを信じさせ、彼らをイエス・キリストと一体化させ、ヨハネが賜ったのと同じ神の無限の創造的エネルギー・生命を獲得させることを目的とするものである。ヨハネは、自己の体験内容をまず次のようなかたちで表現している。「はじめに、ロゴスがいた。ロゴスは神のもとにいた。ロゴスは神であった。」(『ヨハネ福音書』1の1)。この場合の神とは、すべての被造物を創造する絶対的主体である。

  神は、すべての被造物を在らしめる永遠無限絶対の実在である。すべての被造物は、神によって在らしめられて在る存在であり、神の力動的創造力を抜きにすれば存在することはできない。すなわち、すべての被造物は、それ自身としてはまったくの無なのである。したがって、神と被造物のあいだには絶対的な断絶が存在する。

 この両者を結合するものが、神のもとにいた「ロゴス」なのである。ここには、次のような『旧約聖書』の思想が継承されている。「はじめに神が天地を創造された。地は混沌としていた。暗黒が原始の海の面にあり、神の霊風が大水の面に吹きまくった。神が、『光あれ』と言われると、光が出来た。」(『創世記』1〜3)。神は「ことば」によって創造するのである。

 この神の「ことば」が『ヨハネ福音書』では、神とともにあった「ロゴス」(ことば)とされている。したがって、それを通常の言葉と解してはならない。それは、「パウロの神学」の項で言及した「先在のキリスト」と同一の実在なのである。神はロゴスを介して世界を創造したである。ヨハネは、そのことについて次のように述べている。「この方は、はじめに神のもとにいた。すべてのことは、彼を介して生じた。彼をさしおいては、なに一つ生じなかった。」(『ヨハネ福音書』1の3〜4)

  ロゴスという実在は、そのようなかたちで絶対的主体である永遠無限絶対の実在の創造行為に参与する行為主体である。この創造行為は、世界の創造の時だけでなく、常に為されつつある。ヨハネは、永遠の今と歴史的現在が同時に成立する場に引き入れられることによって、そのことを体得・体認したのである。

 神が在らしめる働きは、ロゴスを介して常にすべても被造物のもとに来ているのである。しかし、人間がそのことを理解しえず、自己自身で在ると思いなす(我執)とき、神に背反することになる。そこに、罪が生まれ、神と人間との敵対関係が生じることになる。『ヨハネ福音書』によれば、光と闇の二元的対立が生じるということである。

 神によって創造されたものでありながら、神に背反する人間に対しては、神が人間を自己のもとに引き戻そうとする力が働く。それを具体的なかたちで顕わすのが「ロゴスの受肉」である。すなわち、ロゴスが、人間 イエスになるということである。この場合の肉とは、霊に対するものであり、現代的にとらえ返せば、肉とは感覚界における人間であり、霊とは超感覚界に遍満する神のプネウマ、すなわち無限の創造的エネルギー・生命であるということができる。

 神のもとにあって世界の創造に参与したロゴスが、肉となるということは、神が人間のところまで降りて来て、人間を罪から救おうとする神の恩寵にほかならない。すなわち、「神はひとり子を与えるほどに世を愛したのである。彼を信じる人が滅びることなく、一人残らず永遠の命を持つためである。つまり神が子を世に遣わしたのは、世をさばくためではなく、世が彼を通して救われるためなのである。」(『ヨハネ福音書』3の16〜17)ということである。

 この場合、「受肉したロゴス」は、八木誠一が指摘しているようにロゴス性に即して「まことに神」であり、受肉性に即して「まことに人」であるものとして、「まことに神・まことに人」(『新約思想の探求』P178)なのである。それは、パウロの項で言及した神人イエス・キリストと同一の実在である。受肉したロゴスが、ロゴス性と受肉性の統合態であるということは、それが感覚界と超感覚界の双方に跨った実在であるということを意味している。

 イエスの死・復活による神と人間の敵対関係の克服

 人間が神に背反するということは、超感覚的実在界に背を向け感覚界に自己閉鎖的になるということである。そのとき、感覚界はその成立根拠から乖離して自己完結的となり、被造物もまた神に背反することになる。それに対し、受肉したロゴスは、感覚界と超感覚的実在に跨る実在として、両者を再結合する働きをする。受肉したロゴスの内には、人間と被造物を救済しようとするその神の恩恵と救済力が宿っている。「ロゴスは、肉[なる人]となって、我々の間に幕屋を張った。――われわれは彼の栄光を、父から[遣わされた]ひとり子としての栄光を観た――[彼は]恵みと真理に満ちていた。」(『ヨハネ福音書』1の14)ということである。

 受肉したロゴスの内には、神の無限の創造的エネルギー・生命が充満している。それは、神から発現してきたものであり、人間を自己のもとに引き戻そうとする神からの働きかけである。受肉したロゴスは、それを具現した存在として、神に背を向ける人間に働きかけ、神の方へ向き直るように促すのである。具体的には、イエスが、罪の内にある人間に対して悔い改めるように呼びかけることである。

 この神、受肉したロゴスからの働きかけに自覚的に服従することによって、人間は感覚界を超脱して無限の創造的エネルギー・生命の流れの中に引き入れられる。それが、人間が神、受肉したロゴスを信じ、自己を委ねることによって両者と合一するということにほかならない。「私を信じる人は、私ではなく、私を派遣した方を信じているのであり、私を看ている人は、私を派遣した方を看ているのである。私を信じている人が、誰一人として闇の中に留まることのないよう、私は光としてこの世に来ている。」(『ヨハネ福音書』12の44〜46)というのは、そのようなことである。受肉したロゴス、神を見るとは、人間が両者と合一すること(知的直観)、すなわち無限の創造的エネルギー・生命によって両者と一つに結びつけられることである。

 受肉したロゴスは、このようにして人間を神へと導いてゆく。人間が神へ至る道は、イエスが十字架上に死んで神のもとへ帰り、そこで復活したことによって開かれた。人間の罪を償うために死んだイエスが復活したということは、神に背反したために罪に陥った人間が、神と合一することによって罪から救済される道が開かれたということを意味している。イエスは、「私は道、真理、命である。私を介してでなければ、誰も父のもとに行くことはできない。」(『ヨハネ福音書』14の6)と述べている。神の創造行為に参与したロゴスが、神の救済行為に参与するのである。

 受肉したロゴスのこのような働きによって、神と人間との敵対関係が克服され、両者のあいだに和解が生じるのである。?神のもとにあったロゴスが?イエスとして受肉し?十字架上に死んで?神もとに帰り復活する、という下向・上向運動によって、人間と被造物を救済せんとする神の目的が実現される。それによって、神、ロゴスと人間、被造物との本来的な関係が回復され、万物万人がロゴスを介して神から出て、ロゴスを介して神へ帰るという運動が進行してゆくことになる。それは、神の無限の創造的エネルギー・生命が無限絶対的次元からロゴスを介して有限相対的次元へ発現してゆくとともに、そこからロゴスを介して無限絶対的次元へ還帰してゆくという円環的運動である。こうして、万物万人が、それぞれの内に神の創造的エネルギー・生命を充満させたものどうしとして一つに結びつくことになる。

 すべての人間にとっての「模範」としてのイエス

  受肉したロゴスの働きによって神の救済目的が成就された状態は、このようなものとしてとらえ返すことができる。受肉したロゴスは、このような状態を実現するために常に働き続けているのである。ロゴスの受肉とイエスの死・復活は、単に遠い過去に起きた出来事ではないし、万物万人の救済も、単に遠い未来に起こる出来事ではない。神は、受肉したロゴスを介して現代の全人類に働きかけつつあるのである。では、そのような観点からは、神とロゴスと人間の関係をどのようなものとしてとらえ返すことができるのか。

 すでに言及したように、神は、すべての存在者を在らしめる永遠無限絶対の実在であり、すべての存在者は、神の働きを抜きにすればまったくの無であり無力である。したがって、人間は、自力で神と結びつくことはできない。その両者を結合するが、ロゴスという永遠無限絶対の実在である。神の働きかけは、ロゴスというかたちをとって人間の脚下に来ているのである。

 そのロゴスの働きかけに自覚的に服従することによって、ロゴスという実在を完全なかたちで有限相対的次元における自己の内に具現した人間、それがイエスである。ロゴスの受肉化という出来事は、そのようなかたちでとらえ返すことができる。そのような人間として、イエスは、すべての人間の模範なのである。

 それに対して、イエスの死・復活という出来事は、人間が、ロゴスの働きかけに自覚的に服従し、我執を完全に否定され(宗教的死といわれるもの)て、ロゴスへ超越して新しい存在となること(宗教的甦りといわれるもの)としてとらえ返すことができる。そのような存在としてイエスは、すべての人間の模範なのである。

 したがって、受肉したロゴスの下向・上向運動は、すべての人間が、無限絶対的次元から有限相対的次元へ発現してゆくとともに、再び無限絶対的次元に還帰してゆく無限の創造的エネルギー・生命の運動と一体化するための模範となるのである。超感覚的実在界と乖離して感覚界で自己完結する近代科学技術文明の内にある人間(イエスの項で言及した肉に従って生きる人間の現代的形態)に対しては、無限絶対の実在が、自己のもとに引き戻そうとする働きかけが常に為されつつある。すべての人間は、模範に倣ってその働きかけに自覚的に服従することによって、全実在界に貫流・遍満する無限の創造的エネルギー・生命と一体化し、それを自己のうちに体現(イエスの項で言及したプネウマに従って生きる人間の現代的形態)しなければならない。人々に、イエスが神の子キリストであることを信じさせ、生命を獲得させるという『ヨハネ福音書』の目的は、現代ではこのようなかたちで実現される。

 龍樹の中観哲学

 「成道の釈迦」が「説法の釈迦」になったことと大乗仏教

 釈迦に源を発する大乗仏教思想を中観哲学として確立したのが、龍樹(ナーガルジュナ)である。釈迦は、人間の生老病死などの苦悩を解消することを根本問題とした。そのために釈迦は、瞑想(禅定)という実践によって、生滅無常の感覚界から超感覚界へ超脱してダンマ(法)と合一し、生死を解脱した涅槃の境地に到達した。

 ダンマとは、永遠無限絶対の真実在であり、無限の創造的エネルギー・生命である。全実在界においては、無限の創造的エネルギー・生命が、無限絶対的次元から有限相対的次元に発現してゆくとともに、そこから再び無限絶対的次元へ還帰してゆく――という運動が不断に展開してゆく。ダンマと合一した釈迦は、同時に全実在界に貫流・遍満する無限の創造的エネルギー・生命と一体化した。それによって釈迦は、全実在界の真実相を体得・体認した。

 すなわち、無限絶対的次元におけるダンマが真実在であり、有限相対的次元における人間の生の真実相が縁起の理法である――という真理をとらえたのである。縁起の理法とは、無明→執着→苦というように生老病死など人間の一切の苦悩が、何を原因として生ずるかを、因果の系列を辿って明らかにすると同時に、逆に、その原因の止滅の系列を辿って、苦悩が死滅することを明らかにした真理である。それが、菩提樹下での釈迦の悟りの内容である。

 釈迦はそれについて、自分が体得したダンマ、縁起の理法は、はなはだ深く、理解しがたく、悟りがたいため、世間の人々に説いても理解されないだろうから、一人悟りの境地を楽しんでいる方が良いのではないかと考えた。このことは、単に釈迦が獲得した知識の方が、世間の人々より量が多く、質が高いということを意味するのではない。

 それは、感覚界における生滅無常の生の常住を願いそれに執着する人間の迷いの境地と、ダンマと合一して生死を解脱した人間の悟りの境地という、二つの境地の根本的対立を意味している。世間の人々は、ダンマに背反しているのであり、そのようなあり方を絶対的に否定しないかぎり、人間はダンマを体得することはできないが、それは極めて困難なことである。だから釈迦は、自己が知りえた真理を説くことに絶望的にならざるをえなかったのである。

 仏伝によれば、その釈迦に対して、梵天が、真理を説くことによって、一切衆生を救済することを勧めたことになっている。釈迦は、その勧めに従って、ベナレスで説法を開始したのである。もちろん、これは、釈迦が、絶望的な思いやためらいをふり切って一切衆生救済のための活動を始めたことの神話的表現である。

  悟りを開いた釈迦、すなわち「成道の釈迦」が、真理を説く釈迦、すなわち「説法の釈迦」になったということは、仏教史上において極めて重大な意味を有している。もし釈迦が、真理を説かなかったとすれば、「独覚」すなわち、独りだけで、覚りの境地を楽しむ利己的立場にとどまるほかはなかったのである。自己の悟りという自利の行にとどまらず、他人の救済のために真理を説くという利他の行にまで展開することによって、仏教が、大乗仏教へと展開してゆく礎が築かれたのである。

 釈迦の無我説、『般若経』の空思想を継承する龍樹の空概念

 成道の釈迦が、説法の釈迦になったことによって「智慧あるが故に生死に住せず、慈悲あるが故に涅槃に住せず」あるいは「慈悲あるが故に生死なる有を棄てず、智慧あるによって涅槃なる無を求める」という大乗菩薩行の原型が作られたのである。だから、大乗仏教思想を哲学的に基礎づけた龍樹は、主著『中論』冒頭の帰敬偈頌で「縁起のことわりを説きたもうた仏」に帰命(帰依)する、と述べているのである。

 『中論』の目的は、修行者が永遠無限絶対の実在と合一し悟りを開くとともに、一切衆生の救済のために働くようにすること、すなわち大乗菩薩行を実践するようにさせることにある。『中論』の内容は、龍樹自身が瞑想(禅定)という実践によって、永遠無限絶対の実在と合一したという実在・実存体験において証得したものであることによって、修行者をそのようなかたちで導くことが可能となるのである。

 龍樹は、自己が体験した真実在を「空」という概念によって表現している。龍樹の空概念は、初期大乗仏教の『般若経』の空思想を継承したものであるが、その源は釈迦の無我説にまで遡ることができる。無我説は、ウパニシャッドの宗教、哲学に対する批判として成立した。ウパニシャッドの思想は、万物の根本原理であるブラフマンと個人の根本原理であるアートマンとの合一に達することによって、人間は、生死の繋縛から解脱することができる、というものである。

 ウパニシャッドでは、ブラフマンとアートマンは、固定的実体を有するものとみなした。そのような実体を否定したものが、釈迦の無我説であり、それが、『般若経』の空思想として展開され、龍樹によって哲学的に基礎つけられたのである。龍樹の空は、虚無ではなく、有無の対立を超える「絶対無」である。

 瞑想(禅定)という実践によって、全実在界に貫流・遍満する無限の創造的エネルギー・生命と一体化した自己は、知的直観、知性を働かせて空と縁起を証得する。具体的には、無限絶対的次元において真実在と合一することによって、その実体を否定されて、万物の根源が空であることを知ると同時に、有限相対的次元において生滅無常の生の常住を願う態度、すなわち自己を実体化してそれに執着するという態度を否定されて、万物は相互相依の関係にあること、すなわち縁起のゆえに実体性を持たないことを知るである。それが、実践的智、行的智(般若波羅蜜) によってとらえられた全実在界の真実相である。

 龍樹思想の根本的立場である「空即縁起」

 この真実相は、無限絶対的次元における空と有限相対的次元における縁起が相即的に統一された事態として「空即縁起」「縁起即空」というように表現することができる(その具体的内容については後に詳述する)。これが、龍樹の思想の根本的立場である。釈迦の悟りの境地に包括された縁起の理法は、『般若経』の「色即是空」すなわち、かたちを有し生成変化する事物と空の相即的統一という思想を経て、龍樹の空即縁起というかたちで哲学的に確立されたのである。

 空という概念によって表現される真実在(真如と呼ぶ)は、万物の根源である。すなわち、無限絶対の実在である真如、空は、すべての有限相対的存在者を在らしめる存在である。すべての有限相対的存在者は、真如(空)によって在らしめられて在る存在である。すべての有限相対的存在者は、真如(空)の在らしめる力を抜きにすれば、それ自身はまったくの無であり無力である。したがって両者のあいだには、絶対的な断絶が存在している。

 にもかかわらず、真如(空)は、この断絶を超えて、すべての有限相対的存在者を支えている。人間が、そのことを知らずに(無明=根本無知) 自己を自立的・独立的とみなすとき、人間は真如に背反し、両者のあいだに敵対関係が生じることになる。超感覚的実在界に背を向け感覚界に自己閉鎖的になる人間は、自己が自立的・独立的であるとみなすとともに、自己以外の存在者も自立的・独立的であるとみなす。これは、感覚界における人間の日常的意識が、主観と客観を分離する――という分別に起因するものである。すなわち、日常的意識は、自己も自己以外の事物も、主観と分離した客観として対象化してとらえるのである。この分別の根底には、「これはわれである」「これはわがものである」とする言葉の働きがある。それを「戯論」と呼ぶ。

 こうして、自己を実体化し、それに執着する我執と、他者を実体化し、それに執着する我所執が生じることになる。その結果、人間は、自己の生を貪り、そのために他者を支配しようとする「煩悩」(心身を煩わし悩ます働き)にふりまわされて生きてゆくことになる。

 したがって、人間が煩悩から脱却するためには、戯論を止滅させ、分別知を根本的に転換させなければならない。しかし、真実在の在らしめる力を抜きにすればそれ自身ではまったく無力な人間は、それを自力でなしとげることはできない。その人間に対して、真実在の側から煩悩を脱却させようとする働きかけが常に為されている。人間は、自己のすべてを放下してその働きかけに服従することによって、感覚界から超感覚界に超脱し戯論の止滅した境地に到達することができる。

 「戯論」の止滅による空、縁起・無自性の体得

  このことについて、『中論』は次のように叙述している。「内面的にも外面的にも<これはわれのものである>とか<これはわれである>という観念の滅びたときに執着はとどめられ、それが滅びたことから生が滅びることになる。」(18の4)「業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかも戯論は空において滅びる。」(18の5)

 こうして、分別知が無分別知へ転換する。それによって、自己と外部の事物を客観化してとらえる態度が否定され、自己の内外を実体化しそれに執着する我執、我所執が克服される。このようにして、真実在の働きによって戯論が止滅すると同時に、自己に空が顕現する。これは、真実在と自己の同時成立という事態であり、無分別知が真実在と自己を客観化することなく、それ自体としてとらえる、という事態である。それが、自己が真実在である空を体得した涅槃の境地である。龍樹は、『中論』において次のように述べている。「心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真実在は不生不滅であり、実に涅槃のごとくである。」(18の7)

 空とは、戯論が生じる次元(世俗の世界)が否定されることによって体得されるものである。だが、否定される次元における有限相対的存在者は、空という真実在に支えられて存在しているのである。したがって、それらの存在者は実体を持たない空の力によって透徹されることによって、実体を否定され相互相依の関係に置かれている。それが、縁起・無自性である。

 縁起は「彼ものによって此ものがある」と表現される。彼と此との相互関係といっても、AとBがそれぞれ実体性を有する物として別個に存在していて、相互に結びつくというものではない。関係項は、最初から関係の内にとらえ込まれているのである。このような相互相依の関係が無数の個物のあいだに成立しているのが、縁起である。それが、空によって支えられた存在としての有限相対的存在者の本然の相である。

 ただ、人間が、空に背反して感覚界に閉鎖的になるとき、「われ」「わがもの」という我執、我所執が生じ、戯論となるのである。だが人間は、空と一体化することによって、真実在と自己が相即的に統一されているという無限絶対的次元の真実相をとらえることができる。その人間は、空の実体否定的働きと一体化することによって、我執、我所執を否定された存在として、すべての存在者が相互相依の関係にあるという有限相対的次元の真実相をとらえることができる。

 大乗菩薩行を基礎づける「空即縁起」という論理

  こうして、空即縁起という全実在界の真実相をとらえた知が成立する。『中論』は、空を「他のものによって知られるのではなく、寂静で、戯論によって戯論されることなく、分別を離れ、異なったものではない。」(18の9)と規定し、縁起を「同一のものでもなく、異なった別のものでもなく、断絶するものでもなく、常恒に存在するものでもない」(18の11)と規定している。

 空即縁起といっても、両者は、連続的に結合するのではない。すでに言及したように、空と有限相対的存在者のあいだには絶対的断絶があった。その両者が、絶対的断絶のままに統一された非連続の連続が、空即縁起なのである。したがって、この場合の「即」とは、絶対的矛盾と絶対的同一の同時成立という論理構造を表現するのである。空に背反する人間を自己のもとに引き戻そうする空の側からの働きかけに人間が服従し一体化することによって、両者が断絶のままに統一され、空即縁起という真理を証得することができるのである。

 世俗の世界を否定して空を体得するといっても、そこにとどまることなく、空即縁起として再び世俗の世界に帰るところに、小乗仏教を越える大乗仏教の立場がある。そのようなものとして、空即縁起という論理、真理は、中観、大乗仏教の根幹に関わるものなのである。すべての有限相対的存在者が相互相依の関係にあるという縁起の理を証得した人間は、それとの対比において一切衆生が、我執、我所執という戯論にとらわれ煩悩に苦しんでいる姿を看取することができる。それによって、その人間に、一切衆生をそのような迷いの状態から抜け出させることが自己の責任であるという自覚が生じる。

 こうして、全実在界の真実相をとらえた智慧を獲得した人間は、必然的に一切衆生を救済せんとする慈悲の働きに出ることになる。「智慧あるが故に生死に住せず、慈悲あるが故に涅槃に住せず」という大乗菩薩行は、それによって可能となるのである。空即縁起という論理は、そのように大乗菩薩行を思想的に根拠づけるものなのである。

 菩薩行とは、空と世俗界を媒介する実践であるが、その全体的連関は、空性と空用と空義の関係においてとらえることができる。龍樹は、『中論』において、「汝は空における効用(動機)、空[そのもの]、及び空の意義を知らない。」(24の7) と述べている。空性は、空という概念で表現される真実在そのものであり、空用とは空の働きであり、空義とは空性が世俗界に現われたものである。

 「空即縁起」と「勝義諦即世俗諦」の一体性

 空を体得した人間は覚者(ブッダ)と呼ばれるが、そこにとどまるなら空に執着しそれを実体化することになる。したがって、そのような立場は否定され、覚者(ブッダ)は菩薩として世俗界に働きかけなければならない。それが空用である。菩薩の実践の目的は、一切衆生の戯論を止滅させることである。この目的を実現するためには、菩薩は、空性との合一を基盤として空性がすべての有限相対的存在者の実体を否定して、それらの存在者の相互相依関係を成立させる働きと一体化しなければならない。

 菩薩行は、世俗界において教えという具体的なかたちをとって現われる。それが空義である。教法は、空性を本源としそれを表現する言葉として、一切衆生の戯論を止滅させることができるのである。空性が世俗界に教法の言葉として現われるという側面においては、空と縁起の関係は、勝義諦(世俗を超越した究極真理)と世俗諦(世俗の立場での真理)の関係としてとらえられている。

 龍樹は、次のように述べている。「二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。[その二つの真理とは]世俗に覆われた立場での真理と、究極の立場から見た真理とである。」(『中論』24の8)「世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、涅槃を体得することはできない。」(『中論』24の10)

 勝義とは、真実在である空のことである。勝義とそれを認識対象とする知は、主観と客観として分けることができない。すなわち無分別である。それが勝義諦である。それに対して、主観と客観を分別する言葉によって表現された真理が世俗諦である。龍樹の『空七十論』には「究極の真理は『依存関係によって生じる存在はすべて実体が空である』ということに尽きている。尊き師仏陀は、世間の常識に依って、種々のものをすべてあますところなく、ありのままに仮説されたのである。」(15の70)とある。勝義は勝義としてとどまることなく、世俗に顕われなければならない。世俗において真理を説くためには、世俗の表現に依らなければならない。すなわち、真理は、主観・客観の分別という形態をとって(仮説)、言葉によって表わされなければならないのである。それが、「世間の常識に依って」ということにほかならない。この空性の世俗的表示が、教説である。

 主観と客観を分別する言葉は、勝義と乖離するとき、我執、我所執という戯論となる。だが、教説の言葉は、勝義を本源としそれを表現していることによって、縁起という真理を説くことができる世俗諦となるのである(勝義を表現していない言葉は単なる世俗であって世俗諦とはいわれない)。分別は無分別を本源としており、そこに無分別の分別、勝義諦即世俗諦という関係が成立する。無分別の分別という般若波羅蜜、すなわち行的知を実践することにおいて、空即縁起という全実在界の真実相が証得される。ここでは、実在すなわち空即縁起の面と、知すなわち勝義諦即世俗諦の面が一体的である。それが、龍樹思想、中観哲学の根本的立場である。大乗菩薩行は、それによって可能となる。

 「空即縁起」の論理を体現した人間と万物万人の一体化

 大乗菩薩行の主体は、空(空性) の働き(空用)きによってすべての有限相対的存在者の相互相依の関係が成立させられているという真理を、世俗の表現に依拠して説く(空義)。それは、我執、我所執という衆生の戯論を批判することである。教説を聞いた衆生は、それが空性を本源としてそこから出たものであることによって、世俗から超脱し、空性に至る実践を促される。それは、空に背反する衆生を自己のもとに引き戻そうとする空性の働き(空用)に、自己の一切を放下して服従しそれと一体化する実践である。衆生は、その実践によって空(空性)と合一し、涅槃の境地に到達する。それによって、一切の衆生を涅槃の境地に導こうとする覚者(ブッダ)の本願が成就する。こうして、人間が空という真実在に背反したために生じた人間と真実在(真如)との敵対関係が、仲保者としての菩薩の実践によって除去され、両者のあいだに和解が成立する。

 空は、永遠無限絶対の真実在であり、無限の創造的エネルギー・生命である。それは、有限相対的次元に発現して、すべての存在者を相互相依の関係にあるものとして成立させるとともに、無限絶対的次元へ還帰することによって、すべての存在者を自己のもとに引き戻す。こうして、全実在界が空即縁起という論理に従って動いてゆく。菩薩は、その論理を体現した存在として、真実在に背反して戯論にとらわれ煩悩に苦しむすべての人々に働きかけ、彼らを空の体得に至らせる。

 空を体得したそれぞれの個人もまた、空即縁起という論理を体現した存在として、全実在界における無限の創造的エネルギー・生命の発現・還帰の運動と一体化した全実在界大の本来的自己を実現する。それは同時に、それぞれの個人が、全実在界に垂直的に貫流・遍満する無限の創造的エネルギー・生命によって万物万人と一つに結びつけられることである。そのとき、水平的には、有限相対的次元におけるすべての個物・個人が無限の創造的エネルギー・生命によって、相互相依の関係に結びつけられるのである。龍樹の中観哲学は、現代において、以上のようなかたちでとらえ返すことができる。

 現代の人間は、自然的個物・人間的個人・文化的個物のあいだの深刻な対立・相剋に苦しんでいる。それは、主観と客観を二元的に分離する近代自然科学とその応用としての技術によって形成された近代科学技術文明が、超感覚的実在界と乖離して感覚界で自己完結し、そこにおける人間が自己の欲望充足のために自然を支配するという現代的な戯論、我執、我所執が引き起こした事態である。それは、人間の永遠無限絶対の実在への背反・敵対の極限的形態ということができる。

 そのような人間を超感覚界へ向き直らせて、永遠無限絶対の実在と合一させ本来的自己を実現させるためには、超感覚的実在界の存在構造を具体的に解明するとともに、有限相対的次元におけるすべての自然的個物・人間的個人・文化的個物が相互相依の関係にあることを、自然科学、人間科学、社会科学を統合することによって具体的に解明しなければならない(その内容は『創造的生命の形而上学』において論理的・体系的に展開してある)。それが、大乗菩薩行を現代的なかたちで実践することを可能にする途である。

 世親の唯識哲学

 中観哲学の「二諦説」から唯識哲学の「三性説」へ

 中観哲学とならんでインド大乗仏教の二大思想潮流を形成するものが、唯識哲学である。唯識哲学は、無着(アサンガ) によって体系化され、その弟の世親(ヴァスバンドゥ)によって完成された。

 唯識哲学は、中観哲学を継承するとともに、それを独自の思想として展開している。それが、勝義諦、世俗諦という二諦説から、円成実性(えんじょうじっしょう)、依他起性(えたきしょう)、遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)という三性説への展開である。二諦説が中観哲学の根本的立場であったように、三性説は唯識哲学の根本的立場である。

 二諦説の概要は、次のようなものである。人間が我執、煩悩から脱却するためには、瞑想(禅定)の実践によって世俗の世界を否定して、超世俗の世界へ超脱しなければなない。それによって、人間は、空という概念によって表現される真実在(真如)と合一した涅槃の境地に到達し、空を体得した究極的な真理、すなわち勝義諦を獲得する。空を証得した人間が、そこから世俗の世界を見るとき、一度否定された世俗の世界が新たな相の下に甦ってくる。すなわち、空という真実在の働きによってあらゆる有限相対的存在者が、相互相依の関係にあるものとして成立させられていることが明らかになるのである。そこに、縁起という理法を説くことができる世俗の立場での真理、すなわち世俗諦が成立する。

 こうして、戯論、分別すなわち、主観と客観の対立が克服され、認識対象と認識主体の一体性という事態が全実在界大の規模において成立する。この事態の対象の面が空即縁起であり、主体の面が勝義諦即世俗諦である。

 空の証得が、単に世俗の否定、排除にとどまれば、大乗とはいえない。それは、我執、煩悩の苦しみを厭離して涅槃の境地を楽しむ小乗に過ぎない。一度否定、排除されたさた世俗が、世俗諦として勝義諦によって肯定、包摂されることによって「慈悲ある故に生死なる有を棄てず、智慧あるによって涅槃なる無を求める」大乗菩薩行が可能となるのである。

 この二諦が展開された三性説においては、円成実性が勝義諦に、遍計所執性が世俗諦に相当し、両者を媒介する場所として依他起性が設定される。三性とは、全実在界の三種のあり方であるが、『三性論』には「妄想されたもの(遍計所執)、他によるもの(依他起) および完全に成就されたもの(円成実)、まさしくこれら三つの自性がある。」(1の1)と規定されている。

 円成実性、依他起性、遍計所執性の相互関係

 三つの自性とは、三つの本性ということであるが、三性がそれぞれどのようなあり方をしているかということについては、次のように述べられている。「(何かの認識において) あらわれるもの、それが『他によるもの』であり、いかにあらわれるか(という様態)が、『妄想されたもの』である。(前者は、他の)原因にもとづいて起こるから(『他によるもの』であり、(後者は) 分別のみとしてあるから(『妄想されたもの』である。そのあらわれる主体(依他起性)にとって、かのあらわれた様態(遍計所執性)が、常に(まったく)存在しなくなった状態、これが『完全に成就されたもの』(円成実性)であると知るべきである。それは(もともと)変化するという性質のないものだからである。」(『三性論』1の2・3)

 何かの認識において現われるものとは、認識主体と認識対象である。ものが現われるとは、主観と客観とが分別されることである。主観と客観は、互いに他によるものであるから、両者は相互相依の関係にある。したがって、主観と客観は、実体性を有するものではない。この依他起性を拠りどころとして、主観と客観を実体化して、それに執着するのが、遍計所執性である。その実体化、執着を完全に払拭されたものが、円成実性である。

  依他起性は、主観と客観が相互依存的関係にある縁起の世界として、中観哲学の縁起の思想を継承するものである。その縁起の世界が、勝義の世界と世俗の世界の媒介者として位置づけられたのである。それによって、上に向かっては空を証得しようとし、下に向かっては衆生を救済しようとする大乗菩薩行が、そこを軸として実践される場所がはっきりと確定されたである。

 依他起性が中観哲学の縁起の思想を継承し、円成実性が空の思想を継承するものであるのに対し、遍計所執性は戯論の思想を継承するものである。戯論とは、主観と客観を分別し、それを実体化する言葉の働きである。それによって、我執(われへの執着)、我所執(わがものへの執着)という煩悩が生じる。遍計所執性とは、依他起性すなわち、相互相依の関係にあるがゆえに実体を持たない主観と客観を実体化し、それに執着する我執、我所執にほかならない。

 八識(アーラヤ識、マナ識、意識、前五識)三層構造

 中観哲学の場合、有限相対的次元における我執は、人間が無限絶対的次元へ超脱し、空という実在と合一することによって止滅するとされていた。それに対して、無着は、瞑想(禅定)を実践することによって、有限相対体験次元から無限絶対的次元へ超脱し、そこに我執の根源であるアーラヤ識が存在していることを明らかにした。

 遍計所執性は、アーラヤ識を根源するものである。その全体は、八つに区分されるが、次のような三つの層からなっている。

 ? 第一の層「それらのうちで(衆生の世界内存在の)根本に成熟する果報とは、アーラヤと呼ばれる識であって、あらゆる(迷いの諸存在を在らしめる)可能力(種子)をふくんでいる。」(『唯識三十論』2cd)。アーラヤ識は、我執の根源として執蔵とも呼ばれる。

 ? 第二の層「その(アーラヤ識)がはたらきの根本条件となり、その(アーラヤ識)がいまここに構想されている対象になることによって、自我意識と名つけられる識が存在している。(それは、自我および自体を)構想する意という本質あるものである。」(『唯識三十論』5bcd)。自我意識(マナ識)は、アーラヤ識を見て、「われがある」「わがものがある」と実体化し、それに執着する。

 ? 第三の層「第三の(層の変化しつつ生成する識)とは、六種類のいまここにある対象を認識するはたらきである。」(『唯識三十論』8bc)。六識とは、眼、耳、鼻、舌、身の五感(前五識)と意識である。

 アーラヤ識と他の識との関係については、次のように述べられている。「あらゆる(迷いの存在をあらしめる)可能力をもつ(そのアーラヤ)識が存在する。(アーラヤ識と七種の現前識は)変化しつつ生成していくときに、相互に(因なると同時に果ともなりつつ)はたらき合って展開していくのである。(このように展開していくことによって、)そのときそのときに、次のことがある。(すなわち、)そのときそのときの(いかなる自体もないところに自体を)はからう構想が生成するのである。」(『唯識三十論』18abcd)

 このように、アーラヤ識と現前七識が働き合うことによって、主観と客観を分別、実体化し、それに執着する。それが、遍計所執性である。中観哲学は、五感と意識という表層的、日常的意識の次元と、そこにおける我執を解明したが、唯識哲学は、日常的意識を超える深層的次元におけるアーラヤ識とマナ識、我執を解明した。それによって、アーラヤ識の働きを止めないかぎり、我執、煩悩を根底的に克服することはできないということが明らかにされたのである。

 「転識得智」による「八識」の「四智」への転換

 そのためには、「転迷開悟」すなわち、迷いの世界である遍計所執性を、悟りの世界である円成実性へ転換するための実践が為されなければならない。その実践が、そこを軸として為される場所が、遍計所執性と円成実性を媒介する依他起性にほかならない。

 遍計所執性とは、人間が円成実性という真実在(真如)に背反したことによって生じた世界のあり方である。そこには、真実在と人間の敵対関係が生じている。そのような人間に対して、円成実性が自己のもとに引き戻そうとして働きかける。その働きかけが行なわれる場所が、依他起性にほかならない。人間が瞑想(禅定)という実践によって、この働きかけに服従にすることによって、遍計所執性から円成実性へと転換することができる。すなわち、実体が存在しない縁起の世界である依他起性によって、遍計所執性の実体が否定され、真如との合一、空の証得という涅槃の境地に到達するのである。

 円成実性(真如)は、全実在界に貫流・遍満する無限の創造的エネルギー・生命である。したがって、人間が円成実性と合一するとき、同時に、円成実性、依他起性、遍計所執性という三性全体に遍満する真如と一体化するのである。この場合の遍計所執性とは、真如に背反し単なる世俗ではなく、真如を根底にもつものとしての世俗諦である。

 これが、アーラヤ識の根本的転換によって我執が根底的に克服された全実在界のあり方である。このとき、アーラヤ識は大円鏡智に、マナ識は平等性智に、意識は妙観察智に、前五識は成所作智に転換する。これを「転識得智」という。大円鏡智とは、円い大きな鏡のように全実在界のすべての事象を映し出す智慧のことである。平等性智とは、自他を平等に見る智慧である。妙観察智とは、すべての存在者の関連性を正しく見る智慧である。成所作智とは、作(な)すべきことを作しとげる智慧である。

 大円鏡智は、真如を証得する出世間無分別智として、円成実性に位置する。その大円鏡智を根拠として後得清浄世間智、すなわち、世間(世俗の世界)を清浄化する働きをする智である三智が生じる。三智のうち、平等性智は、依他起性を証得する智慧として、自己と他者を実体化しそれに執着とすることなく、自他を平等に見る。それによって、平等性智の働きは、一切衆生を救済しようとする慈悲、利他の行である。後得清浄世間智が完全なかたちで遍計所執性に現われたものが、妙観察智と成所作智である。妙観察智は、すべての存在者の関連性を知る智であることによって、その働きは一切衆生の救済である。その働きが感覚界に具体的なかたちをとって現われたものが、成所作智である。それは、一切衆生の救済のために、彼らの五感に働きかける。

 覚者の空性→空用→空義と衆生の空義→空用→空性

 八識が四智に転換すること(転識得智)によって、われに執着し、わがものに執着し、煩悩に苦しんでいた人間が、覚者に転換する。覚者とは、全実在界に遍満する真実在(真如)と一体化し、それを証得した人間のことである。覚者という全実在界大の主体においては、大円鏡智(空性)―平等性智(空用)―妙観察智、成所作智(空義)というように四智が一体的なものとして働く。

 世俗の世界における一切衆生に対する覚者の働きかけは、空義における教法であるが、それは空性→空用→空義というかたちで空性(真如)から流れ出たものである。教えを説く覚者は、全実在界に貫流・遍満する無限の創造的エネルギー・生命と一体化し、それを自己の内に充満させた存在であり、教えはその表現なのである。したがって、教えという言葉は、全実在界の真実相をとらえ真理を説くことができるのである。

 教法は、そのようなものであることによって、それを聴聞する衆生は、その内に無限の創造的エネルギー・生命を充満させた本来的自己を実現するための道に引き入れられることになる。そのことは、我執、我所執のゆえに真如に背反する人間を自己のもとに摂取しようとする真如からの働きかけが、教法において現われているということである。

 こうして、教法(空義)を聴聞した衆生は、真如の働きかけに服従し、それと一体化する実践(空用)によって、真如との合一という境地に到達するのである。ここにおいて、衆生の戯論、すなわち分別の言葉は完全に止滅する。覚者の空性→空用→空義によって、衆生の空義→空用→空性が実現するのである。こうして衆生は、覚者と同じ無限の創造的エネルギー・生命をその内に充満させ、四智を一体的に働かせる主体となる。

 三身(自性身、受用身、変化身)の相互関係

 覚者とは、もともと有限相対的次元から無限絶対的次元へ超脱することによって、ダンマ(法)という永遠無限絶対の実在と合一し、涅槃の境地に到達した釈迦の人格を指すものであった。その後、その覚者としての人格を神格化して、永遠不滅の存在とみなす考え方が生じた。それが、「法身」である。法身とは、釈迦がそれと合一することよって悟りの境地に達した永遠無限絶対の実在、すなわちダンマ(法)の人格化である(ダンマと合一した釈迦を神格化することは、同時に、釈迦が合一したダンマを人格化することである)。

 それに対応して、肉体を持った歴史的存在としての釈迦の人格は、法身が衆生を救済するために衆生に応じてこの世に現われた「応身」であるというかたちで神格化された。こうして二身説が成立した。その後、法身と応身を統合するものとして、報身(仏となるための実践を積んだ報いとしての功徳を備えた者のこと)が立てられることにより、三身説が成立した。唯識思想においては、法身は自性身、報身は受用身、応身は変化身と呼ばれる。

  法身は円成実性としての真如を、報身は依他起性としての真如を、変化身は遍計所執性としての真如を、それぞれ人格化したものということができる。三身説のこのような関係は、キリスト教神学における神とキリストとイエスの関係に対応させることができる。キリスト教においては、神とともにあったキリストが、人間を罪から救うために肉となってこの世に来たとされる。すなわち、神であるキリストが、歴史的存在としてのイエスになったということである。

 このように、神であるとともに人間であるイエス・キリストは、創造者の側と被造物の側の双方に跨る存在であることによって、人間が神に背いたために敵対関係にある神と人間を和解させることもできるのである。仏教においてイエス・キリストに対応するのが、菩薩である。菩薩とは、真実在(真如)との合一によって悟りを得るとともに、一切衆生の救済のために働くことを目的として修業する人間のことである。

 そのような修業が完成して覚者(ブッダ、仏)となった人間を神格化ものが、受用身(悟りの結果、ダンマを享受するとともにそれを衆生に享受せしめる者のこと)である。それは、すでに言及したように依他起性としての真実在(真如)の人格化ということができるが、具体的には普賢菩薩や文殊菩薩がそれである。

 菩薩については、「故意受生」ということがいわれる。「故意受生」とは、既に煩悩から脱却した菩薩が衆生を救済するために、自らの意志であえて世俗の世界に帰って煩悩の生を受ける、ということである。それが、変化身である。法身が衆生救済のために歴史的存在としての釈迦として現われたという思想が、三身説の成立によってこのようなかたちで展開されたのである。

 仏であると同時に人間である存在としての「菩薩」の働き

 このように菩薩は、仏であると同時に人間である存在として、仏の世界の側と人間の世界の側に属していることによって、人間が自性身に背反することによって生じた自性身と人間の敵対関係を和解させることができるのである。受用身、変化身は、そのような存在としてイエス・キリストに対応させることができる。

 では、神であるキリスト、仏である受用身が、イエス、釈迦という人間となるということは、そもそもいかなる事態として理解すべきであるのか。そのことに関しては、八木誠一が、キリストは人を人たらしめる真理(リアリティ)であり、イエスはその真理を根拠とし、それに従って成り立った人間である、と規定している。ヨハネ神学では、イエスを、神とともにあったロゴスが受肉したものとしているが、八木はそのことについて、イエスという歴史的人格は、ロゴスが地上でとった典型的な形、ロゴスの円満な具現である、としている。

 ロゴスとは、キリストと同一の実在である。神は、ロゴスを通じて万物を創造するのである。ロゴスは、万物がそれを自己の内に映し出す原型(プラトンのイデアに相当)である。したがって、イエスがロゴスの円満な具現であるということは、イエスという歴史的人格が、ロゴスが人間を人間として在らしめる働きに自覚的に服従することによって、原型を完全なかたちで自己の内に映し出した存在である、ということを意味している。

 具体的には、神という永遠無限絶対の実在のプネウマ(ダンマと同一の実在)、すなわち無限の創造的エネルギー・生命がイエスの内に充満するということである。それに対し、神に背反し罪の状態にある人々は、無限の創造的エネルギー・生命を持たない単なる「肉」的存在ということができる。

  以上の事態を、唯識哲学においてとらえ返すならば、釈迦という歴史的人格は、受用身が人間を人間として在らしめる働きに自覚的に服従することによって、受用身の働きが完全なかたちで顕現した存在としてとらえることができる。こうして、無限の創造的エネルギー・生命が、自性身から受用身を通じて釈迦の人格の内に流入・充満するのである。それによって釈迦は、真実在(真如)の円満な具現となる。

 受用身が人間を人間として在らしめる働きは、自性身を根拠としている。したがって、真実在(真如)の円満な具現としての釈迦は、受用身を通じて自性身に根拠を置いているのである。そのことは、原型である受用身を完全なかたちで自己のうちに映し出した有限相対存在としての釈迦が、受用身を介して自性身(永遠無限絶対の実在である真如)と合一して悟り開いた釈迦に根拠づけられている、ということを意味している。このように見てくることによって、釈迦の全存在は、全実在界に遍満する真実在(真如)、すなわち円成実性としの真如、依他起性としての真如、遍計所執性としての真如の全体と一体化した主体である、ということが明らかになる。それは、肉体を持ったままで涅槃という最高の境地に到達した釈迦の存在を、唯識の三性説、三身説を踏まえてとらえ返したものである。

 アーラヤ識の転換による現代の人間中心主義の克服

 三性の全体に及ぶ釈迦の全身には、全実在界に貫流・遍満する無限の創造的エネルギー・生命が充満しており、依他起性を軸として上向的には円成実性へ至り、下向的には遍計所執性に至るという運動が展開してゆく。釈迦は、この上向・下向の道を自ら歩み衆生のために切り開いた先覚者である。すなわち釈迦は、この道はすべての人間が歩むことができるものであることを示したのである。

 唯識哲学の三性説、三身説は、無限絶対的次元から有限相対的次元へ発現してゆくとともに再び無限絶対的次元へ還帰してゆく無限の創造的エネルギー・生命の運動と一体化した釈迦の実在・実存体験の表現としての思想を継承し、哲学的に体系化したものである。

  したがって、その実在・実存体験を抜きにして三性説、三身説を客観的対象分析として理解する(それは、戯論、分別の立場にとどまるものである)かぎり、一切衆生の救済という目的は見失われてしまうのである。それぞれの人間が、先覚者としての釈迦を模範とし、彼に導かれて上向・下向の道を歩むことによって、その全身に無限の創造的エネルギー・生命を漲らせた存在としての自己を実現しなければならない。それは、それぞれの人間が、釈迦の実在・実存体験を追体験することほかならない。

 それぞれの人間が、そのようなかたちで大乗菩薩行を実践することを通じ、我執、我所執、煩悩が根底から克服され、それぞれの内に無限の創造的エネルギー・生命を充満させた万物万人が一つに結びつき、調和することが可能となる。現代は、自然的個物・人間的個人・文化的個物のあいだに深刻な対立・相剋が生じた時代である。現代の人間は、その原因が、自己の欲望を貪るために自然を支配する人間中心主義にあることに気づいている。それは、まさに我執、我所執、煩悩の現代的形態にほかならない。だが、それは、表層的、日常的意識の枠内においてとらえられた我執でしかない。現代の人間は、その我執が、より深いところに根差しているものであることを自覚するには至っていない。唯識哲学は、我執の根源を深く掘り下げて、アーラヤ識の存在をつきとめるとともに、それを大円鏡智に転換しないかぎり我執を根底的に克服することはできない、ということを明らかにした。ここに、唯識哲学の核心的意義があり、また現代的意義がある。

『旧約聖書』の引用は、関根正雄訳によった。イエス、パウロ、ヨハネの引用は、「岩波版新約聖書翻訳委員会」の訳によった。龍樹の引用は、中村元訳『中論』および瓜生津隆真訳『空七十論』によった。世親の引用は、長尾雅人訳『三性論』および荒巻典俊訳『唯識三十論』によった。以上については、一部訳語を変えた場合もある。

                                                                                                                             2012.3.5


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