『東西思想の超克』再説
第6回 中世、東西それぞれにおける絶対無の形而上学
マイスター・エックハルト・道元 ・親鸞 ・イスラーム哲学
マイスター・エックハルト――神性と人間との呼応関係による本来的自己の実現
西洋の正統的形而上学を超えるエックハルトの絶対無の形而上学
西洋の思想史においては、二度、ギリシャ哲学とキリスト教神学の総合がなされた。一度目は、アウグスティヌスによる新プラトン主義哲学とキリスト教神学の総合であり、二度目は、トマス・アクィナスによるアリストテレス哲学とキリスト教神学の総合であった。
ギリシャ哲学とキリスト教神学は、ともに人間が感覚界から超感覚的実在界へ超脱して、永遠の今において無限絶対の実在・絶対者と合一するというと実在・実存体験を基盤として形成された。アウグスティヌスとトマス・アクィナスも、自らが感覚界から超感覚的実在界へ超脱して、永遠の今において絶対者と合一するという体験をした（ギリシャ哲学・キリスト教神学を形成した思想家の体験を追体験した）。
アウグスティヌスは、彼が体験した絶対者を神と子と聖霊という三位一体の神としてとらえ、それを論理的に「有」と規定した。だが、彼の体験は、有としての神を超える「神性」という実在にまで到達していたのである。ただ、彼は、それを論理的に追求して「有」を超える「絶対無」と規定することをしなかった。そこに、アウグスティヌスの不徹底性がある。
これは、プラトンが、体験した絶対者を「善のイデア」（アリストテレス哲学においてこれに相当するもの「純粋形相」である）としてとらえ、それを「有」と規定したのと同じ不徹底性である。プラトンの体験は、善のイデアを超える「善者」という実在にまで届いていたにもかかわらず、彼は、それを論理的に追求して「絶対無」と規定することをしなかったのである。このプラトンの不徹底性を克服して、善のイデアを超越する実在を「一者」としてとらえ、それを「絶対無」と規定したのが新プラトン主義哲学の始祖プロティノスであった。こうしてプロティノスは、西洋における最初の絶対無の形而上学を形成したのである。
トマス・アクィナスは、プラトンの善のイデア、アリストテレスの純粋形相よりも高次の「自存する存在そのもの」である神を体験した。しかし、彼は、それを論理的に追求して「絶対無」と規定することなく、絶対者である神を「有」と規定した。これは、アウグスティヌスと同じ不徹底性である。
アウグスティヌス哲学、トマス哲学は、ギリシャ哲学における「善のイデア」・「純粋形相」、キリスト教神学における「三一的神」・「被造物に対向する神」を超越する、ギリシャ哲学における「善者」・「一者」、キリスト教神における「神性」を包越した体系とはなりえず、西洋の正統的な有の形而上学の枠内にとどまったのである。
このような不徹底性を克服したのがマイスタ―・エックハルトである。エックハルトは、トマス・アクィナスの思想を継承するとともに、それを、中世初期に新プラトン主義哲学にもとづく独自の思想を形成したスコ―トゥス・エリウゲナの哲学と結びつけた。それによってエックハルトは、彼が感覚界から超感覚的実在界へ超脱して体験した絶対者を「神性の無」としてとらえ「絶対無」と規定することになったのである。こうしてエックハルトは、西洋において、プロティノスに次ぐ絶対無の形而上学の形成者となったのである。
エックハルトにとって人間の生の究極目的は、永遠の今において無限絶対の実在と合一することにある。人間がそこに到達するためには、その自己閉鎖性を超えて三一的神と合一し、さらにそれを超えて神性の無と合一するという向上の途をたどらなければならない。
エックハルトは、一切の被造物は神から存在を貸し渡されている、としている。それは、一切の被造物が、神によって在らしめられて在る、ということを意味している。しかし、人間が、そのことに無自覚であるとき、自己の存在の根拠を自分自身の内に求め、自分の力で自己を在らしめているかのように思い込む。すなわち、自己の存在を、自分のものとみなす。人間が、自己閉鎖的、自己中心的になるのである。これが「我性」・「我執」である。
具体的には、「われわれ自身のエッセ（存在――根井注）をあたかも自己の固有の帰属と思いこみ自己同一意識を他の被造物との区別性の上に成立させ、この自己意識を増々強固なものに仕立て上げ、そこから所有、獲得等の能所主客の対他関係を深めていく。そしてこの関係項たる他者の変貌、崩壊、消失等によって限りない苦しみの淵にあえぐことになる。」（田島輝久『マイスター・エックハルト研究』P340）ということである。
エックハルトは、すべての被造物は純粋な無である、もし神がほんの一瞬、すべての被造物から離れるならば、それらは無に帰してしまうであろう、と述べている。人間には本来、自己に帰属するものは何もないからである。にもかかわらず、人間が、その存在を自己に帰属するもの思い込み、他の被造物を所有、獲得の対象とし、それらが崩壊したり消失したりすることに苦しむのである。これは、自己中心的な我執的自己が、他者を支配、征服することで自己の生を貪り、そのために苦しむ――という仏教の「煩悩」（心身を煩わし悩ます働き）にほかならない。
知性の内的認識を覆い隠す感覚・理性の外的認識
自己の存在が神によって貸し渡されたものであることに無自覚な人間は、神から面を背け、ひたすら自己の外部の神ならぬ被造物に向かうことになる。そのことをエックハルトは、人間の魂の諸力が大変広く分散していることとして捉えている。
外に向かって分散している魂の諸力を内に向かって集中させる力、すなわち外向的志向を内向的志向に転換をさせる力は、人間自身にはない。なぜなら、人間は、神によって在らしめられて在る存在として、神が存在を貸し与える働きを抜きにすればまったく無力だからである。前述の転換を実現させるものは、神からの働きかけ、促しのほかにはない。人間の方から神に至ることができないとき、人間の方へ神が来るのである。その神の働きが「恩寵」である。人間の魂は、その内に神からの働きかけに応じて神性にまで至る力を有している。エックハルトは、それを「知性」と呼ぶ。
そのことに関してエックハルトは、次のように述べている。「魂は自分のうちに『あるもの』、決して消えない知性〔つまり認識能力〕の閃光を持っている。人は心の最高の部分である、この閃光のなかへ、魂の『像』を入れる。が、私たちの魂のうちには外部のものに向けられる認識がある。つまり、感覚的な、知的な認識で、それは表象と概念における〔認識〕で、これによって私たちのあの認識が覆われてしまうのである。」（『キリスト教神秘主義著作集』第六巻・エックハルト��P173）。
人間の魂の内には、外部に向けられる感覚や通常の理性による対象認識すなわち外的認識とは異なる内的認識があり、両者を区別しなければならない、とエックハルトはいう。エックハルトによれば、内的認識とは、神の存在において知性にもとづくものである。だが、この知性にもとづく内的認識は、通常、外的認識に覆われている。我執的自己の外に向かう力が、知性の内に向かう力を覆い隠す、ということができる。
そのことに関してエックハルトは、次のように述べている。「知性をそなえた被造物〔つまり、人あるいは人間の知性〕はすべての自然的な光の上にある光によって自己自身の外に動かされなければならない、と前に述べたように、神はこの愛をもって魂や天使の内に流れ込むのである。一切の被造物は自然的な光に大変喜びを感ずるので、恩寵の光が彼らをそこから上にひきあげるには、強力なものでなければならない。なぜなら、自然的な光に人間それ自体は喜ぶが、言い表しえないほど〔これより〕大きな恩寵の光は、人間から固有の喜びを奪い、自分のうち〔恩寵の光〕へと人間を引き入れるのである。」（前掲書P243）
この場合の自然的光とは、先に言及した、他の被造物との区別性の上に成立する自己同一性意識の在り方である。この自己同一性意識は、我執にもとづく。したがって、いま引用したエックハルトの言葉は、我執的自己は、自己を中心として外部の被造物に向かい、それを所有、獲得することに大きな喜びを感ずる、ということと解してよいであろう。知性にもとづく内的認識が外的認識に覆われるということは、具体的にはそのようなこととしてとらえることができる。
神の働きとしての「恩寵」と人間の働きとしての「離脱」の一体化
これは、仏教における煩悩に相当するものである。外的認識という覆いを取り去り、人間から被造物に自己を結びつける喜びを奪い去り、自己の存在を在らしめている神についての無知から脱却させるために、神が人間の方へ来て人間を恩寵の光の中に引き入れなければならない。
エックハルトは、そのことについて「私が光である知性をすべてものから離し、神の方に向けるならば、というのは、神はつねに恩寵をもって流れ出ているから、私の知性はこの恩寵の愛で照らされ、これと合一する、そしてそこに神自体である神を知り、愛するのである。」（前掲書P243）と述べている。
神が恩寵の光をもって、知性を備えた被造物である人間の中に流れ込む。それによって人間は、それ自身の内から外へ引き出され、神自体である光の内に登ることになる。こうして、外に向かって分散している人間の魂の諸力を、内に向かって集中、統一することが可能となる。この事態は、人間が感覚界から超越的実在界へ転換することとしてとらえ返すことができる。人間の魂は、被造的世界と被造物としての自己を超越し、自己の内面を深く究明してゆく。こうして、人間の魂は三一的神と合一する。
このような魂の働きを、エックハルトは「離脱」と呼ぶ。エックハルトは「離脱によって私は神のみを受容せざるをえない……離脱はすべての被造物からまったく束縛されていない」（前掲書P381）と述べている。魂がこのように自己の内面を究明してゆく力が、知性なのである。神の恩寵の光が知性を照らすことによって、魂は離脱の過程をたどることができるのである。
ここには、神の側からの人間への働きかけとしての恩寵と、人間の側からのそれへの応答としての離脱の一体化、という事態が成立している。離脱とは、人間が自己放下し神の恩寵に全託することだということができる。すなわち、人間が恩寵に随順するということである。神からの働きかけの究極目的は、人間を神性へ至らしめ、それと合一させることにある。そこに至る途は、離脱に始まる。
人間は、神からその存在を貸し渡されたものとして、本来、自己に帰属するものは何もなく、それ自身においては無である、ということにはすでに言及した。にもかかわらず、人間が、自己の存在を自分のものと思い込むところに、我執が成立するのである。したがって、離脱とは、人間が我執を否定して、それ自身における無になり切ることだ、ということができる。先に言及した、離脱によって人間は、神のみを受容せざるを得ないということ、すなわち神ならざる一切の被造物を受容しないようにするということは、そのような自己無化の働きということができる。
この被造的世界と被造物としての自己の超越・自己無化によって、魂が神を受容することが可能となる。エックハルトは、そのことを、神が私に自己自身を与えたとか、神が私を神のひとり子として生んだとか表現している。そのことは、神以外の一切の被造物から離脱したことによって、魂の内に神的生命が流れ込み、両者を同一の生命が貫流し一つに結びつける、ということを意味している。そこに、三一的神と魂の合一が成立する。
「突破」による神性との合一「神の根底は私の根底であり、私の根底は神の根底である」
三一的神と合一した魂は、さらにその根底の神性へと超越して、それとの合一を実現する。それを、エックハルトは「突破」と表現する。「神を突破する」とか「神性への突破」といわれるのが、それである。エックハルトは「神が私を突破するのと同じように、私も神を突破する。神が純粋な一であり、神御自身のうちに湧き出るところ、荒野、御自身の単一性にこの精神は神により導かれる。」（前掲書P146）と述べている。
突破は、魂の自然的な自力によるものではない。人間が自己を無化することによって受容した神の力が、魂の力となって三一的神を突き破ってゆくのである。魂の受動性が能動性に転じ、魂が神的に働くのである。
神性は、神・子・精霊という差別を含まず、像や形態を越えた単純な根底である（像や形態は被造物に対して現れた神に属するものである）。したがって、自己を無化することによって神と同一の神的生命によって結びつけられた魂は、さらなる自己無化を求められる。それによって、無化された自己の内に神的生命が流れ込み、神性と魂を同一の生命が貫流し一つに結びつける。そこに、神性と魂の合一が成立する。
魂は、恩寵の働きかけに応じて離脱の過程をたどり、さらに突破によって、神を超えて神性に到達したのである。エックハルトは、突破によって私と神が一つであることが与えられる、という。
人間は、恩寵によって引き上げられることで、神性の高みまで到達した。恩寵の内で魂が向上の途をたどっているあいだは、人間は、神を遠方から見ている。しかし、人間が神性に到達したとき、恩寵は最高の完全に達し、もはや恩寵ではなくなる、とエックハルトはいう。
そこでは「魂は神と合一し、神のうちに包まれる。そこでは恩寵は魂から離れるので、もはや恩寵とは共に働かないで、神のうちで神的に働くのである。」（前掲書P232）。そのことをエックハルトは、「ここにおいて、神の根底は私の根底であり、私の根底は神の根底である。ここで、神が神御自身の本性から生きるように、私も私自身の本性から生きるのである。」（前掲書P36）と規定している。そこでは、人間は、永遠であったもの、永遠にあり続けるものを勝ち取る。ここで、永遠の神的生命と一体的な自己の永遠の生命が実現する。
世界と自己を超越することによって、自己は三一的神と合一し、さらに神を越えて神性と合一した。突破によって自己は、世界と自己の根底を極め尽くしたのである。それを、エックハルトは「神の根底は私の根底であり、私の根底は神の根底である」と表現した。それは、自己が、全実在界の根底である永遠無限絶対の実在すなわち神性と自覚的に合一することである。それによって、我執は根底的に克服されたのである。
時間と永遠を相即させる主体である「一人」・「真人」
人間が向上の途をたどって神性の無と合一するということは、時間を超越して永遠性を獲得する。ということを意味している。こうして、永遠性を獲得した人間は、それを離れることなしに、向下の途をたどって時間の内へ帰る。それによって、人間が、自己が神によって在らしめられて在る存在であることに無自覚なままに、神ならぬ被造物に自己を結びつけていた我執も克服される。それは、「一切の被造物はわれわれを含め、神の絶えざる創造によってその都度、一瞬一瞬無の淵よりくりかえし創造されているのであって、神帰属のエッセを借り受けることによってわれわれが現に今ここに存在しているのであることを知るのである。」（田島輝久『マイスター・エックハルト研究』P278）ということである。
自己は、覆いを取り去られた知性によってそのことを知るとともに、そのような存在として自己を実現する。すなわち、神が存在を貸し渡す働きに、永遠性を離れることなしに、いま・ここの瞬間に於ける実践によって自覚的に一体化する、ということができる。
エックハルトが、被造物が所有しうる一切の時間的な善と永遠なる善を持っている人間――と いっているのは、時間を超越して神性と合一することによって永遠性を獲得すると同時に、時間の内に帰って存在を貸し渡す神のはたらきと一体化した人間――としてとらえ返すことができる。エックハルトは、そのような人間について「自分のどのような働きでも妨げられない人々は、細心に配慮している。自分の一切の行動を永遠の光の像にならってきちんと行なう人々は妨げられない。このような人々はもののそばにいて、もののうちにはいない。彼らは〔ものの〕すぐ近くにいる、が、そのために〔ものの近くにいても〕、彼らははるか天の『永遠の輪』にいるのと同じくらい〔至福を〕もっているのである。」（前掲書P138）と述べている。人間が自己中心的存在として、諸事物を獲得、所有するということがなくなるのである。
エックハルトは、神性と合一した人間は、「友のため」に時間のうちに帰り他者のために働く、という。これは、仏教における「智慧あるが故に生死・煩悩に住せず、慈悲あるが故に涅槃・空寂に住せず」という大乗菩薩行の「無住処涅槃」の思想と同一のものである。無住処涅槃とは、迷い、生死の世界に住せず、そこを去って永遠無限絶対の実在である真如と合一した人間が、その涅槃の境地にとどまることなく、迷い、生死の世界に帰って、衆生救済（利他）のために働く、ということである。
両者の思想の同一性は、上田閑照が、一切の時間的な善と永遠な善を持っている人間について「時間を去って永遠性という方向が成就され前提された上で、しかも永遠性を離れることなしに時間のうちに帰ったようなありかた……『一』である神との永遠の一が達成された上で、そこからはじめて、第二の完全性としての時間のうちに於ける『多事』に心労し得る――それによって礙げられることなしに――のである。」（『エックハルト』P302）と述べていることによっても確認することができる。
これは、時間から永遠へと、永遠から時間へという逆方向の運動が、同一の主体の上に実践されている、ということを意味している（大乗菩薩行・無住所処涅槃の主体についても同じことがいえる）。エックハルトは、このように時間と永遠を相即させる主体を、「一人」・「真人」と呼んだ。
これは、全実在界を貫流する無限の創造的エネルギー・生命と自覚的行為によって一体化した全実在界大の本来的自己にほかならない。真人とは、全実在界の根底である神性と自己の合一を根底とし、全実在界における神性の働きと一体化した自己ということができる。
神性の宇宙論的運動と一体化したエックハルトの実在・実存体験
エックハルトの神性が、永遠・無限絶対の実在としての絶対無である、ということにはすでに言及した。その絶対無は、「三一―一なる神として自らを展開し、かくしてまた世界を内から展開した神は、再びこの神性の無へentwerdenするのである。そこに神の宇宙論的な運動が考へられている」（西谷啓治『神と絶対無』・著作集第七巻P61）のである。これは、アウグスティヌス哲学における、万物は唯一の神によって創造され唯一の神に向かうという思想、トマス・アクィナス哲学における、万物は原因としての神から出て目的としての神に帰るという思想、エリウゲナ哲学における、「創造するが創造されない自然」=究極的原因である神から「創造されて創造する自然」=プラトンのイデアに相当する「根源的諸原因」が出てきて、それを介して出てきた「創造されて創造しない自然」=時間空間の内にあるすべての被造物が「創造せず創造されもしない自然」=究極的目的としての神へ帰る、という思想を継承するものである。
神性は、一瞬一瞬、無限絶対的実在界から有限相対的実在界に発現してゆくとともに、有限相対的実在界から無限絶対的実在界に還帰してゆく――という運動を展開してゆく無限の創造的エネルギー・生命である。その運動に、人間が、永遠性を離れることなしに、いま・ここの瞬間に於ける実践によって自覚的に一体化することで、時間と永遠を相即させてゆく。こうして、全実在界を貫流する無限の創造的エネルギー・生命が、全実在界大の自己の内にみなぎることになる。
すなわち、「かの宇宙論的なディアレクティークは、神自身の自己展開として神のディアレクティークであり、然も同時にどこまでも神の内で起るのであると共に、その儘また霊のうちで起るものともいはれ得る。私が無の根底に立つ限り、かの宇宙論的な展開は、いはば私の霊を軸としてその廻りで行なはれ、私の霊の底なき根底を根底としてその上で行はれるのである。その意味では、霊が神性の『無』に入って霊『ひとり』となるという時、霊は多くの『神化』する霊の一つとして神性に包まれるといふだけではない。寧ろ宇宙全体と神とをも根底的に包む神性とその無際涯なる廣袤を等しくし、神性そのものと一つになるのである。」（西谷啓治・前掲書P70）ということである。 エックハルトの形而上学は、神性と自己の合一という実在・実存体験および神性の宇宙論的な運動と自己の一体化という実在・実存体験を知性的に反省したものとしてとらえ返すことができる。
エックハルトが「神の根底は私の根底であり、私の根底は神の根底である」というように絶対無と合一した自己は、それを根底として全実在界におけるすべての個物と自己を一体化させる。それよって、全実在界大のすべての個物が、同一の無限の創造的エネルギー・生命によって一つに結びつくのである。そこには、自己のいま・ここに於ける実践によって永遠と時間が相即する瞬間に、神性が自己のもとに達していると同時に自己が神性のもとに達していることが、即、神性が万物のもとに達していると同時に万物が神性のもとに達していることである、という事態が生起している。
感覚界から超感覚的実在界への転換という現代的課題とエックハルトの思想
無限絶対的実在界において神性と自己を同一の神的生命が貫流し両者を一つに結びつけ、三一的神と自己を同一の神的生命が貫流し両者を一つに結びつける、ということにはすでに言及した。そのとき、有限相対的実在界においては、自己とすべての被造物を同一の神的生命が貫流しそれらを一つに結びつけることになる。それは、神から貸し渡された存在を自己のものと考え、自己を中心として他の被造物を所有・獲得しようとする――我執が克服され、神から存在を貸し渡されていま・ここにある存在としての自己が、すべての被造物との一体化を実現する、ということである。
自己中心的人間が科学的知識と技術的意志にもとづく行為によって、すべての自然的個物・人間的個人・文化的個物のあいだに深刻な対立・相剋を生みだしてしまった現代において、エックハルトの思想は、それを根本的に解決し得るものとして甦ることができるのである。
エックハルトは、外部のものに向けられる感覚や通常の理性による外的認識が、知性にもとづく内的認識を覆い隠す、としていた。そのため人間が、他の被造物を所有・獲得しようとする我執が生じ、それらのものの崩壊、消失等に苦しむことになるのである。
エックハルトがこのようにとらえた事態は、現代においては、近代科学が感覚によってとらえることのできる世界のみを認識対象とし、そこに働く法則を理性によって解明した結果、感覚界の根底の超感覚的実在界を対象とする知性が覆い隠された、というかたちで現われている。全実在界の真相に無自覚な人間は、その果てしない欲求を充足させるために科学的知識とその応用としての技術的意志にもとづく行為によって他の存在者を獲得・所有しようとする。その結果、現代の人間は、自然生態環境と人間と社会文化環境のあいだに深刻な対立・相剋を生み出し、それを原因として全生活領域に生じるさまざまな問題に苦しんでいる。これは、人間が超感覚的実在界とそこにおける本来的自己と遊離し、感覚界に自己閉鎖的となった結果生じた事態である。したがって、それらの諸問題は、人間が感覚界への自己閉鎖性を克服し、超感覚的実在界へ超脱して本来的自己を実現しないかぎり根本的に解決することはできないのである。
エックハルトは、神が恩寵の光をもって知性を備えた被造物である人間の中に流れ込むことによって、外に向かって分散している人間の魂の諸力を、内に向かって集中、統一することが可能となる、としていた。それによって人間は、自分自身の内から外へ引き出され神性にまで至り、それと合一することになる。こうして人間は、宇宙論的な運動を展開する神性と無際涯な広がりを等しくする全実在界大の本来的自己として、その運動を自己の内で展開することになる。エックハルトは、現代の人間に対し、このようなかたちで本来的自己の実現へ至る途を示しているのである。
道元――仏性と人間との呼応関係による本来的自己の実現
「我執」・「煩悩」の克服を根本課題とする道元思想の現代的可能性
道元の思想について、西谷啓治は、その根本精神を新しく展開することが必要であり、何百年前のものを固定しても始まらない、と述べている（『正法眼蔵講話』三P65）。また、玉城康四郎は、科学技術の驚くべき発展のために神を受け入れる余地はもはやなくなったかのようにみえる現代にあって、道元思想が社会の力となり得るためにはいかにすべきか、またそれが社会の力となり得るとはいかなる状態を指すのか、と問うている。そして玉城は、この問題に取り組まねば、社会の中の人間は、社会の機構と科学技術のためにやがて神と同じ運命をたどるかもしれないと述べている（『仏教の根底にあるもの』P205〜207）。「神の死」につぐ「人間の死」ということであろう。
感覚によってとらえることのできる対象のみを現実とみなす近代科学は、神というような超感覚的な無限絶対の実在を否定した。「神の死」である。近代科学によって基礎づけられた近代科学技術文明は、超感覚的実在界から遊離して感覚界に自己閉鎖的となった。主体的には、感覚界における日常的自己が超感覚的実在界における本来的自己から遊離して自己閉鎖的になったということである。
感覚界に自己閉鎖する現代の人間は、超感覚的実在界に貫流・遍満する無限の創造的エネルギー・生命を自覚的行為によって制御することができない。そのため、無限の創造的エネルギー・生命は無限衝動となって感覚界に噴出してゆき、人間の科学的知識とその応用である技術的意志を駆り立てる。永遠無限絶対の実在という究極的根拠から遊離して自己中心的となった人間は、自己の欲望を充足させるために、自然から物質的エネルギーを取り出し利用しつづけてきた。その結果、自然生態環境とそこにおける自然的個物・社会文化環境そこにおける文化的個物が破壊され、人類が死滅するかもしれないという危機が生じたのである。
玉城が指摘しているように、人間は、科学技術のためにやがて神と同じ運命をたどるかもしれないということ、すなわち「人間の死」が現実味を帯びてきたのである。このような現代の状況を根本的に転換させるために、道元思想は、どのようなかたちで生きた力となりうるのか。それは道元が、感覚界に自己閉鎖的となった自己中心的な人間が超感覚的実在界へ超脱して無限絶対の実在と合一した本来的自己を実現するに至る途を示している点に求められなければならない。
感覚界は、それ自体のうちに絶対的根拠をもたない生滅無常の存在領域である。そこにおけるあらゆる存在者は、一瞬一瞬、生じては滅しており、恒常不変のものは何も存在しない。にもかかわらず、人間は、生滅無常の自己の生の常住を願い、それに執着する。それを仏法では、「我執」という。この我執のため人間は、貪（むさぼり、自己の生をむさぼること）、瞋（怒り、他者を否定し支配しようとすること）、痴（愚かさ、自己と他者が相即不離の関係にあることを知らないこと）などの「煩悩」（心身を煩わし悩ます働き）に振り回されて生きてゆくことになる。
科学的知識とその応用としての技術的意志によって生活を実現する現代の人間は、自己を主体とし自然生態環境・社会文化環境を客体として二元化して、自己を中心に据える。こうして人間は、自己の生をむさぼる（貪）ために、環境およびそこにおける諸個物を支配・征服しようとする（瞋）。それは人間が、自己と環境・諸個物が相即不離の関係にあることを知らないこと（痴）にもとづくものである。
人間が本来的に有する我執・煩悩は、近代科学技術文明において極限的なかたちをとって現われている。したがって、近代科学技術文明がもたらした危機の克服は、人間が我執・煩悩から脱却し尽くさないかぎり実現することはできないのである。ここに、我執・煩悩からの脱却を根本課題とする道元思想を、現代において新しく展開してゆく可能性が存在している。
道元における全人格的転換の体験である「身心脱落」
我執から根底的に脱却するためには、人間は感覚界から超越的実在界への根本的な転換をなしとげなければならない。それによって、自己中心的な非来的自己が否定され、全実在界を循環する無限の創造的エネルギー・生命の流れと一体化した本来的自己が実現する。
道元が、我執を離れるということは、自己の身心を投げ捨てて仏法そのものの身心となることだと述べている（『正法眼蔵随聞記』）のは、そのような事態としてとらえ返すことができる。仏法そのものの身心となるということは、我執を脱却することによって無限の創造的エネルギー・生命が全実在界大の自己に顕現し、それによって満たされる事態だということができる。道元の最大の宗教体験といわれる「身心脱落」とは、そのような全人格的転換の体験にほかならないのであり、ここに現代的なかたちで再生させるべき道元思想の核心がある。
道元の身心脱落は、有限相対の実在界と無限絶対の実在界が統合された全実在界大の規模における無限の創造的エネルギー・生命との一体化という実在・実存体験である。道元における本来的自己は、有限的自己であると同時に無限的自己として全実在界大の自己なのである。自己中心的な自己からこのような本来的自己への転換が、凡夫から覚者への転換といわれるものである。本来的自己は、無限絶対の実在の呼びかけとそれへの人間の応答によって実現する。道元における無限絶対の実在は、「仏性（仏）」とされている。
それは、瞑想（禅定）中の釈迦が、それとの合一によって我執・煩悩から完全に脱却した自己が実現したことを自覚した、永遠無限絶対の実在である「ダンマ」（法）にほかならない。釈迦が「自らを灯とし、自らを拠り所として、他のものを拠り所とせず、ダンマを灯として、ダンマを拠り所として、他のものを拠り所とせず、住せよ」と言っているのが、それである。
玉城康四郎は、ダンマを「超感覚的な力」とか「形のない命の中の命いわば純粋生命」と呼んでいる。ダンマは、超感覚的な無限絶対の実在すなわち無限の創造的エネルギー・生命ということができる。ダンマは、「絶対無」という存在性格を有している。したがって、仏性も絶対無と規定することができる。
禅仏教は、この釈迦の自覚内容を、そのまま伝えるものである。したがって、道元の場合も、仏性との合一という実在・実存体験を究極的な悟りの境地とするのである。仏性との合一を実現することによって、全実在界に遍満する仏性との一体化を実現した自己――それが、仏性の呼びかけに人間が応ずることによって実現した全実在界大の本来的自己なのである。
仏性と自覚的に合一する「只管打坐」という実践
それについて、道元は「ただ我が身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからもいれず、こころもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。」（『正法眼蔵』生死）と述べている。この「仏のかたよりおこなはれて」ということが、仏性からの呼びかけにほかならない。それは、仏性が、人間を自己のもとに導こうとするもよおしである。それに自己のすべてを放下し託すと決意することが、「信」という実践である。それが、「我が身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて」ということである。それは、「仏のかたよりおこなはれて」為す実践であるから、そこには、ほんのわずかの我執も存在しない。信とは、我執を否定する実践である。
この自己の放下と全託という信が現成すると同時に、仏性と自覚的に合一する実践が生起する。これが、道元の「只管打坐」（ひたすら坐禅すること）にほかならない。
只管打坐とは、単なる身体的な運動として坐るということではない。それは、仏性すなわち無限の創造的エネルギー・生命の働きと自己を一体化させる自覚的な実践なのである（井筒俊彦は、日常的自然的態度を中止し、自分自身の内面の深層をどこまでも追求することによって、存在の深層を底の底まで究明しようとする――東洋哲学の主要な学派の方法、実践道の一つとして、禅仏教の坐禅を挙げている。井筒によれば、それは、人間実存の根源的変貌、表層的自我から深層的自己への転換、人間を根底からつくり変えることを目的とするものある（『意味の深みへ』P27〜29）。それによって、全実在界を循環する無限の創造的エネルギー・生命が、全実在界大の自己の内を満たすことになる。それが、身心脱落という実在・実存体験による本来的自己の実現なのである。
本来的自己とは、人間の本然的在り方である。しかし、人間は我執のゆえに、それから逸脱して生きている。そのため、仏性との合一を実現するには、我執を脱却する実践（修行）が必要となる。道元が「この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし」（『正法間眼蔵』弁道話）と述べているのは、そのことである。実践（修）によって、仏性との合一（証、悟り）が実現するのである。
修行とは、通常、我執の否定による実在・実存体験を次第に深めてゆき、最後に仏性と自己の合一という境地に達する過程とされている。道元もまた、数年にわたる修行の過程を経た後に悟りの境地に到達したのである。しかし、道元の場合、修行は、単に悟りという目的に至るための手段にとどまるものではなく、悟りに至れば終わるというものではない。道元の場合は、仏性と自己の合一、仏性即自己・自己即仏性を実現したうえで、それを根底として実践を続けてゆくのである。
道元は、そのことについて「それ、修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆえに、初心の弁道すなはち本証の全体なり、かかるがゆえに、修行の用心をさづぐるにも、修のほかに証をまつおもひなかれとをしふ、直指の本証なるがゆえなるべし。すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし。」（『正法眼蔵』弁道話）と述べている。修証一等、証上の修とは、悟って坐っている（実践している）ということにほかならない。
仏性の自己限定によって有（存在）と時（時間）が生起する
それは、仏性と自己の合一を根底として、全実在界に遍満する仏性の働きと自己を自覚的に一体化させる実践である。その実践によって、全実在界大の本来的自己が実現するのである。その事態をより具体的に解明するために、自己が只管打坐という実践によってそれと一体化する全実在界における仏性の働きが、どのようなものであるかを見てゆくことにする。
仏性は絶対無であるが、すべてのものにおいて自己顕現する。存在（有）も時間（時）も、仏性が自己を限定したものである。存在は、現在の瞬間において生じ、次の瞬間において滅してゆく。そして、存在が生滅することが、時間が一瞬一瞬に生滅してゆくことにほかならない。道元が「有はみな時なり」（『正法眼蔵』弁道話）と言っているのは、そのようなことである。存在が生滅する一瞬一瞬は、前後際断し、それぞれ独立無伴である。そして、生の瞬間にも滅の瞬間にも、仏性が全現成している。
こうして、過去、現在、未来が相即相入する瞬間が生じると同時に、すべての個物が相即相入する存在空間が生じ、次の瞬間には滅してゆく。そのような生滅が、非連続の連続的に統一されてゆくのである。超時間・空間的な仏性が時間・空間として自己限定し、存在（有）と時間（時）を相即相入させるのである。
絶対無としての仏性が、一瞬一瞬、自己顕現してゆくとともに自己還帰してゆく。それが、存在（有）と時間（時）が生滅してゆくということである。それは、すべての存在者が一瞬一瞬、仏性の現成として生起するとともに、仏性のもとに引き戻される、ということでもある。それによって、超時間・空間的な無限絶対の実在界と時間・空間的な有限相対の実在界が、一瞬一瞬、相即的に統一されてゆく。
時間・空間的な広がりのあらゆるところを実践の場とする本来的自己
こうして、絶対無としての仏性が、一瞬一瞬、有限相対的実在界に顕現してゆくとともに、自己のもとに還帰してゆく。それによって、相即相入した存在（有）と時間（時）が、前後際断して一瞬一瞬、非連続の連続的に統一されてゆく。道元の有時経歴（うじきょうりゃく。時が有として、有が時として現成する一瞬一瞬が、前後際断して相続、継起してゆくこと）は、そのようなかたちでとらえ返すことができる。
有時経歴においては、一瞬一瞬が前後際断しているのであるから、生の瞬間は絶対生、滅の瞬間は絶対滅である。そこには、生にに対する滅もなければ、滅に対する生もなく、一瞬一瞬が永遠の今として不生不滅である。仏性は、その永遠性を有時の不生不滅のうちに映し出す、ということである。
こうして、有限相対の実在界が不断に新しくされてゆくが、有時経歴は有限相対の実在界と無限絶対の実在界の相即的統一点に成立のするのであるから、そのことは同時に、全実在界が不断に新しくされてゆくということである（動）。しかし、仏性の永遠そのものから見れば、仏性の全実在界への顕現と還帰は一挙同時の出来事である（静）。有限相対の実在界と無限絶対の実在界を包越する真の無限絶対としての全実在界は、絶対の静にとどまると同時に、一瞬一瞬、自己を新しくしてゆく。仏性は、絶対静 即 絶対動 として働くのである。
自己は、この仏性の働きに全託する（信）と同時に、それと自覚的に一体化する（行）ことによって、本来的自己を実現することができる。それが、信にもとづく行（実践）としての只管打坐であり、修証一等であり、証上の修である。それによって自己は、身心脱落を得るのである。
仏性は、生の瞬間にも滅の瞬間にも自己を全体的に現成させることによって、一瞬一瞬が前後際断して非連続の連続的に継起してゆき（有時経歴）、有限相対の実在界と無限絶対の実在界が相即的に統一されてゆく。自己は、有時経歴すなわち絶対生と絶対滅の瞬間の非連続の連続的継起に、只管打坐という実践によって、その生と死の継起を自覚的に一体化させるのである。
こうして、生の瞬間も死の瞬間も、仏性の全現成となる（絶対生と絶対死の前後際断的継起としての不生不滅）。そのことは、自己が、仏性が顕現した存在となる、ということを意味している。すなわち、いま・ここにおける坐禅という実践によって、生死を超脱し、我執を完全に克服した身心脱落の自己となる、ということである。それは、人間が、生滅無常の自己の生を根本的に転換させるということを意味している。
そのとき、いま・ここを原点とする時間・空間的な広がりが成立し、自己は、そこにおける個物との一体化を実現する。それによって自己は、すべての個物の相即相入的調和を実現する。そこにおいては、すべての個物はことごとく仏性の自己顕現した存在となる。草木瓦石に仏性を見るとか、草木国土悉成仏ということは、そのようなことである。それが同時に、有限相対的な本来的自己の実現にほかならない。「十方世界是れ全身」とは、そのような自己のことである。いま・ここを原点とする時間・空間的な広がりのあらゆるところが、すべての個物の相即相入的調和を実現すべき自己の自覚的実践の場となるのである。
前後際断した絶対生と絶対滅を非連続の連続的に継起させてゆく自己
時間・空間的な実在界における有限相対的な本来的自己は、同時に、時間・空間として全現成する以前の無限絶対の実在である仏性と合一した無限絶対的な本来的自己である。自己は、いま・ここに於ける打坐という実践によって、有時を経歴させてゆくことによって、有限相対的な実在界とそこにおける本来的自己と、無限絶対の実在界とそこに於ける本来的自己を、相即的に統一してゆく。それは、有限相対の実在界に自己顕現してゆくとともに、そこから再び自己還帰してゆく仏性の働きに、自己を放下して全託する自覚的行為によって一体化する、ということにほかならない。それによって、人間が前後際断した現在において只管打坐する瞬間に、同時に仏性に到達しているという事態が生起する。
それによって、仏性の全実在界における働きと一体化した全実在界大の本来的自己が、一瞬一瞬、実現してゆく。無限絶対の実在である仏性が、絶対静 即 絶対動として働くことによって有限相対と無限絶対を包越する真の無限絶対としての全実在界が成立する。全実在界大の本来的自己は、その仏性の働きと一体化した存在として、永遠そのものにとどまりつつ全実在界において有限相対と無限絶対の相即的統一を実現してゆくのである。道元が「打坐して身心脱落することをえよ。もし人、一時なりというとも三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界ことごとく悟りとなる。」（『正法眼蔵』弁道話）と述べているのは、そのようなこととしでとらえ返すことができる。
自己は、有限相対的な実在界を超越して、全実在界の根底において仏性との合一を実現する。これが、証すなわち悟りの境地、三昧である。しかし、同時に自己は、無限の過去と未来が同時存在的な現在のいま・ここの瞬間における打坐という実践によって、すべての個物の相即相入を一瞬一瞬、実現してゆく。それによって、時間・空間的広がりにおけるすべての個物は、それぞれが仏性の顕現として相互に調和する。道元が「わづか一人一時の坐禅なりといへども、諸法とあひ冥し、諸時とまどかに通ずるがゆえに、無尽法界のなかに、去来現に、常恒の仏化道事をなすなり、彼々とともに一等の同修なり、同証なり。」（『正法眼蔵』弁道話）と述べているのが、それである。
自己は、前後際断した生の瞬間、死の瞬間に、全現成する仏性の働きと自覚的行為によって一体化する。それによって、前後際断した生の瞬間は絶対生として、そこに生は存在せず、死の瞬間は絶対死として、そこに死は存在しない。すべての瞬間は、仏性の永遠の影を宿す永遠の今として不生不滅である。自己は、実践によって前後際断した絶対生と絶対死を非連続の連続的に継起させてゆくことによって不生不滅を実現してゆき、すべての個物と一体化した自己を非連続の連続的に継起させてゆく。それが、生死を超脱するということにほかならない。
これは、秋山範二が次のように述べていることを、全実在界の存立構造という枠組みにおいてとらえ返したものである。「要は生死共に仏性の全現成にして現成の当下に於いて一切存在の絶対不可疑性をいふにあった。言ひかへれば生死の住法位性（存在論的位置――根井注）を明らかにするにあったのである。生死は住法位にして前後際断している。生の瞬間に於てはたゞ法の絶対起あるのみ、死の瞬間には法の絶対滅あるのみ、滅に対した生でもなく、生に対した滅でもない。……生が死に対する時初めて生と云い得るが前後際断してたゞ生のみの世界には生といふも存在しない。全死の世界には又死は存在しない。生の法位に住する生はそれ故に不生の生であり、死の法位に住する死はそれ故に不滅の滅である。……絶対生、絶対滅の世界には故に生もなく、死もなしといひうる。不生不滅の世界である。」（『道元の研究』P154〜155）。
自然的個物・人間的個人・文化的個物の調和という課題と道元思想
こうして、自己を放下し仏性に全託する信という実践と、仏性と自覚的に自己を一体化させる只管打坐という行（実践）によって、我執を克服し尽くした（身心脱落）全実在界大の本来的自己は、仏性と一体化した悟りの境地（三昧）を楽しみ、不生不滅の瞬間（而今）を楽しみ、万物との一体感を喜ぶことができる。道元の「自受用三昧」、「海印三昧」、すなわち 「一方では、どこまでも自己を超脱し、世界を超脱していく。同時に他方では、その超脱し切っていく三昧のなかにかえって森羅万象が実現する。むしろ超脱すればこそ。万象が顕わになる。……この二つは、車の両輪のごとくでありながら実は一つである。その一つの所が自受用三昧といい、その三昧のなかに万法が具現しているのである。」（玉城康四郎『仏教の根底にあるもの』P164）という境地は、このような全体的な連関構造においてとらえ返すことができる。
自受用三昧、海印三昧とは、自己が仏性の絶対静即絶対動の働きに一体化した境地である。自受用三昧、海印三昧の境地に入った自己は、仏性と自己の合一を根底として、全実在界に遍満する仏性全体の働きと一体化することによって、自己のうちをその働きで満たされる。そのことは同時に、それぞれのうちを仏性全体の働きで満たされた万物と自己を一体化させることである。自己のその行為によって、万物は、全実在界を貫流する無限の創造的エネルギー・生命によって一つに結びつけられる。
道元思想の全体を体系的観点から再構成することによって、全実在界とそこに於ける本来的自己の存立構造は、このようなものとしてとらえることができる。そして、それこそが、近代科学技術文明が還帰すべきところのものなのである。
全実在界と本来的自己から遊離した近代科学技術文明と日常的自己は、感覚界に自己閉鎖的となった。そのため、日常的自己は、我執的（自己中心的、人間中心的）自己となり、自然を支配・征服していった。その結果、自然生態環境と人間と社会文化環境のあいだ、自然的個物と人間的個人と文化的個物のあいだに深刻な対立・相剋を生じさせてしまったのである。それに対し、生態学的知識とその応用としての技術的意志によって、この対立・相剋を克服し、調和を実現しようとして真剣な取組みがなされている。
そのことは、絶対に必要不可欠な措置である。しかし、それだけにとどまれば、近代科学技術文明のもたらした危機を根底的克服することはできない。なぜなら、生態学の対象としての自然生態環境・人間・社会文化環境は、あくまでも人間の感覚によって捉えることのできる対象であり、三者のあいだを貫流するのは物質・エネルギーだからである。三者は、あくまでも感覚界の枠内で捉えられているのである。
我執を克服し、三者の調和を実現するためには、三者を、その内面においてとらえることが必要となる。すなわち、三者を、無限の創造的エネルギー・生命が貫流する相においてとらえるのである。ここに、道元思想が、近代科学技術文明を根本的に転換させ得るものとして現代的に再生させられるべき根拠がある。なぜなら、道元思想は、自己が我執を克服して仏性の顕現となるとき、万物は、それぞれが仏性の顕現として、相互の調和を実現することを明らかにしているからである。
草木河瓦石に仏性を見るとか、草木国土悉皆成仏とかいう思想が、それである。自己が、仏性すなわち無限の創造的エネルギー・生命を体現するものとなるとき、すべての自然的個物・文化的個物も、また無限の創造的エネルギー・生命を体現するものとなる。「十方世界是れ全身」といわれるように、時間・空間的な広がりのあらゆるところが有限相対的自己の実践の場となる。実践によって自己が、我執的自己から仏性の顕現としての自己になるとき、その実践によって同時に、自然的個物・文化的個物もまた仏性の顕現としての個物となる。それらの個物は、自己と同様、本然的に仏性の顕現であるのだが、自己の我執がその実現を妨げていたのである。「生存の舞台たる国土草木は、畢竟 衆生果報の伴随であって、衆生迷えば、国土もこれに感応して、擾乱を来たすとともに、主人公成仏すれば、その舞台たる国土は仏土となる。」（姉崎正治『法華経の行者日蓮』P263〜264）ということにほかならない。
自己が我執的自己であったために、自然的個物・人間的個人・文化的個物のあいだに擾乱すなわち対立・相剋が生じ、仏性の顕現としての自己となったことにより、すべての個物は仏性の顕現としての個物となり、相互に調和する。有限相対的実在界は、仏性すなわち無限の創造的エネルギー・生命が遍満する世界となるのである。自己の成仏 即 山川草木国土の成仏 という思想は、以上のようなかたちでとらえ返すことによって現代的に活かすことが可能となる。
このように、有限相対的実在界の外面から内面に至るため、外の感覚界に向かう日常的志向を自己の内面に向かう志向に転換するとともに、さらに、その志向を有限相対的実在界から無限絶対の実在界の根底の無限絶対の実在にまで深めてゆき、それとの合一を実現しなければならない。この合一を基盤として全実在界大の本来的自己が実現する。
それによって、全実在界の真実相を解明した知としての形而上学を形成し、それに有限相対的実在界の外面（感覚界）の自然生態環境・人間・社会文化環境に関する自然科学・人間科学・社会科学を統合することが可能となる。それによって、人間が自然生態環境・人間・社会文化環境を貫流する物質・エネルギーを制御する能力のみならず、全実在界を貫流する無限の創造的エネルギー・生命を制御する能力を獲得することが可能となる。道元思想の全体を以上のようなかたちで再構成することによって、その根本精神を新しく展開し、社会の力とすることができる。
親鸞――無上仏と人間との呼応関係による本来的自己の実現
親鸞における永遠無限絶対の実在としての真如・無上仏
煩悩具足の我執的自己が、仏性からの呼びかけに応じて自己を放下し、全実在界に遍満する仏性の働きに全託し、自覚的行為によってそれと一体化することによって本来的自己を実現する――という道元思想が、自然生態環境と人間と社会文化環境のあいだの深刻な対立・相剋の克服という現代的課題の解決に、どのようなかたちで本質的な寄与を為しうるかということを考察してきた。親鸞思想も、また、そのような寄与を為しうるものとして現代的なかたちで再生することができる。
だが、道元思想も、親鸞思想も、感覚界の枠内で人間がエゴイズムを捨て欲望を抑えることで自然を守るべきだとする通常の自然保護の考え方に切り縮められてはならないことを確認しておかなければならない。道元、親鸞の思想は、感覚界に於ける自己が、超感覚的実在界に全人格的な転換をなしとげることによって、すべての個物との一体化を実現する――というその核心において現代に生かされなければならない。
親鸞は「仏性すなわち如来なり、この如来、微塵世界にみちてまします。すなはち一切群生海の心にみちたまへるなり、草木国土ことごとくみな成仏すととけり。」（『唯信鈔文意』）と述べている。ここには、道元のところで言及した、草木瓦石に仏性を見る、あるいは草木国土悉皆成仏と同一の思想が表現されている。すなわち、自己は、仏性と一体化することによって我執を克服し、有限相対的実在界におけるすべての個物と一体化する、ということである。このとき、自己を含むすべての個物が、それぞれ仏性の顕現として相互に調和に達する。
仏性が絶対無であるということを、道元思想について確認しておいた。親鸞は、それを、法身、真如、一如、無上仏、自然などの用語で表現している。要するに、それは、無限絶対の実在であり、永遠の生命（無量寿）のことである。ここでは、真如という永遠無限絶対の実在を人格的に表現したものが、無上仏であるということを確認しておく。
井筒俊彦は「『真如』は、……第一義的には、無限宇宙に充溢する存在エネルギー、存在発現力の、無分割・不可分の全一態であって、本源的には絶対の『無』であり『空』（非顕現）である。しかし、また逆に『真如』以外には、世に一物も存在しない。『真如』は、およそ存在する事々物々、一切の事物の本体であって、乱動し流動して瞬時も止まぬ経験的存在者の全てがそのまま現象顕現する次元での『真如』でもあるのである。」（『意識の形而上学』P15）と述べている。
親鸞は、真如・無上仏を自然（じねん）とも呼んでいる。星野元豊は、自然は「絶対無」であるとしたうえで、「それは一切のものの成立の根底にあって、それらを成立せしめている成立の根本原理である。根本原理にといえば静的なものに感ぜられるが、この根本原理は一切のものを成立せしめ、生かしめている生命の根本原理として、絶対静的なものでありながら常に動いてやまない絶対動的な原理である。古人は、これを『無為自然』と呼んでいる。自らなすことなくして無限におのずから働く自然である。」（『現代に立つ親鸞』P146）と述べている。これは、井筒の真如のとらえ方とまったく同一ということができる。
それは、現代的に表現するならば、全実在界の究極的根拠・原理としての永遠無限絶対の実在であり、全実在界に遍満する無限の創造的エネルギー・生命ということができる。有限相対的実在界のすべての自然的個物・人間的個人・文化的個物の内には、この同一の無限の創造的エネルギー・生命が充ち満ちている。先に引いた「如来微塵世界にみちてまします」とか「草木国土ことごとく成仏す」という親鸞の言葉は、このようなかたちでとらえ返すことができる。
真如・無上仏との合一としての親鸞の実在・実存体験
このような思想は、親鸞が実在界を主観に客観として対置し、それを外から観察することによって形成したものではない。親鸞は、自ら真如・無上仏との合一という実在・実存体験をすることによって、この思想を形成したのである。
道元の身心脱落が、感覚界から超感覚的実在界への全人格的転換によって、我執的自己が否定され全実在界を貫流する無限の創造的エネルギー・生命との一体化を実現した宗教体験である、ということにはすでに言及した。親鸞も、道元の最大の宗教体験といわれる身心脱落と同一の宗教体験をしたのである。通俗的に理解された禅と念仏、自力と他力という構図にとらわれることなく、このことをしっかり押さえておかなければならない。
もちろん、同一の実在・実存体験にもとづくとはいえ、両者の思想的表現は、それぞれ禅、念仏の文脈において為されていることによって異なっている。道元、親鸞のみならず、過去の東洋と西洋の偉大な宗教者、哲学者は、同一の、実在との一体化という体験を自らしたのである。表現はそれぞれ異なっているとはいえ、この点では何ら異なるところはない。
全実在界に遍満する無限の創造的エネルギー・生命との一体化をなしとげた思想家たちは、永遠の実在と自己の合一という究極的基盤から全実在界の真実相をとらえた。それは、永遠の相の下に見られた永遠の真理である。それによって、それらの宗教者、哲学者たちの思想は、時代を超えて生きつづけ、現代に甦ることができるのである。
親鸞の思想もまた、永遠の真理としてその核心を継承し、再生させることができる。道元のところで、無限絶対の実在である仏性は、絶対静 即 絶対動として働く、ということに言及した。全実在界大の本来的自己とは、この仏性の絶対静 即 絶対動の働きと一体化した存在である。道元においては、これが「海印三昧」、「自受用三昧」という境地であった。永遠の相の下に見られた全実在界の真実相とは、この境地において体得されたものである。
親鸞もまた、これと同一の境地に到達していたことは間違いない。道元の仏性に相当する親鸞の真如・自然・無上仏が、「一切のものを成立せしめ生かしめる生命の根本原理として、絶対静的なものでありながら常に動いて止まない絶対動的な原理である」（星野・前掲書）ということにはすでに言及した。親鸞の実在・実存体験は、この真如・無上仏の絶対静 即 絶対動的な働きとの一体化の体験なのである。それによって、親鸞は、全実在界の真実相を把握するとともに、それを自己の内に体現したのである。
無明・煩悩具足の凡夫の現代的形態としての無限衝動に駆り立てられる人間
親鸞も、道元と同じように仏の呼びかけに応じて、自己放下して全実在界に於ける仏の働きに全託し、自覚的行為によってそれと一体化することで、我執を完全に克服した本来的自己を実現した。それが、親鸞における全人格的転換の体験である。だが、それは、単に親鸞一人の体験ではない。すべての人間が、それを体験することが可能なのである。本来的自己とは、人間が努力することによってそこに到達すべき目標・理想ではなく、すべての人間の本然的在り方なのである。
しかし、日常的自己は、我執のゆえに、それから逸脱して生きている。その自己に対して、仏が本然の在り方に戻るよう促すのである。すべての人間が、それに応ずることによって実現することができるもの――それが本来的自己なのである。
すでに言及したように、真如・無上仏すなわち絶対無としての無限絶対の実在は、すべての存在者の根底にあってそれらを成立せしめている根本原理である。人間を含めてすべての有限相対的存在者は、真如・無上仏によって在らしめられて在るのである。しかし、感覚によってとらえることのできる対象を唯一の現実とみなす日常的自己は、感覚界を絶対に超越する実在である真如・無上仏を見ることができない。これが、真如・無上仏についての根本的無知すなわち無明にほかならない。
この無明のために日常的自己は、自身が真如・無上仏によって在らしめられて在るということを自覚することができず、自らの力によって存在しているかのように錯覚する。そこに、我執が生じる。このため、日常的自己は、自己とすべての他の存在者が真如・無上仏によって在らしめられて在るものとして相即不離の関係にあること知らず（痴＝愚かさ）、他者を支配・征服する（瞋＝怒り）ことによって、自己の生を貪る（貪＝むさぼり）ことになる。これらは、すべて我執の姿にほかならない。このような自己が、「煩悩具足の凡夫」（身心を悩ますあらゆる働きをそなえた人間）である。貪瞋痴をはじめとするあらゆる煩悩の根源は、無明すなわち真如・無上仏に関する根本的無知（人間と自然生態環境・社会文化環境が相即不離の関係にあることに関する無知は、この根本的無知からの派生形態ということができる）である。
超越的実在界に関する根本的無知のゆえに、そこから噴出する無限衝動に駆り立てられて、自然生態環境を支配・征服することで形成したさまざまな生産物で社会文化環境を豊富化するとともに、それを獲得することで際限のない欲求を追求してゆく現代人の姿こそ、煩悩具足の凡夫にほかならない。現代人は、そのような生に伴って生じるさまざまな問題に苦しみ、遂には人類の死滅の危機に直面するに至った。現代人は、それを克服しようとしながら、なお煩悩具足の生き方から脱却しえていない。それが、科学的知性と技術的意志を誇った近現代人の行き着いた姿なのである。
仏と人間の「仲保者」としての浄土・阿弥陀仏
煩悩具足の凡夫が、凡夫としての生活を無自覚なままに続けている限り、自己の真如・無上仏についての根本的無知に気づくことはできない。なぜなら、煩悩具足の自己とは、真如・無上仏によって在らしめられて在るものであるにもかかわらず、我執によって真如・無上仏から面を背けている存在だからである。
自己は、真如・無上仏に向かい、それに面することによって、はじめて、その根本的無知に気づくことができる。しかし、我執的自己は、自力でそれを為すことはできない。なぜなら、真如・無上仏によって在らしめられて在る自己自体は、本来それに帰属するものは何もない無であり、全く無力だからである。したがって、我執的自己が真如・無上仏に向かうことは、真如・無上仏の働きかけによってはじめて可能となるのである。
そのことは、真如・無上仏に向かうにはまったく無力な人間のために、真如・無上仏の方から人間の方へ降り来るというかたちで為される。それについて星野元豊は、「浄土は仏に背面している人間を逆転して仏へ向かしめ、畢竟仏たらしめるために建立されているものであった。浄土はこの意味において仏と人間との間の仲保者であり、仏に背反している人間を仏に結びつける役割を担ったものということができよう。」（『浄土』P19）と述べている。
真如の人格的表現が、法性法身としての無上仏であるのに対して、浄土として現われたかぎりでの真如の人格的表現が、方便法身としての阿弥陀仏である。真如・無上仏は、無限絶対の実在・無限の創造的エネルギー・生命として絶対無という存在性格を有している。絶対無そのものは、絶対に対象化することのできない実在である。その絶対無としての真如・無上仏が自己を自己のうちに対象的に投射したものが、浄土・阿弥陀仏である。
絶対無としての真如・無上仏は、自己を浄土・阿弥陀仏として投射することによって、人間の対象となるのである。親鸞が、『唯信鈔文意』で「しかれば仏について二種の法身まします。ひとつには法性法身とまふす。ふたつには方便法身とまふす。法性法身とまふすは、いろもなし、かたちもましまさず、しかればこころもおよばず、ことばもたえたり、この一如よりかたちをあらはして方便法身とまうす。」と述べていることは、そのようなかたちでとらえかえすことができる。
星野元豊は、真如・無上仏を絶対静的なものでありながら、無限に動いてやまない絶対動的原理と規定していた。それに対して、阿弥陀仏を「決して静的な人格ではなくして常に働いている最も動的な活動そのもの」・「作用実体」（『浄土』P142）と規定している。それは、活動態すなわち無限の創造的エネルギー・生命の人格的表現なのである。星野は、無上仏すなわち形のない「法性法身は方便法身によることなくしては顕われることができない。法性法身は具体的には方便法身としてのみ働くのである。」（前掲書P31）と述べている。
人間を無上仏に向かわせる阿弥陀仏の働きかけ
親鸞は、『自然法爾章』で「ちかひのやうは無上仏にならしめんとちかひたまへるなり、無上仏とまふすはかたちもなくまします。かたちもましまさぬゆへに自然とはまふすなり。かたちましますとしめすときは、無上涅槃とはまふさず、かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならひてさふらふ。弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり。」と述べている。
無上仏は形のないものであるから、見ることもできず、人の心で思うことも語ることもできない（こころもおよばずことばもたえたり）ものである。その無上仏を人間に知らしめるための手段（れう）として出現したものが、阿弥陀仏なのである（阿弥陀仏は、エックハルトにおける像も形態もない神性が、被造物に対して現われた像と形態をもった神に対応させることができる）。その阿弥陀仏が、無上仏に背面する人間に呼びかける究極目的は、人間を無上仏にならしめることである。具体的には、背面する人間を、無上仏と合一させることである。無上仏は一切のものを成立せしめる根本原理であるから、人間はそれと合一することによって、我執を完全に克服した全実在界大の本来的自己を実現することができる。
無上仏に背面する煩悩具足の凡夫は、自力でその背面を転換し、無上仏に向かい、そこに至ることはできない。その背面的自己に呼びかけ、その姿勢を転換させて無上仏へ向かわせ、そこ至らしめる働きをするのが、阿弥陀仏である。浄土・阿弥陀仏が、人間を無上仏と結びつける仲保者としての働きをするということは、そのようなことである。
煩悩具足の凡夫でありながら、そのことに無自覚なまま生きていた人間に、深刻な苦しみや悩みが生じ、それから脱却したいという切実な思いが生じるとき、そこには、無上仏に向かわせ、それに至らせようとする阿弥陀仏の働きかけが存在しているのである。それによって人間は、無上仏への背面を転換せしめられ、浄土に面することになる。それは、人間が自己の存在の根底、脚下に面することである。
そのとき人間は、自己の生が、一瞬一瞬、生じ滅していること、すなわち死に面していることを自覚する。すなわち、人間が、自己の存在の根底が無・永遠の死であることを自覚するのである。そのことは、無上仏によって在らしめられて在る人間が、仲保者としての浄土に面することによって、自己に本来的に帰属するものは何もないということ、すなわち、まったくの無であるということに気づかされる、ということである。
人間が、虚無の深淵・永遠の死の前に独り立たされる。まさに「人世間愛欲之中に独り生じ、独り死し、ひとり去り、独り来る。まさに行いて苦楽の地に至りおもむくべし。自ら之にあたるに代わる者あることなし。」（『無量寿経』）である。もし、一瞬の死に一瞬の生が続かなければ「一息つかざれば千載にながく往く」（存覚『歎徳文』）のであり、そこには永遠の死があるのみである。
無上仏・阿弥陀仏との合一と無明・我執・生死・煩悩からの脱却
この事実に直面したとき人間は、自己の生が生滅無常のものであることを知り（無常観）、にもかかわらず自己の生の常住を追い求め（我執）、自他不二の理を知らず（痴）、他者を支配し（瞋）、自己の生をむさぼる（貪）などの煩悩にとらわれていたことに気づかされる（罪悪感）ことになる。人間が浄土に直面することで、生死・煩悩的自己の自覚に達したということは、それだけ無明が克服されたということ意味している。人間は、それによってはじめて生死・煩悩超脱の切実な要求を持つに至るのである。それは、人間が、生死・煩悩の超脱の場所として浄土を求めることである。
『歎異抄』の「悪人なをもて往生をとぐ、いはんや善人をや。」という悪人とは、道徳的価値判断にもとづく善人に対する悪人ではない。それは、自己を煩悩具足の凡夫として自覚し、罪悪感を有する人間のことである。阿弥陀仏の本願は、そのような悪人を救うことを目的とするものであるというのが、親鸞の悪人正機（しょうき）説である。
そのことは、阿弥陀仏によって、浄土を求めるように呼びかけられることにほかならない。この呼び声に応ずることによって、凡夫は生死を超脱して方便法身に帰入し、それと合一する。すなわち「涅槃を得ということは、地上生活の約束を離れて、永遠なる真実に帰入することである。それは弥陀と同体となることである。弥陀となることである。」（金子大栄『教行信證の研究』P94）ということである。阿弥陀仏の呼びかけの究極目的は、人間を無上仏にならしめることであるから、この合一を実現した自己は、さらにその次元を超越し、法性法身に帰入して、それと合一する。これが、人間が、阿弥陀仏を介して無上仏にまで往く、ということにほかならない。
真如・無上仏と合一した自己は、それを根底として、全実在界に於ける真如・無上仏の働きとの一体化を実現する。その時、無・死に直面していた一瞬一瞬は、真如・無上仏よって在らしめられて在る自己を実現してゆく一瞬一瞬になる。自己が一瞬一瞬、面していた永遠の死は、自己の存在の究極的根拠としての永遠の生命に転じる。こうして、全実在界の真実相を捕捉した智と、それを体現した本来的自己が実現する。それが、全実在界大の規模に於いて無明・我執・生死・煩悩から脱却する、ということにほかならない。
永遠・無限絶対の実在である絶対無は、無限の創造的エネルギー・生命である。それは、無限絶対的実在界から有限相対的実在界に発現してゆくとともに、そこから無限絶対的の実在界へと還帰してゆく。こうして、無限の創造的エネルギー・生命が全実在界を貫流することになる。
しかし、日常的自己は、この全実在界の真実相についての根本的無知のゆえに、それに背反して感覚界に自己閉鎖的となる。それが、自己中心的自己である。だが、自己中心的自己といえども、絶対無の現象形態以外の何ものでもありえない。ただ、それは、絶対無に対して背面的に対立しているのである。したがって、それに対しては、絶対無が自己のもとに引き戻そうとする力が常に働いている。すなわち、仲保者としての実在の救済力が自己の脚下に来ているのである。
この働きかけによって感覚界への自己内閉鎖性を破られた有限的自己は、その根底の無に面させられる。それによって自己は、その自己中心性を自覚する。その自己が、絶対無がそのもとに引き戻そうとする働きに応じ、それに任せ切ることによって、無限絶対的実在の実在界に至り仲保者としての実在と合一し、絶対無と合一する。それによって、自己中心性から完全に脱却した全実在界大の本来的自己が実現する。これまで考察してきた親鸞思想を、真如・法性法身・無上仏・浄土・方便法身・阿弥陀仏・阿弥陀仏の呼び声・浄土往生などの用語を使わずに表現すれば、以上のようになる。
親鸞の回心の体験としての「三願転入」
では、阿弥陀仏の働きかけによって自己を生死・煩悩具足の凡夫として自覚させられた人間は、具体的にはどのような過程をたどって、生死・煩悩を超脱し浄土に往生することができるのか。その過程を示したものが、親鸞のいわゆる「三願転入」である。
三願とは、仏が立てた四十八の願のうちの第十九願、第二十願、第十八願のことである。いずれも十方衆生の浄土往生を願ったものである。三願転入とは、第十九願から第二十願に至り、最後に第十八願に至ることで、阿弥陀仏の救いの世界に入った親鸞自身の回心の体験を示したものである。だが、この回心の過程は、親鸞の個人的体験にとどまるものではなく、すべての人間が生死・煩悩を超脱するためにたどらなければならない過程なのである。そのような観点から三願転入の要点をまとめてみよう。
第十九願において、自己は、自分の力で善根すなわち果報をもたらす善い行ないをし、功徳すなわち善を積んで得られた徳によって浄土に往生しようとする。しかし、そのように自分の力に頼ろうとすることは、我執以外の何ものでもない。それによって往生することは、不可能である。そのため、自己は第二十願へ至ることになる。第二十願における自己は、自己を放下し、一切を阿弥陀仏にまかそうとする。しかし、自己を放下しようと努めることの底には、なお我執が存在している。第二十願によっても浄土往生が不可能であることを悟った自己は、第十八願へ至る。
第十八願において自己は、一切を阿弥陀仏にまかそうと努めるその我執そのものを投げ出す。そこには、自力の働く余地はまったく残されていない。我執が、絶対他なる力によって否定されたからである。そこに働いているのは、弥陀の本願力のみである。そこでは、自力から他力への、我執的自己から在あらしられて在る自己への根本的な転換が成し遂げられた。この転換の瞬間を、親鸞は「信楽開発の時剋の極促」（しんぎょうかいはつのじこくのごくそく）と表現した。それは、他力の信心が開ける（信楽開発）初めての瞬間（時剋の極促）である。
それは、一切を放下し阿弥陀仏に全託した自己が、一切衆生を救済しようとする阿弥陀仏の本願力に摂取された瞬間である。いま・ここの瞬間に、弥陀の本願力よって在らしめて在るものとしての自己が実現したのである。それが「信心獲得」ということである。
その瞬間に生起する念仏という行（実践）によって、自己は仏と一体化する。こうして、他力による救済、すなわち我執の根底的な克服、生死・煩悩の完全な超脱が実現する。南無阿弥陀仏と口称する念仏は、道元の只管打坐に相当する実践である。南無とは、阿弥陀仏に帰命（帰依）することである。親鸞は「しかれば『南無』の言は帰命なり。……ここをもて、『帰命』とは本願招喚の勅命なり。『発願廻向』といふは、如来すでに発願して、衆生の行を廻施したまふの心なり。『即是其行』といふは、すなはち選択本願なり。」（『教行信証』行巻二十五丁）と述べている。
称名とは、人間が仏を呼び求める声ではない。それは、仏が人間を浄土に喚び招く声である。この阿弥陀仏から振り向けられた招喚の働きに、人間の帰命の働きが応ずるのである。ここには、阿弥陀仏と人間との呼応関係が成立している。
親鸞の信体験と現代人の全人格的転換
阿弥陀仏の働きかけの究極目的は、人間を無上仏へ至らせ、それと合一させることにある。それによって、人間は、全実在界に遍満する無上仏の働きと一体化する。発願廻向という弥陀から人間への働きと、帰命という人間から弥陀への働きは、一体的なものとして働く。自己を放下して弥陀に全託する信という実践および、それにもとづく弥陀と合一する念仏という実践の瞬間に、無上仏の働きが弥陀の働きを介して人間のもとに達していると同時に、人間の働きが弥陀の働きを介して無上仏のもとに達しているのである。
そのことに関して、上田義文は「信心の決定は、本願海に帰入して、願心と一味となることだから、凡夫の生死流転する煩悩の心が無量寿（永遠の生命）の願心と合して一つになるので、時間が永遠に触れて、それと解け合うことによって、一面では時間が消えて永遠となると共に、他面では、永遠の中に摂取せられながら、生死の流れを続ける……信心決定の人も生死の中にあるわけであるから、一度願海に帰入して永遠に生死から隔てられた（生死の時間は終わった）が、その本願海にありながら、彼は生死の時間の中を流れる。これは一度願海への帰入で終わった生死が本願海で再び起こることであり、帰入以前の生死が凡夫の自力で流れる時間であったのに対して、これは願心という他力で流される時間である。」（『親鸞の思想構造』P64〜65）と述べている。
これは、一瞬一瞬、無限絶対的実在界から有限相対的実在界に発現してゆくとともに、有限相対的実在界から無限絶対的実在界へ還帰してゆく――無限の創造的エネルギー・生命の働きに、人間が、自覚的行為によって一体化してゆく、ということを意味する。それが、我執を克服し生死・煩悩を超脱した全実在界大の実在・実存体験なのであり、本来的自己の実現にほかならない。
親鸞の信体験は、このように深く広いものであった。上田義文は「方便法身（本願海）から法性法身（涅槃）への移りゆきは自然におこなわれ、それは凡夫のはからいにあらず、仏智の不思議である。……願海に真実に、そして深く入った親鸞には、方便法身と『一』にして『不可分』な法性法身の世界を言葉では語ることができなくても、その身で生きていたのであろう。……彼の信体験がこういう法性にまで根ざすような深いものであったことが、彼をして確信をもって、法然さえも云わなかった『現世に往生をうる』ということを言わしめた……親鸞は……真に永遠なもの（真如・寂滅・無時間）の次元にまで到達していた」（前掲書P150〜151）と述べている。
親鸞の念仏は、永遠と時間が接触するいま・ここの瞬間における実践であった。すなわち、時間を超越して永遠の中に摂取せられた主体が、永遠性を離れることなしに時間の中に帰って行なう実践なのである。それによって、我執のために真如・無上仏に背面していた人間の生滅無常の生の一瞬一瞬は、真如・無上仏に支えられた存在としての自己が実現してゆく一瞬一瞬となる。自己は、一切のものを成立せしめる法性法身が、方便法身として具体的に働くことによって在らしめられて、いま・ここに在るのである。
そのことに関して、玉城康四郎は、「ありとあらゆる世界は、究極唯一の法身へ、濾過され、浄化されていると同時に、この法身はまた、ありとあらゆる世界に充ち満ちており、かつ浸透してやまないということである。一切世界から唯一法身への濾過と、唯一法身から一切世界への浸透は同時であり、こうした唯一法身と一切世界の相互裏打ちのなかで、念仏の大行が実現し主体化するのである。」（『仏教の根底にあるも』P136）と述べている。全実在界大の実在・実存体験は、こうして成立するのである。
この体験は、親鸞一人のものではない。それは、すべての人間に体験可能なものとして開かれている。親鸞の「現世に往生をうる」という思想は、一人ひとりの個人が、感覚界から超越的実在界へと転換し、そこに貫流する無限の創造的エネルギー・生命と一体化し、すべての自然的個物・人間的個人・文化的個物と一体化した生を一瞬一瞬、実現してゆくべきである、というかたちで甦ることができる。
ただ、親鸞が三願転入の過程をたどって宗教的回心をなしとげるまでには、長く苦しい修行を必要としたように、現代の人間もまた、感覚界から超越的実在界への全人格的転換をなしとげるためには、苦闘の途を歩みつづけなければならない。近代科学技術文明を発展させつづけてきた人類は、現在、生物の一つの種としての死滅の危機に直面している。全人類は、共通の危機のもとに立たされたのである。
これは、感覚によってとらえることのできる対象を唯一の現実としてきた人間が、自己の脚下に面することによって、自己が死に面していることを自覚する機会を与えられた、ということにほかならない。近代科学が、宗教・形而上学を排除したことにより、人間は、超感覚的実在界とそこに於ける本来的自己についての根本的無知に陥った。これは、現代の無明にほかならない。
人類が死滅の危機に直面したということは、現在、一人ひとりの人間が無明を去って明を得ること、すなわち根本的無知からの覚醒の機会を与えられた、ということを意味している。だが、多くの人間はなお、そのことに無自覚である。近代科学技術文明がもたらしたさまざまな問題に取り組んでいる人々にしても、当面する問題の解決に追われ、それらの問題を根本的に解決するためには、超感覚的実在界への転換が必要となるということを自覚するには至っていない。
科学技術文明がもたらす苦しみ、悩みの中にある一人ひとりの人間が、自己の根源的な無常性と罪悪性を自覚し、それから目をそらすことなく、全人格的転換のための苦闘を続けなければならない。それ以外に、一人ひとりの人間が、永遠と時間が接触するいま・ここの一瞬一瞬に於ける実践によって全実在界大の本来的自己を実現してゆくことを可能とする途はない。これまで行なってきたようなかたちで親鸞思想の全体を再構成することによって、そのことが明らかになるのである。
イスラーム哲学――ハッラージュ、アヴィセンナ、スフラワルディー、イブン・アラビー
スーフィズムとスコラ哲学を総合したイスラームの神秘主義的哲学
これまで、東洋哲学について、仏教、儒教、老荘思想に言及した。ここでは、イスラーム哲学に言及する。
西洋の正統的な哲学史は、長いあいだ、東洋哲学を無視し、排除しつづけてきた。イスラーム哲学も、その例外ではない。西洋には、十二世紀以後、新プラトン主義的に解釈されたアリストテレス哲学とイスラームの宗教思想を統合したアヴェロイスの哲学がイスラーム圏からもたらされ、それが中世スコラ哲学に強い影響を与えた。
だが、アヴェロイスの死とともにイスラーム哲学は終わったのであり、それ以後は独創的な哲学は生まれなかった、というのが西洋の一般的な見方であった。しかし、現在では、アヴェロイスの没後にこそイスラーム独特の哲学が形成されたということが明らかにされている。ここで考察の対象とするのは、そのイスラーム独特の哲学である。それは、十二世紀後半から十三世紀前半にかけて、スーフィズム（イスラーム神秘主義）とイスラームのスコラ哲学を総合することによって形成された。
スーフィズムとスコラ哲学は、起源を異にしており、目的とするところも相違している。この二つの思想潮流は、イスラーム思想史を通じて、相互対立と相互影響の過程をたどり、ついに総合に達したのである。こうして形成されたのが、「イルファーン」（神秘主義的哲学）とか「ヒクマット（叡知）哲学」と呼ばれる哲学である。この総合をなしとげた二人の偉大な思想家が、スフラワルディーとイブン・アラビーである。前者の哲学が「照明学的哲学」であり、後者の哲学が「存在一性論」である。
この二つの哲学は、十六世紀から十七世紀にかけて、モッラー・サドラーによって総合されることになった。スーフィズムとスコラ哲学を綜合したイスラーム独特の哲学は、人間が主体的実践によって、感覚界から超感覚的実在界へ超脱し、その根源において唯一絶対の実在と合一した体験を知性的に反省することによって形成された形而上学である。そのことをより具体的に明らかにするために、スーフィズムとスコラ哲学がどのような思想であり、両者の総合を可能にする結合点、共通基盤がどのようなものであるかを考察することにする。
唯一なる神との合一のためのスーフィズムの実践
スーフィズムの目的は、人間が世俗的生活を離脱して絶対者と合一することによって、救済を得ることである。イスラームにおいては、絶対者とは唯一なる神のことである。『コーラン』には「汝らの神は唯一なる神。そのほかに神は絶対にない。」（2・158）とある。この神の唯一性が「タウヒード」というイスラームの根本思想である。スーフィズムの目的である人間が絶対者と合一するということは、このタウヒードを主体的に体験することにほかならない。この目的を実現するためには、人間は主体的実践によって、感覚界から超感覚的実在界へ超脱しなければならない。感覚界は、それ自体のうちに絶対的な根拠を持たない生滅無常の世界である。人間は、生滅無常の生を離脱して永遠の実在と合一することによって、はじめて救済を得ることができる。
この絶対者との合一に至るための実践が「ズィツクル」（唱名）である。具体的には、「アッラー以外には神はなし」「アッラーに栄光あれ」等の文句を繰り返すことである。その実践によって、外界の感覚的事物に向かう主体の志向を内面に向かう志向に転換させ、瞑想によって自己の内面をその最深部まで追求してゆくことが可能となる。それは、感覚界における客観に対する主観としての日常的自己を絶対的に否定するということを意味している。
こうして人間は、絶対者の中に没入し日常的自己は完全に消失する。それを「ファナー」（消滅）という。それは、「忘我」とか「恍惚」といわれる境地である。だが人間は、この境地にとどまってはならない。絶対者の中に消滅した自己は、そこにおいて新しい自己として甦るのである。それを「バカー」（存続）という。それが、人間が瞑想によって到達した最高の段階であり、最終の境地である。この段階・境地においては、感覚界で働く感覚・理性とは根本的に異なる知的直観・知性という認識能力が働く。
自己は、知的直観によって、無限絶対の実在を直接・無媒介的にとらえる。それが、無限絶対の実在の体験である。自己は、その体験を知性によって反省する。こうして人間は、真の実在を知ると同時に真の自己を知る。それは、タウヒードを実存体験した人間、すなわち完全な自己消失によって唯一なる神と合一した真の自己の自覚としての知である。日常的自己が神のうちに消失し、無化されることによって、新しく出現した真の自己は、神の自覚の場となり、そこに神の知が成立する。
ハッラージュの「われこそは神」「神性と人性との合一融合」
そのような主体として、初期スーフィズムの思想家ハッラージュは、「アナルハック」すなわち「われこそは神」「われこそは真実在」と発言した。これが、いわゆる「酔言」である。これは、タウヒードの実存体験にもとづく知の内容の言表ということができる。それについてルーミーは、次のように述べている。「例えば、マンスール（前出、偉大な神秘家ハッラージュのこと）だが、神への思慕の情が極限にまで達した時、彼は己れの敵となり、己れ自身を無にした。そして絶叫した。『我こそは神!』と。すなわち、『私は消滅した。神のみがあとに残った』という意味だ。これこそ自己を卑下するの極みであり、神に対する恭順の至りである。神が在る、神のみが、というのだから。……『我こそは神』というのは神自身の発言である。神以外には一物も存在せず、マンスールは完全に消え失せてしまっているのだから、神自身の言葉でしかあり得ない。」（『ルーミー語録』談話52）。
それは、日常的自己を無化することによって神と合一したハッラージュの口を通じて、神自身が語る言葉である。ハッラージュにおける神との合一について、井筒俊彦は次のように述べている。「ハッラージュにおいては『合一』とは『変融』すなわち魂の本質的変質であり、一実有が全く違った他の実有にかわってしまうことを意味する。ハッラージュの有名な、≪Ana-al-Haqq!≫「我・即・真実在（¬=神）」とは、人間的主体が完全に変質し、そのまま実在性の永遠の太源に化融することにほかならぬ。」（『イスラーム思想史』P180）。ここには、「『神性』と『人性』との合一融合」(前掲書P181)が成立している。
「神性と人性との合一融合」とは、神性と人性が絶対に二でありながら絶対に一であるという関係にあること意味している。ここでは、主観としての自己が客観としての神に対するという関係は完全に無化されており、神性と人性は、根源的な主体どうしとして完全に一体化する「主主合一」の関係にある。これは、真実在としての神性と真の自己としての人性の合一という実在・実存体験である。
この体験において人間は、超感覚的に神を直観すると同時に自己を直観する。そして人間は、この体験を知性的に反省することによって、神があるという超理性的な知と我があるという超理性的な知を同時に獲得する。こうして「神性と人性との合一融合」は即「神の自覚即我の自覚」である。ルーミーの次の言葉は、そのようなものとしてとらえ返すことができる。
「この世で、人が学習と勉強で獲得する知識はことごとくもの(現象的事物)の知識あり、死んだ後に(『死』とはここでは精神的死、自我の死を意味する)始めて実現する知識は霊性の知識である。「我こそは神」(前出、ハッラージュの有名な『酔言』)と知ることはもの知識であり、『我こそは神』に成ることは霊性の知識である。ランプの光や火を見ることはものの知識であり、火の中で自ら燃え尽し、ランプの光の中に消融してしまうことは霊性の知識である。何によらず、そのものの本性を直観することは霊性の知識。何によらず、ただそのものを外から知ることはものの知識である。直観、直接にものの本性を見抜くことだけが実在を知ることであって、その他の知識は全てものの形象を知ることにすぎない、と考えていい。」(『ルーミー語録』談話64)。
主観としての自己およびその対象である客観が、神の内に完全に消融することによって、感覚およびそれと結びついた通常の理性による知識と根本的に異なる知的直観・知性による実在と実存についての知識が獲得される。ここに、人間が絶対者の内に没入・消失する「忘我」「恍惚」の境地を超えた体験の知性的な反省による「思想としてのスーフィズム」が確立する。
プロティノスの合一体験を超えるスーフィズムの合一体験
このような思想としてのスーフィズムの形成に影響を与えたのが、プロティノスを始祖とする新プラトン主義の哲学であった。スーフィズムの思想家は、主体的実践によって外界に向かう志向を内面に向かう志向へ転換させることで感覚界から超感覚的実在界へ超脱し、その根源においてを神性と合一するという境地に到達した。プロティノスも、あらゆる外物から身を引いて内部へ全面的に転換することによって、感覚界から超感覚的な叡知界に至り、さらにそれを超えて絶対者である「一者」との合一を体験した。プロティノスの哲学は、このような体験のロゴス化として形成されたのである。この絶対者との合一体験において、新プラトン主義の哲学とスーフィズムが根源的に結びつくのである。
ただ、プロティノスの場合、一者との合一体験は、「忘我」「恍惚」とされていた。そのことについて西谷啓治は、「もし、一者からの世界の流出ということが問われるべきならば、それと同時に一者からの『自己』の定立も問われねばならない筈である。万法・万象の有とその真理性と共に、それらを知る存在としての『人』有と知、またそこに於ける『真実』の現成も問われねばならない。一者との脱自的な冥合のうちに自己の真実を見出す、ということに止まっていてはならない。それだけでは、自己というものの本来の本質であり、また人間存在の本性である自覚性というものの回復に未徹なるところが残るのである。」(『禅の立場』P178著作集第11巻) と述べている。
この点において、プロティノスよりもハッラージュの方がより高い境地に到達しているといわざるをえない。ハッラージュの合一においては、絶対者の内に没入・消失した自己は、変融された真の自己として甦るのである。西谷のいう一者からの「自己」の定立は、そのようなこととしてとらえ返すことができる。それによって、人間存在の本性である自覚性が回復し、神性と人性についての根源的な認識が成立するのである。ここに、思想としてのスーフィズムが、同じく新プラトン主義哲学の影響を受けたスコラ哲学と結びつく可能性が存在している。
プロティノスの流出論を継承するアヴィセンナの創造論
イスラームのスコラ哲学とは、新プラトン主義的に解釈されたアリストテレス哲学と、『コーラン』に示されている「汝らの神は唯一なる神。そのほかに神は絶対ない。」という「タウヒード」を根本思想とするイスラームの宗教を統合した哲学である。プロティノスの哲学においては、絶対者は「一者」とされていたが、イスラームのスコラ哲学においては、一者を真実である神とし、それを「ハック」と呼んだ。こうして、アッラーはハックと呼ばれることになった。
『コーラン』によれば、神は、無からの世界の創造者であるが、アヴェロイスとともにスコラ哲学の頂点に立つアヴィセンナは、この「創造」をプロティノスの流出論的に説明した。プロティノス哲学における「流出」とは、自己以外の何ものにも依存することなく自存する無限の充実である一者が、自らの外に流れ出ることによって、叡知界、霊魂の世界、感覚界が段階的に形成されてゆく、というものである。これが、一者を頂点として、上位のものが下位のものを順次下向的に生んでゆく、という流出論的な宇宙論である。
アヴィセンナは、このプロティノスの宇宙論を継承し、神の創造を次のように具体的に説明している。まず、神から第一叡知体が流出する。この第一叡知体から第二叡知体、第一天の天体が流出し、以下同様の過程が続く。そして、第十叡知体から生成消滅の世界が流出する。アヴィセンナの哲学においては、このような流出が、神が宇宙万物を創造するということなのである。こうしてアヴィセンナは、神から生成消滅の世界へ至るイスラーム的なスコラ哲学の体系を構築したのである。
スーフィズムとスコラ哲学との本質構造的結合点
アリストテレスの哲学においては、宇宙万物は、究極目的である神へ至ろうとする欲求(オレクシス)を有している。だが、その欲求が自覚的になるのは、人間の霊魂においてのみである。アリストテレスは、霊魂を、植物的霊魂、動物的霊魂、人間的霊魂という三段階に区分している。アヴィセンナは、この区分を継承している。
人間的霊魂(理性的霊魂=知性)は、実践的能力と理論的能力に二分される。そして、理論的能力は、実践的知識にかかわる行為的能力と知的知識にかかわる思弁的能力に二分される。さらに、思弁的能力は、�ー僧租�知性、��慣習的知性、�８充妥�知性、�こ容静�知性というように段階的に高まってゆく。こうして人間の思弁的能力は、獲得的知性において最高の完成状態に到達するが、人間の知性は、この四段階よりもさらに高次の段階にある能動的知性と合一するに至る。
アリストテレスは、人間は感覚を超える知性という能力を有しているが、人間の認識はすべて感覚から始まるとしている。アリストテレスは、人間の霊魂は、感覚→共通感覚→構想→受動的知性→動的知性というように下位から上位へと段階的に高まってゆく、としている。能動的知性は、人間の認識能力の最頂点であるが、そこに到達した人間は、そこから一挙に飛躍して真の能動的知性である神と合一する。獲得的知性に至った人間の知性は、さらに高次の能動的知性に合一するというアヴィセンナの思想は、前述のアリストテレスの思想を継承したものということができる。
だが、アヴィセンナが人間の霊魂の段階的上昇を、感覚と肉体からの離脱による知性の純化としてとらえていることには、プラトンの霊魂の浄化(カタルシス)の思想の影響を見てとることができる。カタルシスとは、人間が一歩一歩、霊魂を感性と肉体から解放することであり、それによって人間は、霊魂を浄化してゆく超感覚界的なイデア界への上昇の途を歩み、その究極において善のイデアと合一する。アヴィセンナはこの事態を、人間の知性が純化によって能動的知性と合一すること、としてとらえるのである。
ここにおいて、アヴィセンナの思想は、人間が感覚界から超感覚的実在界に超脱し、唯一なる神と合一するというスーフィズムの神秘主義的体験に著しく接近する。それは、新プラトン主義的に解釈されたアリストテレス哲学とアッラーを唯一なる神とするイスラームの宗教を統合することによって形成された、神を原理とし全存在界に及ぶ宇宙論としてのスコラ哲学の体系の枠組みを超え出てゆく、ということを意味する。そのことは、アヴィセンナが、スコラ哲学とは異なる「東方哲学」を構想していたことによっても明らかになる。
「東方」とは、太陽の輝く光の世界、純粋形相の世界の象徴である。それに対する「西方」とは、太陽の沈む暗闇の世界、質料の世界の象徴である。人間の霊魂は、かつて東方に住んでいたのであるが、西方に下ってきたのである。それをアヴィセンナは、人間の霊魂の西方への流刑としてとらえている。したがって、人間の霊魂は、かつて住んでいた東方を「想起」し、そこに還帰しなければならないのである。
このような「東方哲学」の思想は、次のようなプラトンの思想を継承するものである。人間の霊魂は、かつてイデア界に住んでいたのであり、真実在を見たことがある。しかし、霊魂は、地上に堕ちて肉体に宿ったために、そのことを忘却した。したがって、人間は真実在を「想起」することによって、イデア界に還帰するのである。人間の霊魂が質料の世界から純粋形相の世界に還帰するというアヴィセンナの思想は、次のようなアリストテレスの思想とも共通している。人間の能動的知性は、肉体(質料)の形相である霊魂の内にあるものである。人間は、肉体から分離することによって、神と合一し、質料から完全に離れた純粋形相としての神を観想すると同時に、質料から完全に独立した自己自身を観想する。
アヴィセンナの「東方哲学」は、自己が唯一絶対の真信実在と合一するという実在・実存体験にもとづく哲学である。思想としてのスーフィズムも、それと同じく実在・実存体験にもとづく思想である。ハッラージュは、「我・即・新実在(＝神)」、すなわち「神性と人性との合一融合」という実在・実存体験を知性的に反省することによって、神があるという知と同時に我があるという知を獲得した。ここに、スーフィズムと哲学の結合点が存在する。両者は、唯一絶対の真実在との合一体験を共通基盤として本質構造的に結合する。
スフラワルディーの形而上学における階層区分
こうして、唯一絶対の真実在である神から始まって生滅無常の世界に及ぶアヴィセンナの宇宙論の体系は、実在・実存体験という根源を獲得し、そこに基礎づけられることになる。それと同時に、スーフィズムが宇宙論体系を包摂するということでもある。そこに、宇宙万物の根源である神との合一体験を根源として、全実在界の真実相をとらえた知としての形而上学の体系が構築される。それが、スーフィズム(イスラーム神秘主義)とイスラームのスコラ哲学の総合としてのイルファーン(神秘主義哲学)あるいはヒクマット(叡知)哲学)である。それをなしとげたのが、神秘家であり哲学者であるスフラワルディーとイブン・アラビーであった。
スフラワルディーは、唯一絶対の実在との合一体験を知性的に反省することによって、その形而上学を形成した。唯一絶対の実在は、アナルハック(われこそは神、われこそは真実在)のハックすなわち絶対者、真実在である。スフラワルディーは、それを「光」として形象化し、宇宙万物の根源を「光の光」と呼ぶ。「光の光」から放射された光は、次第に強度を弱めながら遠方にまで至り、やがて暗黒の中に消え去る。
そのことについて、井筒俊彦は、「スフラワルディー的体験において、『光』は究極的根源から湧出して十方に拡散し、全宇宙是一光明として、自己を開示する実在であった」(モッラー・サドラー『存在認識の道』解説)と述べている。これは、すでに言及したプロティノスの流出論、すなわち、絶対者である一者が自己の外に流れ出ることによって、さまざまな存在界を多層的に成立させてゆく、という思想を継承するものである。
最上層の「光の光」から始まって最下層の存在界に及ぶ全存在界のすべてが光なのであり、様々な存在界は、唯一絶対の実在である「光の光」がそれぞれ異なったかたちで自己顕現したものなのである。したがって、「光の光」とは、永遠無限絶対の実在であり、全存在界に顕現した光は、そこに貫流・遍満する無限の創造的エネルギー・生命としてとらえ返すことができる。スフラワルディーは、全存在界を、「光の光」、「天使的実体の階層」、「感覚界」というように三つの階層に区分している。これは、プロティノスの一者、叡知界、感覚界という階層区分と共通するものである。
感覚界は、プラトンの感覚界に、叡知界は、プラトンの超感覚的なイデア界に対応するものであるが、プロティノスは、イデア界を超える一者という次元を認めた。スフラワルディーにおいてそれに対応するものが、光の光である。プラトンのイデア界には、多数のイデアが存在しているが、それらを統一する究極的絶対者・真実在が善のイデアである。イデアは、感覚界における万物の原型であり、感覚界における万物は、イデアを不十分なかたちで映す像である。プロティノスにおいては、叡知界と感覚界は、双方に跨る霊魂の世界によって結びつけられている。叡知界においては、全体的叡知が多数の個別的叡知を統一している。これは、プラトンにおける善のイデアと多数のイデアの関係に対応するものである。諸々の個別的叡知は原型であり、それを感覚界の万物が映し出す。感覚界は、叡知界の像なのである。
スフラワルディーにおいてこれに対応するものが、天使的実体の階層と感覚界との関係である。「天使」とは、アリストテレスの質料をまったく離れた「純粋形相」に当たるものである。光の光の放射で最初に生まれた天使的実体の階層には、経度と緯度が存在する。経度は、上位の主天使から下位の主天使に至る縦の系列を形成している。緯度は、「原型としての主天使たち」と呼ばれる横の関係であり、プラトンのイデア、プロティノスの叡知に対応するものである。
より詳しく言えば、原型の世界と感覚界の中間地帯である「バルザフ」における天使たちの「妖術」によって、原型が感覚界に映し出されるのである。だが、超感覚界の原型が感覚界に映されるということについては、プラトン、プロティノスの場合と同じなのである。このようにして、光の光から放射された光は、原型の世界を現出させ、さらに感覚界を現出させるのである。超感覚界も感覚界も、すべては光である。それは、永遠無限絶対の実在の無限の創造的エネルギー・生命が全実在界に貫流・遍満するという事態である。その全実在界の真実相とらえた知が、スフラワルディーの形而上学(照明学的哲学)の内容にほかならない。
「東方神智学」における人間霊魂の下向と還帰
そのような知を獲得するためには、人間は、感覚界から超感覚的実在界へ超脱し、永遠無限絶対の実在と合一しなければならない。そのことをスフラワルディーは、アヴィセンナと同じように、人間の霊魂が、暗闇の世界である西方への流刑から光の世界である東方へ還帰することとしてとらえている。スフラワルディーの「東方神智学」によれば、人間の霊魂は、かつて天使的世界に住んでいたが、感覚界に堕ちたのである。そのとき、人間の霊魂の半分は天使の世界にとどまり、あとの半分が感覚界の肉体に宿った。したがって、西方から東方への還帰とは、人間の霊魂が肉体から離脱して、天使的世界に残った部分と合一することである。
これは、プロティノスが、人間の霊魂は、下部が感覚界に下降して肉体に宿るが、上部は叡知界にとどまるのであり、肉体から離れることによって叡知界に至る、としたのと同じ事態である。プロティノスにおいては、叡知界に至った人間は、さらにそれを超えて一者に至り、それと合一する。
スフラワルディーにおいてそれに対応するものが、唯一絶対の実在である光の光との合一体験である。この体験において、主観としての日常的意識と客観としての対象は完全に無化され、存在と認識が一体化する。それによって、真実在を知ると同時に真の自己を知ることが可能となる。そして、この存在と意識の一体化という根源から存在が発出するのと一体的に意識が発出し、真実在の無限の創造的エネルギー・生命が遍満する全存在界と意識が一体化する。こうして、全実在界と広がりを等しくする意識によって、全実在界の真実相を知ることが可能となる。ここに、感覚界から超感覚的実在界に超脱し、その根源において唯一絶対の実在と合一した自己が、全実在界をその根源から認識する形而上学が成立する。スーフィズムと哲学を総合したスフラワルディーの形而上学は、そのようなものとしてとらえ返すことができる。
あらゆる存在者として顕現するイブン・アラビーの「純粋存在」
そのことは、イブン・アラビーの形而上学(存在一性論)にもそのまま妥当する。イブン・アラビーは、唯一絶対の実在を「存在」としてとらえ、全存在界の唯一の根源における存在を「純粋存在」とか「玄のまた玄」呼ぶ。「純粋存在」から発出した存在は、自己以外のすべての存在者として顕現する。そのことについて井筒俊彦は、次のように述べている。
「イブン・アラビー的体験においても「存在」は、宇宙の零点から発出してあらゆる方向に拡散しつつ、様々に自己を限定し、変貌しながら至るところに多種多様な『もの』を成立させてゆく創造的エネルギーである。零点における存在を、彼は『純粋存在』とか『玄のまた玄』(文字通りには『秘密中の秘密』とか『不可知』)とか呼び、あまりに強烈な目くらむばかり光の故に、これは人間意識にとって『暗闇』である、と言う。零点から発して四方に散る様相における存在は『拡散的存在』と呼ばれる。我々が経験する可視・非可視、一切の事物、事象はことごとくこの『拡散的存在』の自己限定形態、特殊な『自己顕現』である。『純粋存在』に始まってそれの様々の『自己顕現』に及ぶ全行程がすなわちいわゆる宇宙であり、その行程の構造の分析的叙述がイブン・アラビーの形而上学である。」(モッラー・サドラー『存在認識の道』解説)。
イブン・アラビーにおける「存在」と「玄のまた玄」は、スフラワルディーにおける「光」と「光の光」にそれぞれ対応するものである。スフラワルディーの「照明学的哲学」とイブン・アラビーの「存在一性論」を統合したモッラー・サドラーは、「存在こそはありとあらゆる存在者のあらゆる根元であり、存在こそ唯一の真実在であり、それ以外のものは全て存在の形象、影像、似像にすぎない」(『存在認識の道』P7)としたうえで、真実在・絶対者について次のように述べている。
「唯一なる絶対者以外の全ての存在は、絶対者自体の十方に発散する一閃にすぎず、絶対者の数限りない側面の一側面にすぎない。すなわち、一切の存在者を通じて唯一の根源があり、それこそあらゆる実在を実在化し、あらゆるものをものとして成立せしめ、あらゆる本体を本体たらしめるものである。それこそ真のリアリティーであって、他はことごとくその様相にすぎない。それこそ真の光であって、他はことごとくその光映にすぎない。それこそ太源であり、それ以外の一切のものはそれの様々に異なる顕現であり自己示現である。それこそ最初にして最後なるもの、外なるものにして内なるものである。」(前掲書P162)。
「有無中道の実在」の原型を映す感覚界の事物
太源から発出して全実在界に貫流・遍満する無限の創造的エネルギー・生命をスフラワルディーは光としてとらえたが、イブン・アラビーは存在としてとらえたのである。イブン・アラビーもスフラワルディー同様、プロティノスの流出論の影響を受けている。すでに言及したように、プロティノスは、一者からの流出に叡知界、霊魂の世界、感覚界の三段階を考えた。叡知界と感覚界は双方に跨る霊魂の世界によって結合されている。
イブン・アラビーにおいて一者に対応するものが「純粋存在」であり、「叡知界」に対応するものが「有無中道の実在」であり、感覚界には同じく「感覚界」(感覚的現象界)が対応する。プロティノスの一者は、プラトンのイデア界をその根底に超越した実在である。プラトンは、善のイデアを究極的絶対者とし、「有」としてとらえたが、一者は「有」を超える「絶対無」という実在である。プラトンが、西洋における正統的な「有」の形而上学の礎を形成したのに対して、プロティノスは、西洋における「絶対無」の形而上学の礎を形成した。
プロティノスの一者に対応するイブン・アラビーの「純粋存在」は、スーフィズムの「アナルハック」(「われこそは神、われこそは真実在」)の「ハック」(絶対者・者真実)に対応するものである。次に、「有無中道の実在」は、プロティノスの叡知界と同じように原型の世界である。モッラー・サドラーは、それを「有無中間に定立された不変の原型」(『存在認識の道』P117) と規定している。
プロティノスの叡知界においては、それぞれ叡知は、その内に他のすべての叡知を含むものどうしとして相即相入し、すべての叡知が相互に調和する。イブン・アラビーの「有無中道の実在」においても「すべての『元型』は、それぞれ自己同一性を保ちつつ、しかも融通無礙、互いに浸透を許し合う」という「存在論的透明性、相互無障礙性」の関係にある(井筒俊彦「事事無礙・理事無礙」著作集第9巻P173)。感覚界におけるさまざまな事物は、これらの原型を映し出す像なのである。この点も、プロティノスにおける叡知界と感覚界の関係と同様である。
「純粋存在」の発出と還帰による不断の創造
プロティノスの叡知界において、多数の個別的叡知を統一するものが全体的叡知であった。それと同じように、「有無中道の実在」において、多数の原型を統一するものがアッラーである。アッラーが「統合的一者」であるのに対し、その根底の神自体は「絶対的一者」である。この神自体という真実在を哲学的に表現したものが、「純粋存在」あるいは「玄のまた玄」である。それは、絶対的な無分節・無限定の「一」である。
この点においてイブン・アラビーの形而上学は、通常の一神教と根本的に異なっている。それは、西洋の正統的な「有」の形而上学を超える「絶対無」の形而上学である。イブン・アラビーの形而上学におけるアッラーと神自体との関係は、マイスター・エックハルトの絶対無の形而上学における三一的神とその根底の「神性」(絶対無)の関係に対応させることができる(エックハルトは、アヴェロイスの哲学の影響を受けた西洋中世のスコラ哲学者トマス・アクィナスの有の形而上学に、中世初期に新プラトン主義にもとづく独自の思想を形成したスコートゥス・エリウゲナの哲学を結びつけることによって、その絶対無の形而上学を形成した)。
このようにして純粋存在あるいは神自体の「一」は、原型の世界である有無中道の実在を通じて、感覚界における多数の事物の「多」として現象するのである。それが、「存在顕現」である。イブン・アラビーは、このようなかたちでプロティノスの流出論とイスラーム神学を総合したのである。
プロティノスの哲学体系には、一者が自己の外に流れ出る「流出」の運動だけでなく、自己のもとへ帰る「還帰」の運動が考えられている。すなわち、無限の創造的エネルギー・生命が一者から叡知界を通じて感覚界へ流出してゆくとともに、叡知界を通じて再び一者へ還帰してゆくという循環動動が不断に展開してゆくのである。イブン・アラビーの哲学体系においても、無限の創造的エネルギー・生命が、純粋存在(無)から有無中道の実在を通じて、一瞬ごとに感覚界(有)に発出してゆくとともに、一瞬ごとに有無中道の実在を通じて純粋存在に還帰してゆくという循環運動が不断に展開してゆく。
そのことについて井筒俊彦は、次のように述べている。「万物は、一瞬ごとに『有』の次元に生起してくる。そして、一瞬ごとに『無』の底に沈む。」「一瞬にして、すべてが『無』から『有』に出、また一瞬にして『有』から『無』に還る。『無』と『有』との間の発出―還帰が、こうして、瞬間瞬間に繰り返されていくのだ。」(「創造不断」著作集第9巻P203・224)。これが、「不断の創造」である。それについてS・H・ナスルは、次のように述べている。
「人間の呼吸が収縮と膨張の反復を通じて行なわれるように、宇宙は同じ周期の二つの相補い合う位相の下にある。宇宙は瞬間ごとに消滅し、つぎの瞬間ふたたび創造され、二つの位相の間に時間の分離はない。それは収縮の位相において各瞬間ごとに神的本質へ帰還し、膨張の位相においてふたたび顕示され、外化される。宇宙はかくて神的本質の顕現であり、それは各瞬間ごとに更新されるが、決して『同一の』反復ではない。」(『イスラームの哲学者たち』P172)。神による世界の創造という思想は、このようなかたちでプロティノスの流出・還帰論と結びつけられたのである。
全実在界の真実相をとらえる本来的自己の観想意識
全実在界の根源において唯一絶対の実在との合一(神性と人性との合一融合)を体験した自己は、それを根底として、唯一絶対の実在の発出と還帰の運動、すなわち全実在界を循環する無限の創造的エネルギー・生命の運動との一体化を体験する。この体験の総体を知性的に反省することによって、全実在界の真実相の知としての形而上学が成立する。だが、感覚によってとらえることのできる対象のみを現実とみなす日常的意識は、超感覚的な実在界から遊離し、感覚界に自己閉鎖的となる。自己に、主体的実践によって超感覚界へ超脱することが求められるのはそのためである。この超脱は、唯一絶対の実在の還帰運動と一体化するということを意味している。それによって自己は、唯一絶対の実在との合一を体験する。この体験において、主・客対立的な日常的意識は消滅し、主・客合一的な観想意識が生起する。それによって、自己が真実在を知ることが可能となる。
その自己は、今度は、唯一絶対の実在の発出運動と一体化する。それによって自己は、感覚界を、叡知界を介して唯一絶対の実在と統合されたものとしてとらえる。それは、感覚界の内部に、唯一絶対の実在から発出した無限の創造的エネルギー・生命が脈打っていることを知る、ということを意味している。
こうして唯一絶対の実在の発出・還帰運動と一体化した自己の観想意識は、次のことを知ることが可能となる。まず、垂直的には、多様な事物は、絶対無分節・無限定の「一」としての唯一の絶対的実在が多様な原型を通じて自己限定・自己分節した「多」であることによって、一と多とのあいだに調和が成立する(無限の創造的エネルギー・生命によって一と多が内在的に結合される)ことを知ることができる。次に、水平的には、多様な事物が、相互浸透・相互調和の関係にある多様な原型を映す像であることによって、それらのあいだに相互浸透・相互調和が成立する(無限の創造的エネルギー・生命によって多様な事物が内在的に結合される)ことを知ることができる。主・客対立を根底的に克服し、無限の創造的エネルギー・生命の循環運動と一体化した自己が、全実在界大の本来的自己である。その観想意識に、真実在を根源とする垂直的・水平的調和という全実在界の真実相が映される。それが、形而上学的知にほかならない。
自由・平等・博愛を根源的に根拠づけるイスラーム思想
自己は、イスラームの根本思想である「タウヒード」すなわち神の唯一性を実存的に体験することによって、「アナルハック」すなわち「我・即・真実在(=神)」という知を獲得する。それによって自己は、唯一の神を根拠とする多様な事物の相互浸透・相互調和という知を獲得する。
そのことに関して、黒田壽郎は、タウヒードとは、さまざまな事象を＜一＞を介して理解する原則、＜一化の原理＞であるとしたうえで、次のように述べている。「タウヒード論の徹底化は、＜一化の原理＞が、神の唯一性にのみ適用されるではなく、それが存在界の分析にも活用される契機となっている。万物は、同じ神の手によってなっているため同根であり、それゆえすべて等位にある。そしてそれらは同時にすべて差異的であり、さらに互いに密接に関連しあっている。タウヒードの論理は、万物の等位性、差異性、関係性という三原則を徹底させ、それに基づいて特徴あるイスラームの現世観を作り上げているのである。」(『イスラームの構造』P23)。
そのことを人間に関してとらえるならば、すべての個人の自由・平等・博愛(差異性・等位性・関係性)という理念を、唯一なる神に根拠づけるということを意味している。その点においてタウヒードの思想は「自由、平等、博愛を謳歌する人権宣言の思想と相通ずるものであるが、……人権思想の西欧版よりも一段と深い存在論的な根拠をもっている。」(前掲書P58)ということができる。
西洋において形成された近代科学は、感覚によってとらえることのできる対象のみを現実とみなす日常的意識を方法的に精錬化したものあるため、感覚界を、超感覚的実在から切り離して自己完結的なものとしてとらえる。その近代科学が基礎を形成した近代合理主義的思想は、全存在界の有限相対的次元の内面に無限絶対的次元(純粋存在と叡知界)と同一の無限の創造的エネルギー・生命が貫流していることをとらえることができず、外面の感覚的対象しからえることができない。
そのような思想によって生活を律する感覚界(有限相対的次元の外面)における諸個人は、無限の創造的エネルギー・生命によって内在的に結合するのではなく、相互孤立的なアトム的個人として外在的に的結合されることになる。それは諸個人が、唯一絶対の実在という相互調和の究極的根拠を喪失するため、 自由・平等・博愛という理念を実現することができないということにほかならない。それらの諸個人の間には、相互浸透・相互調和が成立せず、相互対立・相互障礙が生じている。
有限相対敵次元における人間の自由は、唯一絶対の実在との合一(神性と人性との合一融合)という事態に究極的に根拠づけられている。だが、人間が感覚界(有限相対的次元の外面)に自己閉鎖的となるとき、その自由は、根拠なき放恣な自由となる。近代の人間は、放恣な自由を行使して、自然生態環境・社会文化環境を一方的に支配し、従属させつづけてきた。そのため、自然的個物・人間的個人・文化的個物は無限の創造的エネルギー・生命によって内在的に結びつくことができず、それらのあいだに対立・相剋が生じることになる。
そのような事態は、人間が本来的自己を喪失し、感覚界に自己閉鎖的な非本来的自己になったことによって生じた矛盾であり、本来的自己を回復しない限り、根底的に克服することはできない。現代の西洋思想は、本来的自己を回復するための模索を続けてきた。だが、その本来的自己は、有限相対的実存にとどまっており、唯一絶対の実在との合一を根源として、無限創造的エネルギー・生命の循環運動と一体化した全実在界大の本来的自己には至っていない。
タウヒードの原理によって、万物万人の相互調和を唯一絶対の実在に根拠づけるイスラーム思想は、そのような本質的限界を有する現代西洋思想を超克し、根拠なき自由が生み出した矛盾を根底から克服する途を明らかにするものとして現代に甦るのである。(なお、全実在界において、自由・平等・博愛がどのようなかたちで永遠無限絶対の実在と人間の合一に根拠づけられるか、ということについては、『創造的生命の形而上学』において具体的・体系的に展開している。)
エックハルトの引用は、植田兼義訳によった。『正法眼蔵』の引用は、石井恭二他の訳によった。『唯心鈔文意』の引用は、星野元豊訳によった。『自然法爾章』・『教行信証』の引用は、金子大榮訳によった。『コーラン』・『ルーミー語録』・『存在認識の道』の引用は、井筒俊彦訳によった。
2013・6・5