『東西思想の超克』再説 第5回 中世、東西それぞれにおける形而上学体系の構築――トマス・アクィナス・朱子・王陽明

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『東西思想の超克』再説

第5回 中世、東西それぞれにおける形而上学体系の構築

    トマス・アクィナス・朱子・王陽明

 

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トマス・アクィナス――キリスト教神学とアリストテレス形而上学の総合

 実在・実存体験を基盤とするトマス・アクィナスの神学・形而上学

 十二世紀後半から西欧にアラビア哲学が導入されたが、それにともなって、それまでに一部しか知られていなかったアリストテレスの全著作が知られることになった。キリスト教の神学体系と並立するもう一つの哲学体系が存在することが明らかになったのである。

 そのアリストテレスの哲学は、世界の永遠性を認めていた。これは、世界を神によって無から創造されたものであるとして、その永遠性を否定するキリスト教の根幹的思想と原理的に対立するものであった。ここから、キリスト教神学とアリストテレスの形而上学をどのように総合するのかという思想的課題が生じてきた。

 この課題に根本的な解決を与え、スコラ哲学を大成させたのが、トマス・アクィナスであった。トマスがなしとげたことは、「アリストテレス主義を、キリスト教的意味において改造し、それが純化され、有機的に神学の構造のなかに組み入れられ、さらに、神学を支える土台とされることにより、これを克服するということ」(エティエンヌ・ジルソン、フィロテウス・ベーナー『アウグスティヌスとトマス・アクィナス』服部英次郎・藤本雄三訳P203) であった。こうして、アウグスティヌスが、新プラトン主義哲学とキリスト教神学を総合した教父哲学を構築したのに続いて、ギリシャ哲学とキリスト教神学は、トマスの神学・スコラ哲学の体系において、二度目の大きな総合に達したのである。

 新プラトン主義哲学とキリスト教神学を形成した思想家は、ともに、感覚界から超感覚界へ超脱し、永遠無限絶対の実在と合一するという共通の実在・実存体験をした。それぞれの形而上学、神学体系は、その体験を知性的に反省(ロゴス化)することによって形成されたのである。

 アウグスティヌスは、それら先行の思想家の体験を追体験することによって、新プラトン主義哲学とキリスト教神学を同一の実在・実存体験という共通基盤から根源的に総合したのである。トマス・アクィナスが総合したキリスト教神学とアリストテレスの形而上学も、永遠無限絶対の実在と主体の合一という同一の実在・実存体験のロゴス化として形成されたものである。トマスは、その体験を追体験することによって、キリスト教神学とアリストテレスの形而上学を両者の共通基盤から統合することによって、壮大な神学・形而上学体系を構築したのである。

 したがって、アウグスティヌスとトマス・アクィナスは、感覚界から超感覚界へ超脱して永遠無限絶対の実在と合一するという実在・実存体験をロゴス化することによって、永遠無限絶対の実在を原理とする全実在界の真実相をとらえる――という方法態度においては軌を一にしているのである。それによって、アウグスティヌスの思想がその核心において、トマス・アクィナスへと継承されることが可能になったのである。

 このようにみてくるならば、アウグスティヌスとトマス・アクィナスの神学・形而上学を両者の共通基盤である実在・実存体験と切り離された学説として並置、比較することで、アウグスティヌスは主意的であり、トマスは主知的ではあるなどとすることによっては、それらの学説は、個々の人間の実存と結びついた生きた思想となることはできない、ということが明らかになる。すなわち、そのような学説は、人間が感覚界から超感覚界へ全人格的転換をなしとげて全実在界の真実相を具現した本来的自己を実現することを可能とするものとなることはできないのである。

 すべての被造物の神に向かう運動が人間において自覚的となる

 トマス・アクィナスは、アリストテレスの自然観・宇宙観を継承し、それをキリスト教神学のうちに包摂することによって、全実在界の真実相を解明した形而上学を形成した。

 アリストテレスは、全自然ないしは全宇宙のすべての個物は、質料と形相という二つの要素から成り立っていると考えた。質料とは、形相を実現する可能性を内在させているが、それ自体は無規定の素材である。形相とは、あらゆるものをそれぞれ特定のものとする本質である。質料は、形相を目的として運動してゆき形相を実現する。それによって、無規定の質料が規定されて特定のあるものとなる。アリストテレスは、このようにして自然ないしは宇宙における生成変化の現象を説明したのである。

 その際、あるひとつの形相は、より高次の形相に対しては質料の位置を占めるというように、質料と形相が段階的な系列をなしている。この系列の最上位には、もはや質料と結びつかない「純粋形相」が存在している。それは、自らは動くことなく、すべての運動の究極目的となる「不動の動者」としての神である。トマス・アクィナスは、このような階層的構造を有する全自然ないしは全宇宙と神の関係についてのアリストテレスのとらえ方を継承した。それによって、スコラ哲学は、従来欠落していた自然観・宇宙観を備える体系となったのである。

 ただ、アリストテレスの神とトマスの神は、そのありかたが根本的に異なっている。アリストテレスの神は、質料に形相を賦与する存在であったが、トマスの神は、すべての事物に全存在を賦与する存在である。質料も含めてすべてのものは神によって創造されるのであり、神の創造に先立っては何も存在しないのである。それが世界の「無からの創造」ということである。

 神がすべての事物を「在らしめる存在」であるのに対して、すべての事物は神によって「在らしめられて在る存在」であり、両者のあいだには絶対的な断絶が存在している。トマス哲学においては、神は.宇宙万物がそこから出てくる第一原因であると同時に、それに向かってゆく究極目的である。宇宙万物は「神から出て、神によって成り、神に帰る」のである。これは、プロティノスの哲学体系における、万物が一者から出て、一者に帰るという思想、それをキリスト教神学のうちに受容したアウグスティヌスの哲学体系における、万物は唯一の神によって創造され、唯一の神に向かう、という思想を継承したものである。

 アリストテレス哲学においては、万物は、究極目的である神に至ろうとする欲求を有しているが、そのことを自覚することができるのは、知性を有する人間だけであるとされている。この事態は、プロティノス哲学においては、万物が一者から出て、一者に帰るという運動が人間の霊魂の叡知部分において自覚的になることとしてとらえられた。アウグスティヌス哲学においては、神によって創造された万物は、根源である神に向かっているが、そのことを自覚することができるのは魂を有する人間だけではあるとされている。

 このような思想を継承したトマス神学は、「単にそれ自体としてあるかぎりの神だけではなく、諸事物、特に理性的被造物の根源であり目的であるかぎりの神についての認識」(『神学大全』第一部第二問)を内容とするものである。無からの創造によって、根源としての神から出て、在らしめられて在るものとなったすべての被造物は、目的としての神に向かっている、そのようないわば全宇宙的な動性は、知性と意志を有する「人格」である人間の自由な行為において自覚的となる。

 神の恩寵の受容による人間の究極目的への到達

 だから、彼の体系的著作『神学大全』は、第一部において根源としての神と神から出る者としての人間について考察したうえで、第二部において目的としての神と神に向かう人間の動きについて考察しているのである。神は知性の対象としては、全的な有(存在)であり、意志の対象としては、全的な善である。人間の知性は、自然本性的に究極的目的である全的な有に向かっている。また、人間の意志は、自然本性的に究極目的である全的な善を欲求している。知性と意志が不可分一体的に働くことによって、人間がそこから出てきた神に帰ろうとする運動が進行してゆく。

 しかし、人間は、自力ではその究極目的に到達することはできない。なぜなら、人間は、他の被造物と同じように神によって無から創造されたものとして、それ自体としてはまったくの無であり、神によって在らしめられて在る存在として、神の存在賦与の働きを抜きにすればまったく無力だからである。人間は、その固有の能力をもってしては自己と神とのあいだの絶対的断絶を超越することはできないのである。

 人間が自然本性的に神に至ろうとしているということは、神から出た人間が神へ戻ろうとしているということにほかならない。しかし、人間が自力でそれをなしとげることができないとすれば、神からの働きかけをまつほかはない。人間の方から神に至ることができないとき、神が人間の方へ来る。それは、神が人間を自己のもとにひき戻そうとする招きである。それが、神の恩寵としての信仰である。

 人間は、神から授与された恩寵を受容することによって、その能力が強められ、固有の限界を超えて究極目的に到達する。そこに、人間が神と合一するという実在・実存体験が成立する。そして、この体験を知性的に反省することによって神学が成立するのである。

 この場合、永遠無限絶対の実在である神は、単にそれ自身としてだけでなく、宇宙万物がそこから出てそこへ向かう根源であると同時に目的として存在している。したがって、神学は、在らしめる存在である神についての知と在らしめられて在る存在である宇宙万物についての知の統合として成立する。それは、無限絶対的次元と有限相対的次元の統合態としての全実在界の真実相の認識である。それは、人間が、感覚界から超感覚界へ超脱して目的への上昇の途をたどった究極において獲得された認識である。この神への途は、次のようなかたちでたどられる。

 ?人間が、外界から自己に還帰し(外的志向を内的志向に転換させる)、自己の内面をその最内奥にまで深めてゆくことによって、真の自己に到達する。

 ?外的事物を超越して、それを在らしめている第一原因にまで上昇してゆくことによって、存在そのものである神に到達する。

 この二つの途は、不可分一体的であり、同一の途の二つの側面ということができる。人間が自己の深層を極限まで探求することが、同時に存在の深層を極限まで探求することなのである。こうして、神と人間の合一という実在・実存体験が成立する。

 知性の「抽象」の働きによる事物の本質の把握

 トマス・アクィナスにおけるこの体験に至る途は、感覚的経験から始まる。これは、認識はすべて感覚から始まるというアリストテレスの立場を継承するものである。事物は、質料と形相という二つの要素からなっている。質料は、無規定な素材であり、それを形相が限定することによって特定の或るものとなる。形相とは、ものが「何であるか」、たとえば「これは花である」ということを表わす。形相とは、ものの本質である。

 人間は、質料である肉体と形相である魂というと二つの要素が結合した存在である。人間が、外界の事物と関係するのは肉体の器官の働きである感覚によってである。この場合の魂は、肉体と結びついた感覚的魂であり、外界の事物からその類似像を受容することしかできない。感覚的魂の内には、知性が可能的なかたちで含まれており、感覚像の内には、形相が可能的なかたちで含まれている。

 そして、魂が肉体との結合から離れて、可能的知性が現実化することによって、可能的形相が現実化される。すなわち、知性が感覚像に働きかけて形相を質料と切り離してとらえるのである。人間の魂の非肉体化によって感覚像の非質料化が行なわれ、知性が形相をとらえることが可能となる。それによって、事物の「何であるか」すなわち本質が把握されるのである。トマス・アクィナスは、この知性の働きを「抽象」と呼んでいる。

 そのことについて、トマス・アクィナスは「ところで能動的知性にとっての固有の働きは、可知的形象を感覚的表象から抽象するにことよって、それら形象を現実態へともたらすことである。」(『神学大全』第三部第九問題第四項)と述べている。このようにして人間は、抽象によって非質料的形相を認識し、非質的存在としての自己を認識するに至るのである。

 以上が、トマス・アクィナスにおける感覚界から超感覚界への超脱のあり方である。それは、魂を肉体から離れ去らせることによって、感覚界からイデア界へと超脱するというプラトンの思想、魂を肉体との結合から脱却させ、外の感覚的事物に向かって散乱している魂の諸力を自己のうちに向かって集中させることによって、人間が究極的目的である神に向かって向上することが可能となるというアウグスティヌスの思想を継承するものである。

 知性による存在そのものの体験である「能動的知性の光」

 形相をとらえた知性は、その次元にとどまることなく、形相の根底に至り、形相を成立させる原理をとらえる。それが、形相よりも高次の現実態としての存在である。

 トマス・アクィナスは「ところで、どのような規定された形相も、その存在が確立されるのでなければ、現実に認識されない。たとえば、人間とか火の本性などは、質料のうちに可能的にあるものとしても、あるいはそれらをつくりだす原因のうちにあるものとしても、さらには知性のうちにあるものとしても、考えられうるが、それらが現実に存在するものたらしめられるのは、存在をもつことによってである。したがって、私が『存在』というところのものは、すべての現実態にとっての現実態であり、したがってすべての完全性にとっての完全性である。」(正規討論集『神の能力について』第七問題第二項)と述べている。

 こうして人間は、第一原因である神に到達したのである。トマス・アクィナスは「それによってすべてのものが存在を生じ、そして存在をみずからの固有結果とするような、すべてのものに優越するある原因がなければならない。こうした原因が神である。」(正規討論集『神の能力について』第七問題第二項)と述べている。神は、「自存する存在そのもの」であり、神によって在らしめられて在る存在は、存在そのものを分有するのである。

 そのことについて、トマス・アクィナスは「じっさい、存在そのものはもっとも共通的・普遍的なものである。したがって、存在そのものが何かべつものを分有するのではなく、存在そのものが他のものによって分有されるのである。……存在を分有しないもの――なにかに内属するのではなく、自存する存在――そのものだけが真実に単純なものであろう。しかるに、こうしたものは唯一でしかありえない。なぜなら、もし前述のように、存在そのものが、存在であるところのもの以外になにも付加されたものをももたないならば、存在そのものであるところのものが、多様化の根源たるなにかによって多数化されることは不可能だからである。そして、みずから以外になんらの付加されたものももたないから、このものはなんらの付帯性をも受けとることはない。ところが、この単純にして崇高なる唯一のものこそ神自身である。」(『ボエティウス・デ・ヘブドマディブス註解』第二講)と述べている。

 経験的世界の事物は、存在そのものが本質によって限定された限りでの存在である。たとえば、存在そのものが人間という本質によって限定されることによって、具体的な個体としての人間が存在するのである。この場合の存在は、「人間が存在する」という命題における本質の属性にすぎないのである。現実の経験的世界における様々な事物は、多様化の原理である本質によって限定されたものなのである。それが、事物が存在そのものを分有するということである。

 人間は、このような事物の感覚的経験から出発して、本質をとらえ、さらにそれを超えて存在そのものをとらえる体験に至るのである(それは、付帯性としての存在から本質存在を経て自存する存在そのものに至る途である)。それは、感覚によって外的事物をとらえる経験とは根本的に異なっているが、感覚的経験の根底におけるまがうかたなき一つの体験である。それは、永遠無限絶対の実在としての存在そのものである神に実存としての人間が合一する実在・実存体験である。トマス・アクィナスは、この知性による存在そのものの根源的な体験を「能動的知性の光」と呼んでいる。それは、人間の知性が神を目の当たりに見ることとしての「至福」である。

 そのことについて、トマス・アクィナスは次のように述べている。「究極的で完全な至福は、神的本質の直視のうちにしかありえない。……もし人間知性が、あるつくられた結果の本質を認識して、神については、ただかれが存在するということだけしか認識していないならば、その完全性はまだ端的に第一原因に到達しているとはいえず、原因を探求したいとの自然本性的な願望がのこっているであろう。だから、かれはまだ完全に幸福ではない。したがって、幸福が完全なものになるためには、知性が第一原因の本質そのものに到達することが要求される。そのときは、知性は、その対象としての神と合一することによってみずからの完全性を手にすることになるであろう。神のうちにのみ人間の至福がみいだされることは、さきにのべたとおりである。」(『神学大全』第二――一部第三問題第八項)

 こうして神と合一した人間は、<神に似たもの>となる。究極目的に到達した人間が、自己の完成状態に到達するのである。それは、人間が、生成変化する感覚界を超脱して永遠性に参与する経験であり、プラトンが、人間は感覚界 からイデア界に超脱して善のイデアと合一することによって、人間に許されたかぎりにおいて神に似たものになり永遠性を獲得するとしたのと同一の事態である。

 トマスの「存在」を「有」を超える「絶対無」と規定する可能性

 プラトン哲学においては、感覚的事物が質料を有しているのに対して、イデアは形相(エイドス)とも呼ばれる非質料的実在である。イデア界の最高の位置を占めるものが、究極的絶対者である善のイデアである。アリストテレス哲学における非質料的な「純粋形相」としての神は、プラトンの善のイデアと同一の存在性格を有している。このように見てくるならば、善のイデア、純粋形相は、トマス・アクィナス哲学における形相――本質に対応するものであるということができる。プラトン、アリストテレスとトマス・アクィナスとの関係について、稲垣良典は次のように述べている。

 「『存在するもの』をたんに感覚や想像力によってとらえられるだけのものと同一視していた段階をこえて、プラトンやアリストテレスでは『存在するもの』を『存在するもの』としてとらえる高みまで到達した。しかし、トマスのみるところでは、そこでとらえられた『存在するもの』は知性によって認識されうるかぎりでの、しかじかの事物の本質にとどまっていて、そうした『存在するもの』を存在せしめる『存在そのもの』(ipsum esse)あきらかにするところにはいたっていない。いいかえると、さきの段階では『存在するもの』を現実に成立させる根拠(したがってまた、『存在するもの』がそれにもとづいて認識される原理)は形相(form、質料materiaを規定・現実化して事物の本質を成立させる原理)であったが、トマスのいう『存在』は、形相よりもさらに高次の現実態(可能態potentiaを現実化・完成する原理)であり、トマス自身のことばをかりると『すべての現実態にとっての現実態、すべての完全性にとっての完全性』である。」(『トマス・アクィナス』P50)

 トマス・アクィナスの存在は、善のイデア、純粋形相より高次の現実態である。それは、本質を超出する実存存在の現実態である。本質存在と実存存在の関係のこのようなとらえ方を徹底させてゆくならば、両者を次元的に明確に区別することが必要となる。本質と実存をそのように区別するならば、トマス・アクィナスの存在は、「有」として規定された善のイデア、純粋形相に対して、有を超える「絶対無」として規定することができる。トマス・アクィナスの存在概念は、そのような方向へと展開してゆく可能性を有している。

 だが、トマス・アクィナスは、正統的キリスト教の思想の枠組みに制約され、存在そのものである神を「在りて在るもの」、すなわち「有」と規定したのである。これは、アウグスティヌスがその正統的信仰のゆえに、神を「有」として規定し、神性をそれから明確に区別して「絶対無」として規定することをしなかったのと同じ不徹底性である。このアウグスティヌス、トマス・アクィナスの限界は、トマスの思想を継承したマイスタ―・エックハルトによって克服され、有としての神と絶対無としての神性が明確に区別されることになった。

 全実在界大の本来的自己と形而上学的神学の全体知

 トマス・アクィナスの哲学をこのようなかたちでとらえス返すことは、感覚界と本質界と実存界を次元的に区別するということを意味する。人間は、感覚界を超脱して本質界に至るとともに、そこを経て実存界に到達することによって存在そのものである神と合一するのである。そこに、形相より高次の現実態である存在の体験が成立し、それを知性的に反省することによって、神についての知が獲得される。そして、その知を根源として形而上学的神学が形成さ;れる。トマス・アクィナスが、神を主要な認識対象とすると神学について「これはまた、別名を『形而上学』metaphysica、つまり超自然学trans physicaとも呼ばれるが、それは、可感的なものから出発して感覚を超えるものへとたどりつかねばならない。」(『ボエティウス三位一体論註解』第五問題第一項)と述べていることも、以上のようなかたちでとらえ返すことができる。

 形上学的神学の内容は、単に神それ自体についての知だけでなく、すべての被造物についての知も含む。すなわち、人間の知性は、神が在ることを知るだけでなく、すべての被造物が神によって在らしめられて在ることを知るのである。すなわち、人間の知性は、すべての被造物は存在そのものが多様に限定されたものとして顕現することを知るのである。それは、すべての被造物は存在そのものを分有するものとして在るということを知るということである。

 すべての被造物を在らしめている存在としての神は、すべての被造物にとって根源であると同時に目的である。すべての被造物は、神から出て神へ帰るのである。それは、無限の創造的エネルギー・生命が、一瞬一瞬、超時間空間的な無限絶対的次元から時間空間的な有限相対的次元に発現してゆくとともに、そこから超時間空間的な無限絶対的次元へと還帰してゆく――こととしてとらえ返すことができる。

 自由な行為によって神へ還帰した人間は、神との合一を基盤として、その無限の創造的エネルギー・生命の円環的運動と自己を一体化させることができる。それによって人間は、全実在界に脈打っている無限の創造的エネルギー・生命が、自己のうちにおいても脈打っていることを感得することができる。それが、全実在界大の実在・実存体験である。その体験の主体が、全実在界大の本来的自己である。トマス・アクィナスは、人間を可滅的なものと不可滅的なものとの中間者、すなわち目的に向かって動いてゆく時間的存在者であると同時に神と合一して永遠性に参与した存在者としてとらえた。トマス・アクィナスがこのようなものとしてとらえた人間は、超時間空間的な次元と時間空間的な次元の統合態としての全実在界大の本来的自己としてとらえ返すことができる。

 この本来的自己は、その全実在界大の実存的観想意識に全実在界の真実相を映し出す。それが、全実在界大の実在・実存体験の知性的な反省によって獲得される形而上学的神学の内容としての全体知である。それは、全実在界を永遠の今から一挙同時にとらえた知、すなわち永遠の相の下に観られた全実在界の真実相の認識にほかならない。無限絶対的次元と有限相対的次元が統合された全体には、無限の創造的エネルギー・生命が貫流・遍満している。それが、全実在界の真実相である。

 したがって、この全実在界における有限相対の次元は、外面の感覚界としてとらえられるのではなく、内面の無限絶対的次元から発現してきた無限の創造的エネルギー・生命が脈打っている世界としてとらえられるのである。そこにおけるすべての被造物は、超感覚的な相においてとらえられる。それが、神を知るとともに自己を知る人間の知性が宇宙万物を知るということにほかならない。

 科学と形而上学の統合という現代的課題とトマス・アクィナス

 だが、感覚によってとらえることのできる対象だけを現実とみなす日常的意識の自然的態度は、宇宙万物の内部に無限の創造的エネルギー・生命が脈打っていることを見てとることができない。そのことは、日常的意識が、有限相対的次元が同一の無限の創造的エネルギー・生命で無限絶対的次元と統合されていることを見ることができない、ということを意味している。日常的意識は、人間の経験を感覚的経験に限定するため、感覚界を超脱して神と合一するという体験を根源とする全実在界大の体験に到達することができないのである。

 その日常的意識を方法的に精錬化した近代科学が、感覚界を超感覚的実在界と切り離して、それ自体で自己完結したものとしてとらえたのは、そのためである。こうして近代科学は、超感覚界的実在を対象とする神学・形而上学を否定・排斥することになったのである。

 近代科学が基礎を形成した合理主義的な思考からすれば、形而上学とは、経験にもとづくことなく独断的に設定した原理から導きだされた空疎な体系にすぎない。すなわち、近代合理主義的思考は、形而上学とは、神と人間の合一という実在・実存体験およびそれを根源とする全実在界大の実在・実存体験を知性的に反省することによって成立したものであり、全実在界大の本来的自己の実存的観想意識に映し出され真実相の認識であることを理解することができないのである。こうして、近代合理主義的思考によって、その生活を律する人間は、本来的自己を喪失するという危機に直面することになったのである。

 それは、表層的自己が、超感覚界の根源における深層的自己から切り離されて、感覚界に自己閉鎖的になったことによってもたらされた事態である。このような事態を根本的に転換させるためには、感覚的経験をそれ自体として完結させることなく、無限絶対の実在の体験にまで深め、それと結合することが必要となる。ここに、感覚的経験を単純に否定するのではなく、それから出発してその成立根拠である存在の体験にまで深めてゆくことによって形成されたトマス・アクィナスの形而上学が、現代の人間の危機を克服することを可能とするものとして甦ってくるのである。

 トマス・アクィナスの形而上学的神学が有する思想的可能性を現実化させるためには、その思想の全体を前述したようなかたちで再構成することが必要となる。それによって、実在・実存体験のロゴス化としての形而上学は、感覚界に自己閉鎖する現代の人間に対して、外界から自己へ還帰するよう促し、感覚界から超感覚界へ超脱して自ら無限絶対の実在を体験して本来的自己を実現するに至る途を指し示すことができるものとなるのである。

 無限絶対的次元と有限相対的次元が相即的に統一された全実在界の真実相の知であるこの形而上学に、有限相対的次元の外面の感覚界を対象とする知である科学を統合することによって、現代において感覚的経験と超感覚界的体験を統合することが具体的なかたちで実現する。

朱子――古代以来の東洋思想を相統合した体系

 孔子を継承した孟子の思想における人間の「善なる性」と物欲

 儒学は、春秋時代に孔子によって創始された。孔子は、主体的実践によって感覚界から超感覚的全実在界へ超脱し、その根源において「天」という永遠無限絶対の実在と合一して「本来的自己」を実現した。孔子は、それを「仁」と呼んだ。仁は、すべての人間が有しているものであるが、通常は私心・私欲に蔽われ可能性の状態にとどまっている。したがって、仁を実現するためには、私心・私欲を克服して礼という規範に従って行為することが必要となる。それが、「克己復礼」という実践である。『論語』に「己に克ちて礼に復るを仁となす。」(顔淵) とあるのが、それである。

 孔子は「仁遠からんや、我仁を欲すれば、仁ここに仁至る。」(述而) と述べている。孔子は、自己が到達した境地に、すべての人間が主体的実践によって到達しうるだけの力を有しているとした。そして彼は、仁を実現することがすべての人間にとって究極目的であることを明らかにし、仁を獲得するために努力するよう強く促したのである。それこそが、儒学の根本精神であった。だが、孔子が到達した高い精神的境地を理解し、そこに到達することは容易なことではない。白川静は、孔子のいう仁を理解しえたのは、彼の弟子のうち願回のみであろうと述べている(『孔子伝』P161)

 孔子の死後、儒学は、儀礼の研究や古典の学習を中心とする傾向を強め、思想的に沈滞していった。このような思想状況の中にあって、孔子の思想を継承することを自己の使命としたのが、戦国時代の孟子であった。孟子は、孔子の死後百有余年しかたっていないにもかかわらず、その思想を伝えるものがいない、だとすれば、今のうちに自分が伝えておかなければならないという、自らの重い任務を見いだし担ったのである。こうして孟子は、孔子から儒学の中心をなす仁の思想を継承した。

 孔子は「己に克ちて礼に復すれば、天下仁に帰す。」(『論語』顔淵)と述べている。仁は、人間の根源であるとともに万物の根源である。孟子によれば、有限相対的存在である人間は、無限絶対的実在である天から善なる「性」を賦与されている。性は、人間に内在する天である。天は、超感覚的実在である。したがって、人間の性も超感覚的である。性は、人間以外の万物にも天から賦与されている。しかし、人間は、思惟する能力を有する「心」を天から賦与されている。感覚は動物も有しているが、人間はそれより高次の心を有している。心の思惟する能力は、超感覚的な認識機能、すなわち感覚的直観およびそれと結びついた理性とは異質な知的直観、知性としてとらえ返すことができる。

 人間の心は、仁・義・礼・智の四徳とその萌芽である惻隠・羞悪・辞譲・是非の四端を固有している。だが、感覚器官が外界の物を追い求めるため、善なる性は物欲に覆われ、人間は、自己が四徳を固有しているということを自覚できなくなる。孟子は、それを「放心」と呼んでいる。それは、人間が自己の心を放ち失うという事態である。そのことは、人間が心の思惟する働き、すなわち超感覚的認識機能を働かせることができないため、自己の本性を見失ってしまうということを意味している。

 孟子の思想の全体を形而上学体系として再構成する

 したがって、人間が自己の本性を自覚するためには、外部に向かう志向を内部に向かう志向に転換させなければならない。すなわち、外界の物を対象とする感覚の働きを抑止して、自己の内面を対象とする超感覚的認識機能を活性化することが必要となる。それは、心の思惟する能力を働かせるということを意味する。孟子は、そのための実践(修養)を「放心を求める」、すなわち、感覚的欲望のために失った心を探り求めて取り戻すこととしている。

 それは、孔子の克己、すなわち仁を蔽う私心・私欲を克服するための実践に相当する。そのことは、孟子が、修養の具体的方法の一つとして多欲を抑える寡欲を挙げていることを見ても明らかである。それは、人間が感覚界から超感覚的実在界へ超脱するための主体的実践である。この実践によって、感覚的欲望が抑止され、道徳的欲求が活性化し、四徳の萌芽である四端が出てくる。

 人の不幸をあわれみ痛ましく思う惻隠を拡充すれば仁となり、悪しきことを恥じにくむ羞悪を拡充すれば義となり、自分の身をつつしみ人に譲る辞譲を拡充すれば礼となり、正を是とし不正を非とする是非を拡充すれば智となる。このようにして人間は、自己がもともと有していた徳を自覚し、自己の性が善であることを知ることができるのである。それによって、人間が徳を発揮すること、すなわち道徳的規範に従って行為することが可能となる。これは、孔子の復礼すなわち礼に従って行為することに相当するものである。こうして、徳を体現した人間が実現する。

 自己の性、すなわち自己に内在する天が善であることを自覚した人間は、それが永遠無限絶対の実在である天から出たものであることを知るができる。そのこと知った人間は、有限相対的次元から無限絶対的次元へ超越する。それは人間が、自己に内在する天からその根源の超越的な天に帰るということ、すなわち、自己の本源に帰るということ意味する。この本源において、人間は天と合一する。それは、孔子が仁と呼んだ天の体験にほかならない。こうして人間は、超感覚的知性によって真実在を自覚することと一体的に真の自己を自覚するのである。

 以上見てきたように、人間は感覚界から超感覚的実在界へ超脱し、さらに超感覚界の有限相対的次元から無限絶対的次元へ超越するという過程をたどって、自己の本源に還帰した。それは、人間が外界に向かって拡散する自己を内面に向かって集中し、そこに沈潜してゆくことによって、本来有していたが自覚されていなかった真の自己をありのままに自覚しようとする本来的自己の探求の結果、到達した境地である。その境地において、無限絶対的次元と有限相対的次元の総体を同時一体的に観ることによって、全実在界の真実相をとらえることが可能となる。

 無限絶対的次元において天と人間の合一が実現するとき、同時に有限相対的次元において万物と人間の一体化が実現する。人間と万物の一体化が実現するのは、人間と万物がとともに天から性を賦与されていることによる。人間が、感覚的欲望のために自己の性が善であることを自覚することができず、徳を発揮することができないとき、我と物が対立し、万物が相互障礙しあうことになる。

 この対立・相互障礙は、感覚的欲望を克服することによって解消される。孟子が「万物皆我に備わる。身に反して誠なれば、楽、これにより大なるはなし。」(『孟子』尽心章句上)と述べているのが、それである。人間が、徳を体現した主体として自己を確立することによって、物欲によって阻害されていた我と万物が一体的だという本来的なあり方が回復され、自覚されるということである。天と万物に対する人間のこのような関係は、孔子が、天に敬虔に(敬)対し、他に思いやりの心(恕)で対する、とした人間の態度と同一のものである。

 孟子は「其の心を盡す者は、其の性を知るなり。其の性を知れば、則ち天を知る。」(『孟子』尽心章句上)と述べている。惻隠・羞悪・辞譲・是非を拡充し尽くす者は、人間の性が天から賦与されたものであることを自覚することができる、人間の性をそのようなものとして自覚すれば、天を自覚することができるということである。

 「孟子の体系的哲学の総説」といわれる尽心章句第一章の中のこの文章は、有限相対的な本来的自己と無限絶対的な本来的自己を統合した全実在界大の本来的自己の真実相を明らかにしたものとしてとらえ返すことができる。孟子の思想は、その全体を天との合一体験(知的直観)と万物との一体化体験(知的直観)が統合された全実在界大の本来的自己の実在・実存体験(知的直観)を知性によって反省(ロゴス化)した形而上学的体系として論理的に再構成することができる。これは、主体的実践によって超感覚的な認識機能を働かせることによって獲得された根源的で総体的な真理認識である。

 実在・実存体験を基盤として仏教・道教と対決した宋代の儒学者

 そのようなものとして孟子の思想は、すべての人間が、全実在界大の本来的自己を実現することを究極目的として実践を重ねてゆくことを求めている。孟子は「聖人も我と類を同じうする者なり。」(『孟子』告子章句)と述べている。歴史上の聖人も我々と同じ人間なのであり、我々は聖人と同じ善なる性を有している、だからすべての人間が、主体的実践によって聖人(完全な人間)となりうる、いうことである。孟子のこの言葉は、すべての人間が、先述したような本来的自己を実現しうることを示したものとしてとらえ返すことができる。

 それこそが、孟子が孔子から継承した儒学の根本精神であった。だが、孔子・孟子以後の儒学は、その根本精神を忘却してしまった。孔子・孟子以後の儒学は、訓古学と呼ばれる。訓古とは、経典の文字章句の意味を解釈することである。それが学問の中心となると、儒学は体験から遊離した学説として固定化され、専門学者の注釈の対象とされてしまうことになった。その結果、儒学は、すべての人間が主体的実践によって本来的自己を実現するという生き生きとした実践性と高い理想を見失い、形骸化、無力化していった。

 こうして儒学は、思想的な主導権を仏教に奪われ、中国の思想界は、仏教とそれに次ぐ道教(老子・荘子の思想)によって支配されるという状況を呈することになった。このように形骸化した儒学を再興したのが宋代に興った新しい儒学である宋学であった。この学説は、その大成者の名をとって朱子学とも呼ばれる。宋学は、孟子が継承した孔子の儒学に復帰することによって、その根本精神に立ち帰った。宋学を形成した思想家たちが孔子に復帰したということは、学説の基体である体験、すなわち天との合一という実在・実存体験にまで還帰したということを意味している。彼らは、孔子の天体験を追体験したのである。

 天とは、時間を超越する永遠の実在である。追体験とは、孔子の体験と宋代の思想家の体験が、時間的前後関係を撥無されて永遠の今において同時的になる、ということを意味する。それによって、宋代の思想家の実存が孔子の実存と触れ合い交流し、孔子が実現した本来的自己を宋代の思想家も実現することになる。こうして宋代の思想家は、仏教・道教と対決するための主体性を確立したのである。宋代の思想家は、永遠の今における実在・実存体験という基盤に立脚した主体として、仏教・道教と対決することを通じて、孔子・孟子から継承した儒学の根本精神を、当時の社会、思想状況に適合するかたちで再生させた新しい儒学を形成したのである。

 彼らが直接対決したのは、中国華厳宗の五祖・宗密の哲学であった。中国華厳は、インド仏教を中国の伝統思想を下地として受容し、両者を融合させた中国化した仏教であるが、宗密は、仏教と儒教と道教は根本的に一致するとした。宗密は、『原人論』において、儒教と道教が仮の教えであるのに対して、仏教は仮の教えと真実の教えを兼ね備えているという違いはあるが、三教を創始した釈迦・孔子・老子は、みな最高の聖人であり、文は異なるが理は符号すると述べている。

 このことは、釈迦・孔子・老子は、永遠無限絶対の実在と合一するという同一の実在・実存体験をしたのであり、それをロゴス化する(知性的に反省する)にあたってそれぞれの思想的文脈において表現したこととしてとらえ返すことができる。三教は、同一の実在・実存体験を共通基盤としているがゆえに根源的に統合することが可能となるのである。宗密は、この共通基盤に自ら立脚することにより、仏教の立場から三教を統合したということができる。

 宋代の儒学者も、この共通基盤に立脚したのである。それによって、仏教・道教に対する批判は、体験から遊離して固定化した学説を排除して、同じく固定化した学説としての儒学の純粋性を守るといった皮相、偏狭なものに陥ることがなかったのである。宋代の儒学者が、三教の共通基盤に立脚したことにより、儒教・仏教・道教は、それぞれが永遠の今において全実在界の真実相をとらえたものどうしとして重なりあうことになった。

 朱子学における太極と万物の「体用」・「理一分殊」の関係

 そのことは、儒学の仏教・道教に対する対決が、それらの思想の総体を根源から包摂しうるだけの枠組みにおいてなされたということを意味している。それによって宋代の儒学者は、仏教・道教の思想を、その核心において儒学の内に摂取することが可能となったのである。宗密が、仏教の立場から三教を統合したのに対して、宋学は、儒学の立場から三教を統合したということができる。

 中国仏教が、インドから受容した仏教と中国の伝統思想を融合したものであるということには、すでに言及した。だとすれば、宋学を大成した朱子の形而上学は、古代以来の東洋の思想を統合した一大体系ということもできる。すでに言及したように、仏教・老荘・儒学は、いずれも永遠の今において全実在界の真実相をとらえたものとしては、同一の真理を体現している。全実在界は、超時間空間的な無限絶対的次元と時間空間的な有限相対的次元という二つの次元の統合態であるという構図においてとらえることができる。老子・荘子は、この二つの次元の関係を、無限絶対の実在である「道」から有限相対の万物が生じるという関係としてとらえた。中国華厳においては、二つの次元は、無限絶対の実在である「理」の自己分節化として有限相対の「事」すなわち多様な個物が成立するという関係としてとらえた。それらはいずれも、実体と現象の関係をとらえたものである。

 宋学は、老荘・仏教のこのような思想を摂取し、それを体(本体)と用(作用)いう概念で表現した。だが、そのことは、儒学が外在的な思想を取り入れたということではなく、もともと儒学に潜在していた思想が、仏教・老荘との対決を通じて明確なかたちで概念化されたというべきである。それによって儒学は、従来欠落していた宇宙論(全実在界の存在構造をとらえた理論)を備えた体系となりえたのである。

 体と用は、絶対に断絶したまま統一されているという論理構造を有している。朱子は、この体用の論理を駆使して壮大な形而上学体系を構築したのである。朱子における超時間空間的な永遠無限絶対の実在は、「太極」である。これは、周濂渓の『太極図説』にもとづくものであるが、周濂渓は、その存在性格を「無極而太極」と規定している。そのことは、永遠無限絶対の実在が、有と無を包摂する絶対無という実在であるということとしてとらえ返すことができる。永遠無限絶対の実在は、太極としては万物を生み出しそれに内在するが、無極としてはそれらを超越し一物の形もない、すなわち有としては現象となって顕現するが無としては絶対の非顕現である。

 朱子は、太極を「理」と呼んでいる。太極は、唯一の理であるが、それからどのようにして万物が生じるのかについて『近思録』は次のように述べている。「濂渓先生が申された。無極であって太極である。太極が動いて陽が生まれ、動が極点に達して静になる。静になって陰が生まれ、静が極点に達して再び動になる。あるいは動となり、あるいは静となるが、動静は互いに根基となりあう。太極が陰と陽に分かれて両儀が成立する。そしてこの陰陽が変化合一して、水・火・木・金・土の五行を生じ、五行の気が順次に排列して四季のうつりかわりができる。」(巻一)

 太極は唯一の理であるが、そこから陰陽が生じる。陰陽は気である。理とは超感覚的実在・理法(秩序の原理)であり、気とは物質を形成する素となるものである。陰陽の二気から五行(五元素)が生じ、五行から万物が生じる。それは、気が凝集して物質となる過程である。この過程は、同時に太極の理が気に附着してゆく過程である。朱子は「気は理に寄り添って動き、気が聚(あつ)まると理もそこに存在する。」(『朱子語類』巻一・13)と述べている。

 したがって、気があれば必ず理があり、理があれば必ず気があるのであり、万物は理気の二元から構成されている。太極の理と理気の二元は、体用(本体とその現象化した働き)関係にある。太極の理は唯一絶対であり、理気二元の理は多様相対である。万物には、同一の理が内在している。ただ、気に精粗の違いがあることによって、差異が生じ、千差万別の事物が成立するのである。理が同一性の原理であるのに対し、気は差異性の原理なのである。こうして、体(本体)と用(現象化した働き)のあいだに、「理一分殊」、すなわち、理は一にして分は殊(こと)なるという関係が成立する。

 「気質の性」を克服して「本然の性」にたちかえる「居敬窮理」という実践

 このことは、すべての個物にそれぞれ同一の太極が内在している、と表現することもできる。朱子は「太極は、天地・万物の理に他ならない。天地について言えば、天地のなかに太極があり、万物について言えば、万物のなかにもおのおの太極がある。」(『朱子語類』巻一・1)と述べている。万物は、存在を支える原理(理法)である理が内在していることによって、それぞれ独自の存立を保つことができるのであり、太極の一理に支えられていることによって、相互の調和を保つことができるのである。

 理気二元からなる万物は、根源である太極から生み出される。それを、理気が天から命令的に賦与されるという。天が賦与する理は、物も人も同じである。ただ、偏気を受けたものが物となり、正気を受けたものが人間となるのである。万物に内在する理を「性」という。気質(気)の影響を受けない純粋な性を「本然の性」、気質の影響を受けたものを「気質の性」という。正気を受けた人間は、心のすぐれた働きによって理を知ることができ、行為によって本然の性を発現させることができる。ただ人間は、気質によって作られる肉体を有している。したがって、純粋な本然の性は肉体を通じて発現し、その影響をこうむるのである。

 そのことは、理気双方に属する心が、身体的行為を主催し、身体の感覚器官を媒体として外界の事物に接触する、ということを意味している。そこに、「見聞の小」といわれる感覚的経験が成立する。本然の性は、静なるものであるが、それが外界の事物と接触して動となったものを「情」と呼ぶ。その場合、静が濁った気質の影響を受け歪められをかたちで外に現われたものが「人欲」である。それは、感覚の対象である外界の物質に対する肉体的欲望である。

 心が見聞という感覚的経験に閉鎖的となるとき、超感覚的実在である理を知ることができなくなる。そうなると、心が主催する身体的行為は人欲の充足を求めるものとなる。こうして人欲が本然の性を覆い、それが本然の姿のままで発現することが阻害されることになる。

 心が理を知ることができないため、人間の行為は、万物に秩序をあたえる理にもとづくものではなくなり、万物のあいだに相互調和ではなく、相互障礙が生じることになる。ここに、情が正しきを得て人欲にならないように、心が性と情を統率する(『近思録』巻一には「心は性と情とを統率するものである」とある)ようにするという人間の責任が存在する。すなわち、人欲の覆いを除いて本然の性が本来の姿のままであらわれるようにしなければならないのである。これが、気質の性を克服して本然の性にたちかえる、あるいは人欲を断滅して天理を復するという倫理的課題である。

 この課題の究極目的は、人間が一理すなわち太極と合一して本来的自己を実現すること、すなわち聖人となることである。そのための主体的実践が「居敬窮理」である。居敬(敬に居る)の「敬」とは、「主一無適」すなわち心を一点に収斂して、どこにも適(ゆ)くこと無く本然の性を守ることである。それは、外界の感覚的対象にたいする欲望を有する肉体の拘束から心を解放するということを意味している。心には見聞、すなわち感覚的経験を超えたものがある。それは、感性的直観およびそれと結びついた通常の理性と根本的に異なる知的直観、知性という認識機能である。しかし、通常、それは感覚的経験に覆われている。居敬とは、その覆いを取り去るための実践なのである。具体的には、外界の事物に向かう感覚の働きを抑止し、超感覚的な知的直観、知性の働きを活性化させるための方法である。それによって人間は、感覚界から超感覚的実在界へ超脱することが可能となる。

 それは、プラトンにおける魂の浄化、すなわち、魂を肉体からできるかぎり分離し一つに凝集縮させることに対応させることができる。このようにして、魂が肉体という縛めから解き離されることによって、人間は感覚界から超感覚的なイデア界へ超脱するのである。朱子においては、肉体の拘束から解放された心は、知的直観、知性を働かせて超感覚的実在である理を体験し、認識することができるようになる、という事態としてとらえ返すことができる。

 居敬が内省であるのに対し、外界の事物に至り、それに内在する理を窮めてゆくことが「窮理」である。「すべて一個の物には、一個の理がある。その理を究極まで明らかにしなければならない。」(『近思録』巻三)というのが、それである。居敬は、事物の外面(気の凝集としての物質)に囚われることなく、その内面の理に対応しうる主体性を確立、維持するための方法だということができる。こうして「格物致知」すなわち、物に格(いた)り知を致すことが可能となる。

 このようにして気質(肉体)の制約から解放された主体は、事物と一体化し、その実在を体験する(知的直観)とともに、その体験に即して事物の理を認識する(知性)。そのことは同時に、主体が自己の実存を体験する(知的直観)とともに、その体験に即して自己の理を認識する(知性)することである。外的な事物の理を窮めることは、同時に内的な心の理を窮めることである。

 「豁然貫通」によって多様な理の本体である一理に超越・合一する

 理とは、超感覚的実在であると同時に存在に秩序を与える理法であった。主体は、事物との一体化という実在・実存体験に即して事物の実在とそこに働く理法を明らかにすると同時に、自己の実存とそこに働く理を明らかにする。外的の事物の理法は自然の法則であり、内的な心の理法は人間の行為の規範である。主体は、両者を一体的なものとしてとらえるのである。心が気の凝集である身体を介して外界に向かい、感覚器官によって事物に接触するという感覚的経験、自然的態度を、根本的に転換させた超感覚的な実在・実存体験を知性的に反省することによって、主体は、外的な理と内的な理が一致する現象界の真実相を明らかにするのである。

 そのことは、自然的態度を現象学的還元という方法によって転換させ、外部と内部を媒介する志向性という概念で真の実在と知識をノエシス・ノエマの関係として分析した――フッサ―ルの立場と対応させることもできる。現象界(用)において外的な理と内的な理が一致することができるのは、両者に本体(体)である一理(太極)が内在していることによる。

 多様な理を明らかにする窮理を積み重ね、それが一定の量に達すると、主体は、現象界から多様な理の本体である一理すなわち太極へ超越し、それと合一する。主体が、分殊から一理へ超越することによって本来的自己を実現するのである。それが「豁然貫通」である。『近思録』に「今日一物に至り、明日は明日で一物に至るようにすべきだ。その積み重ねが多くなってから、すっきりして、貫通する点が自然に出てくるのだ。」(巻三)とあるのが、それである。それによって、永遠無限絶対の実在と実存の合一という実在・実存体験が成立し、それに則して唯一の実在と唯一の実存に関する究極的な知識が獲得される。

 主体が究極的な知識を獲得することは、同時に、それにもとづく行為によって一理すなわち太極を自己のうちに体現・具有することである。有限相対的次元における主体性は、このようなかたちで無限絶対的次元にまで深められ、そこに根拠づけられたのである。それによって、現象界における人間は、理にかなった行為、すなわち規範に合致した行為の主体として働くことが可能となる。このことは、心が倫理的行為を主宰するということを意味している。

 「心は虚霊不昧、以て衆理を具して万事に応ずる」(『大学章句』)、すなわち、心は夾雑物を含んでいないから多様な理を包含し、すぐれた働きによって万事に対応することができるということである。外的な理と内的な理が一致することにもとづいて、そのことが可能となる。そして、そのこと自体は、人間が、根源である一理と合一し、それを具有していることによって支えられているのである。

 太極と合一し、万物と一体となる全実在界大の本来的自己

 人間が万事に対応する行為は、理すなわち規範に律せられている。具体的には、仁・義・礼・智・信のいわゆる「五常」である。

 仁は、個別的に言えば、五常の一つであるが、義・礼・智・信を包み込み統轄している。それを「專言の仁」という。專言の仁は「公」と「愛」という存在性格を有している。『近思録』には「仁の道は、要するに、やむなく公の一字で説明されるのだが、公は仁のすじみちにすぎず、公をそのまま仁ということはできない。公であって、人をその根幹とするがゆえに、仁になる。公であれば、物も我も照らし出されるがゆえに、仁は思いやりのできる基になり、愛することの基になる。思いやりは、仁が延びていったものであり、愛は仁のはたらきである。」(巻二)と述べられている。

 人間は、人欲を断滅して理にかなった行為をすることによって、天地万物と一体となることができる。朱子は「私欲がないのは仁の前段階、天地万物と一体となることは仁の後段階だ。ただ私欲がなくてこそ仁であり、ただ仁であってこそ、天地万物と一体となるのだ。」(『朱子語類』巻六・109)と述べている。このことは、見たり聞いたりという感覚的経験と異なる心の超感覚的働きによって実現される。『近思録』には「心を広大にすると、世間のすべての物に連結する。物のなかに連結されていないものがあると、それは心に限界があることになる。世間の人の心は、見聞といった狭い経験に閉ざされているのだが、聖人は性を完全な姿にしているので、見聞で心にかせをはめることがない。そして天下の事物を全て自分とみている。」(巻二)とある。これは、孟子の「万物皆我に備わる。身に反して誠なれば、楽、これより大なるはなし。」(『孟子』尽心章句上)というのと同一の境地である。

 感覚界から超感覚的実在界へ超脱した人間は、無限絶対的次元において一理すなわち太極と合一し、有限相対的次元において万物と一体となる。それが、全実在界大の本来的自己すなわち聖人にほかならない。無限絶対的次元と有限相対的次元のあいだには、太極が拡散して万物となり万物が収斂して太極に帰する、一理が拡散して衆理となり衆理が収斂して一理に帰する、という運動が展開してゆく。それは、無限の創造的エネルギー・生命が無限絶対的次元から有限相対的次元へ発現してゆき、そこから無限絶対的次元へ還帰してゆくという循環運動が不断に繰り返されてゆくことである。全実在界においてこのような運動を展開してゆく無限の創造的エネルギー・生命と一体化し、それを自己のうちに流入・循環させてゆく人間――それが、全実在界の本来的自己にほかならない。

 全実在界を貫流する無限の創造的エネルギー・生命の脈動と自己の内部を貫流する無限の創造的エネルギー・生命の脈動は、一体となる。そこに、全実在界大の実在・実存体験が成立する。そのとき、無限絶対的次元において太極と自己が無限の創造的エネルギー・生命によって一つに結びつき、有限相対敵次元においては万物と自己が無限の創造的エネルギー・生命によって一つに結びつく。こうして、本来的自己の実存的観想意識に太極と万物が相即的に統一され、万物が相互調和するという全実在界の真実相が映し出される。そこに、実在・実存体験のロゴス化としての形而上学が成立する。朱子の思想の総体は、そのような形而上学としてとらえ返すことができる。

 現代の危機を克服するものとして甦る朱子の思想

 形而上学は、それを形成した思想家の実在・実存体験のロゴス化であることによって、すべての人間に、主体的実践によって感覚界から超感覚界への超脱を促し、本来的自己の実現へ至る道を示すことができるのである。形而上学を、一人ひとりの人間の生とは無縁な知識として固定化してはならない。形而上学の真理をわがものとして獲得しようとする個人は、外面的な言語・文字を読むことを媒介として、それに固く結びついている内面的なロゴス化以前の体験的事実を読むである。それは、形而上学を形成した思想家の体験を追体験するということを意味する。それによって追体験の主体は、過去の思想家の内で脈打ったのと同一の無限の創造的エネルギー・生命が自己の内で生き生きと脈打つのを感得することになる。

 朱子が、本来的自己を実現するための方法である窮理の対象として、個々の事物だけでなく、経典をはじめとする書物を上げていることも、そのような観点からとらえ返すことができる。それらの書物の内容は、理を窮めた思想家(聖人)の体験をロゴス化したものであることによって、それぞれの人間は、それを読むことを通じて聖人の体験を追体験し、太極としての一理と万物に内在する衆理を体得した主体として自己を確立することができるのである。

 そして、現代においてもっとも必要とされていることは、朱子の著作自体をそのような窮理の対象として主体的に読むということである。もし、朱子の思想をその基体となった体験と切り離して学説として固定化し、専門学者の注釈の対象とするならば、それは、現代の人間を本来的自己の実現に導くという生き生きとした生命力を失い、形骸化するほかはないのである。

 現代の人間は、自己の感覚的欲望を充足させるため、自然の法則を解明した科学的知識とその応用としての技術的意志によって外界の事物を支配・利用をしつづけてきた。その結果、自然的個物・人間的個人・文化的個物のあいだに対立・相剋が生じたのである。近代科学技術文明は、このような危機をもたらすに至った。それは、人欲で本来的自己を蔽ってしまった人間の行為によって万物の相互障礙がひき起こされる事態の現代的形態にほかならない。

 そのことの根本的原因は、感覚によってとらえることのできる対象のみを現実とみなす近代科学が、超感覚的実在を対象とする形而上学を否定したことにある。近代科学は、見聞の小(感覚的経験)に囚われたため、無限の創造的エネルギー・生命が貫流・遍満する超感覚的全実在界をとらえることができない。そのため人間は、感覚界に自己閉鎖的になり、無限の創造的エネルギー・生命をそれに貫徹する理法に従って制御することができなくなった。その結果、無限の創造的エネルギー・生命は無限衝動となって感覚界へ噴出してゆき、人間の科学的知識と技術的意志を駆り立ててゆく。こうして人間は、外界の事物に対する欲望の充足をひたすら追及しつづけることになった。これは、本然の性が、人欲に蔽われ尽くした姿にほかならない。ここから、気質の性からから本然の性に帰ることが、現代の人間にとって極めて重要な倫理的課題であるということが明らかになる。

 そのような重い課題を担わされた現代の人間にとって、「聖人学んで至るべし(誰でも努力すれば聖人になれる)」という朱子学の思想は、すべての人間が主体的実践によって本来的自己を実現することができるという大きな希望を抱かせるものである。それは、まさに「仁遠からんや、我仁を欲すれば仁ここに至る。」(『論語』述而)という孔子の思想、「聖人も我と類を同じうする者なり。」(『孟子』告子章句上)という孟子の思想を継承するものである。朱子の思想も、孔子・孟子の思想と同じように、すべての人間が聖人(完成した人格)すなわち本来的自己を実現することを究極目的としているのである。

 人間が、気質の性から本然の性に帰り本来的自己を実現するということは、全実在界を貫流する無限の創造的エネルギー・生命を自覚的行為によって制御することを意味する。それによって、無限の創造的エネルギー・生命が無限衝動となって人間を駆り立てることがなくなり、本然の性が肉体を通じて現われる情は中正を得て人欲となることがなくなる。そのためには、自然生態環境・人間・社会文化環境に貫徹する法則(理法)を解明する自然科学・人間科学・社会科学を、超感覚的実在に貫徹する理法を解明する形而上学と統合することが必要となる。それによって、科学的知識と技術的意志にもとづく行為が、全実在界を貫流する無限の創造的エネルギー・生命を制御する行為と統合され、もはや外界の事物を一方的に支配・利用するものとはならなくなる。こうして、自然的個物・人間・文化的個物のあいだに調和が実現することになる。

 この事態は、人間が事物の理を窮めることと一体的に心の理を窮める窮理を積みに重ねることによって、豁然貫通して多様な理の本体である一理と合一し、本来的自己を実現するという朱子の思想を、現代的なかたちで再生させることにほかならない。宋代に形骸化した儒学を再生させた朱子の形而上学は、このようなかたちで近代科学技術文明がもたらした危機を根底的に克服しうるだけの思想的な力を有するものとして現代に甦るである。

王陽明――明代における儒学の再興

 静坐という実践によって「本来的自己」を実現した王陽明

 孔子・孟子以後、形骸化した儒学を再生させたのが宋代の朱子学であった。朱子学は、「聖人学んで至るべし」、すなわち居敬窮理という実践によって、すべての人間が、人欲を克服して本来的自己を実現しうるということを明らかにしたものであった。その朱子学は、その後、官学とされ、朱子の学説にもとづいて編纂された『四書五行大全』が官吏任用試験である科挙に使用されるようになった。その結果、学問は、訓古学、記誦学、修辞学が中心となり、高禄や名誉を得ることを目的とする功利主義的なものとなってしまった。

 儒学を学ぶことが、人欲で本来的自己を蔽うという事態が生じたのである。こうして朱子学は、本来的自己の実現という究極的目的を見失って、人間を損ない、道徳的退廃を惹き起こすことになったのである。『近思録』などの朱子の著作も、居敬窮理という実践と遊離した学説として固定化され、専門学者の解釈の対象とされてしまった。このように形骸化した朱子学が支配的となった明代の思想状況の中で、儒学を再び具体的な生活の場における実践と結びつけ、「聖人学んで至るべし」すなわち、本来的自己への道がすべての人間に開かれていることを明らかにしたのが、王陽明であった。

 王陽明自身、投獄、左遷などのたび重なる憂患から目をそらすことなく、それと厳しく対決することを通じて、自己省察の修業を深めていった。それによって王陽明は、自己の内部に存在する私欲を凝視し、それを徹底的に克治していったのである。そのことについて、王陽明は、一切の名誉、利益、趣味については修業によってほとんど脱却することができたが、生死の一念については脱却することが容易でないことを自覚するに至ったと述べている。

 生死の念とは、感覚界における人間が、自己の生が一瞬一瞬、生じては滅している生滅無常の存在であることを知らず、それを常住不変なものとみなして執着することである。王陽明は、この生への執着は、人間が生まれ落ちた時からあるものだから除去することが困難だと述べている。人間が、憂患を経験し、自己の生が生滅無常なものであることを痛感することによって、生死を超脱しようとする深刻な願いが生じてくる。王陽明は、貶謫の地、竜場の過酷な自然環境の中で死の危機に直面することによって、自己の内の生への執着がいかに根強いものであるかを自覚した。こうして王陽明は、「静坐」という必死の主体的実践によって生死を超脱して永遠無限絶対の実在と合一し、本来的自己を実現するに至ったのである。

 良知体験を基盤とする形而上学としての陽明学

 それは、孔子・孟子が「天」と呼び、朱子が「無極而太極」と呼んだのと同一の究竟的な実在(絶対無)の体験であった。王陽明は、この実在を「良知」と呼んでいる。『伝習録』に「良知は是れ造化の精霊なり。這の些の精霊は、天を生じ地を生じ、鬼を成し帝を成す。皆此より出づ、真に是れ物に対する無し。」(下)とあるのが、それである。

 良知が造化の精霊であるということは、それが万物を超越する唯一の実在であると同時に、その不断の生成活動によって万物を生み出し、それに内在するということを意味している。体(本体)(現象化した働き)の論理で言えば、唯一の良知が体としての良知であり、万物に内在する良知が用をとしての良知である。両者は、相即的に統一されている。良知は、無限の創造的エネルギー・生命として、一瞬ごとに超時間空間的な無限絶対的次元から時間空間的な有限相対的次元へ発現してゆくとともに、そこから超時間空間的な無限絶対的次元へ還帰してゆく、という不断の垂直的な循環運動を繰り返してゆく。こうして、全実在界に無限の創造的エネルギー・生命が貫流・遍満することになる。

 良知は、超感覚的実在である。したがって、人間がそれを体験するためには、主体的実践によって感覚の働きを抑止して超感覚的な意識の働きを活性化させることが必要となる。そして、この意識によって行為における意志を規定することで、人間は、究竟的な実在である良知と合一することが可能となるのである。究竟的な実在と合一した人間は、そこを根源として、超感覚的意識を全実在外界大の規模で働かせ、それによって行為における意志を規定することで、無限絶対的次元と有限相対的次元が相即的に統一された全実在界における無限の創造的エネルギー・生命の運動と自己を一体化させる。すなわち、自己が、体としての良知と用としての良知との相即的統一態と、自覚的行為によって一体化するのである。

 それによって、全実在界に貫流・遍満する無限の創造的エネルギー・生命制限が自己のうちに貫流・遍満することになる。それは、体としての良知と用としての良知の相即的統一態を、人間が自己の内に体現するということにほかならない。それが、人間における存在としての良知であり、全実在界大の超感覚的意識が、人間における意識としての良知である。人間における良知は、存在即意識として、存在としての良知と意識としての良知が相即的に統一されているのである。

 全実在界と一体化した人間の意識は、全実在界の自覚面として、その真実相を映し出す。それは、感覚界から全実在界の根源=自己の根源に還帰した人間が、永遠の今から無限絶対的次元と有限相対的次元の総体を観た、永遠相下に観られた全実在界の真実相である。静坐という主体的実践によって生死を超脱し、永遠無限絶対の実在である良知を体験した王陽明が、その体験を基盤として構築した形而上学、陽明学は、そのようなものとしてとらえ返すことができる。

 心の本体である「良知」が規範を定立し、意志を規定する

 永遠無限絶対の実在である良知が天地万物を生み出し、それに内在するということには、すでに言及した。そのことは、無限の創造的エネルギー・生命が天地(宇宙=有限相対的実在界)に遍満することとしてとらえ返すことができる。万物の中で人間は、知るというすぐれた働きをする心を有している。王陽明は「人は是れ天地の心なり」(『伝習録』下)と述べている。宇宙に遍満する無限の創造的エネルギー・生命は、人間の心に於いて自覚に到達するのである。人間の心は、身体と不可離の関係にある。王陽明は「耳や目や口・鼻・四肢は、身体であるが、心によらなければ、視聴言動することは全くできない。それとは逆に、心が視聴言動しようとしても、耳・目・口・鼻・四肢がなければ、また不可能なことである。心がなければ身はなく、身がなければ心はない。だから身と心は一つの物である。」(『伝習録』下)と述べている。

 心は身体を主宰する無形の存在であり、身体は心の形体として心の働きを実際に行なうものである。心の本体が良知(意識としての良知)である。王陽明は「心はこの身の主人公である。そして虚霊明覚なところが、いわゆる本然の良知である。虚霊明覚な良知が、外からの感に応じて動くのを意という。知があってはじめて意があるのであり、知がなければ意はないのだから、知は意の本体といえるのではなかろうか。この意のはたらくとき必ず物が存在するのである。物とは事に外ならない。」(『伝習録』中)と述べている。

 では、良知は、具体的にどのようなかたちで働くのか。王陽明は「良知は別の語でいえば、孟子の是を是とし、非を非とするする是非の心である。是非の心はまた是を好み悪をにくむ好悪の情でもある。」(『伝習録』下)と述べている。この道徳的価値判断の働きをする良知は、具体的な状況の中で行為するために従うべき規範(理)を定立する。理は、心の内にある道徳的欲求の理であり、心が外からの感に応じて動く意志を規定する。それによって心は、視聴言動という行為を為す身体を統率する。知と行の関係について王陽明は、「知は行の目的であり、行は知の実際の修行である。また知は行の始めであって、行は知の完成である。」(『伝習録』上)と述べている。知は意志を規定して行為に目的を与え、行は努力して知が与えた目的を実現する。知と行は、本来一体である。これが「知行合一」である。

 王陽明は、具体的な行為の場において意志が対象に働くことを「物」と言っている。したがって、この意志の働きは一つの「事」なのである。王陽明は、その具体例として、意志が人民の統治に働くときは治民が一つの物なのである、ということを挙げている。良知は、規範(理)によって意志を規定し、意志は外的行為となって現われる。理は、良知が定立するものであるが、心の内には万事万物の理が具備されている(朱子は心外の事物に理が存在することを認めたが、王陽明はそれを否定した。これが「心即理」である)。したがって、意志が対象に働くことは、心の内にある理を万物に至らせることであり、それによって、どの事物もそれぞれの理を獲得することができるのである。

 宇宙(有限相対的実在界)には無限絶対的実在界から発現してきた無限の創造的エネルギー・生命が遍満しており、それが心を有する人間において自覚的になる、ということにはすでに言及した。そのことは、より具体的には、万事万物の理が人間において自覚的になるということを意味している。心の本体である良知が理を定立し、心が万事万物の理を具有するということは、そのような事態としてとらえことができる。万事万物の理は、創造的エネルギー・生命の活動がそれに従うことによって秩序づけられる理法である。

 したがって、人間が理に規定された意志にもとづく行為によって、対象に働きかけ、心の内にある理をそれらに至らせるということは、自覚的行為によって無限の創造的エネルギー・生命を制御するということを意味する。それによって、人間は、万物と創造的エネルギー・生命によって一つに結びつき、そこに相互調和を実現する。こうして人間は、万物を水平的に貫流する無限の創造的エネルギー・生命の躍動を自己の内に感得することが可能となる。それは、道徳的欲求価値が実現することである。それが、有限相対的次元の人間における存在即意識としての良知の実現であり、本来的自己の実現にほかならない。

 対象にかかわる意志のあり方を正す「格物」

 だが、人間が、感覚によってとらえることのできる対象だけを現実とみなす日常的意識の枠内にとどまるかぎり、感覚界に自己閉鎖的となり、超感覚的実在界に超脱して本来的自己を実現することができない。見聞(感覚)が、良知の発現を阻害するのである。

感覚的対象に対する身体的行為(視聴言動)における意志は、道徳的規範(理)を無視して働く。その結果、人間は、目・耳・口・鼻・四肢(身体的自己)の欲するままに、それに満足を与える外的事物を追い求めることになる。目は美しい色を求め、耳は美しい声を求め、口は美味を求め、四肢は安楽を求める。このように外界の事物に執着する身体の欲望が、「人欲」である。王陽明は、それを「己を忘れて物を逐う」(『全書』二十七)と表現している。

 人間は、人欲を充足させるための事物を追い求めることによって、本来的自己の実現を求める道徳的欲求を充足させることができなくなるのである。そのことは、人欲のために感覚界に自己閉鎖的となった人間が、超感覚界から遊離し、そこを貫流する無限の創造的エネルギー・生命を自覚的行為によって制御することができない、ということを意味している。人欲にとらわれた人間は、良知が定立する理に規定された意志によって他者に働くことはできず、名誉のため利益のために万物にかかわってゆく。人間は、もはや心の内の理を万物に至らせ、それらにそれぞれの理を獲得させることができなくなる。そのため、人間の行為は、無限の創造的エネルギー・生命によって、万物を一つに結びつけ、それらを調和させることができない。こうして、万物のあいだに利害対立、相互障礙が生じ、物を破壊したり、同類で傷つけあったりすることになる。

 したがって、人間が本来的自己を実現するためには、人欲を克服して、理に規定された意志によって他者にかかわらなければならない。それによって、良知の機能をそのまま発現させることが可能となる。そのことについて王陽明は次のように述べている。「心は理にほかならない。もしこの心に私欲の蔽いさえなければ、そのままが天理であって、外部から少しも付け加えるものは要らないのである。この天理に純一になった心をはたらかせて父に事えるならそれが孝であり、これをはたらかせて君に事えるならそれが忠であり、これを働かせて友人と交際し、人民を統治するなら、それが信であり、仁であるのである。要するに、わが心から人欲を去って天理を保持することに、努力し修行すればそれでよいのだ。」(『伝習録』上)

 人欲を去るための努力・修業が「格物」である。王陽明においては、物とは意志が対象に働くことであった。したがって、格物とは対象に関わる意志のあり方を正すということを意味する。それについて王陽明は次のように述べている。「格物の物とは事の意味である。一体に意が起りはたらく場合には、必ずその事があるのであって、この意のある事、有意的事象を物(こと)というのである。挌とは正すことで、正しくないものとして正して、正しいものに返す意味である。正しくないものを正すというのは、悪を去る意味であり、正しいものに返すというのは、善を行なうの意味である。これらを合わせて格すというのである。」(『大学問』)

 心の本体である良知そのものは、完全に善である。しかし、心が外界の事物に感じて動き出して意志となってからは正しくないことがある。したがって、格物とは、良知が価値判断によって善としたものを意志の対象へのかかわり方について実際に実現し、良知が価値判断によって悪としたものを対象への意志のかかわり方について実際に排除することである。それは、意志を誠にすること(誠意)であり、それによって良知が実現する(致良知)。王陽明は「良知によって物を格し、物を格すことによって良知を致す」(湯『全書』七)と述べている。

 良知(意識としての良知)が定立した規範によって対象にかかわる意志のあり方をただし、理に規定された意志的行為によって無限の創造で的エネルギー・生命(存在としての良知)を制御することで、無限の創造的エネルギー・生命を体現した本来的自己を実現する(存在としての良知と意識としての良知の統一)のである。格物到知を不断に遂行することによって、存在即意識としての良知が自発自展してゆくのである。

 「明明徳」と「親民」による「万物一体の仁」の実現

 無限の創造的エネルギー・生命を体現した本来的自己は、同時に、無限の創造的エネルギー・生命によって万物と一つに結びつく。すなわち、人欲を去って天理を保持する実践によって万物のあいだの利害対立、相互障礙が除去されるのである。良知は、自己と他者の統一原理であり「万物一体の仁」、すなわち万物を一体とする愛である。

 万物一体の仁を実現するための実践が、「明明徳」と「親民」である。それについて王陽明は、次のように述べている。「明徳を明らかにすることは、天地万物と一体であるところの心の本体を立てる根本の功夫であり、民を親愛するのは、天地万物と一体である心のはたらきを実現することである。……その外(自分の父・兄・世界中の父・兄のほか)君臣・夫婦・朋友の関係から、山川・鬼神・鳥獣・草木に至るまで、真実にこれらを親愛することによって、わが心の万物一体の仁が実現しない場合のないようになって、はじめてわが心の明徳は完全に明らかになったのであり、そしてまた天地万物を一体とすることができたのである。」(『大学問』)

 人間の心が万物の理を有しているということにはすでに言及したが、そのことは、人間の心が万物への愛、すなわち万物一体の仁を有しているということである。

 王陽明によれば、万物一体の仁とは具体的には次のようなものである。「何びとも幼児が井戸に落ちようとするのを見ると、必ずおそれいたみの心を抱くのである。これはその人の仁の心が幼児と一体となるからに外ならない。幼児は人間として同種のものだから、その心の湧くのも無理はないというかも知れないが、しかし人は人間ならざる鳥けだものの悲鳴や悲しむ様子を見ても、必ず可哀そうでならない気持ちになるのである。これは人の仁の心が鳥けだものと一体となるからに外ならない。鳥けだものは知覚があるものだから、その心の湧くのも無理はないというかもしれないが、しかし人は草木の挫かれ折れた姿を見ても、必ずあわれむ気持ちになるのである。これは人の仁の心が草木と一体となるからに外ならない。草木は生命のあるものだから、その心の湧くのも無理はないというかも知れないが、しかし人は瓦や石の破れているのを見ても、必ず惜しむ気持ちになるものである。これはやはり人の仁の心が瓦や石と一体になるからに外ならないのである。(『大学問』)

 万物一体の仁は、すべての人間が本来有するものである。だが、それが私欲に蔽われるとき、利害対立が生じるのである。したがって、私欲を克服するための実践が必要となる。それが「明明徳」(明徳を明らかにする)である。王陽明は「自己の私欲という妨害物を去って、本来の明徳を明らかにし、その天地万物を一体とする本然の姿に帰ることに努力すべき」(『大学問』)だと述べている。彼は、明徳を天地万物と一体である心の本体であるとしている(明徳は良知にほかならない)。この心の本体を働かせて他者を親愛する実践が親民である。それは、規範(理)に規定された意志によって対象にかかわり、心の内にある理を万物に至らせることである。

 こうして、自己のうちに向かう明明徳という実践と自己の外に向かう親民という実践が相即的に統一された自覚的行為によって無限の創造的エネルギー・生命を制御することで、万物がそれぞれの理を獲得し、相互の調和を実現する。このようにして、万物に対する生き生きとした生命の一体性を感得することができるのが、時間空間的次元における本来的自己である。

 王陽明の形而上学を生活の場の実践と結びつける

 時間空間的次元において明明徳と親民という実践によって有限相対的存在である万物と一体化した人間は、そこから超時間空間的次元へ超越する。人間は、そこにおいて超感覚的意識によって行為における意志を規定することで、永遠無限絶対の実在である良知と合一する。両者は、無限の創造的エネルギー・生命によって一つに結びつくのである。このようにして、究竟的実在との生き生きとした生命の一体性を感得することができるのが、超時間空間的次元における本来的自己である。

 永遠無限絶対の実在である良知は、造化の精霊と呼ばれ、万物を生み出し、それに内在する。したがって、万物との一体性を実現した人間が、超時間的空間的次元へ超越し造化の精霊=良知と合一するということは、万物を生み出した根源へ還帰する(用としての良知から体としての良知への復帰)ということにほかならない。万物一体の仁の究極的根拠は、造化の精霊と人間の合一という事態のうちにある。

 万物は造化の精霊=良知から生み出され、再びそこに帰るという運動を不断に展開してゆく。この運動は、人間において自覚的となる。人間は、万物が根源から出て根源へ帰る運動を自覚的に制御することによって、万物をそれぞれが全実在界大の存在として根源から調和させるのである。こうして、人間は、全実在界大の存在どうしとして万物とのあいだに生き生きとした生命の一体性を感得することになる。それが、全実在界大の本来的自己である。

 王陽明の形而上学は、その全体を以上のように体系的に再構成することによって、現代の人間に私欲を克服して本来的自己を実現することを強く迫るものとして甦ってくる。現代の人間は、感覚がとらえることのできる対象のみを現実とみなす科学的知識とその応用としての技術的意志で制御された行為によって自然を支配・加工することで、自己の欲望を満足させることを追い求めてきた。こうして、感覚界に自己閉鎖的となった現代の人間は、本来的な自己を喪失してしまったのである。それは、まさしく私欲が良知を蔽い、己れを忘れて物を逐うという人間のあり方が極限化した姿にほかならない。

 現代の人間は、感覚界に自己閉鎖的となったため、超感覚的実在界を貫流・遍満する無限の創造的エネルギー・生命を制御することができない。そのため、それは、無限衝動となって噴出してゆき、人間の科学的知識と技術的意志を駆り立てる。こうして人間は、自然から物質的エネルギーを取り出し、私欲の充足のために利用しつづけてきた。その結果は、自然生態環境とそこにおける自然的個物、社会文化環境とそこにおける文化的個物が破壊され、人類が死滅の危機に直面するという事態であった。現在、自然的個物・人間的個人・文化的個物のあいだには深刻な対立・相剋が生じている。

 この事態を根本的に克服するためには、私欲の蔽い取り去って、他人の不幸を見れば惻隠の心が起こり、鳥獣の悲鳴を聞けば忍びざる心が起こり、草木の枯れるのを見れば憐憫の心が起こり、瓦石の壊れるのを見ればいたむ心が起こるという、すべての人間が本来有している万物一体の仁をそのままのかたちで発現させる実践が必要となる。具体的には、それぞれの人間が日常生活で接する自然的個物・人間的個人・文化的個物に対する意志のかかわり方を、その時その時、その場所その場所の状況を応じて正してゆく(私欲を去る)ことである。それが、王陽明のいう「事上磨練」である。

 それによって、それぞれの人間が自他の対立・隔絶を克服して、他の個物・個人との生命の一体性・調和を実現してゆくことが可能となる。それは、それぞれの人間が具体的な生活を離れることなく、それに即して不断に人格の転換・本来的自己の実現を追求してゆくことにほかならない。それが、王陽明の形而上学を学説として固定化することなく、具体的な生活の場に開放し、そこにおけるすべての人間の実践と結びつけてゆく途である。

 

トマス・アクィナスの引用は、稲垣良典訳によった。『孟子』・『近思録』の引用は、「新釈漢文体系」によった。『朱子語類』の引用は、三浦国雄訳によった。『伝習録』・『大学問』の引用は、「新釈漢文大系」によった。

 

                                                     2013・3・29

 

 


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