『東西思想の超克』再説 第4回 古代、東西それぞれにおける思想の融合――アウグスティヌス・中国華厳・天台

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『東西思想の超克』再説

 第4回 古代、東西それぞれにおける思想の融合

     アウグスティヌス・中国華厳・天台

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アウグスティヌス――ギリシャ哲学とキリスト教の融合

 アウグスティヌスにおけるギリシャ哲学とキリスト教の融合

 キリスト教のうちにギリシャ哲学が流入したことは、西洋の思想史を画する大きな出来事であった。その出来事を一身に体現した思想家が、アウグスティヌスであった。

 アウグスティヌスが直接触れたのは、ローマ帝政時代のプロティノスの新プラトン主義哲学であった。プロティノスのうちには、プラトン、アリストテレス、ストア学派の思想が総合されていた。ギリシャ思想は、プロティノスにおいて最大の総合に達したのである。したがって、アウグスティヌスのうちには、プロティノスを通じてギリシャ思想の総体が流れ込んだのである。

 このようなかたちでギリシャ哲学を摂取することによって、アウグスティヌスは、キリスト教を哲学的に基礎づけたのである。そのことは同時に、イエスの宗教、パウロ、ヨハネの神学、ギリシャの教父哲学が、アウグスティヌスのうちに流れ込み総合されたということでもあった。こうして、ギリシャ哲学とキリスト教思想・神学は、アウグスティヌスの哲学・神学体系において根源的な融合に達したのである。

 ギリシャ哲学とキリスト教思想・神学の融合といっても、そのことは、アウグスティヌスが、二つの思想潮流を並置して両者の類似性・共通性を見いだして結合したとか、一方の欠如を他方によって補足したとか、というようなことを意味するものではない。アウグスティヌスにおける思想の融合は、そのような外在的結合にとどまるものではない。

 プラトン、アリストテレス、プロティノスの哲学は、彼らが感覚界から超感覚界へ超脱し、永遠無限絶対の実在と合一するという実在・実存体験にもとづくものであり、その体験のロゴス化として形成されたものであった。イエスの宗教思想、パウロ、ヨハネの神学もまた、それと同じ実在・実存体験にもとづくものであり、その体験のロゴス化として形成されたものであった。ギリシャ哲学とキリスト教という二つの思想潮流は、同一の実在・実存体験を共通基盤としているのであり、それを、それぞれの思想的文脈において表現したものなのである。

 ギリシャ哲学とキリスト教は、このような共通基盤を有しているがゆえに、両者を根源から融合させることが可能となるのである。そして、アウグスティヌス自身が、先行の哲学者、宗教者の実在・実存体験を追体験することによって、二つの思想潮流を融合した思想体系を形成したのである。

 プラトン、アリストテレス、プロティノスおよびイエス、パウロ、ヨハネは、永遠無限絶対の実在と合一した根源に身を置きつつ、そこから全実在界を見たのである。それは、過去、現在、未来という時間的な区別を脱した永遠の今から、全実在界の真実相を永遠の相の下に見た、ということを意味している。そこに、永遠の真理としての哲学、宗教思想、神学が成立する。

 アウグスティヌスが、先行の哲学者、宗教者の実在・実存体験を追体験するということは、アウグスティヌスが、永遠無限絶対の実在を体験した先行の哲学者、宗教者の実存そのものと交わり触れ合う、ということを意味している。すなわち、アウグスティヌスが、先行の哲学者、宗教者が合一したのと同一の永遠無限絶対の実在と合一することによって、アウグスティヌスの実存と先行の哲学者、宗教者の実存が、時間的前後関係を撥無されて永遠の今において一つに結びつけられるのである。

 永遠の今においては、プラトン、アリストテレス、プロティノス、イエス、パウロ、ヨハネの体験と、アウグスティヌスの体験は同時的となる。そのことは、ギリシャ哲学の諸思想およびキリスト教の諸思想のそれぞれが、永遠の今から全実在界の真実相をとらえた永遠の真理として、アウグスティヌスが永遠無限絶対の実在との合一という根源から全実在界を見る実存的観想意識のうちで同時的になる、ということにほかならない。ギリシャ哲学、キリスト教思想は、そのようなかたちでアウグスティヌスのうちに新しいかたちで生きてくるのである。

 過去の思想が現在に甦るとは、根源的にはそのような事態なのである。それが、アウグスティヌスがギリシャ哲学とキリスト教の共通基盤(永遠の今において同時的となった両者の実在・実存体験)に自ら立脚し、両者を自己の思想のうちで融合させ、わがものとして生かしたということなのである。そのようなものとして、アウグスティヌスの哲学そのものが永遠の真理なのである。

 人間の選択の自由と善性である神へ向かう道

 永遠の真理とは、プロティノスにおいては、万物が一者から出て一者へ帰るという循環運動を展開してゆく全実在界の真実相を永遠の今から一挙同時に見ることによって成立するものであった。キリスト教における永遠の真理は、万物が神から出て神へ帰る全実在界の真実相を永遠の今から一挙同時にとらえたものである。万物が神から出て神へ帰る運動に関してアウグスティヌスは、「唯一の神によって創造され、その唯一なる神へと向かうところの万物」(『真の宗教』結論55)と述べている。唯一の神を、アウグスティヌスは「われわれがそれによって存在し、それを通して存在し、その中に存在するところの唯一の神、われわれがそれから離れると、それに似ないものとなってしまう唯一の神、われわれがそれによって滅びることを許されていない唯一の神、われわれがそこへたち返るべき根源」(『真の宗教』結論55)と規定している。

 神によって創造された万物は、根源である神へ向かっている。だが、そのことを自覚することができるのは人間だけである。人間は、物質的な肉体と超物質的な魂が結合した存在であるが、魂は、肉体と異なって自己の存在を知る自覚的存在である。万物が神へ向かう動きは、人間の魂において自覚的となる、ということができる。このことは、アリストテレスにおいて、万物は究極的目的である神へ至ろうとする欲求を有しているが、その欲求は人間の能動的知性において自覚的になる、という事態に対応するものである。

 アウグスティヌスによれば、神は、絶対自由意志によって感覚界におけるすべての被造物を創造したのである。このことは、いかなる存在にも依存せずそれ自身においてそれ自身に由ってある自由な実在としての永遠無限絶対の実在が、いかなる存在も前提することなく、感覚界におけるすべての被造物を創造したこと、としてとらえ返すことができる。アウグスティヌスにおける神は、父と子と精霊の三位一体の神であるが、人間の魂は三位一体性の似像なのである。それが、記憶と知解と意志という三つの機能の融合としての魂の三一性である。この魂の三つの機能を統合的に働かせるものは、意志である。そのことは、人間の魂が、神の絶対自由意志を分有する自由意志を有しているということなのである。

 このように、感覚界における他の被造物と異なって自覚的存在である人間の魂は、感覚界の自然必然性からの自由を有しているのである。そこに、人間が感覚界を超脱して、根源である神に立ち帰る可能性が存在する。だが、人間は、肉体と魂の結合した存在であることによって、神に向かわずに、外部の感覚的事物に向かう可能性も同時に有している。すなわち、人間が、神へ至る道を遮断して感覚界に自己閉鎖的となるのである。それは、人間が、自己が神によって在らしめられてある存在であることに無自覚であることによって自主独立的になろうとすること(我執)である。こうして人間は、肉体的欲望に振り回されて感覚的事物をほしいままに支配し、自己のものとして所有しようとする(我所執)ことになる。

 それは、人間が、神に背反すること、すなわち罪にほかならない。このようにして人間は、神へ向かうのか、それとも感覚的事物に向かうのか、という選択の前に立たされる。人間の自由は、選択の自由なのである。

 人間が、神ならぬ被造物に向かう道を選択するとき悪に陥り、善性である神へ向かう道を選択するとき善が実現する。すべての人間は、二つの方向のどちらかを選択する自由を有している。だが、日常的意識の自然的態度の枠内にある人間は、自己が神への道を歩む可能性を有していることを自覚することができない。なぜなら、日常的意識は感覚によってとらえることのできる事物を唯一の現実とみなし、超感覚的実在を認めることができないからである。したがって、人間が日常的意識の自然的態度のまま放置されている限り、悪に陥るほかはないのである。こうして人間は、被造物を追い求め、それに執着することになる。

 このような態度を否定・転換して神への道を歩むためには、魂を肉体との結合から脱却させ、肉体的欲望への従属から解放しなければならない。プラトンのいう「魂の浄化」すなわち魂を肉体からできるかぎり分離することが求められるのである。具体的には、外の感覚的事物に向かって散乱している魂の諸力を、それ自身の内に向かって集中させなければならないのである。魂の外向的志向を、内向的志向へ転換させるということである。

 究極目的である神に向かってのアウグスティヌスの上昇体験

 これが、アウグスティヌスがプロティノスから継承した最も重要な方法的態度である。プロティノスは「われわれの求めているものは一なるものであって、われわれが考察しているのは、万物の始めをなすところの善であり、第一者なのであるから、万物の抹消に堕して、その根源にあるものから遠ざかるようなことがあってはならない。むしろ努めて第一者の方へと自己を向上復帰させ、末梢にすぎない感覚物からは遠ざかり、いっさいの劣悪から解放されていなければならない。なぜなら、懸命な努力の目標は善にあるからである。」(『エネアデス』?9)と述べている。

 この転換によって人間は究極目的である神へ向かって向上をすること(善を意志すること)が可能となる。だが、人間は、自力でこの転換をなしとげるとはできない。なぜなら人間は、神によって無から創造され、在らしめられて在る存在であり、それ自体としてはまったくの無、無力だからである。そのような人間に対して、神は、自己のもとに導こうとして働きかけ、自己のもとへ立ち帰るよう促すのである。人間は、その働きかけ、促しに応じることによってはじめて、神へ向かう道を選択することが可能となり、善を意志することになる。アウグスティヌスは「外に出て行くな。あなた自身の中へ帰れ。真理は内的人間に住んでいる。」(『真の宗教』第5部39)と述べている。

 魂が自覚的存在であるということにはすでに言及したが、その自覚を最内奥にまで深めてゆくことが神に向かって上昇をしてゆくことなのである。アウグスティヌスは、神について「あなたは、私のもっとも内なるところよりもっと内にましまし、私のもっとも高きところにいられました。」(『告白』第3巻第6章11)と述べている。そのために彼は、「神と魂を知りたいと熱望しています。」(『ソロリキア』第一巻第2章7)と述べるのである。

 アウグスティヌスは、『魂の偉大』において魂を次のように七つの段階に区分している。?魂は、栄養を各肢体に等しく分配し、均衡のとれた調和とリズムを保つ。?魂が、その力で感覚を支配する。?魂は、観察と記号によって委託され保存される数え切れないほどの事柄を記憶する。?魂は、自己浄化という至難の業において、神の助けを得、神に自らを委ねる。?魂は、すべての腐敗から自由になり、汚れから洗い清められて自己自身が原因で苦悶させられることがなくなる。?魂は、真理であり、最高であるものを理解しようとする。?魂は、最高にして真の善を享受する。これは、これまでの段階の到達点としての神の観想である。

 人間は、このようなかたちで感覚界から超感覚界へ超脱し、魂の最内奥において神に出会うのである。それは、神を見ると同時に自己を見る(神を知り魂を知る)という実存的観想であり、最も深い自覚である。それによって、悪を為す自由としての選択の自由ではなく、悪を為さざる自由としての真の自由が実現する。

 アウグスティヌス自身が、そのような神への上昇体験をしたのであり、そのことについて彼は次のように述べている。「さて話が、肉の感覚による快楽は、たとえいかに大きく、いかにまぶしい物体的な光に輝いていようとも、あの永遠の生のよろこびにたいしては、比較にならないばかりか、語るにも値しないように思われるという結論に到達したとき、私たちはいっそう熱烈な感情をもって、『それ自身なる者』にむかって高まってゆき、段階的にすべての物体的なものをとおりすぎ、さらに、そこから月と星とが地上を照らす天をもとおりすぎました。そして御業について思いめぐらし、語りあい、驚嘆しながら、なおも昇りつづけ、ついに自分自身の精神に到達し、それをもこえて、あの『くみつくしえない豊かな地』に達しようとしました。」(『告白』第9巻第10章24)

 こうして、アウグスティヌスは、永遠無限絶対の実在である神との合一(実在・実存体験)に到達したのである。それによって「ただこの一つの直観に見る者の心がうばわれ、すいこまれ、深い内的歓喜にひきいれられるとき、そして、いまあえぎもとめ、この一瞬悟りえたものが、永遠につづく生命となる」(『告白』第9巻第1章25)のである。神によって創造されたすべての被造物のうちで魂を有する人間は、神を探し求めるべく促される。すわち「あなたは私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」(『告白』第1巻第1章1)ということである。

 人間が神へ至る「理性の途」と「権威の途」

 アウグスティヌスによれば、神は、原型である理念(プラトンのイデアに相当する)を見て、万物を無から創造した。したがって、感覚界のすべての被造物には、神の痕跡が刻みこまれている。人間は、その被造物を見ることによって、神に還帰するように促される。それが、神から人間への働きかけであり、人間はそれに応じることによって、神を探し求めて感覚界から超感覚界へ超脱する。アウグスティヌスは、この神の探求の道を「理性の道」と「権威の道」に二分している。

 ?理性の道 アウグスティヌスは、神からの働きかけを、神からの光によって人間が照明されることとしてとらえている。この光は、感覚的なものではなく、超感覚的なものであり、神の無限の創造的エネルギー・生命の形象化ということができる。この照明によって人間は、魂のうちの感覚より高次の能力である理性を働かせることができる。感覚は、可変的な感覚的事物をとらえることができるだけであるが、理性は、論理や数理のような不変的な永遠の真理をとらえることができる。あらゆる判断、評価は、この不変的な永遠の真理を標準、規範としてなされるのである。アウグスティヌスは、理性を、機能の違いによって低い理性と高い理性に区分している。

 低い理性は、感覚的事物を対象として、永遠の理念を規範、尺度として判断、評価をする。こうして獲得される認識が、「知識」である。この場合の永遠の理念とは、神がそれを見ることによって万物を創造した原型としての諸理念のことである。それに対して、高い理性は、永遠にして絶対的真理そのものである神を規範、尺度として、理念を直観する。こうして獲得される認識が、「智慧」である。

 人間は、このようにして感覚界から超脱して超感覚的な叡知界へ至る。それは、多数の理念が、「神の言葉」である「子なる神」によって統一された世界(多数のイデアが善のイデアによって統一されるプラトンのイデア界、多数の叡知が全体的叡知によって統一されるプロティノスの叡知界に相当する)である。人間は、叡知界において多数の理念が統一される子なる神の方向へ進むことによって、神を観想する。さらに人間は、観想の極限において「神の本性」と合一する。それは、プロティノスにおける、感覚界を超えて叡知界に至った人間が、さらに叡知界を超えて一者と合一する、ということと同一の事態である。

 このようにして人間が神からの働きかけに服従するとき、智慧を獲得するという高い理性の機能と知識を獲得するという低い理性の機能が統合され、神に従属した人間の魂が肉体を制御することが可能となる。それによって、人間が神から自主独立的になろうとする我執と、魂が肉体的欲望に従属させられ感覚的事物を利己的に自分のものとして所有しようとする我所執が、克服される。こうして人間は、智慧と結びついた知識にもとづいて感覚的事物に対する行為を正しく規制することになる。

 ?権威の道 神へ至る道を遮断して感覚的事物に向かうという罪に陥っている人間を自己のもとに導こうとする神の働きかけ、促しは、神の言葉(神の子)の受肉というかたちでもなされる。この促しに応じる神探求の道が、権威の道である。これは、ヨハネ神学における、神とともにあり、神がそれを通じて世界を創造した「ロゴス」(言葉)が人間イエスになるという「ロゴスの受肉」と同一の事態である。それは、神が人間のところまで降りてきて人間を悪から脱却させようとする神の恩恵である。神がそれを見て世界を創造した原型としての多数の理念を統一する神の言葉(子なる神)が受肉したイエスすなわち超感覚的実在がとった感覚的形姿を見て、人間は神に向かうよう促されるのである。

 神とともにあった神の子が、イエスとして受肉して十字架上に死んで神のもとに帰り復活したことにより、人間が神へ至る道が開かれたのである。すなわち「神の御子は神の言であると共に神と人との仲保者として人の子であり、神性の統一において御父と等しく、人間性を取ることによって私たちの仲間であって、人であるゆえに私たちのために御父に執り成しをしてくださると同時に、神として御父と共にある。」(『三位一体』第4巻第8章12)ということである。人間は、仲保者を通じて神のもとへ復帰する。

 アウグスティヌスにおける神と神性の区別の不徹底

 以上、二つの道をたどって人間は、感覚界から超感覚界へ超脱し、神に向かって上昇する。理性の道をたどった人間が、最後に「神の本性」と合一するということにはすでに言及した。神の本性について、アウグスティヌスは「その神性は被造物ではなく、三位一体の統一性であり、物体にぞくするものではなく、変化を持たず、ご自身と同じ実体で、ご自身と共に永遠の本性である。」(『三位一体』第1巻第8章15)あるいは「三位一体は統一性を持ち、御父と御子と聖霊の実体と神性は一つだからである。」(前掲書第1巻第9章19)と述べている。

 西谷啓治は、父と子と聖霊という三者の同一本質である神性、三一者における一そのものを「顕示する神に於ける隠れたる背面である。」(『西洋神秘思想の研究』P76著作集第3巻)と規定している。それは、プロティノスにおける叡知界を超えた一者に相当する実在である。

 その神性との合一体験について、アウグスティヌスは次のように述べている。「このようにして私は段階的に、もろもろの物体から身体をとおして感覚する魂に、そこから、身体の感覚をとおして外部の情報をうける魂の内なる能力に――ここまでは動物にもできます――、さらにそれをこえて、身体の感覚から得られるものを判断するする推理能力へと上昇してゆきました。しかしそれも自分のうちの可変的なものに属すると悟り、知性的自己認識にまで自分をたかめ、思考を習慣からひきはなして、反対するさまざまな幻想の群れから身を遠ざけ、ある光をそそがれたことを悟り、『不変なものは可変にまさる』となんの疑いもなくさけんだとき、その光によって『不変なもの』自体を知ったのです――じっさい、何らかのしかたでそれを知らなかったならば、それが可変的なものにまさると確信をもっていうことは絶対できなかったでしょう――。そしてついに、おののくまなざしで『存在するもの』を一瞥するにいたりました。」(『告白』第7巻第17章23)。この場合の「存在するもの」とは、「われは在りて在るものなり」という神のことである。

 存在するものを一瞥したということは、神性との合一に達したということである。神性は「常に現在である永遠」である。過去、現在、未来という時間の三つの方向に分散している人間は、神性に向かって集中し一つになることによって、永遠の今において神性と合一する(実在・実存体験)。アウグスティヌスは確かに、このような体験をしたのである。しかし彼は、神性をそれ自体として、論理的に追究することをしなかった。西谷啓治は、そのことについて「彼の正統派的信仰が彼をしてその前から避けしめ、彼をしてそれに陥いることを反って警戒せしめたと思われる一つの帰結が残されていた。それは即ち、さきに述べた神と神性との区別の徹底である。」(『西洋神秘思想の研究』 P 90著作集第3巻)と述べている。

 このことは、プラトンがイデア界の最高の位置を占める善のイデアを超える善者を体験していながら、それを論理的に追究することをしなかったのと同じ事態である。そのためプラトンは、絶対者を「有」としてとらえた。それに対してプロティノスは、善のイデアを超越する絶対者を善者あるいは一者として定立し、それを、有を超える「絶対無」としてとらえた。アウグスティヌスは、一者と同じく絶対無としてとらえられる神性と合一するという体験をしたのである。アウグスティヌスのこの実在・実存体験が、ギリシャ哲学とキリスト教の共通基盤であったがゆえに、彼は二つの思想潮流を根源から融合させた思想体系を形成することができたのである。また、彼の哲学はそれによって、永遠の今から全実在界の真実相をとらえた永遠の真理となることができたのである。

 しかし、彼は、自己の体験をロゴス化するにあたって、プラトンと同じように神を有としてとらえた。井筒俊彦は、プラトンの絶対者の公教的側面を善のイデア、秘教的側面を善者として区分しているが、アウグスティヌスにおいて前者に対応するものが西谷のいう顕示する神、後者に対応するものがその隠れたる背面ということができる。アウグスティヌスは、自己の実在・実存体験をロゴス化するにあたって、神性を神から区別することにおいて不徹底あった。とはいえ、彼が体験においてとらえたものは、人間がもはやそれを超えてゆくこともできない究極的な実在であった。

 人類が死滅の危機に面した現代に甦るアウグスティヌスの思想

 したがって、アウグスティヌスの思想をその総体性においてとらえるためには、正統的な信仰の枠組みを超えて彼の体験をその全幅においてとらえ返すことが必要となる。それは、神性と合一した自己が、万物が神から出て神へ帰る運動――無限の創造的エネルギー・生命が神性から叡知界を介して感覚界に発現してゆくとともに、感覚界から叡知界を介して神性に還帰するという循環運動――と一体化するという実在・実存体験である。

 それによって全実在界大の本来的自己が実現するが、それは、人間の魂が、感覚界と叡知界、神性を媒介し、肉体を正しく制御することが可能となる、ということにほかならない。具体的には、神性と人間の合一に根拠づけられた高い理性の智慧と統合された低い理性が、叡知界における永遠の理念を規範、尺度として感覚的事物について判断、評価することによって獲得する知識にもとづいて肉体的欲望を制御する、ということである。

 超感覚界的実在界への道を遮断して感覚界に自己閉鎖的となった現代の人間は、そのような本来的自己を実現することができない。現代の人間は、近代科学的知識とその応用としての技術的意志によって自己の生活行為を制御する。近代科学は、生成変化する感覚界をその根底の超感覚界実在を原因として発現してきたものとみなす態度を否定した。そのため近代科学は、神性から叡知界を介して発現してきた無限の創造的エネルギー・生命が感覚界の内面に充満していることを見ることができず、外面の物質的存在すなわち感覚によってとらえることのできる事物のみを認識対象とする。

 すなわち、近代科学は、全実在界の有限相対的次元と無限絶対的次元が同一の無限の創造的エネルギー・生命によって統合されていることを見ることができないのである。したがって近代科学は、超感覚界的な諸理念を規範、尺度として感覚的事物について判断、評価することをしない。そのような科学的知識の応用としての技術的意志は神性に向かうことなく、ひたすら感覚的事物に向かうことになる。

 こうして現代の人間は、感覚的事物を支配し所有しようとする際限のない衝動に駆り立てられることになった。それは、人間の魂が肉体を制御するのではなく、肉体的欲望に従属させられ、理性も智慧と知識の獲得という本来の目的のためにではなく、人間の利己的な欲望充足のために使われるという顚倒した事態である。その結果、生じたのが、自然的個物・人間的個人・文化的個物のあいだの深刻な対立・相剋であり、人類の死滅の危機であった。これは、現代の人間が陥った悪によってもたらされた事態にほかならない。

 このような事態を根本的に転換させるためには、感覚的事物についての知識を、理性を通じて神性と人間の合一としての善という究極目的に結びつけなければならない。それによって人間は、感覚的事物に対する自己の行為を正しく制御することが可能となる。アウグスティヌスの思想は、そのような方向を示すものとして現代に甦るのである。

 

中国華厳――『華厳経』と『荘子』の融合

 インド仏教と中国の伝統思想の根源的融合

 キリスト教のうちにギリシャ哲学が流入し両者が融合したことが、西洋の思想史を画する大きな出来事であったということには、すでに言及した。東洋においてそれに匹敵する出来事は、インドで成立した仏教が中国に流入し、中国の伝統的思想と融合することによって、中国化した仏教が形成されたことであった。

 仏教は、有限相対的な存在としての人間が、瞑想(禅定)という実践によって感覚界から超感覚界へ超脱し、永遠無限絶対の実在と合一するという悟りの境地に到達することを究極目的としている。仏教思想は、永遠無限絶対の実在(絶対者)と人間の合一という実在・実存体験にもとづくものであり、その体験のロゴス化として形成された。儒教、老荘という中国思想もまた、それと同一の実在・実存体験にもとづいており、その体験をロゴス化したものとして形成されたのである。

 インド仏教を形成した思想家も、中国思想を形成した思想家も、自己の実存の根源において同一の実在を体験したのであり、そこまで遡源すれば両者は共通の基盤の上に立脚しているということが明らかになる。だからこそ、インド仏教を受容した中国の思想家は、それを中国思想と根源から融合させることが可能となったのである。

 インド仏教と中国思想を融合させた思想家は、自らが感覚界から超感覚界へ超脱し、絶対者と合一するという体験をした。すなわち彼は、過去のインド、中国の思想家らの体験を追体験したのである。ところで、彼が合一した絶対者は、永遠の実在であるから、その体験は、時間性を超えた永遠の今における出来事であった。したがって、彼の体験と過去のインド、中国の思想家の体験は、過去、現在、未来という時間的前後関係を撥無されて永遠の今において同時的となる。彼は、インド仏教、中国思想を、それらがそこを根源として成立してきた永遠の今から一挙同時にとらえる。

 そのとき、インド仏教、中国思想は、過去、現在、未来という時間的区別、インド、中国という空間的区別を超えた普遍的地盤である永遠の今における実在・実存体験から全実在界の真実相を永遠の相の下にとらえた永遠普遍の真理どうしとして、体験主体の意識において重なりあうことになる。そのとき体験主体は、絶対者との合一体験を主体性の原点として、インド仏教、中国思想がそれぞれのうちに個性的なかたちで表現している全実在界の唯一の真実相を主体的に読みとり、それを自己の思想のうちに個性的なかたちで表現する。

 こうして、インド仏教と中国思想を根源から融合させた永遠普遍の真理が新しく形成される。すなわち、中国思想を下地として受容されたインド仏教が、中国化した仏教となるのである。

 『華厳経』と『荘子』の融合による中国華厳の形成

 老荘の道の思想を基盤として、大乗仏教の空の思想を理解することによって独自の空解釈をなしとげたのが、僧肇(そうじょう)である。仏教は、生死の繋縛から離脱することを目的としている。生死の繋縛とは、人間が生滅無常の自己の生に執着し、煩悩に振り回されて生きてゆくことである。人間は、生滅無常の世界を瞑想(禅定)という実践によって超脱し、永遠無限絶対の実在と合一することで、生死を離脱した涅槃という悟りの境地に到達することができる。その永遠無限絶対の実在を、釈迦は、「ダンマ」(法)と呼び、大乗仏教の『般若経』、中観哲学は、「空」という概念で表現した。空とは、有と無の相対的差別を超えた「絶対無」のことである。

 龍樹(ナーガルジュナ)の『中論』に「<有り>というのは常住に執着する偏見であり、<無し>というのは断滅を執する偏見である。故に賢者は<有りということ>と<無しということ>に執着してはならない。」(第15章10)と述べられている。これが、「非有非無の中道」といわれるものであり、空と同義であるとされている。非有非無とは、有と無の対立を超えている絶対無のことあり、それが空なのである。

 『荘子』も、人間は坐忘の実践によって生死の世界を超脱して、道という永遠無限絶対の実在と合一することで生死の繋縛から解脱する、としていた。道は無であるとされていたが、この場合の無も有に対立する無ではなく、そのような相対的差別を越えた絶対無のことである。『荘子』に「道は有りとす可からず、また無しとす可からず。」(則陽篇)とあるのが、それである。

 大乗仏教の思想も『荘子』の思想も、それらの究極的な基体である実在・実存体験にまで遡源してみれば、絶対無という同一の実在との合一の境地を共通の基盤としていることが明らかになる。それは、生と死、有と無を始めとする一切の相対差別を否定しつくした絶対無の境地である。僧肇は、それを比と彼の差別の寂滅した涅槃の境地であるとしている。『肇論』には「真諦は非有非無なり」という規定があるが、これは絶対無ということにほかならない。僧肇は、大乗仏教、『荘子』と同一の究極的境地に立脚していたのである。それによって彼は、非有非無の道と非有非無の空を正しく理解し、両者を根源から融合させることができたのである。僧肇が、伝統的な老荘思想を継承し、それを基盤として大乗仏教思想を受容することによって、中国における空思想を樹立したことは、そのようなかたちで実現したのである。

 時間空間を超える永遠無限絶対の実在である道は、時間空間的なすべての有限相対的な存在者をその内に包越している。人間が、相対差別の世界を超脱して道と合一し絶対無差別の境地に身を置きつつ、そこからすべての有限相対的存在者を見るとき、それらのあいだに斉一と調和が実現する。それが、『荘子』の「万物斉同」(ばんぶつせいどう)の思想である。大乗仏教の『華厳経』を受容した中国人は、その法界縁起すなわちすべての個物が相即相入的に調和するという「一即多・多即一」の思想を、『荘子』の万物斉同の思想に重ねあわせて理解した。

 『華厳経』の一即多・多即一は、超時間空間的な次元である「蓮華蔵世界」の縁起であったが、『荘子』を基盤として『華厳経』を理解した中国人は、その一即多・多即一という論理を万物の斉一と調和が成立する時間空間的次元に持ち込んだのである。鈴木大拙が、「シナの心性は、『華厳経』が驚くべき程に巧に画き出したあの超自然的な光に照り映える天上的栄光を再びこの地上の灰色のものの中に連れ戻した。」(「華厳経の研究」全集第5巻P201)と述べているのが、それである。僧肇が道の思想を踏まえて空の思想を理解したということには、すでに言及した。

 中国人は超時間空間的次元において道に空を重ねあわせ、時間空間的次元において万物斉同に一即多・多即一を重ねあわせたということができる。中国人は、そのようなかたちで『荘子』と『華厳経』を融合させ、中国華厳(華厳宗・華厳哲学)を形成したのである。

 華厳宗の開祖・杜順の「真空観」「理事無礙観」「周遍含容観」

 そのような枠組みにおいて『華厳経』の内容を組織化したのが、華厳宗の開祖・杜順(とじゅん)であった。それは、杜順が瞑想(禅定)を実践する中で、その観想意識に映し出された全実在界の真実相にもとづいて『華厳経』の本質的内容とらえたものである。彼は、自己の実践を通して『華厳経』を読んだのであり、彼の思想は瞑想(禅定)によって裏づけられているのである。華厳宗では瞑想(禅定)のことを「観門」あるいは「観法」というが、杜順は『法界観門』において、華厳の観法を?真空観(しんくうかん)?理事無礙観(りじむげかん)?周遍含容観(しゅうへんがんようかん)の三観に分けて説明している。

 ?真空観の真空とは、すべての個物が固定的実体性を有するものとみなしそれらを差別の相においてとらえる分別の世界を超越した世界において、すべての個物が実態性を否定されることを指す。そこでは、すべての個物が同一性に帰し、絶対無差別の相で現われる。人間は、観法の実践によって分別の世界を超脱し、すべての個物は固定実体性を持たないということを観想する、すなわち空を体得する。それが真空観である。

 ?理事無礙観の理とは、永遠無限絶対の実在である空のことであり、事とは個物のことである。この場合の空とは、単にすべての個物の実体性が否定されるという否定的な意味のみを持つものではない。この場合の空すなわち理は、絶対無分節でありながら自己分節化することによって多様な個物すなわち事として現象顕現するという肯定的な意味を有している。事は現象界であり、理はその本性としての真実相(真如)である。

 理事無礙とは、本性としての理と現象としての事が礙げあうこと無く相即相入するということである。これは、『般若経』の「色即是空・空即是色」すなわち現実の事物・形あるものと空が絶対に断絶したまま統一されるという「即」の論理を継承するものである。真空観によって空を体得した人間が、そこに身を置きつつ、そこから現象界の多様な個物を見ることによって、理事無礙すなわち本性と現象の相即相入という真実相を体得するのである。

 ?周遍含容観は、真空観から理事無礙観へと観法を深めた人間が、それを踏まえつつ、さらにそれを超えるところに実現するものである。周遍含容とは、それぞれの個物がそのうちに他のすべての個物を含むとともに、他のすべての個物のうちに含まれるというかたちで万物が礙げあうこと無く相即相入的に調和する、ということである。華厳哲学の述語では「事事無礙」ということである。人間は観法を理事無礙観から周遍含容観に深めることによって、そのような実相を体得するのである。事事無礙は、華厳の観法の実践によって獲得される知恵の極致とされるものである。これは、『華厳経』における一即多・多即一という縁起にほかならない。

 杜順は、観法(禅定)の実践によってその観想意識に映し出された現象界におけるすべての個物の真実相を、『華厳経』の一即多・多即一という法界縁起の論理で表現したのである。『華厳経』の一即多・多即一は、時間空間的な現象界を超える超時間空間的な蓮華蔵世界の縁起であり、蓮華蔵世界の根底には永遠無限絶対の実在の人格化であるビルシャナ仏が存在している。その『華厳経』について、玉城康四郎は、「経典全体としては、ほとんどまったく、法、法界、仏、如来に関わるものに充満しており、衆生の業報態、現実態に対する注視、配慮が欠落しているといわねばならない。」(『仏教の思想』2大乗仏教P85)と述べている。

 衆生の現実態とは、人間が、自己の生が生滅無常なものであることを知らず、それを常住不変なものすなわち固定的実体性を有するものとみなして執着する(我執)とともに、諸事物を自己の利益のために支配し、利用しようとする(我所執)ことである。この我執、我所執を原因として、現象界における万物の相互障礙すなわち対立・相剋が生じるのである。

 そのような事態を根底的に克服するためには人間は、真空観、理事無礙観を経て現象界に入り、観法の実践によって事事無礙という真実相を体得しなければならない。それによって、人間が現象界に万物の相互無障礙を実現しなければならないことが明らかになるのである。杜順は、『華厳経』の一即多・多即一の縁起を現象界に持ち込むこと(鈴木大拙が中国人の心性は、インド人が描き出した『華厳経』の天上的栄光を地上に連れ戻したと述べていたこと)によって、そのことを為したのである。

 不可分一体的な関係にある性起と縁起(一即多・多即一)

 無分節の理が多様な事として自己分節化することを、華厳哲学では「性起」(しょうき)と呼ぶ。この性起という術語を重視したのが、華厳教学の創始者・智儼(ちごん)である。

 理とは、空すなわち永遠無限絶対の実在であり、無限の創造的エネルギー・生命のことである。その無限の創造的エネルギー・生命が有限相対的次元に顕現することによって、多様な事すなわち無数の個物か成立する。それが性起である。性起とは、全体と個の関係である。すべての個物の一つひとつが無限の創造的エネルギー・生命を体現しており、すべての個物が同一の無限の創造的エネルギー・生命によって一つに結びつけられて相互に調和する。そこに、法界縁起すなわち事事無礙、一即多・多即一という関係が成立する。縁起とは、個と個の関係である。杜順の法界関門に対応させるならば、性起は理事無礙に、縁起は周遍含容に、それぞれ相当する。

 事事無礙は理事無礙を踏まえることによって初めて成立するものであるから、性起と縁起は不可分一体的である。無限絶対的な理の世界と有限相対的な事の世界とからなる全実在界には、無限の創造的エネルギー・生命が循環・遍満している。その無限の創造的エネルギー・生命の理から事へという垂直的な流れによって性起が成立し、事から事へという水平的な流れによって縁起が成立するのである。智儼は、観法の実践によって、無限の創造的エネルギー・生命の流れと一体化することで、理事無礙=性起、事事無礙=縁起という全実在界の真実相を体得したのである。全実在界の真実相を理の側からとらえたものが性起、事の側からとらえたものが縁起ということができる。

 無数の個物が存在する現象界は、日常的意識すなわち分別知にとっては、主観に対して客観として対置される主・客対立の世界である。それは、人間の我執、我所執を原因として万物が相互に障礙しあう対立・相剋の世界である。観法の実践によって分別知、我執、我所執を否定し尽くすとき、現象界は事事無礙すなわち万物相互無障礙の調和の世界となる。事事無礙とは、主観に対置された世界の存在構造を客観的に分析したものではない。それは、智儼が観法の主体的実践によって到達した究極的な悟りの境地なのである。それは、すべての人間が主体的実践によって到達すべき境地なのである。

 事事無礙とは、相互相依すなわち、すべての個物が他の個物との関係のうちにあって相互に礙げあうこと無く調和するということである。そこには、固定的実体性を持って独立したものは一つもない。一つの個物を中心とすればその中に他のすべての個物が入り、しかも無数の個物のそれぞれが中心となるというかたちで相即相入し無限に重なりあう重重無尽の縁起である。

 「海印三昧」と「華厳三昧」という観想意識に映し出される真実相

 そのことを十種の見方から明らかにしたものが、華厳宗の大成者・法蔵(ほうぞう)の『華厳五教章』(けごんごきょうしょう)の「十玄縁起無礙法門義」(「十玄門」)である。その無尽縁起を成立させるのは、「海印三昧」(かいいんざんまい)という観想意識である。この観想意識の基底には、人間が永遠無限絶対の実在、無限の創造的エネルギー・生命と合一、一体化するという実在・実存体験がある。

 全実在界においては、無限の創造的エネルギー・生命が、超時間空間的な無限絶対的次元から時間空間的な有限相対的次元へ発現してゆくとともに、再び超時間空間的な無限絶対的次元へ還帰してゆく――というかたちで不断の循環運動を展開してゆく。永遠無限絶対の実在、無限の創造的エネルギー・生命は超感覚的実在であるから、感覚によってとらえることのできる存在のみを現実とみなす日常的意識によってはとらえることができない。

 それをとらえるためには、瞑想(禅定)の実践によって、感覚器官およびそれと連結している理性の働きを抑止しなければならない。それによって人間は、感性的直観、理性と根本的に異なる知的直観、知性を働かせることが可能になる。人間は、このような全人格的転換をとげることによって、永遠無限絶対の実在(『般若経』、中観では空という概念で、中国華厳では理という概念で表現する)と合一しそれを直接捕捉する。それが、知的直観であり、実在・実存体験である。この直観、体験を基底として、知性によって永遠無限絶対の実在を見ると同時に自己を見るという実存的観想が成立する。

 永遠無限絶対の実在と合一した人間は、それを基盤として、瞑想(禅定)の実践によって全実在界に貫流・遍満する無限の創造的エネルギー・生命と自己を一体化させる。そこに、全実在界大の実在・実存体験および、それを基底とする全実在界大の観想意識が成立する。日常的意識の働きを完全に抑止した全実在界大の規模を持つこのような意識のみが、超感覚界な無限の創造的エネルギー・生命が貫流・遍満する実在界全体の真実相を映し出すことができるのである。

 海印三昧とは、そのような観想意識である。法蔵の『妄尽還源観』(もうじんげんげんかん)には「海印と云うは真如本覚なり。妄尽き心澄んで万象斉く現ず。猶し大海の風に因って浪起こり、若し風止息すれば海水澄清たり。象として現ぜざることなきが如し。」とある。妄尽還源観とは、一切の妄念を断滅し尽くして根源に還る観法であるが、それによって妄念が尽きて澄みわたった観想者の心に万物がありのままの姿を映し出すのである。

 全実在界は、理すなわち無分節の永遠無限絶対的な実在が自己分節化することによって、事すなわち有限相対的な無数の個物が成立する、という構造を有している。無限の創造的エネルギー・生命は、無分節の次元と分節の次元を不断に循環してゆく。その事態を、永遠の今において永遠無限絶対の実在と合一した人間が、そこに身を置きつつ、そこから永遠の相の下に見るとき、海印三昧と呼ばれる全実在界大の観想意識にすべての個物が一挙同時にその真実相を映現する。それは、万物をその根源から見る全実在界大の観想である。この海印三昧にもとづいて、無尽縁起が成立する。海印三昧という観想意識に万物を斉しく映し出した人間は、そこにとどまることなく万物の世界に入り、そこで瞑想(禅定)を実践しなければならない。

 すべての個物が他の個物との関係のうちにあるということは、主観に客観として対置された個物相互の関係を意味するものではない。自己は、傍観者として万物を見るのではない。自己は、主体的実践によって万物の中に入るとともに、万物を自己の中に入れるのである。そこに、自己が万物と一体化し、それを直接捕捉するという直観、実在・実存体験が成立する。そして、それを基底として、自己を見ると同時に万物を見るという実存的観想が成立する。そのようなかたちで万物の世界の真実相を映し出す観想意識(三昧)が「華厳三昧」(けごんざんまい)である。このように体験、直観を知性によって反省することで、万物の世界に貫徹する重重縁起の事事無礙、一即多・多即一という論理が解明されるのである。

 重重無尽の縁起は、華厳思想の至境を表現したものとされているが、それは体験に裏付けられた論理として全実在界の全体的な存在構造の中に位置づけてとらえなければならない。全実在界における無分節的次元と分節的次元のあいだの無限の創造的エネルギー・生命の垂直的な流れと一体化した主体の観想意識が、海印三昧である。それに対して、分節的次元においてすべての個物を一つに結びつける無限の創造的エネルギー・生命の水平的な流れと一体化した主体の観想意識が、華厳三昧である。この観想意識の根底には、無分節的次元において永遠無限絶対の実在を人間と一つに結びつける無限の創造的エネルギー・生命の水平的な流れと一体化した主体の観想意識が存在している(それを空三昧と呼んでおく)。

 二つの水平的観想意識を含む垂直的観想意識の主体こそ、全実在界の真実相を一挙に自覚し、それを一身に体現した「本来的自己」なのである。華厳の思想は、そのような方向へと展開してゆくことができる。本来的自己とは、すべての個人が実現すべきものなのである。しかし、日常的世界のうちにある人間は、本来的自己を喪失している。すなわち、日常的自己は、分別知のゆえに客体としての世界を主体としての自己に対置する。世界と自己は、二元的に対立する。そのために自己は、永遠無限絶対的実在、無限の創造的エネルギー・生命と合一、一体化することができないのである。

 澄観の「事法界」「理法界」「理事無礙法界」「事事無礙法界」

 人間が本来的自己を実現するためには、瞑想(禅定)という主体的実践によって日常的自己を否定・転換することが必要となる。それによって人間は、迷いの世界から悟りの世界へと超脱し、瞑想を深めてゆき、究極的な悟りの境地に到達する。それが、事事無礙の世界であった。杜順の?真空観?理事無礙観?周遍含容観という三観は、そのように観法(禅定)が浅から深へ段階的に深まってゆき、最終段階の周遍含容観(事事無礙観)に至ることを示したものである。

 杜順の三観は、悟りの世界に関するものであるが、これを継承し、それに迷いの世界を加えたものが、華厳宗の第四祖・澄観(ちょうかん)の「四種法界」(ししゅほっかい)である。四種法界は、?事法界(じほっかい)?理法界(りほっかい)?理事無礙法界(りじむげほっかい)?事事無礙法界(じじむげほっかい)である。これは、存在世界のあり方を四種に区分したものであり、華厳哲学の存在論を体系化したものである。事、理、理事無礙、事事無礙が、具体的にどのようなものであるかについてはすでに言及したので、ここでは触れない。ここで確認しておくべきことは、事法界から理法界に超脱した主体が、そこにとどまることなく、理事無礙法界を経て事事無礙法界へ至るということである。

 ?の事法界と?の事事無礙法界とは、現象界である。人間が、理法界から乖離して現象界に自己閉鎖的になるとき、個物(事)を固定的実体性を有するものとみなす分別知のゆえに、個物(事)と個物(事)が差別・対立の相をもって現われる。しかし、理法界、理事無礙法界を経過して再び現象界に戻ってきた人間には、個物(事)と個物(事)はその根底の理を介して相即相入的に調和した相の下に現われるのである。したがって事事無礙は、理と事が相即する理事無礙にもとづいてはじめて成立可能となるのである。

 華厳思想は、理事無礙を経ない分別知の対象としての現象界における万物を、そのまま相互無障礙であるとして直接肯定するものではないのである。事法界は、具体的には、人間が生滅無常な自己の生の常住を願いそれに執着する我執(自己中心性)のゆえに、貪(自己の生をむさぼること)、瞋(他者を否定し支配しようとすること)、痴(自己と他者が不二相即の関係にあることを知らないこと)などに振り回されて苦しんでいる迷いの世界である。人間がこのようなあり方をしているために、事法界においては、すべての個物が互いに障礙しあい対立することになる。

 万物の相互無障礙、相即相入的調和という現象界の真実相を自覚した人間は、迷いの世界における人間の苦悩の姿をはっきりと見てとることができる。それによって、その人間は、すべての人間をその苦悩から救うことが自己の使命であることを自覚することになる。こうして事事無礙の真理を体得した人間は、迷いの世界におけるすべての人間に働きかけ、現実の只中における実践によって万物の相互無障礙を実現すべく努めるのである。インドで成立した『華厳経』が無限絶対的な蓮華蔵世界のものとした重重無尽の縁起を、中国人は、有限相対的な現象界のものとした。ここに、中国華厳哲学が達成した大きな思想的成果がある。

 このように見てくることによって、華厳哲学の事事無礙の思想が、大きな役割を果たしうるものとして現代に甦ってくることが明らかになる。現代は、人間中心主義(我執)のゆえに自然的個物・人間的個人・文化的個物のあいだに深刻な対立・相剋が生じた時代である。それは、事法界における万物の相互障礙が極限化した形態だということができる。現代の人間は、そのような対立・相剋を克服するために様々な実践を展開している。だが、それらの実践も、超感覚的実在界と乖離した感覚界、現象界の枠内にとどまっている。そのことの根本的原因は、現代の人間が、感覚によってとらえることのできる対象のみを現実とみなす近代合理主義的思考の枠組みを脱却しえていないことにある。

 このように、現象界(事法界)に自己閉鎖的になった現代の人間に対し、華厳哲学は、感覚界から超感覚界的実在界へ超脱し、理法界から理事無礙法界を経て再び現象界に帰り、そこに事事無礙という関係を実現することによって、自然的個物・人間的個人・文化的個物のあいだの対立・相剋の根底からの克服が初めて可能となる、ということ示しているのである。

 このようにして有限相対的次元において万物(事)と一体化した人間は、同時に無限絶対的次元において永遠無限絶対の実在(理)と合一している。それが、全実在界の真実相を体現した全実在界大の本来的自己である。こうして、それぞれの個人は、全実在界に貫流・遍満する無限の創造的エネルギー・生命によって他のすべての全実在界大の個物・個人と一つに結びつけられ、そこに万物の相互無障礙が実現する。

 インドから受容をした『華厳経』を中国の伝統的思想と融合させた中国華厳哲学を体系化した澄観の四種法界は、このようなかたちで、合理主義的思考に呪縛され感覚界に自己閉鎖的となった現代の人間に、本来的自己への全人格的転換を促すのである。

 

天台――『法華経』の中国化

 『法華経』の独自の解釈による天台宗の成立と天台哲学の形成  

 インドから『華厳経』を受容した中国の仏教者は、瞑想(禅定)の実践によってその観想意識に映し出された全実在界の真実相にもとづいて『華厳経』に独自の解釈を加えることで、華厳宗を成立させ、華厳哲学を形成した。それと同じように、インドから『法華経』を受容した中国の仏教者は、瞑想(禅定)を実践することによって無限絶対的実在界と有限相対的実在界からなる全実在界と一体化した体験を通じて『法華経』を独自に解釈することで、天台宗を成立させ、天台哲学を形成した。  

 瞑想者は、その実践によって、日常的な感覚界を超脱して超感覚的な実在との合一を体験した。そのとき、日常的意識の働きが抑止され、超感覚界な智慧が働き始める。それによって瞑想者が自己の体験を理論的に反省し、全実在界の真実相を知ることが可能となる。中国の仏教者は、超感覚的実在との合一という自己の体験をとらえ返すにあたって『法華経』の理論を援用した、すなわち自己の体験を通じて『法華経』を解釈したのである。こうして、『法華経』の「娑婆即寂光土」(しゃばそくじゃっこうど)という思想が、無限絶対的実在界と有限相対的実在界が相即相入し、いずれにも偏らない「中」こそが真理である――という天台の哲学として形成されることになった。  

 『法華経』は全八巻二十八品(品は、ほんと読み、章の意味)からなるが、前半十四品を迹門(しゃくもん)、後半十四品を本門(ほんもん)として区別する。迹門は、娑婆すなわち時間空間的な有限相対的世界を対象とするものであり、本門は、寂光土すなわち超時間空間的な無限絶対的世界を対象とするものである。迹門においては迹仏(しゃくぶつ)すなわち時間空間的世界に現れた釈迦について論述されており、本門においては本仏(ほんぶつ)すなわち久遠仏について論述されている。久遠仏とは、無限の過去に仏となったという意味であり、「久遠実成本師釈迦牟尼仏」すなわち超歴史的釈迦を意味する。迹仏は、この本仏が煩悩に苦しむ衆生を救済するために時間空間的世界に現れた姿(迹)であるとされる。  

 本仏は、永遠の仏すなわち「法身」(ほっしん)である。法身とは、釈迦がそれとを一体化することによって悟りを開いたダンマ(法)という永遠無限絶対の実在を人格化したものである。『法華経』では、永遠無限絶対の実在もしくは統一的真理を「一乗妙法」(いちじょうみょうほう)と呼ぶ。したがって、久遠仏とは、一乗妙法を人格化したものとして永遠の生命を有している。それは、永遠無限絶対の実在の活動態・生命態(無限の創造的エネルギー・生命)を人格的に表現したものとしてとらえ返すことができる。それに対して、迹仏すなわち歴史的釈迦は、永遠の生命・統一的真理を十全なかたちで体現、活現した 有限相対的存在としてとらえ返すことができる。そのような存在として歴史的釈迦は、真理を説き、衆生を悟り、すなわち永遠無限絶対の実在(本仏)との合一へと導くことができるのである。  

 迹仏(歴史的釈迦)と本仏(超歴史的釈迦)が相即する全体的な存在としての仏は、無限絶対的実在界の真理をとらえた智慧と有限相対的実在界の真理をとらえた智慧を具有する存在である。したがって、その仏は、娑婆即寂光土という全実在界の真理を体現した相対即絶対、絶対即相対として真の絶対である。そのような存在として真に絶対的な仏は、一切の煩悩をから脱却しておりながら、しかも衆生の救済のために現実界の只中で働くのである。

 それは、生死の世界を超脱してダンマと合一し涅槃の境地に到達しながら、そこにとどまることなく、再び生死の世界に立ち帰り、衆生に真理を説いた――釈迦のあり方を、超人化、絶対化したものということができる したがって、それは「智慧あるが故に生死に住せず、慈悲あるが故に涅槃に住せず」あるいは「慈悲あるが故に、生死を棄てず、智慧あるによって涅槃を求める」という大乗菩薩行を行ずる主体なのである。娑婆即寂光土をという思想は、大乗菩薩行の主体によって実践され現実化されるべき真理である。

 天台智の「従仮入空観」「従空入仮観」「中道第一義諦観」

 この娑婆即寂光土という『法華経』の思想を、仮と空が相即し、いずれにも偏らない「中道」こそが最高の真理である、というかたちで哲学的に論理化・体系化したのが天台宗の大成者・天台智(ちぎ)である。この仮・空・中という概念は竜樹(ナーガルジュナ)の『中論』の「どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。」(第24章18)という規定を継承したものである。仮・空・中は、「三諦」(さんだい)すなわち三つの真理(諦は真理の意味)といわれる。  

 この真理を体得するためには、瞑想(禅定)の実践によらなければならない。天台では瞑想を実践するための方法(観法)を「止観」(しかん)と呼ぶ。「止」とは、散乱する妄念を抑止し、心を特定の対象に集中することであり、「観」とは、その対象を真理に即して観想することである。止観の実践によって、外界の感覚的事物に向かう日常的意識の感性的直観およびそれと結びついた理性の働きが抑止され、それらとは根本的に異なる知的直観、知性が働き始める。主体は、知的直観によって超感覚界的実在を直接捕捉し(実在体験)、通常の知、理性を超える高次の智慧(知性)によって体験を反省し、実在の真理を観じる。  

 この場合の智慧とは、対象を客観化して見る通常の知(分別知)ではなく、知的直観において対象を直接捕捉していることによって、実在をそれ自身として知ることができる。そこにおいて、智と境(対象)は不二の関係にある。三諦すなわち三つの真理には、それを体得するための実践である「三止三観」(さんしさんがん)が対応する。それは次のようなものである。  

 ?体真止(たいしんし)、従仮入空観(じゅげにっくうかん)?方便随縁止(ほうべんずいえんし)、従空入仮観(じゅぐうにっけかん)?息二辺分別止(そくにへんふんべつし)、中道第一義諦観(ちゅうどうだいいちぎたいかん)

 このうち三観が、従仮入空観から従空入仮観へそして中道第一義諦観へと段階的に行じられてゆくのが、「次第三観」(しだいさんがん)である。智の『摩訶止観』(まかしかん)に「観に三種あり、従仮入空を二諦観と名づけ、従空入仮を平等観と名づけ、二観を方便道となし中道に入り、ならべて二諦を照らすことを得て、心心寂滅して自然に薩婆若海に流入するを、中道第一義諦観と名づく。」(巻第三の上)とあるのが、それである。仮とは有限相対的な現象界、空とは無限絶対的な実在界、中道とは相対即絶対、絶対即相対としての真の絶対界のことである。次第三観を行じる主体は、仮から空に入り、そこにとどまることなく再び仮に入る。それは、具体的には次のようなかたちで展開される。  

 ?従仮入空観 現象界の諸事物は相互に区別される。しかし、それらの事物はすべて相互相依の関係(縁起)のうちに組み込まれており、関係を離れて固定的実体性・独立性を有するものは一つも存在しない。その意味において、現象は、無実体のかりそめのもの、すなわち「仮」の相である。すべての事物には実体がなく縁によって仮に存在している、ということが現象の真実相である。したがって、諸事物を実体視してそれに執着する態度は否定され、現象は無実体であるという真理を知ることが必要となる。それが、従仮入空(仮より空へはいる)であり、「仮の空なることを観じる」ことである。従仮入空観は、仮と空を知るところから「二諦観」と呼ばれる。  

 ?従空入仮観 仮より空へ入るとき、今度は空を実体視して、それに執着する危険性が生じる。それは、仮を棄て去って空に停滞するということを意味する。そこからは、体得した真理を実践によって現象界に現実化しようとする意志は生じてこない。したがって、空を実体視する態度も否定され、空にとどまることなく、再び現象界に帰ることが必要となる。それが「空の空なることを観ずる」ことであり、従空入仮(空より仮へ入る)ことである。それは、「仮の空なることを観ずる」とともに「空の空なることを観ずる」、「仮を破して空を用いる」とともに「空を破して仮を用いる」ことから、「平等観」といわれる。  

 ?中道第一義諦観 これは、従仮入空観と従空入仮観の二観を総合するものである。仮の実体視を否定し、空の実体視を否定することが、「双遮」である。それに対し、仮を縁起として肯定し、空を縁起を成立させる根拠として肯定することが、「双照」である。双遮と双照を総合した「双遮双照」が、中道第一義諦観である。中道第一義諦とは、仮にも空にも偏らない中正の究極的真理のことである。中道第一義諦観は、仮と空がそのようなかたちで相即不離の関係にあることを知るものである。  

 「円融三諦」・「一心三観」と究極的な全人格完成の境地  

 段階的な次第三観に対して、非段階的な観法が「円頓止観」(えんどんしかん)である。「円」は真理を総合的に観ずることであり、「頓」は真理を同時的に観ずることである。したがって円頓止観とは、仮観・空観・中道観の三観を同時的・一体的に実践することである。この観法は、相互に連関した三観の全体を一心の三面として同時に実践するところから「一心三観」(いっしんさんがん)とも呼ばれる。これは、不二(相互不可分) の関係にある智と境(主体と客体)の主体の側の智慧の働きである。

 それに対応する客体の側の真理すなわち智慧に依って体得された真理が「円融三諦」(えんにゅうさんだい)である。円融とは、仮・空・中の三諦のそれぞれが他の諦を含んでおり、互いに含み含まれあって礙げあうこと無く一体となっていることである。  

 『摩訶止観』には「もし即空即仮即中なりといわば、三なりといえどもしかも一、 一なりといえどもしかも三にして、あい妨礙せず。」(巻第一の下) と述べられている。「三なりといえどもしかも一」とは、「三即一」すなわち仮・空・中の三諦が一体となっていることである。「一なりといえどもしかも三」とは、「一即三」すなわち仮・空・中の三諦のそれぞれが、そのうちに他を含むものとして三諦を具有しているということである。したがって、仮といえば一切が仮ではあり、空といえば一切が空であり、中といえば一切が中である。  

 この円融三諦の真理を体得する一心三観について見るならば、「一空一切空ならば、仮・中としてしかも空ならざるなく、総じて空観なり。一仮一切仮ならば、空・中としてしかも仮ならざるなく、総じて仮観なり。一中一切中ならば、空・仮としてしかも中ならざるなく、総じて中観なり。すなわち中論に説くところの不可思議の一心三観なり」(『摩訶止観』巻五の上) ということである。このようなかたちで主体が三観を同時的・一体的に実践することによって、三諦が一即三、三即一の関係にある円融三諦という究極的真理を体得するのである。  

 主体は、一心三観という観法を実践することによって、永遠無限絶対の実在と合一し、全実在界に貫流・遍満する無限の創造的エネルギー・生命(永遠無限絶対の実在の活動態、生命態)と一体化する(実在・実存体験)。それによって主体の観想意識に、全実在界の真実相が一挙同時に映し出される。円融三諦という究極真的真理は、そのようなものとしてとらえ返すことができる。主体が永遠無限絶対の実在と合一した永遠の今から見れば、すべては一挙同時てある。三観を段階的・個別的にではなく、同時的・一体的に(円頓)実践することによって真理を観ずるとは、そのような事態である。それは、全実在界を永遠の相の下に総合的・統一的に観るということを意味している。  

 したがって、主体が永遠無限絶対の実在と合一し、無限の創造的エネルギー・生命と一体化するといっても、それは忘我状態や脱魂状態に陥るということを意味するものではない。それは、主体が観法を実践することによって知的直観、知性を働かせ実在を体験するとともに、その体験内容を反省し真理を体得するという自覚的ものなのである。主体は、観法の実践によって全実在界の究極的真理を知ると同時に、それを自己の生のうちに体現する。このとき、自己と世界が主体と客体として二元的に対立するというあり方は根底的に克服されており、自己と全実在界は自覚的行為によって一体化されている。  

 全実在界においては無限の創造的エネルギー・生命が無限絶対的次元から有限相対的次元に発現してゆくとともに、再び無限絶対的次元へ還帰してゆくという循環運動が不断に繰り返されてゆく。それを、永遠無限絶対の実在と合一した主体は、過程的にではなく、一挙同時に見ることによって、円融三諦という究極真理を知ると同時に、それを自己の生に体現し、無限絶対的自己と有限相対的自己がいずれにも偏ることなく相即して全体的な本来的自己を実現する。次第三観において、主体が仮から空へ入るとともに空から仮に帰りさらに中に至ることによって、空と仮のいずれにも偏らない仮空相即の中道第一義諦という真理を知るとともに、それを自己に体現する。

 その主体を段階的・個別的にではなく、同時的・一体的に見たものが、全体的な本来的自己である。この全体的な本来的自己は、全実在界に貫流・遍満する無限の創造的エネルギー・生命が自己のうちに脈うっていることを感得することができる。主体が観法の実践によって到達する究極的な悟りの境地は、そのような究極的な全人格完成の境地すなわち本来的自己の実現としてとらえ返すことができる。(円融三諦と一心三観を論理的、体系的観点から関連づけてとらえ返せば以上のようになる。)  

 全体と個物の円融相即を説く智の「一念三千」の思想  

 この本来的自己は、無限絶対的次元の真理を体得すると同時に有限相対的次元の真実相を体得する。無限絶対的次元の真理とは、無限絶対的実在である(有無の対立を超えた絶対無であり、『般若経』、中観はそれを空という概念によって表現した)が、天台ではそれを一乗妙法(統一的真理)と呼ぶ。この統一的真理に支えられた有限相対的次元の真実相は、全体と個物が相即相入し、不可分一体的となっているというものである。それが、智の「一念三千」(いちねんさんぜん)の思想である。  

 『摩訶』止観に「それ一心に十法界を具す。一法界にまた十法界を具して、百法界なり。一界に三十種の世間を具し、百法界はすなわち三千種の世間を具し、この三千は一念の心に在り。もし心なくば己みなん、介爾にも心あればすなわち三千を具す。」(巻第五の上) とあるのが、それである。この場合の三千とは、極大の有限相対的実在界の全体のことであり、一心あるいは一念とは、そこにおける極微の個別的事物のことであり、心に限られるものではない。一念三千とは、極大・全体と極微・個物が相即・互具の関係にあることである。すなわち、極大の全体世界が極微の個物のうちに収まり、極微の個物が極大の全体世界に広がるということである。智は、そのことを「心はこれ一切の法、一切の法はこれ心なるなり。」(『摩訶止観』巻第五の上)と表現している。個物即全体、全体即個物ということである。  

 全体世界に遍満する無限の創造的エネルギー・生命がすべての個物それぞれのうちに収まるとともに、それが全体世界に広がることによって全体と個物が相即相入するのである。一念三千という思想は、そのようなかたちでとらえ返すことができる。

 一念三千という関係は、一乗妙法(統一的真理)を根拠として成立する。そのことを知ることができない日常的意識(分別知)は、有限相対的な現象界の諸事物を実体視し、それに執着する。その日常的意識を否定した主体は、諸事物は実体を持たない(空である)ということを知ることができる。この場合の空は否定的な意味であるが、空はそれと同時に諸事物を成立させる根拠であるという肯定的意味も持つ。それが一乗妙法である。現象界から無限絶対的実在界へ超脱した主体は、そこに無限絶対の実在の永遠の生命が脈うっていることを感得し、空という真理を体得する。空の体得を経てふたたび現象界に帰った主体は、そこに無限絶対の実在の永遠の生命が脈うっていることを感得し、全体と個物の円融相即という真実相を体得することができる。

 空の体得を経ることのない日常人は、真理と真実相に対する無知のゆえに、現象界における自己の生滅無常な生の常住を願い、それを実体視し「われ」として執着する(我執)とともに、生滅無常な事物を実体視し「わがもの」として執着する(我所執)。すなわち、生滅無常な現実を直視することなく、それから目をそらし、自己の生を貪り、他者を支配、利用しようとする。それが、煩悩に苦しむ日常人の姿である。空を体得し、現象界の真実相を体得した主体は、日常人のそのような姿をはっきり見てとることができる。

 そこから、その主体に、それら一切の日常人を救うことが自己の使命であるという自覚が生じてくる。大いなる智慧から、自ずから大いなる慈悲が生じるのである。こうして彼は、生滅無常なものとしか見えなかった生のうちに無限絶対的実在の永遠の生命が脈うっていることを彼らに感得させるために、現象界の只中で働くことになる。すなわち「智慧あるが故に生死に住せず、慈悲あるが故に涅槃に住せず」という菩薩行を実践するのである。天台観法の極致とされる一念三千の思想は、そのことを究極目的としているのである。

 

『告白』の引用は山田晶訳によった。『真の宗教』『ソロリキア』『三位一体の』の引用は『アウグスティヌス著作集』(教文館)によった。『摩訶止観』の引用は関口真大校注によった。

                                              2012.6.6


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